「お久しぶり涼宮さん。カナダはどうも生活しづらくてね。私だけ無理言って帰ってきちゃった」
キョンに恐る恐る近づいた。近付くにつれ、赤い鉄の匂いが濃くなっていく――それはそうよ。だって、こんなに血が流れているんだもの。隣に膝をつく。膝にぬるっと温かいものがついた。キョンの表情は――驚きと苦痛を張り付けたまま夜空を見つめていた。
――なんで? なんで返事をしないの? こんなに肩を揺すってるのに……
「いや……やだ。キョン! キョン!!」
キョンの肩はまだ温かかい。なのに動かない。なんで? これが私の望んだ夢なら、こんなことになるはずがない。
「駄目よ涼宮さん? 夢の中だからって他人の彼氏に抱きつこうとするなんて。泉さんに悪いって思わなかったの?」
パチンと音が聞こえた。それを合図にしてキョンの体が淡く輝きだした。なにがどうなっているの?
「……あ、あぁ、あああああ!」
キョンが消えちゃう。色がぼやけ、輪郭があいまいになっていくように光に溶け込んでしまう――そして、光が消えたとき、キョンはどこにもいなかった。地面にいびつな楕円の染みを残して、キョンは消えてしまった。
「彼はちゃんと泉さんに返してあげなくちゃね」
私は膝をついたまま、声の主を見上げた。朝倉涼子は涼しげな顔で、ナイフを弄んでいた――あれでキョンを、私のキョンを壊したの? なんで、なんでみんな――みんなして私を虐めるのよ?
「なんで……なんでみんな私を傷つけるの? どうして? 私が何をしたっていうのよ! 夢の中くらい自由にさせなさいよ!」
「現実が思い通りに行かなかったからって夢の中に逃げ込むの? それもそっか。現実じゃ何もできなかったわね、あなたは」
涼しげな、嘲るような声で朝倉は笑う。みんなが私を見透かして、罵倒してくる。
「あ……ああぁ、嫌、嫌ぁ……ちがう、ちがうの……」
ちがう。夢に逃げ込んだんじゃない。現実では何もできなかったわけじゃない――それが嘘だってことはもう有希に看破されているのに。
「何が違うの? 私には戦うことから逃げてまがい物で満足しようとする卑怯者にしか見えないわ。これがSOS団なの? なあんだ」
「嫌! もう止めて! 何も聞きたくないの! もう嫌なの! もう放っといてよ!」
私だけでなく、私の作った団、私の仲間だった人たちまでくだらないものだと言われているようで、やりきれなかった。これも私のせいなの? ねえ?
「そんなに絶望することないじゃない。戦いから逃げたらこうなることくらい解っていたんじゃないの?」
「わかっていたなら逃げたりはしなかったわよ!」
――そう。こんなことになるなら、私は逃げたりはしなかった。体が熱くなる。怒りと悲しみと――絶望と後悔で、感情の制御が利かない。
「そう? まあ、所詮はたらればの話なんだけれどね。仮にやり直しができたとしても、結局あなたの取る行動は変わらないと思うわよ。
だって、あなた臆病で卑怯だもの」
「ちがう! ちがうわ!」
膨れあがった感情のせいで目の前が歪む。涙が止まらない。
「臆病だから彼に想いを打ち明けられなかった。卑怯だから彼をSOS団で繋ぎ留め、他の女子が手を出せないようにした。なにがちがうのかしら?」
「もう、もう嫌……やだああああああああああああああ!!!」
私の中で感情が弾けた。意識が渦に呑まれ、まるで熱い鉄の中に融けていくみたい。もう、嫌だ。後悔なんてしたくない。それが最後に私が思ったことだった。
意識が薄れる最中、朝倉の声が聞こえた気がした。
「涼宮さん、次こそはスタートラインに立ってね。あなたが臆病者じゃないってところ、しっかり見せてもらうから――」
何を言っているのか聞こえなかった。
「――!!!」
耳元で鳴る携帯の音で飛び起きた。え……夢? あたし、一体? 慌ててディスプレイを見る――キョンからだった。
「おい、ハルヒ。いつまで朝比奈さんや長門を待たせるつもりだ?」
「ちょっとキョン! あんた大丈夫なの!?」
「は? 何がだ? ハルヒ」
「あんた刺されてたじゃない!」
「……おいおい、物騒なこと言うのは止めてくれ。本当に刺されたらどう責任とってくれるつもりだ?」
あれは……夢? 慌てて足の裏を確認する。あれだけ走ったのに怪我ひとつなかった――夢なのかな?
「それよりも、だ。今日は撮影じゃなかったのか? もし中止ならそう言ってくれ。今すぐにでも帰って――」
撮影。そうよ。今日は神社で映画の撮影をする予定だった。時計を見る。集合時間の五分後……遅刻確定じゃない!
「十五分待ってなさい! いいわね。帰るんじゃないわよ! そうそう、あたしが着いたらすぐに撮影を開始するから準備しておいてね。有希とみくるちゃんに
着替えて待ってるようにいいなさい!」
慌てて携帯を切ってベッドから飛び出た。櫛! 服! ああその前に顔洗わなきゃ涙でぐちゃぐちゃじゃない!
二分で身支度を整えて、玄関で靴をはく。ふと、今朝見た夢を思い出した。
「えー……と、どんな夢だったっけ?」
確か、何かすごく後悔した気がする。既にあやふやなイメージしか残っていないけれど、それは間違いないと思う。一体、何を暗示しているのだろう?
「まあ、いいわ」
玄関を飛び出した。朝のもう遅い時間、今日もいい天気。それだけで足取りは軽く、あたしはバス停に向かって駆けて行った。
最終更新:2007年07月28日 12:24