【Anything you can do!】 文責:榛名 颯


これは、夏休みもあと数日で終わるという夜の合間にあれこれと考えた、ひとつの推察。

いつものリュック。
リュックの中にはいつもの水筒。いつものクッション。いつものタオル。
そしていつもの筆記用具。いつものライト付きボールペンと、いつも『新聞部観察記録』として使っていたノート。
今日はちょっとした考えごとをするために、文具屋で買った付箋も持ってきた。よくある貼って剥がせるタイプの正方形で、強粘着タイプ。

そして、いつものオレしか通れない夜道と、いつもの風俗店がある街並みと、いつもの屋上。
ネオンの陰に隠れた、いつもの探し方で見つかる死角。
不規則にたまり場は変えているとはいえ、そろそろ『いつもの屋上』になりそうな回数は使っているので、そろそろ違う休憩ポイントを探すべきだなぁと思っている。
今のところ夜間外出を止められたことは無いけれど、『この町の妖怪を見張る目は多い』というのは最初に会ったときの本田さんも言っていた。

(……そもそも、こんな風にする時間も減っていくかもしれないのか)

夏祭りに兄弟3人で話したことがきかっけで、いくらか気が楽になったというか、心を打ち明けやすくなったのはありがたかった。

もともと夜の散歩は、『楓兄がそばにいない所でお互いに気を遣わない時間があればいい』と思って始めた。
榛名楓の心を読む異能には、多少の『感度とボリューム調整』はできても『電源オフ』にあたる操作ができない。
どうやら当人の心理的抵抗などには多少なりとも左右されるらしく、弟の心は『読みにくい』タイプに当たるようなのだが(なんせ7歳の時に一度、精神がどん底に落ちかかっているので楓兄も心が削れるような声をたくさん聴いてしまったのだ)、それでもまったく完全には遮断できない。
楓兄のいる自宅で、『最近ずっと仕事をしてるけど大丈夫かなぁ』などと思うことは、本人に聴こえるように『お前のせいでこんなに心配しなければならない』とイヤミを言うのと同じになる事もある。

デリカシーのない両親は自分たちのおかしな価値観の心をさらけ出すことに抵抗がないし、上の兄はお互いの思惑を把握し合っているのであまり隠すようなことがないし、本人は『聞かなかったことにして流すやり方ぐらい心得てる』と言ってくれるのだけど。
家にいる時は、せめて癒されるように、喜ばせられるように、無条件に味方をする可愛い生き物であろうとしてきた。
それでは自分の頭でものごとを考えない癖がつくかもしれないので、『体力づくりと夜間行動の訓練にもなる』という名目で、一人だけの時間を持つようになって。
他にも自宅だと監視されることを考えるとリスクがあったり集中しきれなかったりするとか理由は色々あったけれど、あまり大きな声では言えない趣味のきっかけはそれで。

でも、この夏休みの間にいろいろな事があった。
新聞部への好意を隠さなくても、迷惑にならないと分かった。
むしろ、思ったことを口にすれば、兄達に間違いをさせないよう守れるかもしれないと、思ったりもして。
うだうだと悩んで自己完結しなくても、聞きたいことは聞けるようになった。

だから、ここにやってきた要件は、一学期までのように兄達に尋ねることができない新聞部の重要さについて考えるためではない。
実際に尋ねてみたけど、『今のところ当人にも話すことではないから』ともっともらしい理由で教えてもらえなかった件について、だ。

新聞部の人々には、いざという時に命を守るべき優先順位がある。
それは山荘の襲撃事件に向かう前に言い聞かされたことで、『特にみゃーこ先生は他の何を優先しても守れ』と大真面目に釘を刺された。
そして他にも重要なヒトはいて、雛代千依、光園寺満衣、野波流根子を、今あげたとおりの優先順で守るように、と。

なぜ重要だったのかは、ホテルで話し合いについたたときに3人については分かった。
夜祭みゃーこ先生を守らなければならなかったのは、本当に本当にとても大事な人だったから。
雛代千依先輩は、オランピア計画に関係しているから。
光圓寺満衣先輩は、いずれ皆のいない所で話すと約束した『先輩のお母さんが絡んでいるらしき事情』があるから。

この新聞部でるね先輩と呼んでいる人――野波流根子が重要である理由だけが、まだ教えられていない。

いや、満衣先輩も詳しいことは分からないけれど、『まず機を見て本人だけに教える』という判断がされたらしい以上、あれこれ憶測しても仕方ないと保留するしかない。
それに、『満衣先輩のお母さんが組織と関係している』という事まで分かれば、『協力者の娘だから危害が及ぶような真似をできないんだ』という予想はできた。
いや、お母さんが『悪い組織の協力者』だと予想をされるのは満衣先輩にとって不本意かもしれないけど。

それでも、組織は裏稼業である構造上どうしても『はぐれ者』を抱え込みやすいとも聞いた事がある。
というか、木枯さんだって元をたどればそれだ。
化けイタチ(鎌鼬という有名な妖怪なのだそうだ)の家系である蒲池家のご先祖様は代々、異種族間の婚姻をする傾向にあったらしい。
ある代では化け猫、ある代では化け貂(テン)といった女性と人の姿に化けて交わりを繰り返した末にいまの木枯さんまで代が続いたのだとか。
おかげで木枯さんの本来の姿だとか家系図だとかは妖怪の視点だとグロテスクに見える仕上がりになっているため、『絶対に血をまじえない』という身内ルールがあることも珍しくない妖怪社会に戻ったところで、家族もろとも忌み子扱いが関の山らしい。
そんな風に、裏社会のことである以上、どうしたって『訳アリ』で流れてきたヒトたちはいる。
だから、満衣先輩のお母さんが悪いヒトだとか決めつけてるわけではないんですよ、と脳内の仮想満衣先輩に言い訳をする。

ただ、るね先輩はそういう風に『身内に妖怪や異能の関係者がいる』という話をまったく聞かない。
だから重要視される心当たりがない。
いや、異能を悪用する余地とかならすごくありそうだけど、先輩をこっち側に勧誘しようみたいな話は無さげだし。

最初は、るね先輩の異能にオランピア計画のための利用価値があるという嫌な予想もした。
『何もないところから望みどおりのモノを取り出せる』ならば、世界を複製するにあたって参考利用できそうだとか、そんな理由で。
しかし、それならホテルで全員と話した時にそんな話が出なかったのがおかしい。
『あなたの異能を地球を創るために利用するかもしれません』なんて話をまったく秘密にしたまま協力してくださいと願うのは、あまりにもフェアじゃない。
榛名嵐なら、そんな露呈したときにリスキーになるだけの、かつ不誠実な秘匿はできない。
それにオランピア計画のために必要なのだとしたら、『協力者の娘だから死なせたくない』という間接的に大事な満衣先輩より優先順が低いのもしっくりこない。

かといって、満衣先輩のように曰くのある妖怪や異能者とのつながりがあるとも思えない。
……いや、本当にそうだろうか。思い返してみれば、るね先輩がこれまで『ボクの関係者はみんな一般人です』とか断言したことはなかった、はず。
先輩当人や兄達にしつこく聞いてみるには、部外者が問いただしていい事情という感じがしない。
しかし組織から注目されているなら、これから新聞部を守る上で軽視していいことのようには思えない。

だったらせめて、知っていることだけでも整理して、検討をつけてみよう。
そう思って、夏休みの宿題を爆速で終わらせた夜に、こうしてやってきたのだった。
わざわざ外出したのは、考えをめぐらせたことが全部大ハズレだった時に、楓兄から呆れられたり笑ったりされたくないのも理由だったりする。

繁華街の雑音を耳から追い出し、クッションにあぐらをかいて座る。
一学期の間にまとめてきた新聞部観察ノートのページをクッションで抑えながらめくって、先輩に関する記述に一通り眼を通す。
それらを、持ってきた付箋をはがしながら一枚につき一つずつ、すべて書き写していった。
ぺたぺたと付箋の数々を屋上の舗装に貼りつけ、足元にたくさんの箇条書きが漫然と並んだ状態を作る。
1人でやるブレインストーミングのようだが、やることは『アイデア出し』というより『アイデアの整理』に近い。
もちろん、使い終わったら全部剥がして燃やして隠滅するつもりですよ?
プロファイリングは専門ではないけれど、全ての所感をまとめてみれば見えてくることもあるかもしれない。
というわけで、ホワイトボードがそこそこ埋まりそうなほどある四角い付箋がボールペンのライトで順不同に照らされる。

本来なら日付順に並んでいたメモを、似たような内容ごとに並び変えて配置しながら一つ一つについて思い出していった。
見返してみえば、出会ったばかりの頃はずいぶん辛辣なことを書いていて恥ずかしくなった。

『問題解決能力、皆無』
『異能の取り扱い注意に自覚なし』
『平和ボケ(異能力バレよりもメイドバレを気にする)』

(うわぁぁぁぁぁぁ…………)

なんというか、数か月前の自分、そこまで書かんでも……とかなり引いた。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
いや、兄に話す時はもっと言葉を選んでいたと思いますけども!

(最初は、異能への劣等感とかもあったんだと思うけど……)

この頃、野波流根子という先輩への印象は、好きか嫌いかで言えば嫌いだった。

ずるい、と思ってしまうから嫌いだった。
大きな力には大きい責任が伴うのだから他の人と違う生き方をしなければいけないと、当たり前のことを説いて聞かせるように母が言う。
職場に精子バンクへの登録を嫌がった新人異能者がいるとかで憤慨して、なぜ自分の素質を人の為に役立てることができないのかと、苦々しく父が言う。
昔からずっと両親はそうだったし、一方的に素質を植え付けた大人が言うのでさえなければ、……言葉だけは正しく聞こえた。
言葉だけは正しいと受け止めようとしてきた。正しいことだから、ある程度は仕方ないのだと。

でもその人は、欲しいものが何でも手に入るような異能を使える、普通に生きていきたい中学生だった。
自分の人生に異常なことなど何一つ無かったし、これからも無いままだろうという顔をしていた。

そして、周りからもそのように普通の子であってほしいと望まれ、心配されていた。
流根子さんのような優しくて争いに向かない子は甘えてもいいのが当たり前のように皆が扱う。
腹の底にあるモヤモヤした感情に蓋をして、きっと『いい後輩』ならこうすると思って、『危ない事をやらなくてもいい』と言うのはオレだけのようだった。
仲間として、大人として、魔術師(プロ)として、甘えてもいいのだと心配するのがあるべき姿なのだとしたら、オレだけがあるべき風になれていない、醜いことはすぐに分かった。
そもそも、危ない世界からやって来て危ない事情のために監視している自分が、危ない事に巻き込まれた時の対応についてイライラするなんてどのツラ提げて……だということにさらに自己嫌悪した。
きっと、本当なら自分なんかが交わってはいけない人なのだろうと思った。
だから嫌いだった。

(だめだめだめ。今夜は感傷とか抜きにしてプロファイリングしに来たんだから)

首をぶるんぶるん振って、過去の気持ちを今の使命感に塗り替える。
それだけで、今はもう嫌いじゃないという証拠のように、あの頃の気持ちがすっと消えた。
今は嫌いじゃない。
夏休みの色々が終わってから、そこだけには自信をもって言えるようになった。

(本当に危ないことにはさせないって、今はそう思ってる、うん)

ただ、そういう風に危ないことと縁のない人生を送ってきたのだとしたら。
やっぱり『るね先輩にも何らかの立場や重要な関係者が存在する説』が崩れることになる。
マーヤちゃん騒動の裏でみゃーこ先生と話した時も、みゃーこ先生は『ちょうど自分のそれについて考え始めている時だから』という風にあの人のことを見ていた。

(身近なところに裏社会の人がいたなら、それが敵でも味方でも、もっと前から『考え始め』ると思うんだよなぁ……)

となれば、『身近にいない人間』……少なくともよく話題に出て来る上に距離も近そうな『お姉ちゃん』ではないということになるが。
家族について書かれたメモを一群として近い所にまとめた。

『お医者さんの家の子ども』というメモが一番最新のものだった。

山荘で頭を怪我したアルバイトさんを手当してのけた上で、『お医者さんの子ども』と誇らしげに自称していたから、違いない。
野波という姓はそこそこ珍しい。
『鬼無里市』『野波』『病院』で調べれば、特別な技術に頼るまでもなくネットですぐに見つかった。
野波医院は産婦人科だった。その院長が先輩の父親なのだろう。

(お医者さんかぁ、……うちの父親は『医師免許も持ってる科学者』って感じだけど、もしかして野波お父さんもそっちの人?)

そんな可能性が頭をよぎり、いやいや違うんじゃないかと否定する。
もし野波お父さんが榛名家と同じく『マッドサイエンティスト』に該当するタイプの人なのだとしたら、先輩だって普段の生活でもうちょっと『圧』を感じているはずだ。
両親から愛されているという大前提がある榛名家でさえ、『実験動物』としての視線を向けられるときは感じ取ることができる。
いや、普通は愛するものを実験動物扱いはしないのだろうけど。
(一度、その感覚を理解できなかったらしい兄の興信所職員に「ほら、ペットは家族って言うけど、ペットだって去勢手術ぐらいするじゃないですか」と分かりやすくたとえたらフリーズされた)
とにかくその感覚を持っている人が身近にいるにしては、先輩はすごくおおらかというか、日ごろそういうストレスを受けているとは思えない。

それでも、産婦人科医というのは引っ掛かる。
産婦人科医なら『流れる』という言葉はもっとも忌むべきもののはずだ。
我が子に瑠根子でも琉根子でもなく、流根子という字をあてるだろうか。
お父さんは縁起担ぎなどに頓着しない人だった、と言われたらそれまでだけども。

ただ、個人病院を切り盛りしているなら、ましてや長時間の付きっきりが求められる産婦人科なら、親が忙しくないということはないだろう。
先輩が家事を一通りこなせると言っていたのも、このあたりに起因するなら分かる。
家事というのは、家庭環境の必要性があって身につけることが多い。
オレも昔は兄の為に何かをしたくて、せめて家事から手伝おうとしたけれど、母親から『あなた達は他に勉強することがたくさんあるからいいの』と台所に立たせてもらえなかった。
(今ならスパイは単身赴任も多いからむしろ家事スキルは必要だとか、『使命に必要だ』という理屈さえ立てれば納得はしてもらえる)
その一方でもっと昔は事情が違っていて、特に嵐兄は炊事洗濯掃除とだいたいのことはできる。
十歳の頃まで異能の凄さを隠していたので、『普通の子ども』として共働きの両親の代わりに家事をすることも多く、特にオレが生まれてすぐのころは高齢出産がたたって保養所で静養していた母の代わりに七歳の弟の生活全般の面倒をみていたらしい。昔から苦労人がすぎる。
脱線した。

『楓兄と同学年のお姉さんがいる。姉妹仲が良い』

そして、その近くにはこんなメモもあった。

『両親の存在感が薄い。特に母親』

これは間違いなく言える。
家の話をする時に、出て来るのがいつも『お姉ちゃん』のことだ。
旅行や学校に出て来るときの送迎だとか、ちより先輩が自宅に行ってご挨拶した話だとか、ふつうは両親のことが出て来そうな話題にも『お姉ちゃん』が出て来る。
青空カフェでお菓子を買った時も、沖縄旅行でお土産屋を物色した時も、『お姉ちゃんへのお土産』のことしか口にしていなかった。
普通、同居している家族に対して、ある人にはお土産を買って帰るが別の人にはお土産を買って帰らない、ということはしない。
たとえば我が家はブラコン一家だが、それでも『兄達にお土産を渡している横で両親には何もない』などという光景ができたら、さすがに両親も愉快ではないし気まずい空気になるだろう。
また、沖縄のときは福引の大当たりで事前にたくさんの金券を手に入れていたのだから、お小遣いの都合で買って帰れなかったという線も薄いはずだ。
料理のことにしたって、母親経由でなく料理上手なお姉さん経由で教わっているらしきあたり、お母さんが家にいる気配も薄い。

(もしかして子どものすることに関心がないタイプの親なのかな……それとも先輩の方から壁を感じてる?)

そういえば先輩がもろにそういうことを言ってた気がする、と別の付箋を探し回った。
知り合ってからかなり経った頃……沖縄旅行から帰ってきた後のメモだった。

『本人曰く、親と距離がある(父親と母親にそれぞれ事情あり?)』

いつのことだったか。
沖縄で、石田さんと話していた時で、人食い騒動と前後していたタイミングだったのは覚えているけど、修羅場の真っ最中だったので思い出そうとしても曖昧になる。

――うんうん、特にうちはお母さん………しお父さんも…………なんだりで距離があるから……

肝心なところの記憶が、完全に抜け落ちていた。
『お母さんがどうなって、お父さんがどうで、それでどうして距離があるんだっけ???』状態だった。
いや、あの時はちょうど人食いがいるという話になって、まったくそれどころでは無かったんだけども。
その後に先輩を足手まとい扱いするかのような失言をしてしまって、さらにそれどころでは無くなったんだけども。

……うん、それでも両親に距離があるという話だったのは、間違いなかったはず。
『竹の子』を出るときに、親と距離があるのにそれを感じさせないのはすごいとか劣等感じみた思いを抱いたから間違いない。

考えれば考えるほど、『父子家庭で、その父も多忙だったりで子とは距離があり、家のことは姉と二人で担っている』と言う輪郭になってくる。
オレは先輩の前でうちの家族仲が良いような話をしたことがあるけど、もしかしなくても地雷になる話題だったんじゃないか?
だとしたら、組織が関係するとか以前にものすごく人として申し訳ない。
というわけで、もっと掘り下げてみることにする。

『お兄さんもいるけど、事情があって離れて暮らしている』という一枚があった。

野波さん家にはお父さんとお姉さんと先輩の三人が暮らしている。
お母さんが健在かどうかは分からないが、家にいる気配は薄い。
ただ、沖縄に向かう飛行機で家族のことを話したときに、先輩にはお兄さんもいて、今は色々と事情があって離れて暮らしているとは言っていた。

もしかしたら、病院を継ぐために医大に入ってたりするのだろうか。
るね先輩の口から将来は医者になるという話は聞いたことがないし、お姉さんが病院を継ぐにしては、近場の大学に医学部なんてなかった気がする。
ただ、進学の都合で別居しているなら、『色々と事情があって』という言い回しをするほど複雑なことではない。
どこそこの大学に行ったと、一言で説明できることだ。
だとしたら、ぱっと思いつくのは、父と母の離婚、もしくは別居によって離れた可能性。
そして、お兄さんはお母さんと同居しているというパターン。

(離婚、なぁ……最近父子家庭になったなら、学校の先生たちも配慮して接してるだろうし、それが起こったんだとすれば何年も前なんだろうけど……先輩、怖い事さえなかったらのほほんとしてるって言うか、夫婦喧嘩みたいな修羅場に慣れてる感じはしないし……)

いや、夫婦の別居だからって離婚したとは限らないけれども。
世間体などを気にして離婚に踏み切れない夫婦は一定数いるというし。

榛名家の長男の職場は、表向き興信所だ。
つまり、離婚ができるかどうかを調べるための場所でもある。
また、スパイとしても冠婚葬祭のイベントは、プライベートの暗部が見えてスキャンダルが発覚しやすい恰好の機会でもある。
なので、興信所のソファーで座って読める本棚にも、一般的な冠婚葬祭のあれこれを理解しておくに越したことは無いと民法や戸籍法の教則本が置いてある。
オレもそれらを読んで基本的なことは勉強したわけだが。

なので確認のために補足しておくと、たとえ離婚によって母親に引き取られた場合でも、子どもが父親の病院を継ぐことには問題はない。
親権と親子関係と相続権とは、それぞれまったく別のものだからだ。
親権が母親のもとにあったとしても、父親と交流を続けたり、仕事を継承することはちゃんとできる。
もっと言えば、離婚をする時に届出さえすれば野波姓を使い続けることは可能なので、『お父さんと子どもで苗字が違うのはどうしてだろう』とか世間の眼を気にする心配もない。
夫婦間の法律は、まず子どもに迷惑がかかることを避けるように作られているのだそうだ。

(……でもなー。その『離婚なり別居なりしたお母さん周辺』がこっちの関係者で、先輩の異能に眼を付けてるんだとしたら、『なんで先輩は無事にお姉さんと父方の元で暮らせているんだ?』ってことになっちゃうんだよなー)

幼児や児童は一般的に母親に依存する面が大きいので、よほど目に見える虐待などが世間的に発覚していない限りは、母方の主張によって親権をぶん取れる。
まして背後に組織の力があったとするなら、いくら先輩のお姉さんが妹想いで、妹を利用されないよう抵抗したところで簡単に引き離せてしまえたはずなのだ。

「だめだ、ぜんっぜん分からん!」

色々と考え尽くした末に、やっぱり解けない謎になってがっくりと落ち込んだ。
そもそもいくら「こうじゃないか」と巡らせたところで、『実は母親が亡くなっていました』のように新事実が出てくればひっくり返る事案だから、意味があるかは分からないのだけれど。
それでも、『謎が残った』という認識ができたことには意味があると思う。
自分にはイヴちゃんのような魔術の知識もなければ、北上先生のような妖怪社会との接点もないんだから、やれることは全部やっておきたい。

部活が再開すれば、るね先輩にはご家族がどこまで異能のことを知っているんですかと聞いてみよう。
兄姉の自慢大会をやることにはなっているから、話題としては自然に切り出せるはずだし。

そもそもそれ以前に、部の人達からは『組織って何なんだよ』とだいぶ胡散臭く思われていそうだから、こちらが質問責めされる覚悟がまず要るのだけど。
本田さんにだって、北上先生やちより先輩達を勝手に連れ出して組織と関わらせたこと等々をまだ謝っていないし。

なにはともあれ、まずは新学期だ。

「はー…………」

座り込んで固まった身体をほぐすために伸びをすると、視界に晩夏の空がぐっと広がった。
星座にさえなれない光る砂粒が幾つか見つかるだけの、くすんだ星空だった。
沖縄のプラネタリウムそのもののようなまぶしい星空とはぜんぜん違った。
さすがにもう帰ろうかと見下ろせば、屋上には野波流根子という少女についてのカラフルなメモ書きが、でたらめな星座図のように並んでいた。

我ながらだいぶ変質的な作業かもしれないと恥ずかしくなり、そそくさと片付けに移る。
というか、こんなに悶々と妄想を繰り広げるなんて、それこそ洒落にならない。
先輩はただでさえ可愛いのだから。
自分のようにあざとくなく、ありのままでもあの可愛さで、きっと一度でも好意を持った人はずっと先輩のことが好きだろう。
雛代千依という人が組織の犠牲者ではないかと分かってくるにつれで、敵対するかどうかが明確になるまでの間はできるだけの事を与えようと思っていたけど、そんなオレなどよりも先輩のほうが全然、彼女を笑わせるのが上手かった。
人見知りであるかのような反応をするけど、一度親しくなってしまえば相手の懐に躊躇いなく飛びこんで、当たり前のように友達思いでいられる人。
臆病で距離をとって人を利用する、どっかの後輩とはぜんぜん真逆な人。

でも、そんな後輩だからこそできる事があるなら、それを選びたいと思った。
非日常の側に巻き込んでしまった責任を取るため、などと言ったら『ぜんぶ自分が企んだみたいに言うな』と怒られそうではあるけど。
でも、先輩達を巻き込むお膳立てをしたのが間違いなくオレである以上、そこに関してを背負っていくのは義務だと思う。
ライターで一枚一枚の証拠隠滅をすれば、ぼろぼろに崩れた灰の欠片が夜風に次々とさらわれていった。

夏が終われば、嫌われるつもりだった。
秘密が知られたら、嫌われて当然のはずだった。
でも、ありがとう、と言われてしまった。
その前夜に、『なんで危ないことに巻き込まれければいけないんだ』と怒って、泣いていたのに。
自分がそのお膳立てをした上に、人を殺そうとする人間だと知られた上で、それでもそう言われてしまった。

その感情に、まだ名前はない。
でも、初めて『どちらも守りたい』と思っている自分を肯定されて。
なんだか、自分でこの道を行くんだと決めたのだから、もう『ずるい』なんて思うことはないんだろうなと、さっぱりして。

やっと、人の役にたてるかもしれない。
だから、がんばろう。


この時点で既に野波家に手が打たれており、自身の動きが一手も二手も遅かったことを、この時は知らなかった。

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最終更新:2021年02月20日 22:14