【『あの日』の話――野波逢瀬の場合】 文責:野波 流根子
──野波逢瀬の場合。
「……あの日の話。
私にとっては、まあ、忘れようにも忘れられない話。
始まった時には、何の変哲もないだろうと思っていて──けれど、こうして今でも鮮明に思い出せるようになった日の、話。」
「その日の私は、あくまで普通に小学校に通っていた。
多分取り立てて何も無かった日だと思うし、もしも何かあったとしても、きっと翌日には既に忘れていただろう。それくらいには、あの日聞いたことの衝撃は大きかったから。
帰りの回を終えた私は、いつものように学校内の保育施設にいる縁に声をかけて一緒に帰ろうと誘っていた。学年の都合上縁のほうが先に授業が終わることが多いから、少し待ってもらってから二人で帰るのがいつもの日常だった。今日はるねに、どんな話をしてあげようか。帰り道では、そんなことを話すことも多かったから、きっとその日もそんな話をしていたんじゃないかな。
……だけど結局、そんなことは話せなかった。」
「家に帰ってきて、まず目に入ったのはあの人だった。
ただ、その時にはもうあの人は、私たちが知っているあの人とは違っていた。
それまでも、一応は「叱る」の範疇に収まりつつも、いよいよ以てヒステリーじみた形相を見せることはあった。そしてそれは、やはりるねを叱るときだけだったけれど。
その日はもう、本当にあの人も限界だったのだと、後から知った。
子供として愛していた私たちにもその目を向けて、口汚い言葉を聞いてしまった。
縁は宥めようとしたけれど、私はもうそれどころではなかった。その言葉の、少なくない部分が、るねのことを指していることに気付いてしまったから。
それに気づいてから、私は弾かれたように子供部屋──当時は三人で部屋を使っていた──へと駆け出した。それを見た縁も、あの人に振りほどかれたのもあって、私の後ろを走ってついてきた。」
「……この時点で、ようやく予感はした。
悪い予感。
もしかしたら、もう既に、何かが手遅れになってしまったのではないかという、予感。」
「それでも。
この先に待ち受けていることが、私と縁の運命すらも決定的に変えてしまうなんて予感は、まだしていなかった。」
『『るね!』』
「私たちは、ほぼ同時に部屋に飛び込んだ。
そして、見たのだ。
私たちの妹であるるねが、ぐったりとしてクローゼットの中にいる姿と。
そして、もう一人──誰かが、しゃくり上げながら、そのクローゼットを閉めようとしている姿を。」
「……その時点で、推測はした。できてしまった。
るねの能力が「開ける」ことで何かを取り出す力なら、その反対は「閉じる」ことなのだろうか、というのは、私も想像したことがあったから。
だから、私や縁は時たま、開いているものを見つけたら閉めてみて、何か変わっていないものかと開いたりしていた。……結局、何かが起こることは無かったけれど。
けれど、方法が反対だとしたら、起こる効果も反対なのだろうと。
そういう推定は、していたから。」
『やめなさい!』
「私が反射的に叫ぶと、その子はびくりと震えて手を止めた。
まだるねが見えている範囲であることを確認し、私は無理やり彼女とクローゼットの間に押し入る。
そして、閉ざされようとしていたクローゼットを大きく開け、るねの様子を見る。
意識はなかった。けれど、外傷もなかったし、心臓も動いていた。その代わりに眦から涙が溢れ出ていたのであろう跡を見つけて、泣きつかれて眠っているだけだと安心して、私は大きく息を吐いた。」
「それから、振り返った。
こちらを見て、おどおどしている少女。
どことなく私やあの人に似ているな、と感じた彼女の眼にはるねと同じ、散々泣いた跡があった。」
『……何が、あったの?』
『……っ、ぇ……?』
『何があったの、って聞いてるの!』
「……激しく問い詰めてしまったことを、正直、後悔している。
あの時の私はまだ十歳だったとはいえ、それでも、その頃からるねの為に頑張っていたから……もしこの予感が当たっていたら、と思うと、気が気ではなかった。
だけど、それは私が姉だと知っているあの子からしたら、きっと拷問にも近いことだっただろう。況してや、後から聞いた話ではその直前にあの人からも散々言われていたようだから。
あの時縁がいなかったら、というのは、あまり考えたくない。」
『なに、って……それ、は………っっ!』
『泣いてちゃわかんないわよ!教えなさい、何が──』
『姉さん!』
「案の定、私に追及された彼女は泣き出してしまって。それでも私が追及しようとした時──止めてくれたのが、縁だった。
るねのことで気が気ではなかった自分の気持ちが収まることはなかったが、それでもひとまずは彼女の言葉を聞くべきだろう、という彼の言葉には賛成できた。」
「果たして、彼女はぽつり、ぽつりと話し出した。
──彼女は、『本来生まれる筈だった野波家第三子』だ、ということ。
──出産における帝王切開の時、るねの能力がるね自身を作り出し。それに代わる形として、『閉じる』ことで『消滅させる』力を得たまま、彼女自身は消滅してしまったこと。
──るねが『両親の不和を解決するための人間』を求めた結果、それらの事情を把握した上でこの世に産まれたということ。
──そして、これらの真実を全て語った結果として、母親をこれ以上ない程怒らせてしまった……野波家に、最早修復不可能なまでの罅を入れてしまったこと。」
「傍から聞く分には、信じられない事実だった。
けれど、それでも直感は、やはりあったのだ。
──似ている。
あの人と。そして、私自身と。
彼女の顔のパーツや髪色、目の色。
それらは紛れもなく、私の家族のものだ、と。」
「──一瞬でもそれを、るねと比較してしまった自分が、とにかく嫌だった。」
「なんにせよ、私は、理解して、納得はしてしまったのだ。
彼女が、血縁上、自分の「本当の妹である」と。
理屈ではなく、本能で、と言うと、格好つけすぎかもしれないけれど。」
「……そう。理解もした。納得もした。
……けれど。」
『……ちがう』
『わたしの妹は、あなたじゃない』
「それでも、肯定はできなかった。」
「もしここで私が彼女を妹だと認めてしまえば、あの子はどうなる。
私すらもあの子を見放してしまえば、あの子はどうやって生きていく?
誰からも愛を受けないまま、ただ、産まれてこなければよかったと思われるような少女に──あの子を、逆戻りさせるというの?」
『わたしの妹は、るねよ』
「……その時のあの子の表情は、今でもたまに夢に見てしまう。
見捨てられてしまった、と知った、子猫のような表情。
その純粋な絶望が、私の心を抉っていた。
そしてそれは、かえって私を更に意固地にさせた。」
『──私は、るねを守らなきゃいけないの!』
「もしもここから止まることがなかったら、私はもっと彼女を否定するようなことを言っていただろう。
けれど、そのタイミングで、もう一つの事態が起こった。
縁が──反発してきた。
姉さんは間違ってる。勿論るねもそうだけど、この子だってれっきとした僕たちの妹だ、ってね。」
「その時の私からしたら、もうパニックだった。
なんで縁はるねの味方をしないの?この子がいたら、この子が『愛されてしまったら』、『愛されなかった』るねはどうなるの?
……今から考えれば、もっと考えようはあったとしか思えないのに。本当に、子供だった。」
「それからは、もう、大喧嘩だ。
縁のバカ。姉ちゃんこそバカ。小学生レベルの口論だったけど、それを見てる世玲奈も、自分のせいで喧嘩してるのが分かって大泣き。
三人ともとにかく必死で、気付けば相当な時間が経っていて……しまいにはもう、三人で仲良くわんわん泣くしかなかった時──ようやく、あの人が来た。」
「刻威おじさん。
迫る引っ越しの中、父さんと母さんの様子を見に来ていたおじさんが、るねの部屋で起こる異常事態──いや、それを聞いていたのに何も動けていなかった父さんも含めた、野波家全体の異常事態に、どうにか対処しようとした。」
「あの人からすれば、わけわかんなかっただろうね。なにせ、支離滅裂なことを言う子供たちが泣きながら訴えかけてくるんだもん。
──それでも、あの人はちゃんと聞いてくれた。荒唐無稽な世玲奈の話も、感情的な私たちの話も」
「結局、あの人が世玲奈を連れていくことになった。そして、縁もそれについていくことにしたようだった。
それから、るねの様子を見て、一応目覚めない彼女の様子も見ておく、と。
……当時は寝てるだけだと思ってたけど、良く考えれば寝てるだけならあの騒ぎで起きないのは流石におかしいって気付くべきだったんだろう。記憶を消したせいでショックで意識不明だなんて、まあ子供に思いあたるわけがなかっただろうけど。」
「縁と世玲奈、そしてるねを連れて──彼は、ひとまずるねを病院へと連れていった。
あの人はもう実家へと出ていった後だったので、私と父さんも後からそこへ向かうことにした。
車内の父さんは、そんな状況でも私を励まそうとしてくれたけど……るねの名前を出したらきっと酷い顔をさせてしまうだろうから、私からは何も言えなかった。」
「静かな病院。彼女が横たわるベッドの横で、じっとるねの目覚めを待った。
縁とあの子は、別の部屋で刻威おじさんと話をしているようだった。父さんは見守ってこそいたけど、それでもいたたまれずに基本的には病室の外で待っていた。」
「目覚めを待っている間、私はずっと震えていた。
もしもこのまま、目覚めなかったら。そう考えてしまうとぞっとするほどに怖かったし、きっとそのままあの子をどうにかしてしまうんじゃないかとすら思っていた。」
「それに、怖いことはもう一つあった。
窓から夜の闇を眺めていると──不意に、あの子を絶望させてしまった時の顔が、後からフラッシュバックしてくるのだ。
どうすればよかったのだろう。もしかしたら、おかしいのは自分で、縁やあの子の方が正しいんじゃないだろうか──いくら否定しても、そんなことを思ってしまう自分が嫌で仕方なかった。
誰かに、私は正しいと──るねを守りたいわたしはおかしくない、と言ってほしかった。」
「……やがて。
夜も遅くなり、父さんたちでもいい加減私たちを帰さなければいけなくなるくらいの頃、ようやくるねが目を覚ました。」
「一も二もなく、私は彼女に飛びついた。
大丈夫か、つらいところはないか。不安に心を支配されていた私は、とにかく色んなことを聞いてしまって──それではるねが休めないということにすら後から思い至り、再び沈んで、黙ってしまった。」
「彼女は、しばし私の剣幕に面食らって、それから私が黙ると少しの間戸惑っていた。
恐らくは、消えた記憶に関して脳内で色々と整理が必要だったのだろう。
それが落ち着いてから、ふと彼女は左手を見た。
ずっと私が握っていた──その時も握っていた、左手。
それを見て、彼女はにっこりと微笑んで。」
『ありがとう、おねえちゃん』
『だいすき』
「──頭を、がつんと殴られたような気がした。」
「それから、ずっと彼女の手を握りしめて、ありがとうと言い続けた。
時間を危ぶんだ父親が病室に入ってきて、私を引きはがすまで、それは続いた。」
「……ありがとう、だいすき。
たったそれだけの言葉だけれど、それでもその言葉は、たった一つの真実を言い当ててくれた。」
『ありがとう、大好きって言ってくれて』
『私も、大好きよ』
「私はこの子を、本当に、心の底から愛おしく思っていて。
そしてこの子も、それだけの愛を、自分に向けてくれていたのだ、という。
たったそれだけの、だけど今の私の全てを形作る、単純な真実を。」
「そして、決めた。
誰になんと言われようと、私は……野波逢瀬は、他の誰でもない野波流根子を守る、って。
私が、彼女を愛しているからだけではなく。
私を愛してくれている、彼女の為に。」
「……これで、この話はおしまい。」
「後悔していることは、勿論ある。
もうちょっと、縁と世玲奈に上手く接することは出来なかったのかなあ、とか。
あの時、るねと世玲奈を比べなければ良かった、だとか。」
「勿論、こうしてある程度は互いに大人になって──縁とは、まあ、そこそこ仲良く話せるようになった。
私も世玲奈とコミュニケーションを取れる時には極力取っているし、縁もるねをちゃんと可愛がっていてくれる。るね自身は知らないけれど、世玲奈だってるねと学校では親しくしてくれているらしい。」
「それでも、あの時の絶望の表情とか、縁の必死の静止とか。
そういったものを作らない術は、やっぱりあったんじゃないかなあ、と。
それは、今でも後悔している。」
「……その上で。
あの日を何度繰り返したとしても、私が私である限り──やはり何度でも、一番大事なのはるねだと言い切るだろう。
ベッドの中で微笑んだ彼女に、大好きと言って貰えた時の思いは、いつだって思い出せるから。」
「だから。きっと、何があろうと。」
「愛してるよ、るね。」
最終更新:2022年08月28日 12:09