【この愛で、貴女を守れるように】 文責:野波 流根子


フライパンに薄く油を引き、卵を割って中身を三つ落とす。
水も入れて蓋をしたら、一旦それを置いて冷蔵庫へ。買ってあったレタスと作り置きの鶏ハム、それに昨日の昼のパスタのついでにスライスしておいたトマトを取り出したところで、背後のトースターが小気味いい音を立てる。
焼きあがったパンを皿に並べ、洗ったレタス、トマト、そして鶏ハムの順に乗せ終わるころには、フライパンの中身は程よく半熟の目玉焼きに変わっている──という寸法だ。
最後に、昨日作っておいたコーンスープの様子を見て……弱火で温めていたそれがちょうどいい火加減になったのを確認。猫舌なるねの為に熱々ではなく、ぬるめの温度に調節ができている。
時間配分をきっちり調節して作る朝食の完成度に、いつものことながら満足げな笑みを浮かべてしまう。

「……おはよう、おねぇちゃん……」

そんな風にいつものように朝の食卓の準備をしていると、背後から眠そうな声が聞こえてきた。
既に中学の制服に袖を通した、愛しの我が妹。表情はと見てみれば、いつものように眠そうに目を擦っている。
普段なら溢れんばかりの可愛さに対し反射的に微笑んでしまうところだが、今日に限ってはそんな顔も浮かばない。

「るね、もう大丈夫なの?」
「……うん。ちょっと睡眠不足が酷かった、ってだけだから」

心配そうに聞いてみると、昨日とは違う、晴れ晴れとした──とまではいかずとも明るい表情を浮かべてくる。
一応、昨日はぐっすり眠れたらしく、滅多に見ない隈もすっかり取れている。だるそうにしている様子も無理をしている様子もないし、顔色もこれといって悪いわけではない。
少なくとも外見上には、目立った異常が見られない……いつも通りのるねと言って差し支えない様子だった。

「……うん、それなら良し。じゃ、ご飯食べよっか」

二人で一緒に席について、出来立ての朝食を共に食べ始める。
ぬるめのスープをそれでも少し熱そうに啜る姿や、私の作ったトーストを美味しそうに頬張る様子も含めて一日を生き抜く糧としたいところではあるが──そうは言っていられない事態が起こっているかもしれない以上、忙しい朝でも最低限聞いておきたいことは少なくない。
思い返すのは昨日のこと。
「お見舞いに来た子を送り返すついでに、ちょっとだけ学校に行きたい」と言い出したるねには、どう対応しようかと正直戸惑った。
ただでさえ体調が悪いと言っていた上に、先程の会話が会話だったこともあって止めようとは思ったのだが、るねもるねで「すぐ終わるから」の一点張り。
結局、学内ならばセキュリティもそれなりにしっかりしているだろうというのもあり、私が直接車で校門まで送る、ということにした。
車中で待っている時はかなりやきもきしていたが、それでも暗くなる前にはしっかり戻ってきて安堵したものだ。

「……本当に、もう大丈夫なのね?」
「うん、大丈夫。昨日しっかり寝たおかげで、治ったから」

屈託なく笑うるねに、どうしたものか、と思案する。
今のるねの言い分を全面的に信じる、というのはやはり不安だが、少なくとも本当にぐっすり寝ていたことから「心配事はなくなった」は本当だ、と見て良い筈。
となれば、一応は「命の危機」とやらも過ぎ去ったのだろうか。そうであってほしい、と切に願うしかない。
そもそも、「命の危機」云々はこっそり壁越しに聞いただけのことだ。まだ確証があるわけでもないし、その一点張りで問い詰めるのも難しい。
一応手は打ってあるものの、直に話を聞ければそれが一番なのだが──

「……お姉ちゃん」
「……ん、何々?どうしたのるね?」

そんな風に悩んでいると、今度は反対にるねの方から切り出してきた。
果たして、何を言い出すのか──どうしても身構えてしまう私に対し、るねはゆったりとした、いつものような笑顔を浮かべて。


「─────いつもありがとう、お姉ちゃん」


急に。
そんなことを、言ってきた。


「……どうしたの、急に?」

これがもしいつもの食卓なら、ああ可愛いなあもう、と飛び出している筈だったかもしれない。
けれど、今はどうにも、そんな返事は出来ずに。
ただ固まった私に対して、るねはちょっと恥ずかしそうに、頬を少し赤く染めて俯く。

「……お姉ちゃんには、いつも守ってばっかだからさ。改めて、お礼言っとかないとなあ、って」
「──るね」

気付けば、立ち上がってるねの横に移動していた。
そのまま、両肩を優しく掴んで目線を合わせる。
るねは最初、顔を赤くさせたままどういうことだと目を白黒させていたが──私の顔が真剣なのを見て、やはり真面目な顔になる。

「本当に、本当の本当に、大丈夫なんだね?」

そう言った私に、るねも真剣な目で頷く。
仮にも十五年一緒に過ごした妹のその目が、嘘を言う目ではないことは、簡単に分かった。

「……少しでも体調が変だったり、変なことがあったりしたら、すぐ連絡してね。お姉ちゃんが飛んでいくから」
「……うん、本当にありがとう、お姉ちゃん」

そう言って、るねから手を放す。
一瞬強くハグを交わし、改めて立ち上がる。
それにつられて立ち上がったるね──朝食はもう食べ終えていた──の頭をわしゃわしゃと撫で、その後はもういつものように。

「そんじゃ、支度してらっしゃい。一応、今日はまた駅までお姉ちゃんが送ってってあげるから」


今日は、大学の授業は一限がない。からるねよりも遅く家を出る──ということで、見送った後はこうして改めて残った家事をこなしていく。
洗濯物に朝食の片付け、そして最後に軽く掃除。普段ならあっさり終わるはずのそれが、今日は中々終わりそうにない。
上の空でこなす家事は、どうしたって時間がかかってしまうのは当然だけれど。ならば、その上の空の理由はなんだと聞かれたら──その理由は、分かりきっていることだった。

一つは、昨晩縁から言われた、のこと。
そして、もう一つは──朝食で、るねから言われたこと。

「……守ってばっか、かあ」

それは、その通りだ。自分でもそう思う。
事実として、私はずっと、あの子を守ろうとしてきた。
それはやはり、いつでも彼女と一緒にいることが出来る彼女の味方が、自分くらいしかいないせいでもあった。
縁と共に家から出ていったあの人はともかくとして、父さんだって何もしていない訳ではない。普段が多忙だから仕方ないけれど、それでも私については娘として愛しているようだし、暇がある時には不器用ながらも家事を率先して行ったり、進路について相談した時には真面目に向き合ったり──ということはしてくれている。
職種上の忙しさに、どうしても私が彼女の面倒を見なければいけない時は多かったけれど、それだって親戚や看護婦さんなどのヘルプを回すようにはしてくれていた。まだ小さかった私がなんとかるねの世話を見れていたのも、彼等に助けられていたからだろう。
けれど、誰も──父さんも親戚も周囲の人も、世話こそすれど、るねに向ける目に純粋な愛情は無かった。

私には向けられる愛情が、あの子には絶望的なまでに与えられていなかった。

考えてみれば当然だ。自分の、親戚の、あるいは勤め先のスキャンダラスな事件の象徴。そんな不義の子──少なくとも、真実を知らぬ彼等にはそうとしか見れないだろう──に対して、何一つてらいのない態度で接してくれる人はそう多くはないだろう。
まして、るねの誕生に関する根も葉もない噂の一つだった取り換え子疑惑のせいで、うちの医院の評判も落ち目になりかけたこともある。そういう意味でも、看護師さんたちからの目に様々な思いが混じることはあっただろう。

そんな中で生きていかねばならなかった彼女を、姉として守らなければいけないと思った。
だから、私は必死に頑張った。
そりゃあ勿論、小学生に出来ることは少なかったけれど──それでも、一番手のかかる赤ん坊時代にはまだ最低限母親の手はあったし。できないことを少しでも補おうと、煙たがる周囲の人に多少無理を言って説明を聞いて回ったりもした。
そして、成長するにつれて、私でもできることが増えていって──だから、ここまでなんとかなった。
なんとか、なってきたのだ。
ずっと、こうして彼女が十五歳になるまで──守り続けて、これたのだ。

(……だけど)

さっきのるねの「ありがとう」に、満足に反応できなかったのを思い出す。
ずっと守り続けるなんて、出来ないのかもしれない──そんな不安を、何より私自身が感じてしまっていたこと。
それがどうにもつっかえて、ただ大丈夫なのかと聞くことしかできなかった。

「……もう、隠せなくなる、ってことなのかな」

いつか話そうと思って、でも話さずにいた、彼女にとっては絶望的かもしれない真実が、嫌が応にも提示されてしまう時。
或いは、それすらも一足跳びにして、るねにとってのすべての終わりが来てしまうのかもしれない。
そして、もしも来るとしたら。
その時はきっと、思っているよりもずっと近い。

思い出すのは、昨晩の縁との会話。
既に『あの人』が手を出している、という訳ではないらしい、というのが、ひとまずの彼の見解だった。
それだけのことが出来る程の表立った活動はまだない、という彼の言葉に一先ずは安堵したものの、それはそれとして、るねに能力にまつわる何かしらの危機が迫っているのではないか、という疑いは変わらず存在している。
『あの人』とは別件だとすれば、やはり怪しいのは新聞部なる部活。最近るねが初めて所属した新設の部活動であるが、その部活動のうちで何か危険なことが……という話ならば「巻き込まれたのは初めて」という言葉にも説得力が出てくる。
となれば、「新聞部内部で」「能力絡みの何かがあった」、と考えるのが自然な流れだ。

しかし、それにしては一つひっかかるのが、お見舞いに来てくれた彼女の存在だった。
るねの交友関係は、彼女自身他人と触れ合うことが苦手なこともあってかなり狭い。お見舞いに来てくれるような仲の良い友達は、るねとの普段の会話でも頻繁に出てくるので、私もほとんどを把握できている。
にも関わらず全く知らなかった、ということは、最近できた──新聞部繋がり、と考えるのもそこまで突飛な考えではないだろう。それならば、るねの方から危険のことについて切り出したことも繋がる。
そして、それは逆に、「新聞部の中にも、危険のことについて切り出せる相手がいる」ということだ。
勿論、仲良くすることで近づいて……という可能性も考えられるけれど──

(……こう言っちゃうとなんだけど、そこまでのプランを組み立てるような子には思えなかったのよね。なんかかなり変な子だったし)

となれば、少なくとも新聞部内にも彼女の味方はいる。
その味方が、昨日新聞部内で事件に一つの解決を見せた──となれば、辻褄も合うし、少なくとも直近の安全は確保されたとも見れる。
昨日の時点では、ひとまずの方針として『あの子』にるねの学内での動向、特に新聞部について軽く様子を窺ってもらい、何か変わったこと、怪しいことがあればそれを自分にも教えてくれるようにする、というものだったが──危険が過ぎ去ったというのなら、新聞部についてはもう少し調べてもらってもいいかもしれない。

(……不足、ではないけど。それでも、もうちょっと何か出来ることがないか、って気分にはなるわね)

責める、という訳ではない。縁だってるねを心配していない訳ではないのだから。
るねの命が危険かもしれない、と打ち明けた時には彼だって純粋に焦っていたし、そもそもあの人と一緒に暮らしているだけの彼に分かることがそこまで多くないのも事実なのだから。

それが分かった上で──それでも。
いざ本当に巻き込まれたら、そこから私が彼女を守る為にどうすればいいか、という肝心要の部分が、どうしたって不透明になってしまうのが、どうしようもなく不安になる。
それに、『あの子』に頼るというのも本当は気が進まない。一応るねとは学校で仲良くしているようだが──本来なら、もっと関係が拗れていたかもしれない二人なのだし、それを頼むのが私だというのもあの子にとっては気分のいいことではない可能性が大きい。
そんな内心の不安から、自然に口から言葉がこぼれ出てしまう。

「……どうして、るねがそんな力を持っちゃったんだろうね」

呟いて、そのまま口元を歪める。
その言い方が、ある意味では正しく、そしてある意味では正しくないことを、私は知っている。
卵と鶏のパラドックス。
力があったからこそ彼女は産まれ、彼女が産まれたからこそ彼女にその力が備わった。
結局そのどちらが先だったのかは、分かりようもないけれど──野波流根子という少女がそうやってこの世に生を受けたという事実は、恐らくは覆しようがなく。
そしてその、自然にはあり得ない生誕こそが、本来ただ幸せに回るはずだった野波家の歯車を大きく狂わせたのだ。
『あの人』は言うに及ばず、それこそ『あの子』からしても、その力を持つ彼女が自分の居場所を奪い、本来あったはずのこの家庭の平穏を壊した、と思われていてもおかしくはないのだ。
そして、そんな力が遂に、彼女自身にすらも牙を剥こうとしている。

「……させない。させてたまるか」

誰に言うでもなく、そう呟く。

そうだ。
さっき自分自身が思い出した、彼女を愛してきた十五年を思い出す。
その力が彼女から愛を奪った時、私が彼女を愛することで彼女を守ってきたように。
野波流根子という少女の誕生に、彼女の持つ力に、たとえ罪があったとしても。
彼女の能力が、彼女自身へと牙を剥いたとしても。
それでも、最後まで味方として彼女の傍にいて、彼女を守って──愛して、あげられるように。

六歳になって、ようやくちゃんと物事の分別がついてきた頃、この家で産まれたてのるねを見て。
この子を守らなければと──守りたいと、そう思ったこと。

十歳の時、産まれたての『あの子』と、そして縁との会話の中で。
それでも、私はるねを選ぶ──選びたいと、そう思ったこと。

その気持ちは、今でも思い出せるから。
だから、これからも──

「──守る。私が、るねを守るんだ」

今は誰もいない家の中、私はそうして、一人決意を新たにした。

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最終更新:2019年09月10日 20:21