【ぼくの夏休み】 文責:榛名 颯


一学期の最後の学活が終わったばかりの授業棟は、それまでじりじりと熱せられていた焦れったさがわっと解放されたかのように活気があった。

夏休みの予定はどうするとか、休日練習が憂鬱だとか、次はいつ会おうだとか、めいめいにテンションの上がったグループが出来上がり、教室をにぎわしたり学期で最後の部活練習に繰り出したりと分散していく。
担任教師が注意事項を述べていた間はあれほどうるさかったセミの鳴き声は、すっかりかき消されている。
それは暑苦しくはあっても、悪い空気ではなかった。
本来ならば榛名颯も適当な男子グループの雑談に混じりつつ、会話が盛り上がるよう心掛けながらも『普通の中学生の夏休みの過ごし方』というものを感じさせてもらい、最後の一学期の放課後を皆で遊ぼうとする誘いをそれとなくかわしながら校門を出る。
そして、去年であれば半日休みを利用して久々に兄のいる興信所に顔見せをして新しい同僚がいれば観察と記憶をしつつ『昔はよく遊びにきていた颯くんもずいぶん大きくなりました』という愛想をふりまいたものだったが、今年は今のうちに交流しておきたい目当てのクラスメイトがいた。

「それで、誘えたとしても『妹に手ェ出してんじゃねぇぞコラァ』みたいな展開になったらコエーっしょ?
そこをこーちゃんに、こう、あおちゃんも連れてダブルデートっぽい感じで、剣道場通いならではの、用心棒?」
「えー、俺、祭りの手伝いやらされるから忙しいんだけど。っつーか話を聞くと、古杣さんの兄貴ってそんなヤバイ奴じゃなくね?」
「いや、金髪でシルバーアクセじゃらじゃらは怖いよ? スキンヘッドの不良グループのリーダーとつるんでるとか、親からも非行がすぎて勘当されたって噂もあるよ?」
「……あ、ちょっと待って、いさみん。この週ってジャ○ーズのライブツアーが県内に来るっぽいけど。だったら古杣さんもそっちに行くんじゃね?」
「え!? いやいやいや。中学生の金でそう何度もライブに行けるわけないじゃん。大丈夫だいじょーぶ」
「でも、古杣さんの家って兄弟多くなかった?」
「っだーっ! そっちがあったー!!」
「声でけぇよ。だいたい、今のうちからダチ差し置いてデートとか、はやいって。『男子ってほんとガキだよねー』とか言ってくる奴らに背を向けて男同士でバカやんのが中二の夏休みってもんでしょーが」
「あーあー。キリくんや、それ高3になっても『え、お前まだなの?』とか言われてるパターンだよ。数年後に寂しいことになるよ」
「みんな大変だねー。俺は祭りで巫女服着てる妹を愛でてればそれでいいかなぁ」
「こーちゃん、さすがにシスコンこじらせてない? 昔はそんなキャラじゃなかったよね」

どうにか意中の同学年女子と夏祭りを過ごしたい比叡勇実(ひえい・いさみ)と、どっちかと言えばバスケ部のみんなで遊んだりするのが楽しいです派に属している霧島才三(きりしま・さいぞう)。
二人から相談を請われつつも机を囲んで楽しく戯れているのは、同じく同級生の鏡紅太(かがみ・こうた)だった。
鬼無里市内でも初詣には人がやってきたり夏祭りの会場になったりする程度には大きな神社をやっている鏡家の長男であり、同学年からは『鏡兄妹の兄の方』として顔を知られている男子生徒だ。
双子の妹に対してよからぬ口をきいた者以外にはたいそうお気楽でおおらかな気質をしており、交流関係もそれなりに広い。
その家族関係もあって、こちらとしても一方的な親近感はあったけれど、目当ては世間話ではなかった。
だからいって、世間話から入らないのもあんまりに味気ない。
とりあえず、風評被害も一部あるようだし『たぶんそのお兄さん(交友関係を察するに)怖い人じゃないよ』という訂正もしておこうと踏み出しかけたが、パタパタと可愛らしい足音と「こーちゃん!」というやわらかい掛け声に乱入される方が早かった。

「こーちゃん良かった。まだ教室に残ってくれてた」

えい、と紅太の背中に両手を乗せるようにくっついたのは、ほぼ変わらない体格のすらりとした女子生徒。
顔つきもひと目で血縁関係が分かるほどに似通っていたが、紅太がうなじで適当に括られた長髪に太眉でぐりぐりした眼というヤンチャ寄りの外見をしているのに対して、彼女は頭の上できれいにまとめられたポニーテールにアイシャドウとパウダーチークでふんわりと飾ったフェミニンな飾りつけで印象をがらりと変えている。

「あーおちゃーん! どしたの、どしたの、お兄様と一緒に帰りたくなったの?」
「あははー。それもいいけど、遊びに行こうって話になってねー」

飛びつかれた兄はその場で顔をだらしなくとろけさせて妹の手をぶんぶん振る。
周囲もそれをいつものこととして受け入れる。

「蒼(あおい)ちゃんじゃん。こないだビブスを補修してくれてありがとねー」
「え、キリってば何やってんの。つーか補修なんてさくっとできるもんなの?」
「蒼ちゃん、ソーイングセット常に持ち歩いてんだって。女子力高いよねー」
「どういたしましてー。こーちゃんがよく土手とかで寝てボタン外れたり、手伝いから逃げる時に垣根でダメにしたりするからねー」

鏡蒼(かがみ・あおい)。被服部所属の中学二年生で、こちらは『鏡兄妹の妹の方』として有名。
そして有名になった理由がもう一つあり、この妹は『不良な要素は皆無どころかマイナスの優等生でありおだやかな気質で騒動を起こしたこともないのに、一年前に風紀委員と教師の世話になっていた』という経歴を持っている。

「中学あがりたての頃みたいにまたこーちゃんとカラオケ行きたいなって思ってたんだけど、隣のクラスの被服部の子にもカラオケに誘われてね。
最近兄妹で行ってないって話したら『それならお兄さんも一緒に行こうよ』って流れになったの。
もちろん、女ばっかりの所で気まずいようだったら男友達も皆で行くのはどうかなって……」

通常、双子とは比較やら混同やらを避けるために別のクラスに振り分けられることが多いとも聞いたけれど、鏡兄妹にかぎっては見た目で区別しやすいからか、あるいは引き離すよりも1セットにした方が扱いやすいと判断されたのか、同じクラスに連続の出席番号で机を並べている。
そして、クラスメイトにとっては男女の双子が同じクラスにいて、しかも仲が良いということで『思春期の男女に引かれた見えない国境線』を突破して男女混合で何かをなしてみたい時の窓口として頼りになるのが常だった。
とはいえ、それが『普段つるまない隣のクラスの女子も交えて』となれば誘いを受けるハードルは上がる。
純光の中等部二年の世代は小学部からそのまま繰り上がってきた比率が高いために隣のクラスであれど馴染みは濃いほうではあったが、それでも唐突ではあった。
「どうかな……?」と首をかしげて聞かれたバスケ部の二人も、即答することに迷いを見せている。

もしかしてこの誘いには何かあるのだろうか、と蒼が先ほどまで出ていた廊下に眼を向けてみる。
紅太と男子2人は蒼を見ていることで気付いていないが、そこには蒼の連れでありカラオケに誘ったらしい女子が三人控えていた。
一人はこちらのクラスで、もう二人は隣のクラス。
その二人のうち、ゆるく三つ編みをした真ん中にいる女の子がひときわ緊張した様子であり、脇の二人から気遣うような目を向けられている。

つまりどういう意図があるのかは、何となく察せられた。
そしてこちらも、兄妹には用事があった。

「なになに。みんなでカラオケ行くって聞こえたんだけど。楽しそうじゃん!」

たった今聞きとがめたかのように、わっと会話に入っていく。
特定の誰かと親しくなりすぎることを避けているだけで、人の輪に混ざるハードルは高くない。
『みんなでボーリングに行ってみよう』などといったことにはできるだけ出席してきたし、なるべく違和感はないようにと振る舞っていた。
青春っぽい遊びをするのは良い経験だし、人脈は分かりやすく役に立つ。


△▼△


カラオケで歌う時に、真面目に音程を外さずに歌うことに必死になるのか、それとも周囲の反応を眺めつつ振り付けやコメントを交えて『盛り上げる』ことを意識するのかで集団における対応力が出る、と颯は考える。
三つ編みの女子は谷さんという名前であり、最初にマイクを持った時の反応としては前者だった。
とはいえ自分が歌うことに夢中だったわけではなく、緊張しているのと、双子がどうしても双子を中心として盛り上がってしまうためにいまいち混じり方を掴めないだけのように見える。

「蒼ちゃん低音も上手いなー。うっわ、90点いったぞ!やべぇ」
「兄貴は60点台だったのにねー。同じ曲なのにねー」
「あ、あああれは久しぶりだったから、感覚分からなかっただけだし!」
「私はいっつもこーちゃんの様子を見てからトライできるからねー。気楽なのもあるよー」
「そうそう、出席番号順だから何かやる時はいつもオレからだよ? オレ偉くない?」
「あいうえお順だから紅太くんのおかげじゃないでしょ」
「だよねー」

さしあたり全員が一回はマイクを持ったし、もう一段盛り上げるにはそろそろだろうと思って颯はマイクを取った。
あらかじめ曲検索しておいたタッチパネルの端末画面を、ずずいと双子の妹に見せる。
男声パートと女声パートがあるJポップだった。

「蒼ちゃん蒼ちゃん。合いの手やってみたいから、これ2人で歌おう?」

知らない曲ではないかどうかを確認して頼むと、蒼はあっさり「いいよー」と答えてくれた。
谷さんだけが『え、いいの?』と言いたげに目を丸くする。
『蒼が男女デュエットの曲を男子とうたおうとすればびっくりする』という反応によって彼女を知ることができる。
彼女は、蒼を含めたメンバーでカラオケに来ること自体が初めてだ。

いちおう颯としても歌いだしが始まる前にリモコンで音程を操作し、発声でも蒼がやりやすいよう意識的に声のキーを下げたが、彼女は気遣うのも無用だったらしく難なく透き通るようなソプラノボイスで控えめな振り付けも交えて乗ってくれた。
八人座りでやや人数オーバーぎみの防音ルームに二重唱を響かせて一曲を終えると、わーっと拍手が返ってくる。

「蒼ちゃんすごい! つーか声かわいい!」
「私と前に行ったときもこんな感じだったよねー」

賞賛がおおむね蒼の方に集まるのは、仕方ないとしておく。
目的はどっちかと言うと『デュエットに持ち込みやすい空気を作る』ではあったが、場があったまったのは良し。
この後に切り出そうと思っていたことを、先に霧島が言ってくれた。

「っていうかデュエットならそれこそ兄妹でやってみたら? 音楽の授業でふざけてやってた時息ぴったりだったじゃん」

それを聞いて、さりげなくマイクを持ったまま席に戻る。

「そうなの? さっすが双子ー」
「じゃあ、あおちゃんもう一曲いい?」

立ち上がる紅太からマイクを寄越せといわれないかが多少賭けだったが、紅太はやってみるけど期待すんなよーと返して妹と一つのマイクを使って歌うほうにいく。
うん、ここまでは自然。
そして、二人が練習してきたわけでもあるまいに音程もタイミングも完璧なハモリを披露したのは、予想どおりだったけど予想以上にすごいものだった。
だけど、結果的に皆が次の予約をそっちのけにしていたのは都合がよかった。
わーっと皆がマラカスや拍手を鳴らし、歌い終わった二人がそっくりの表情で得意げにする。
次はだれが歌おうという目くばせが行われる直前のタイミングで行動した。
保持に成功していたマイクを谷さんにそのまま差し出す。
さすがにコレは知っているだろうという人気の曲を、検索端末に用意しておくのも忘れない。

「谷さん、さっきから歌ってないし蒼ちゃんと交代するのはどう?
この曲なら二人でも歌いやすいと思うよ?」
「で、でもさっきの二人の後だと、ハードルが……」

『谷さんがさっきから歌っていない』のは本当だ。
順番がそろそろかなぁというタイミングで、こちらがデュエットを希望したから。

「あ、そういう事なら私代わるよ。ここにこーちゃん置いてくから」
「置いてくって……」
「そうそう。私らもいま歌いたい曲ないし。行っちゃえ行っちゃえ」

そして、周囲の女子がそれを推奨するのも想像できた。
谷さんを応援していなければ、そもそも鏡紅太を目当てとして誘ったりはしない。
あとは当人同士が拒否しなければそれでいい。

「いいよいいよ。むしろオレ的にも蒼ちゃん以外の女子と歌ったこと無いからやろうやろう」
「あっ、ありがとう、ございます!」

片方は気軽に、もう片方はぎこちなく成立したが、どちらも嫌そうではなかった。
余計な世話にならなくて良かったとジュースに手をのばした時、テーブルの対面には席に戻ってきた蒼がいた。
皆はそのまま歌い手たちの方を見ているから、彼女を見ていない。
焦ったような顔と、もじもじ膝をこすり合わせるような挙動は気付かれていない。
そして、連続で歌った後だというのに、眼前の飲み物に手をつけようとしない。
ちらりと兄の方を見たが、さすがに初めて一緒に女の子と歌うともなればそちらを意識しており気付けるほどではない様子だった。

「ちょっとトイレ」

小さくそう言って立ち上がった。
「私も」と更に小さな声で蒼が続けざまに席を立つ。
どうやら想像したことは当たりだった。


△▼△


「大丈夫、誰もいないよ」

先に扉を開けて男子トイレの中を見渡し、振り向いて蒼へと教えた。

「ありがとう」

彼女はいささか恥ずかし気に、しかしほっとした様子でそそくさとその中に入っていく。
男装をしていない時の蒼は、先客がいる男子トイレにうっかり入ってしまうだけで相手を焦らせてしまう。
ふだんそういう面倒ごとがありそうなら紅太がフォローしているようだが、さすがに狙って実現させたデュエットを中座させることはできなかった。

鏡蒼次(かがみ・そうじ)。
鬼無里市内でも初詣にはそこそこ人がやってきたり夏祭りの会場になったりする程度には大きな神社をやっている鏡家の長女であり、『一卵性』双生児の後から生まれた方であり、身体と戸籍と、中学に入学するまでの周囲からの認識の上では『次男』だった女子生徒だ。
兄よりもよほど剣豪っぽい名前をしているとは小学部時代の愛嬌だったが、中学デビューと称して装いと交流関係を女子のものに一新し、『じつは女の子だったんです』と宣言してからは『蒼(あおい)』という通り名を使っている。
それでも名簿には本名が書かれているし、体育では男子の運動服で男子の振り分けに入っている。
本人の言によれば、今のところ男の子を性的な意味で好きだということは無いし性的嗜好まではっきりと診断されていないそうだが、さすがに女子の制服を着ている生徒が男子の目の前で着替えたりするのはよからぬ騒ぎを生むやもしれぬということで、火種を生みそうなときは双子の兄がつきっきりになって着替え用の衝立を持ち込んだり、必要な時には男子の制服を貸して対応したりとガードを固められながら学園生活をしていた。

「それまでは『こうちゃんそうちゃん』で有名だったからねー。
『ふざけて女子の制服で登校し続けてる男子生徒』に見えたのは仕方ないかなーって。夜祭先生とか井上先生とか、すぐ分かってくれた先生もいて良かったよー」

そういった事情から、一年の時は風紀委員および教師に眼をつけられた事があったし、妹自身もそのように語っていたのを覚えている。

「ごめんね。気を遣わせて」

眉をハの字にして、蒼が男子トイレを出てきた。

「ううん。蒼ちゃんこそ気を遣ってない? 被服部の子から、お兄ちゃん誘って欲しいって頼まれたりとか……」
「あー。今回のは、そういう強引なのじゃないから大丈夫。本当によく見てるね」

そういえば、いちおう男性陣は谷さんの好意に気付いてないことになっていたか。

「いや、ただの何となく? ちなみに、相手は谷さんで合ってる?」
「正解。まぁ、無理じいはするつもりないけど、こーちゃん学校でも私の面倒ばっかりみてるし、そういう機会があっていいと思ったんだよね」

双子だから持ちつ持たれつでいきたいじゃん、とくくった髪の先端を指でくるくる回す。

「いいお兄ちゃんだね」

自分だったら兄のことをそう言われるのはとても嬉しい。だからそう言った。
蒼は、とても嬉しそうに「私もそう思う」と言った。
気が緩んだのか、声が兄の地声にそっくりな低音になっていた。

「……っていうか、それならさっきマイク渡したのわざとだよね。また恩ができちゃったよ」
「あ、さっきの皆には言わないで……また?」
「去年、中学デビューで編入組と風紀の人が色々言った時に、こーちゃんが手を出そうとしたの止めてくれたでしょ?」
「いや、あれは近くにいたら止めるでしょ。先に手を出した方が悪者になっちゃうし」
「いや、フツーはいきなり女の子でしたって言われても信じられないからね? お礼言おうとしたらすぐいなくなってるし、びっくりしたよ」
「あれは面倒ごとが嫌で逃げただけだから、恥ずかしいやつじゃん」
「はる君ってそういうとこあるよね」

兄と同じ顔なのに、目線だけでこうも『女の子にジト目で見られてる』という感じになるのかとびっくりるする。
そういうとこ、の意味は分からないけど、お人よしとか人助けするとかそういう意味なら、今後は自重した方がいいかもしれない。
コネクションは役に立つから愛想よくしているのも本当だし、いざとなれば任務のためのさぼりとか単独行動とかしやすいようにそこそこ距離をとっているのも本当で。
そして、お人よしと言われたことがあるのも本当だけど、自分がいい人かと言われたら違うと思う。

「そういえば、あの時のことなんだけど――」

情報欲しさにカラオケに乗っかったのも、また本当のことであって。
こないだ正義の味方をやっている女の子が言っていたけど、いい人とは人を利用するような真似も、都合がいいからと人に優しくするような真似もしないのだそうだ。


△▼△


できることが少し増えると、できないことはそれどころではなく多いのだと分かるようになっていく。
例えば、『どうやら榛名家での会話を盗聴する輩がいるらしい』と分かっているのに何もできないことがそれだ。

兄たちはよく迂遠な言い方で話すけれど、その言い方でも伝えたいことは分かるからいいんだけど、『はっきりとした言い方を避けるのは、耳がどこにでもあるからだ』という事が察せられるぐらいには成長した。
そしてそれは、団らんのひと時でしかない家の中にいてさえ『聞かれるかもしれない』と危惧するほどの地雷があることを意味している。
自分もやっている事が事だから盗聴されること自体を悪辣だとは言わないし、ましてや聞かれているかもしれない会話で『いったい誰が何を目的に盗聴するんだ』と尋ねるほどバカでもないけれど、どういう意図で仕掛けられていて自分はどうすればいいのかといったことに一切手を打てないでいるのは、とても歯がゆい。

兄達とのじゃれあいを聴かれたところで『舐められているほうが却ってやりやすい』と前向きに考えることができたし、けっして安全とは言えないらしい家でさも安心しきったように眠ることには慣れたけど、問題は考え事をしたくなった場合だ。
『耳』だけでなく『眼』もあるとは考えたくないところだが、それにしたって『盗聴する側からは机に向かって勉強でもしているように聴こえているのかなぁ』などと意識しながら考え事をしたくはなかったし、下手に独り言を漏らしたりしないよう気を付けしながらでは集中にさわる。
それに、あまり悲観的な方向に考えがいきすぎてしまうと楓がそれを察知して心配する。もしくは『心配したらかえって気を遣わせるから触れないようにする』という挙動をさせてしまう。

結果として、自分用のメモを作る時などは家の外に出るのがいいことになった。
夏と言えども、八時過ぎに外出をすれば空気はぬるくなり夜の帳はすっかり落ちる。
ネオンがきらきらと光り始めた歓楽街のホテルの屋上へと、持参したクッションを置いて座り込む。
気を紛らわせたい時は酔っぱらったり疲れていそうだったりする雑踏のおじさんお姉さんを見下ろしてみんな頑張ってるなぁ、頑張れてない人もいるなぁとヒマを潰すこともあるけれど、今回はカバンの隠しポケットからすぐにノートと筆記用具を取り出した。
麦茶をいれてきた水筒を脇において、鏡蒼から聞いた成果をメモしていく。
ボールペンは暗所でも問題ないように、ライトがついて手元を照らしてくれるタイプを使っていた。

――いわれのないフーヒョーヒガイで目をつけられてる先輩がいるから、どんな先生なのか知りたいっていうか、部室に来られた時に心の準備しときたいの。蒼ちゃんがイヤじゃないなら、だけど。

というわけで、風紀委員にまつわる例の教師とやらについて教えてもらうアテはできたが、今日中に手をつけることはもう一つできた。
この時間ならまだ連絡が取れるはず、とスマホを取り出す。

被服部の顧問は調理部の井上先生が兼任している。
また、被服室と調理室は位置も近い所にあるため、被服部にいれば調理部の近況が伝わるというたまたまは普通に起こりえるのだった。
だから、雑談をしていれば調理部について聞き出せることもある。
たとえば先日、中等部の女子が井上先生のもとにやって来て、中途入部の手続きについて質問していたとか。
井上先生は、この間は取材ありがとうとその子に言っていたとか。

そして新聞部の中に『中等部の女子だと分かる恰好をした生徒』は一人しかいない。

果たして……『その気になればゼロからいくらでも資産を生み出せる』先輩が『自分自身を資本として営業活動することを躊躇わない集団』と出会った時にどういう反応を起こすのか、それが読めないところには不安がある。
問題というなら『校庭にコンテナが一つ出現する』ぐらいの騒ぎを起こしたところで、こちら側からのお咎めはないと分かっているけれど、今回はいざスキャンダルにでもなれば野波流根子その人にじかに矛先が向きかねないし、颯にしたって『女子中学生の部員が年輩男性相手の営業活動に協力しているけど実態はよく分かりません』とはできれば報告したくない。

とはいえ、調理部の人たちも実態を理解していない女子中学生を使って問題を起こすほど脇の甘い人たちには見えなかったことが安心材料としてある。
何も入部を止めさせるほどではない。青空カフェを訪問しただけでは見えなかったこともあるかもしれないし、活動の実態についてじかに探りを入れて、問題がなければそれで良しとする。
幸い、兄達以外で、こういう時に連絡できる大人がいないわけではない。
スマホから連絡先を引っ張り出し、先日の青空カフェで私的に撮っていた写真を画像添付する。
エプロン姿の男子高校生、明らかに恥ずかしそうにしている瀬戸優紀の写真。
『こういうDKには興味ありますか?』という誘いも添える。
返信は時間をおかずにきた。
それは正直で簡潔だった。

『どこで会える?』

絶対に食いつくと思っていた。
用意していた返信を出す。

『もし次に会える場所と日時を教えたら、観に行く?』

返信はまた早かった。

『本命は颯くん一筋だよ(`・ω・´)b』

相変わらず、兄弟の神経を逆撫でするようなことを書いてくる男だ。
だが、兄達にまだ始末されていない程度にはわきまえられる男だということも知っている。
敢えてそのコメントは見なかったことにして再返信。

『合法的に接客が受けられる日時と場所を分かりしだい教える。
その代わりお願いしたいことが……』

趣味については理解できない人物だが、JCとJKは完全に対象外であることが分かっているから、中等部の女の子がいても大丈夫かどうか見極めてもらう上で私情をまじえたりはしないだろう。
あとは報告を送ってもらうまで待つだけ。
瀬戸優紀について不憫という感情はあるけれど、調理部に所属し接客をする選択は彼が自己責任で選んだことである。
くだんの大人については一日デートした時に財布の紐の緩さも知っているし、仮にそっち趣味の男性に来られたことがないとしたらその経験値も含めて調理部全体にとってはプラスであるはず。

『ひのと先輩→風紀委員と例の教師に関する情報源を獲得。引き続き注視』

『るね先輩→調理部の野外活動に様子見を依頼。滅多なことはないと思うけど、懸念事項あれば教えてもらう』

14歳の夏休みは、そんな記録から始まったのだった。

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最終更新:2019年11月30日 20:48