序/1


最近の水橋流人は,川をじっくり観察することを毎日の楽しみの一つとしていた.流人がよく見る川は厳密に言うと川ではなく農業用水路であり,だからおおよそ綺麗とは言えないものだったが,それは彼にとって瑣末なことに過ぎなかった.流人は川そのものにではなく,川がつくる流れや波に興味があったのだ.
今自分が見ている水の流れや波は,一体どのようにして説明することができるのだろう.そんなことを流人は思った.また,こうも思った.今自分が見ている川の流れや波は,私がどのような心を持っていても,ありのままで在ってくれる.流人,そう在る水のことをなんて美しいのだろうと思った.彼はそれまで見つめていた川面の一点から一度目を離すと,皮ジャケットのポケットから双眼鏡を取り出した.カモが二羽,川の下流へ泳いで行くのを見たいと思ったのだ.
水橋流人は,元々自然を愛していた.物理学者として,また時には詩人として.だから彼は身の回りに起こった自然現象―例えば川の流れ―を平易な言葉で説明しようとしたし,自分がふと思いついた言葉をすぐ手帳などにメモした.
流人は腕時計を見て,そろそろバスの来る頃だなと思い,その川をまたぐ橋から離れた.


序/2


バスを待っている間も,バスに揺られている間も,流人は本に夢中だった.彼が読む本の多くは理学書ばかりだった.理学書.とにかく小難しいことばかり書いてある.数式が盛り沢山なのもある.だが,最近の水橋流人は,文芸書や実用書をよく読むようになった.流人のお気に入りは,フランスの詩集だった.
ふと,自分自身で,よく読む本のジャンルが変わってきている理由について問うてみた.なにかが自分を変えているようだ.あるいは,知らない間に自分は変わってきている.それが能動的であれ受動的であれ,変わってきていることは間違いのないことだ.それは正しい.真である.数学の命題のように結論づけた彼であったが,最初に問うた,「なにか」が一体なんであるかは分からないままだった.けれど,少なくとも悪い方向に転がってはいないはずだから,変わってきていること,それはそれでいいじゃないか.
流人は,古代ギリシア人の言葉を思い出した.「万物は流転する」.


序/3


デイケアセンター「あみあみ」のフロアで,流人は最近仲良くなり始めた人たちと言葉を交わしていた.何故だか彼の周りには人が集まって来る.
「水橋さん.今日はどんな本を読んで来たんですか?」
彼の向かい側に座っていた女性が話しかけた.
「えっと.フランスの詩集です」
流人に話しかけた女性は目を大きく見開き,言った.
「すてきですね~!」
流人の隣に座っていた男性は,
「フランスかぁ.なんかオシャレだなあ」
と彼の方を見て唐突に言った.
流人は,話し出す.
「実は,一回フランスに行ったことがありまして.『ダヴィンチ・コード』でも有名になったあのルーヴル美術館を出て,シャンゼリゼ通り沿いのマクドナルドで昼食を摂って,凱旋門の下でオンラインゲームで知り合った友だちと待ち合わせて,モンマルトルへ一緒に行ったことがあります」
流人の話をもっと詳しく聞きたい,と同席している二人は思った.






最終更新:2014年08月06日 20:14