001:祈りの少女


煌めきを内に湛えた水晶石の恩恵を与る飛竜が治めし天空の町・ルクセリアにひとたび陽光,朝の曙アウローラが訪れると,一人の女剣士が静かに剣と盾とを携え,旅立った.天にそびえる町・ルクセリアは雲より高い空に位置して,曙女神アウローラは雲に邪魔されることなく,女剣士の背中を見送ることが出来た.彼女の名前はまだ知られていない.この光の都・ルクセリアの住人である飛竜たちにも.

類まれなる暗黒の力を持つ女剣士は,肩まである漆黒の髪を僅かに揺らせ,歩みを止めた.それまで見ていた斜め下前方から,真正面へ視線を移したのだ.彼女の目には,首から下を黒い甲冑に身を包んでいる剣士が見えた.彼女は,その剣士の方へゆっくりと手を伸ばす.すると,その剣士は彼女の方へ手を伸ばしてきた.やがて,二つの手は合わさった.彼女は,自分を見ていたのだ.

水晶石に鏡のように映し出された自分を見るや否や,女剣士は鞘から青色をした剣を素早く抜き,肩と同じ高さに水平に構えると暗黒剣技を唱えた.
「光を見出すには須く暗黒を認めるべし.シャドウブリンガー」
かくして自身を映し出す水晶石は,剣から放たれた闇の波動によってものの見事に砕かれた.砕かれた光の先には,暗黒があった.女剣士は,少しも躊躇うことなく進もうとした.青き剣を鞘にしまう時,剣に何か文字が書かれていることに気付き,立ち止まる.その文字は今まで彼女が愛用してきた剣にはなかったものだった.私には読めない.そう思った.彼女は暗黒のなかへ,身を投じた.


アテーナイの町からやって来た一人の娘が,町郊外にあるクルクスの塔へ馬に乗って数時間かけてやっとたどり着いた.しかし,娘の目的はただ塔に着くことではない.娘が馬に水をやると,馬は渇きを癒すのでもなく,みるみる内に輪郭を失い次第にぼやけ,真っ白な紙一枚に変化した.いや,戻った,というのが正しい.娘はパレットを取り出し,その紙に猫の絵を描いた.すると,その猫の絵は紙から飛び出すかの如く本物の猫となった.彼女は猫に言う.
「さあ,一緒に塔を上りましょう」
彼女にそう言われた猫は毛並みが黒で,首に赤の輪をつけていた.
クルクスの塔に入ると,目映い程の水晶石があちらこちらに見てとれた.そして,数多くの女神たちが,冒険者を守護する女神たちが石像として祀られていたのを見ることが出来た.黒猫の赤い輪がやがて光を帯びると,やがて話し出した.
「娘よ,そなたは何用で来た?今時,ここに訪れるひとなど滅多になきことよ」
娘は,女神が黒猫を借りて話しているのだということを認めると,話し始めた.
「ああ,その御声は,朝のまだきに生まれ指ばら色の曙の女神アウローラ様のものですね.私の名はサピエンタ.サピエンタ=アテーナイです.今日ここに参りましたのは他でもありません,かつて私の住むアテーナイに漂着した男の安全を祈りに来たのです」
サピエンタは,茶色のローブに身を包んでいたが,フードだけをとった.彼女は,黒猫に向かってではなく,クルクスの塔一層にある女神像全てに両手を差し出し語りかけるように話した.神々が食し,飲むというアムブロシアとネクタルを奉りながら.
「私の住む地上の町アテーナイにも,先日あなたがたの住む天界・ルクセリアで起きた出来事が凶報として伝わっています.今必要なのは,界を越えて協力し合うことなのではないでしょうか」
最もだ,と女神たちは納得し合っているかのようだった.やがて溌剌とした全知全能の父神の声がした,
「参れ,ムーサよ」
そうしてクルクスの塔一層に新たな女神像が音を立てて現れると,同時に他の石像は音を立てて去って行った.そして声がした.
「では祈るが良い.他に邪魔者はいない.ゆっくりと,詩歌の女神であるこのムーサに全ての始まりの合図を告げるが良い」と.
サピエンタは,祈り始めた.


002:詩歌の女神


暗黒に身を投じた女剣士は,無限の広さを持つとも思える暗黒星雲のなかを落下し続けていた.闇のなかに時たま映える,銀河雲.私が自らの手で打ち破った殻の先にあるのは,やはり暗黒でしかなかったのか.嫌気で目を瞑った.彼女は次第に落下する感覚を感じなくなった.どうしたというのだろう.彼女は目を開けると,どこかの石造りの建物のなかにいたのだった.階下から,人の声が聞こえる.彼女は,その声を頼りに階を降りて行った.

一人の少女がいた.女剣士は少女をみつけるや否や,気付かれないように柱の影に身を潜める.まるで,一人自らの悲恋を歌う吟遊詩人を妨げぬかのように.石像に語りかけ,また祈っているようにも見えた.祈っているとして,少女は石像に向かい何を祈っているのか?旅の安全か,武運か.はたまた,自らの哀れな運命から救われようと神々に祈っているのか.しかし,少女の細い腕と,水晶石の反射により見えた真っ直ぐな瞳を見ていると,そのどれらでもないように思われた.勇ましき冒険者のようにも,神にすがる惨めな者のようにも見えなかった.女剣士は,単純な好奇心に駆られ,少女が女神像に何を語りかけているのか,柱の影から耳を欹てた.

「偉大なる詩歌の女神ムーサよ,父を全知全能なるゼウスに,母を記憶の神ムネモシュネに持つ御子よ,今,吾子の拙き言の葉に勇みを加えて語らせ給え.孤独と暗黒に対峙した,吾子の兄クスフスの物語を.詩歌の女神ムーサよ,貴方に祈りを捧げるのは今日で3日目.深遠なる森の,秘術と神秘の町フュジークではエルフと妖精たちに,『あなたの兄を救いたくば,彼の物語を語ると良い』と言われました.灼熱の砂漠の,騎士の町アレクバロリアでは戦士たちに,『おまえの兄を救いたくば,彼の乗ってきた船を探すと良い』と言われました.そして・・・聖水流るる,聖白魔法発祥の町アトロイでは魔導師たちに,『光を求めよ』と言われ,水晶石の光を湛える此処クルクスの塔に来ている次第にございます.兄を救うなら私はこの塔を上り,最上層にある天界・ルクセリアへ行く覚悟があります」

少女の最後の言葉を聞いて,動揺したのは他でもない,柱に身を隠していた女剣士だった.

この塔がクルクスの塔?
最上層がルクセリアに繋がっている?
私は結局,自分の殻を破れたのか?
光を・・・求めているのか?

ほどなくして,女神ムーサの声がした.黒猫の赤い輪は,未だに光を帯びていた.
「ただ語るだけでは,そなたの兄を救うことはできない.兄クスフスは邪悪な魂に闇へと葬り去られたとルクセリアでも悲劇として広く知れ渡っている.サピエンタよ.そなたは,このメルポメネーを,やがて朽ちゆく運命の人間が住まうこの地上で,カリオペー,テルプシコレー,そしてポリュヒュムニアーに変えよ.人々を訪れよ.さすれば邪悪なる魂に葬られたクスフスは蘇らん.このクルクスの塔の主ミネルウァ様もそう仰せだ.これがやがて朽ちゆく運命の,特に多才に秀でたそなただけの使命である」
詩歌の女神がそう言うと,それまで張りつめていた神々しい,荘厳なる空気が失われていくようだった.サピエンタは,黒猫の赤い輪に帯びた光が弱まっていくのを見ると,叫んだ.
「待って,教えて下さい.悲劇をどのようにすれば叙事詩と舞踊,音楽へ変えられるのかを.そして,私は誰に会えば良いのですか」
しかし,女神ムーサの声はもう聞こえることはなかったし,赤い輪の光も消えてしまった.

そんな,ムーサとサピエンタのやりとりの一部始終を柱の影で見聞きしていた女剣士は,一歩踏み出した.そっと,身を露わにしたのだ.

私が何もしなければ・・・この子はずっと先に進めなくなるだろう.
このままでは,この子はきっと押し潰されてしまうだろう.
そんな風にならないように,この私が助けてあげるんだ.

自分は,いつだって試されている.暗黒の甲冑のなかに,優しさという光が灯った瞬間だった.

(続く)






最終更新:2014年04月07日 22:15