I.
ねぇ,あなた.私の声が聞こえるかしら?聞こえるのなら,私の持っている小話を聞いてくれない?・・・大丈夫よ,少なくともあなたをがっかりさせるような話じゃないから.だって,これは,「夢」の話だもの.私ね・・・あなたはどうか分からないけど,「夢」とか「希望」とかを失いかけている人を見ると,応援したくなってきちゃうのよ.だから私・・・あなたがこの小話を聞いた後に,少しでも「夢」や「希望」を持てるようになったらいいなあって.そう思ったの.・・・話を聞く準備はできた?それじゃあ,話を始めさせてもらうわね.
… … …
僕は最近,おかしな夢ばかりを見るようになっていた.どのくらいおかしいのかというと,多分・・・コンピュータグラフィック,でいいと思う,それで描かれた恐らくは空と大地が,まるで空の一点から見下ろしたかのように景色が映し出されているのだ.・・・と,ここまでなら別段おかしくもなんともないじゃないか,と思われるかもしれないが,問題はその景色が,僕の夢の中でどう見えるか,なのだ.そのコンピュータグラフィックで描かれた空と大地の境目・・・地平線が,時折グニャグニャと波打つように動き出したかと思うと,その空と大地が素早く地平線を境に互いに位置を変えるのだ.・・・そんな著しいほどまでに変化に富んだ夢を見らされる僕自身にとっては,正直堪ったものではない.
ある日の夜,今まで見た夢の中で,一番「変化に富んだ」夢を見て深夜帯に起きてしまった僕は,いつも以上に胸がムカムカしていて,トイレに入ったら,案の定吐いてしまった.それほどまでに,僕が見た夢の中での,視点の変わりよう・・・とも言えるのか,それに酔ってしまった,というわけか.僕は,せめてもの気分転換に,と,台所へ行きコップにいっぱいの水を注ぎ,一気にそれを飲み干した.汗ばんだ体に,シャツがへばりつく.今の季節としては,もうそろそろ雪が融けかけて,春の兆しが見えて来ても良いくらいだった.しかし汗っかきで新陳代謝が激しい僕にとっては,汗が噴き出している正に今の状態では,寒いも暑いも雪も春も関係ないのだ.連日このような夢を見らされるのは勘弁してくれと言わんばかりの勢いで,風呂場に入った僕は,早くこのおぞましい汗を洗い流すことにした.
シャワーを浴びながら考えていたこと.最近,おかしな夢ばかり見るのもそうだが,よく仕事場で失敗ばかりするようになってきたなぁ,ということ.それで上司に叱られて自信を無くして,また仕事をするけれど,また失敗をする,といった悪循環に見事ハマっていた.そういった毎日を過ごしていく内に,僕には次のような考えが自分でも気付かない内に湧いて出て来ていた.つまり,リストラされるか,否か,だった.
今現在働いているその会社で働き始めてもう5年目になる.同期で入って来た連中は,出世だ,結婚だ,で実に華やかな人生を送っている・・・と思っているものだが,それに対して,この僕ときたら・・・入社5年目に突入するも,うだつの上がらない,更には独身,と言った見るも無惨なアラサーのサラリーマンに過ぎない.そして考えることといったら,「いつリストラされるんだろう?」そんな不幸なことばかりだ.昔は・・・もっと「夢」とかをいっぱい持てていたはずなのにな・・・.
なんてことを思いながら,僕は体をバスタオルで拭き,バスルームから出た.気晴らしにテレビのザッピングをしようと思って,ふと目にとまったものがあった.これは・・・何か新しくできたチャンネルだろうか,今までこんなチャンネルは見たことがない.そしてそのチャンネルで今放送されている番組・・・は,深夜帯に特別に組まれている番組らしい.タイトルは,「日本の隠れた名曲たち」というもので,今夜放送しているのは,どうやらオペラらしい.そのタイトルは,邦題のものと洋題のもの・・・と言えばいいのだろうか,とにかく2つ,書いてあった.のだ.邦題のものは,「マリアとドラクゥ」で,洋題のものは,"Aria Di Mezzo Carattere"とテロップが流れていた.オペラなんていうのにはこれまで生きてきた人生の中で全くの無縁だった僕だが,いつの間にか上着を未だに着ていないまま・・・冬で寒いはずなのに・・・食い入るようにそのオペラを歌いあげている女性歌手の姿と勿論曲自体にも釘付けになってしまったのだ.そうしてしばらくテレビに見入ってしまって数十分,番組は次回予告を始めた.なんでも,次回の「日本の隠れた名曲たち」では,邦題は「仲間を求めて」,洋題は"Seaching For Friends"というのをオーケストラで演奏するらしい.僕はこの番組のオペラで非常に感銘を受けたので,この番組をチェックし,放送される度にテレビで観よう,と思ったのだった.
僕は上着を着て,温かい布団の中に潜り込みながら思うことがあった.それは,「これで日々の楽しみができた」ということだった.半ば興奮状態にあった僕は,こんな状態できちんと眠れるのか,明日も明後日もその次の日も出勤の日だというのに,と考えていた.・・・が,そんなことを考えても頭が痛くなったり肩が凝ったりするだけなので,そういうことは考えずに,先程聞いたオペラでも一部だけだが頭の中で何回も再生させていた.・・・再生させている内に,段々と眠気がやってきたのか,いつの間にか僕は眠ってしまっていたようだ.
眠りに就く前に,一つの不安があった.それは,またさっきのような,おかしな夢を見てしまうんじゃないか,というものだった.オペラの一部分だけを必死になって脳内で再生し続けようとしていたのはそれが理由でもあった.しかし,不思議なことに,僕が今夜2回目に見た夢は,おかしな夢なんかじゃなく,誰かが僕に何かを話そうとしている・・・そんな夢だった.その「誰か」が一体どのような格好をしていたのかは,残念ながらよく知ることができなかった.というのも,僕がその夢で見た視界は,まるで牛乳ビンのガラス底のような,そんなぶ厚いガラスを通して見たような感じで,要するにハッキリと見えずに全体的に焦点が合わずボケボケだったのだ.しかし,その「誰か」が僕に何かを話しかけていたことは確かだった.その内容も,きっちり覚えている.しかも,話しかけてくれただけではなく,こっちからの言葉に応えてくれる時もあった.
まず,その話しかけてくれてきた人物は声からして女性で,このようなことを言ってから夢の中で会話が発展していったのだ.
「ねえ,あなた.私の声が聞こえるかしら?聞こえるなら,私の持っている小話を聞いてくれない?」と.
僕はNOとは言えないタイプの人間だったので,自分が見ている夢の中で起きている出来事だと分かっていつつも,二つ返事で「ああ,別に構わないよ」と応えてしまったのだ.しかし,その女性は,その小話を語る前にこんなことを言ったのだ.
「あなたがさっき聴いたオペラ,『マリアとドラクゥ』だけどね・・・実は私も歌ったこともあってね」と.
そこで夢が覚めそうになり,僕は半ば慌ててその女性にこう訊いたのだった.
「待ってくれ!君は一体・・・誰なんだ?」
しかし,そこで丁度眠りが,いや夢から覚めてしまって,結局分からず終いだった.
翌日,その訊けず終いなところがどうしても気になってしまって,それが運悪く転じてしまったのか,通勤する時点からミスを連発でかましてしまった.要するに,電車に乗り遅れたり,乗れたと思ったら今度は大事な書類を自宅に忘れてきたのに気付き,それで,今日は遅刻します,という旨の電話を上司にしたら罵声を浴びせられるわで・・・.とにかく悲惨な一日の始まりだった.これも連日連夜見続けるあの夢のせいだ,と思い,そのことを会社の産業医に相談することにした.そうしてどんな応えが返って来たかというと・・・.
「君は・・・どうやら脳が大変疲れている状態にあると,君の話を聞く限りではそう思われる.現実と夢の区別がつかないように見えるのもそのためだろう.いっぺん精神科・心療内科に行ってみるのはどうだろうか?」
とのことだった.精神科・心療内科・・・?生まれてこのかた,そんなところに世話になるとは,思ってもみなかった.
最終更新:2013年12月26日 20:28