【ある子供たちの青春】 文責:野波 流根子
夏休み。
それは大半の学生にとっては、日々の通学という責務から解放され、存分にその羽を伸ばす期間である。
あるものは見分を広め、またあるものは友情や愛情を育み、またあるものは部活という青春に打ち込む。
一年に一度子供に与えられた一か月と少しの自由は、下らないものから大切な記憶までひっくるめて大切な思い出としてカテゴライズされ、大人になっても時に見返しては思いを馳せるアルバムの一ページとなるのだ。
そして、勿論同時に、この時期においても勉学に全力を注ぎ込む人間というのも存在する。
その多くは、部活から早期に引退し、己の志望校の為に邁進する高校三年生……俗に、受験生と呼ばれる生徒たち。
受験の天王山と呼ばれる時期に差し掛かった彼等は、こうして来年の冬に控えた大学受験に向けてこうして目の前の問題へ取り組んでいる。
鬼無里市の一角、とある民家で頭を突き合わせ参考書と向き合っている男子二人と女子一人の三人組も、そうした将来への勉学を積み重ねる人間たちであった。
「──ああもう!まーた行列間違えてんだけど!」
「……うるさい。こっちだって暗記してるんだから騒ぐんじゃない」
──とはいえ。
ただ黙々と勉強する中では、積もるストレスの発散も難しく。
苦手分野なのか、延々と似た問題で間違い続けることに業を煮やしたらしき少女が、部屋の中でついに大声で叫ぶ。
その様子に、それまで単語帳を覗いていた、眼鏡をかけた青年が苦い顔を向けても、どうやら気は晴れていないらしく。
「そうは言ってもこんなに暑いんだから叫びたくもなるってもんよ。なんで元号も変わるっていうのにエアコンの一つもないのここ」
「文句ならうちの親に言ってくれよ……」
部屋の主らしい、眼鏡の青年とは違うもう一人の──背の高い優男風の青年が、最初に騒ぎ出した少女の悪態に返すように呟く。
彼もまた勉強に精を出しており、問題集とノートには書いては消しを繰り返した跡が幾つも残っていた。
未だ残っている余白に、しかし解法に悩んでいるのか筆を止めている彼は、部屋についての文句に腹を立てたのかはたまた手を焼く難問に腹を立てているのか、憮然とした表情で聞き返す。
「そんなに暑いなら図書館行けばいいじゃん。純光の図書館はエアコン入ってるんだから」
「だと思うじゃん?」
言われると思った、とばかりに指を一本立て、聞き返された側の少女はより表情を歪めて語り始める。
──彼等が所属する学校、純光学園は所謂マンモス校と呼ばれる類の小中高一貫校だ。そのネームバリューと高すぎも低すぎもしない狙い目な偏差値のせいか、鬼無里市内の人間は大抵お世話になる学校である。むしろ、この辺りで純光学園生でない高校生を見つけるのが難しいとすら言われるレベルである。
そして、同時に純光学園は近辺ではかなり高い大学進学率を誇る進学校でもある。無論地元でそのまま就職する人間もいるが、かなりの人間は市内の大学に進学。一部の成績優秀者は首都圏の大学や各有名大学へと進学することもある。
「学校の中で夏休みでも勉学に集中しつつ快適な場所」という図書館は、彼等のような受験生にとっては聖地のような場所であり──そして、それ故に。
「同じ学年の受験生の奴等同士が、ぎっしり詰まってところ狭しと問題集を広げ合ってるのよ?涼しさも何もないわよ、むしろ暑苦しくてやってらんないわよ!」
……結果として生まれる別の不快感の正体をそう言い表すと、立てた指を戻してようやく間違えた問題の解説へと目線を戻す。
そんな少女をジト目で見つめるのは、先程まで単語帳を眺めていた眼鏡の青年。
「……それを言うなら、今のこの状況はどうなんだ。冷房はベテランの扇風機頼み、男二人も一緒に三人で卓袱台で勉強っていうこの状況は」
──四畳半のフローリングに、冬は炬燵にもなる卓袱台がひとつ。
三人で持ち寄っただけの参考書とノートは卓上面積をほぼ占有しており、その合間合間に辛うじて三つの麦茶の入ったガラスのコップが紙類を濡らさないよう配置されている。
卓上の混雑度だけで言うなら、先の図書館と比べてもより高いと言わざるを得ないだろう。
「あんた達なら、まあ許容範囲だし……近いし麦茶出るし、ついでに私が苦手な数学は二人とも得意だからすぐ聞けるし」
「お前なあ……後半が本音だろ」
解説とにらめっこする少女の傍若無人を体現したかのような返答に憮然とするも、先程から互いの得意科目を教え合っていること自体は事実であるが故に眼鏡の青年は言い返せず押し黙る。
一応相互監視になっており、勉強自体には互いに真面目に取り組めているのもあって追及するつもりはないが──結局のところ、彼女はこの三人でぐだぐだ言いながら勉強に取り組みたいだけなのだろう。
その事実に少しの喜びを覚えてしまう自身の心に嘆息しつつも、彼は単語帳に目線を戻そうとして。
「……まあ、それにしたって暑すぎて捗らないのは確かだよね。もう二時間ちょいやったし、二人の都合が良ければ一回休憩入れっか?」
それまで難問に手をこまねき静かにしていた優男風の青年が、そう言いながら、自分以外の両者を見る。
どうやら彼自身も一旦手元のそれを諦めたらしく、自棄になって無理やりそれらしい解を導いたと思しき荒々しく書かれた解答がノートに書き殴られている。
「はいはーい、さんせー。わたしもきゅーけーしたーい」
その声に、少女も喜々として。とはいえ手は早く、先程間違えた問題の要点については赤線を引き終わっている。
そして、眼鏡の青年はといえば、手に持った単語帳にまだ随分と量があり、このまま続けても目処がつくまでにはかなりの時間を要するだろうと結論づけたようで。
「……ま、それもそうだな。一回休憩入れるか」
「そういうことなら、麦茶のお替り持ってこようか」
集中が途切れたことで気になったのか、今更になって額の汗をぬぐう眼鏡の青年。
そんな彼の姿を見ながら、家主の青年は台所へと歩いて行った。
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氷でぐっと温度を下げた塩入り麦茶のコップが、三つ揃って大量の汗を掻く。
いくら休憩に入ったとはいえ、部屋の温度が下がった訳ではない──そんな簡単な事実に基づいて襲い来る暑さが、休憩を試みた三人の身体に重くのしかかる。
うだるような暑さ。天気予報によれば今日はまだ七月だというのに三十度を超えるらしく、ここから更に暑くなるというからたまらない。
風通しが悪い訳ではないが、それでも飲み物と扇風機だけで凌ぐには限界があったのか、三者三様に先程までとは打って変わってだらりと各々の身体を伸ばしていた。
途切れた集中と暑さによるものか、自発的に口を開く人間がいない部屋に、甲高い蝉の声と扇風機の音だけがやけに響く。
「……そういえば、こないだ学校で怪談聞いたのよね」
そんな空気に耐えかねたのか、とうとう口を開いた少女の言葉に、のろのろと青年二人が身を起こす。
「また古風な……」
「まあ、涼しくなるかもしれないならこの際なんでもいいよ。どんな話?」
半ば呆れ気味な眼鏡の青年に、少しでも涼しさを求めようと胸元をぱたぱたと団扇で扇ぐ優顔の青年。
現在進行形で暑さにやられている二人に不甲斐ないと一瞥を飛ばし、少女はそれっぽく居住まいを正して語りだす。
「学級委員の瑞城っているでしょ。その妹の友達の友達?くらいの中等部の生徒が実際に遭遇したことなんだけど……」
──その生徒は、もう放課後になって忘れ物に気付いたんだ。
──完全に静まり返ってて、照明も点々としかついていない校舎を通り抜けて、部室棟に向かったの。
──そしたら、その部室棟の一室に、まだ明かりがついてたんだって。
──まだ残ってる生徒がいたのかな?なんてその子が思った時、不意にその明かりの部屋から人影が見えて。
──その子の方を見て、ニヤリと笑ったんだって。
──かなり距離があった筈なのに、どうしてそんなことが分かったのか?……まあ、したんじゃないの?"怖気"とかそういうのがさ。
──ともあれ、その子は急いで校舎の中に戻って、階段の影に隠れたんだって。
──そしたら、ドアが開くぎぃぃ……って音のあとに、ぺたり、ぺたり、って、歩いてくる音がするの。
──どんどんこっちに近づいてくる音に、その子はたまらず飛び出して、出口を探して逃げ惑った。
──そしたら偶然、空いてる窓を見つけて。そこから飛び出そうとしたんだって。そしたら……
──がしり。
──腕を掴まれ、振り返った先には──血みどろの幽霊が──「なんで」と言ってこっちを見ていて──
「……必死で振りほどいて逃げて、校舎から出たけど……腕には掴まれた跡が残ってたんだって」
と、神妙な顔で語り終えた少女は、次の瞬間破顔した。
「どう?うちの怪談、名付けて部室棟の幽霊!」
その語り口は中々に堂に入っており、
しかし、話を聞かされた青年たちはといえば。
「……ま、普通に学校の怪談、って感じだね。見回りの人か誰かじゃない?」
「名付けもなんというか安直というか……というか体験したことじゃないのに自慢気に言われても」
「……なんっで、そういう無粋なこと言うかなあ……!ああもう、折角涼もうとしたのに台無しじゃない!」
楽しんで語っていた内容に水を差され、今度は苦々しい顔で二人を睨みつける。
ふい、と目を逸らす二人だが、その視線が交差した時には共に苦い顔を向けており、更に言うのであればどちらの背筋にもやけに冷たく感じる汗が伝っていた。
要するに、きっちり怖がれされてしまったことへの強がりで、先の声も割と震えていたのだが──虚勢を張った二人にまんまと騙されてしまった少女はただただ歯噛みするのだった。
「ぐぬぬ……他にもうちの学校、怪談幾つかあったと思うけど……そういや、こないだの校内新聞に載ってなかった?」
新聞部の作る校内新聞。新聞部謹製のそれは、生徒間でもそこそこ評判になる程度には出来の良いものだ。
制作も写真の現像から印刷まで校内で全て済ませているらしいが、これも私立ならではの強みを活かした質の良さ、ということだろうか。
「……流石に、覚えてないなあ。基本全部部室で作ってるらしい、ってだけあって出来は良いんだけどね」
「俺もだ。流石にずっと内容覚えておけって言われてもそりゃあ無理な話だ」
……とは言っても、所詮は学校の新聞である。
話題にこそなっても、その紙面をきっちり覚えて今でも話の種にするほど、高校生の流行は遅くない。
まして、受験生である彼等にとっては、より優先すべき暗記事項はそれこそ山のように残っているわけで──新聞部員が聞いたら泣きそうな話ではあるが、残念ながら、誰も覚えてはいなかった。
しかし、それでも思い出そうとしているかどうか怪しいだらけた二人の青年の姿に、女生徒はなんとなく苛立ちを覚え。
「そもそも、高校生三人で涼む方法が怪談ってのもね……」
そして。
優男風の青年の、本人としては何の気なしに言った、それまでの流れ全てを否定するその言葉で、女生徒の堪忍袋の緒が切れたらしく。
荒々しく立ち上がると、己の鞄の方へとずかずか向かいながら、少女は怒ったような、それでいてどこか嬉しそうな声を張り上げた。
「あーもう、いいわよいいわよ!そんなに言うんだったら最終手段でいくわよ!」
「「最終手段?」」
二人の疑問の声を後目に、自分の鞄をごそごそと漁る。
まもなく見つかった目当ての品──財布を持つと、獰猛な笑みを浮かべながら二人をねめつけるように見る。
「──アイス。ジャンケンで負けた人が三人分奢り……!」
その言葉を聞いた瞬間に、それまでだらけきっていた二人の眼の色が変わる。
片道の時間がそこそこかかる為に予定していた休憩の終了時間までにはどうあっても間に合わないだとか、そういったことも含めて頭から吹き飛んだ様子の三人は、各々の財布を構えつつじりじりと間合いを測る。
勿論ジャンケンに間合いもなにもある訳がないが、こと調子に乗った高校生にとってはそれが必勝の鍵であるかのように感じられているようで。
「……負ける方には悪いけど、一番良いのを買わせてもらうよ。場所代も込みでちゃんと払ってもらわないとね」
「こっちの台詞だ。浮いた金は参考書代にしてやるからありがたく思え」
ぎらぎらとした目つきで構える二人に、言い出しっぺの少女も手をぱしりと叩き向き直る。
「二人とも、言ってくれるじゃない?……いくわよ!最初はグー!」
「「「ジャンケン──ポン!!!」」」
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──結論から言えば、眼鏡の青年が敗北した。
折角なら一番高いものを選んでやる、と息巻いた女子生徒が、出発の前にと一旦手洗いに立っている間、三人分のアイスを買うことになった彼は財布を覗きながらやれやれと首を振る。
「くそ、乗るんじゃなかった……駄菓子屋だから流石にビエネッタとかは無いよな……?」
「あはは、ご愁傷様。ところで、はい」
差し出された優男風の青年の掌の上には、幾らかの小銭が乗っていた。
それがちょうど、優男風の青年が好んでいるアイスの値段とほぼ同じだと気付き、眼鏡の青年は怪訝な目を向ける。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「僕はいいからさ。あの子へのプレゼントだ、って思えば、むしろ君としては嬉しいんじゃないかなーって思って」
そう言いながらウィンクする優男風の青年に、眼鏡の青年は溜息で返す。
若干その耳が──無論、暑さとは関係なしに──赤くなっていることに優男風の青年は気付いたが、流石にそれを口に出す程無粋ではなく。
「余計なお世話だ。負けた以上はきっちり払うさ」
「そりゃあ残念だね。ありがたくいただきます」
言葉とは裏腹にくつくつと笑う親友を呆れ半分拗ね半分の視線で見つつ、眼鏡の青年はさっきも眺めていた単語帳を改めて開く。
どうやら道中でもきっちり勉強を重ねる様子の彼に、優男風の青年はやはりいたずらっ子のようなにやけ顔のまま確認する。
何を?──彼と、今ここにはいないあの少女の間にある、約束事について。
「受かったら告白の返事、だっけ?」
「……まあ、な。おかげでこちとら浪人は無し、一発勝負になりそうだ」
おかげでこんな時にもサボっていられないっつうのに──そう軽口を叩く眼鏡の青年は、しかし言葉とは裏腹に真剣に単語帳の文字列に目を落としていた。
その真剣な様子に、隣で見ている青年の笑顔が、だらしなく緩んだそれから柔和で慈愛を感じるようなものへと変わる。
「ま、結果は分かりきってるから大丈夫大丈夫。色んな意味でね」
「……他の奴に言われると腹が立つが、まあ、お前ならいいか」
「幼馴染の役得って奴?それなら僕としては嬉しいね」
小声で言ったつもりが、どうやら聞こえていたらしい。これではこっちが恥ずかしいな、だなんて優男風の青年は思う。
幼少期から知り合いで、昔からずっと下らない諍いが絶えず、そしてそれよりもっと長く共に笑顔を浮かべていた二人。
それを一歩後ろから眺め続けていた青春の日々は、彼にとっての宝物であり。
だから、二人がこうして同じ道を歩み始めようとしていることは、彼にとってはとても喜ばしいものであった。
「っと、お待たせ!………何ニヤニヤしてんのよ気持ち悪い」
「ま、男同士の会話ってやつだよ」
「……そう、だな」
「不潔。死ね」
男同士、という言葉から一体何を想像したのか辛辣な言葉を投げかけ、一足先に去っていく少女。
ふと眼鏡の青年の方を見れば、先程と変わらずに単語帳に目を通している──だけではなく、よくよく見れば手が震えているようで。
「……これでも?」
「……これでも、さ」
優男風の青年は、やれやれ、といった風に溜息を吐いて、それに答えた。
二人して肩を竦め、それからゆっくりと部屋を後にする。
この後、女生徒からアイスを二つも強請られることになるのは、また別の話で──
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「……夢、か」
──そして、現在。
飛行機の着陸アナウンスで、ぼんやりとした意識が徐々に覚醒していく。
どうやら転寝をしていたらしい。同行人はもう少しイヤホンで機内放送を聞いているようで、着陸にはもう少し猶予はあると見て取れた。
それでもいつもなら、すぐに出れるよう準備をしておくところだが──今は、そんな気になれなかった。今の今まで見ていた夢の余韻に、少しでも浸っていたかったから。
……本当に、懐かしい夢だ。最近は、大してこの頃の夢を見ることもなかったというのに。
時期にして三十と一年前。まだ当時の新聞部が残っており、例の殺人事件が起こる前の純光学園は生徒で溢れていて、当時基準でも古かった校舎ではくだらない怪談が流行り、自分の部屋にエアコンがないと不平を垂らして、けれど真夏の気温も今ほどまどには上がることはなく、アイスを買うのはコンビニではなく駄菓子屋で。
……そして。
僕たちが、何も知らずに将来の希望を描いていた頃。
……ああ。そういえば、夏休みだったな。
あの娘がこの間そう伝えてきたことを、改めて思い出す。
だからだろうか、あんな夢を見たのは。
1988年。高校最後の夏休み。それぞれの進路の為に勉強を重ね、互いに励まし切磋琢磨し合って、それでも三人で馬鹿なことをやっていた頃。
(……今、君たちがもし同じ夢を見たら……なんて言うだろう)
彼等の中で、あの想い出はどんな色になっているだろうか。
今でもまだ、僕と同じように鮮明な色で、眩い光を放っているだろうか。
それとも、あの少女の誕生を、或いはあの決定的な決裂の日を境に、この想い出すらも思い出したくない毒になってしまっているだろうか。
……いや、今はそれを問うべき時ではない。
大切なのは未来だ。あの二人が持っていた筈の、これまでの、そしてこれからの幸せだ。
その為に、僕は今戦っているのだから。
「待っててくれ、庵、綴歌」
いつか、あの夏のように。
また三人で、笑えたらいいと。
ただそれだけを今もまだ願い続けている男──大神刻威は、目の前から消え去ったばかりの夢に、今少し思いを馳せるのであった。
最終更新:2019年12月28日 10:56