洗濯をしていると、シグナルの古ーいローブから一枚の紙切れが落ちて来た。
それは写真だった。
随分古い写真で、かなりボロボロだった。
シグナルと、シルバーブロンドの少女が写っている。
裏を返すと、見慣れない筆跡で『私はカノン。アナタの友達。忘れないでね』と書いてあり、その下にシグナルの筆跡で『忘れない』と書かれていた。
「…カノン…?」
聞きなれない名前だった。
すると不意に目の前が真っ暗になった。
それはまだ彼がシグナルと呼ばれていなかった頃のお話。
<曼珠沙華の男>
彼はフラフラと通りを歩いていた。
歳は17くらいだろうか?髪もローブも赤く、肌だけが抜けるように白かった。背には矢立と弓矢が見えるが、他に所持品は見当たらない。
カノンは彼を通りで見かけ、不意に道端で見かける曼珠沙華の花を思い出していた。
かなりの美形だが見かけない顔だ。…旅人だろうか?
男は覚束ない足取りで通りを歩く。見ていて危なっかしい。
たまり兼ねてカノンが声を掛けようとすると男は不意に地面に倒れた。
「…え?」
カノンは慌てて男に駆け寄った。
彼は、酷い熱だった。
『………』
彼は目を覚ました。
揺れる電灯と木目調の天井…どうやら屋内のようだった。
『………』
ゆっくりと体を起こして辺りを見回す。
『…敵…無し…』
周囲を確認し終え、彼は再び天井を見た。
と、その時、部屋の奥の扉が開き、ひとりの少女が入ってきた。
ふわふわのシルバーブロンドのショートヘアに淡い空色の服と若葉色のスカートを着用している。
「あ、気が付いた?」
少女は微笑んだ。
「私はカノン。あなた、そこの通りにいきなり倒れたのよ?覚えてる?」
少女、カノンに聞かれ、彼は首を横に振った。
彼の記憶回路というものは、驚くほど曖昧になっていたからだ。
「そっか」
カノンは短く言ってトレイをサイドテーブルに置いた。
「あなた、名前は?」
そして彼にこう言った。
『私は…ドゥネス…。全ての哀しみを統べる者…』
彼は途切れ途切れにこう答える。
「ドゥネス?変わった名前ね」
カノンは笑ってトレイを再び持ち上げた。
「はい、これ、ウチのパン屋のパン。…売れ残りだけど。とにかく、よかったら食べてみて」
『………』
ドゥネスは無言で頷いた。無口な人だな、とカノンは思い、踵を返す。
『………』
ドゥネスは窓の外を眺めていた。
ふわりと闇が浮かぶ。
ふわりと闇が消える。
『…見ぃつけた…』
彼は、笑った。
「えっとね、そこの花屋さんが私のお気に入りなんだけど。あ、夏になるとね、岬に鳥達が集まって…」
翌日、カノンはドゥネスの手を引きながら、町を案内していた。
「それでさ、あっちに行くと灯台が…ってドゥネス、聞いてる?」
『…聞いてる』
「…じゃあ相槌くらい打ってよ」
『…あいづち…?』
「そうそう。無反応だと私だけが喋ってるみたいじゃない」
カノンはわざとらしくぶぅっと膨れた。
『………?』
ドゥネスは首を捻った。不思議な男だったが、カノンはどうにも、この男が気に入っていた。
「ね、ドゥネスは旅人でしょ?今まで行ってきた場所の話とか聞かせてよ?」
『…今まで…行ってきた場所…?』
ドゥネスは首を捻った。
「そうそう。ね、どんなとこに行ったの?」
『………』
ドゥネスは空を見上げた。
そして程なくして
『分からない』
と答えた。
「何よそれぇ!」
カノンは笑いながら言った。
その時だ。
ザザッと二人の周りを闇色の魔物たちが取り囲んだ。
「な…なに!?いきなり…!?」
『………』
ドゥネスは平然としている。
『これはこれはドゥネス殿…探しましたよ…』
魔物の一体が口を開いた。
『我が主…堕邪様が御呼びです。ご同行願いますかな?』
『………』
ドゥネスは弓を構えた。
『成る程、来る意思はない…と?』
『………』
ドゥネスは答えない。
「ど…ドゥネス!何なのよあいつら…知り合い!?ってかダージャって何!?」
『…おや、ドゥネス殿の知り合いですかな?我々は彼にのみ用があるのですが…』
魔物はカノンを見ていった。
「ドゥネス、知り合い?」
『…知らん』
ドゥネスは短く答えた。魔物は彼を見て
『…ふむ…主のかけた呪いは健在のようですな…しかし我々の命令に従わぬとは…あの光の女の仕業ですかな?』
と呟いた。
「の…呪い!?」
カノンはドゥネスにしがみつきながら言った。
『然様、呪いです。ドゥネス殿には「魂」がないと申し上げますか…哀しみ以外の感情を破壊したと申し上げますか…』
魔物は腕を組んだ。
『とにかく、彼は自我に乏しい男なのですよ。記憶もほとんど保てませんしね』
「…あ、そっか…それで今までの旅の話とか…」
カノンはそう呟いてから魔物に叫んだ。
「ね!あんた達はドゥネスをどうするつもりなの!?」
『我が主、堕邪様の躯として…捧げるのです』
カノンには、魔物の言葉の意味がサッパリ分からなかった、が、彼らにドゥネスを連れて行かれるということは、ドゥネスが『捧げられる』ということは分かった。
「ドゥネス、行っちゃ駄目だよ?」
カノンはドゥネスを見上げて言った。
『…お前は…誰だ…?』
ドゥネスは短く言った。
「私はカノン。通りのパン屋の看板娘よ。あとでパンご馳走してあげる」
カノンはドゥネスの手を引いた。
「ほら、逃げよ」
『…敵…殲滅する』
ドゥネスは弓矢を具現化し、放った。
『終焉の破壊弓(アルティメイト・ブロークン・アロー)』
弓矢は魔物を貫き、滅した。
「…凄っ…って言ってる場合じゃなかった。逃げるわよ!」
カノンは四の五も言わせぬまま、ドゥネスの手を引いて、街道を走った。
「…ったく…なんなのよアイツら…」
なんとか魔物を振り切り、カノンとドゥネスはパン屋に戻ってきていた。
『…知らん』
ドゥネスは短く答えて壁にもたれかかったまま、床に座った。
『…お前は誰だ?…敵か?』
そしてカノンを見上げてこんなことを言う。
「私はカノン!まったく…自己紹介するのこれで3度目よ?」
彼女は苦笑した。
「よし、分かったわ。ちょっとドゥネスこっち来なさい」
『…何故私の名を…』
「アンタ一回名乗ったでしょ!」
カノンはぐいぐいとドゥネスの手を引っ張り、椅子に座らせた。
「ほら、ここ座って!」
『………』
ドゥネスは黙って座る。
カノンはカメラをセットし、ドゥネスの隣に座った。
「ほら、あそこの丸いところ見て、ジッとして」
『………』
カシャリと短い音がした。
「よし…あ、ドゥネス。もう動いていいわよ」
『…お前は…誰だ…?何故…私の名を知っている…?』
ドゥネスは赤い瞳でカノンを見た。
「うん、実にいい質問ね」
カノンはポラロイドカメラから出てきた写真を拾い上げてドゥネスに見せながら言った。
「私はカノン。アナタの友達よ、忘れないでね」
『…カノン…。…ともだち…?』
ドゥネスがその言葉を反芻する。
「うん、そうそう」
そう言ってカノンは写真の裏に『私はカノン。アナタの友達。忘れないでね』を書いてドゥネスに渡した。
「ほら、これ持ってて。そしたら忘れないでしょ?」
『…カノン…』
「そうそう、カノン。宜しくね、ドゥネス」
そう言ってカノンは立ち上がった。
「パンでも食べる?」
『………』
ドゥネスは黙って頷いた。
「えっとね、そっちが広場で、あそこが本屋さん」
翌日、再びカノンはドゥネスに町を案内していた。
『………』
彼は周りをキョロキョロと見回しながら、カノンの声を聞いていた。
「………」
カノンは整ったドゥネスの顔を見上げた。
笑ったらさぞ美しいだろうが、彼はまったく笑わなかった。
魔物が言うには、彼には「哀しみ」以外の感情というものが無いらしい。
哀しみにまみれると、人は感情表現ができなくなると、何かの本に書いてあった。
「ドゥネス…可哀相よね…そう考えると…」
『…カノン…何か言ったか…?』
「ううん。なんにも」
カノンは笑った。
その夜、本を読んでいたカノンの隣でドゥネスはぼんやりとしていた。
「…ね、ドゥネス。本当に今までのこととか覚えてないの?」
『………』
ドゥネスは答えない。
「…私…もっとアナタの話が聞きたいのに…」
カノンはそう言って本に目を戻した。
「…まぁ…無茶な話よね…」
そして自嘲気味に彼女は笑った。
が。
『…マライカ…堕邪から逃げろと言って、消えた』
ドゥネスが短く言った。
「…え?」
カノンはドゥネスを見た。
「…マライカ…って誰?」
『…光の…女…大切な…ともだち…』
ドゥネスは搾り出すように言う。
『…マライカ…冷たくなった…。冷たく白く小さくなったから埋めた…埋めたのにマライカは言った。闇の向こうから光を出して…マライカは…マライカは「逃げて」と言った…』
「………。だから…ずっと逃げてるの?」
ドゥネスは黙って頷いた。
『…森を越えて…海を渡り…山の向こう、峠の彼方…俺は…逃げて逃げて…逃げた…』
「…『俺』…?」
カノンは首を捻った。
ドゥネスの普段の一人称は『私』だ。
ひょっとして昔は『俺』だったのだろうか?魂を壊されてしまったから、全てが変わってしまったのだろうか?
『カノン…?』
ドゥネスが不思議そうな顔で彼女を見た?
「ん?どしたの?」
『…何を…泣いている…?』
「…へ?」
カノンは自分の頬をさすった。
「な…泣いてなんか…」
生暖かいものに触れた。涙だ。
「…あっ…本当だ…」
『………』
ドゥネスはその白く細い手を伸ばし、カノンの涙を拭った。
『…哀しければ泣けばいい。…私はもう涙も枯れてしまった…』
「…ううん。私はね、きっとアナタの代わりに泣いてるのよ」
『…私の…代わりに…?』
「うん」
カノンは笑ってドゥネスの体に腕を回し、彼を抱きしめた。
「アナタの魂が戻るまで…私が代わりに泣いて…笑ってあげるから…」
『…カノン』
ドゥネスも、その体を抱きしめた。
その翌日の話だった。
『ドゥネス殿、これが何か分かりますかな?』
魔物が抱えていたのは、カノンだった。
「ちょっと配達行って来るね」
彼女は焼きたてのパンを抱え、笑顔でパン屋を出て行った。
…なのに…。
『…カノン…』
ドゥネスは彼女を見上げた。
魔物の爪に全身の至る所を貫かれた彼女は、口の端から血を垂らし、空虚な視線を宙に浮かばせながら魔物の手中に居た。
『カノン!!!』
ドゥネスは叫んだ。
『おやおや、アナタが他人の名前を覚えているとは…珍しい…。そんなにこの女が大切なのですか?』
『貴様は…誰だ…!?』
『私は堕邪様の下僕…アナタが逃げ続ける限り、アナタが関わる人間は皆こうなるのですよ』
魔物はそう言ってカノンを放り投げた。
彼女の体は無抵抗のまま地面を滑り、ドゥネスの足元までやってきた。
『…カノン…。…カノンッ!』
ドゥネスが呼びかけても、彼女は答えない。
『…ぅあっ…』
ドゥネスの赤い瞳から、涙が溢れた。
まただ。
またおれはたいせつなひとをなくした。
『わあぁああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!』
ドゥネスは凄まじい勢いで魔力を放出しながら、魔物を睨んだ。
『…貴様…貴様ァ!!!』
ドゥネスは弓を構えた。
『おやおや…感情の無いはずのアナタが…』
魔物もまた、刃のような爪を構える。
『これもまた一興…力ずくで堕邪様の元へお連れ致しましょうか…』
『…黙れッ!』
ドゥネスは闇の弓矢を放った。
魔物も爪で辺りを切り裂く。
『貴様がッ…!貴様がカノンをッ…!!!』
『ドゥネス殿、怒りで力にブレが生じておりますよ。やはり感情は不要なもの…』
『黙れ!カノンは…カノンは言った!「しばらくは私がアナタの魂になる」と…!この半身をもがれたような痛み!貴様が…貴様がカノンを奪ったからだッ!!!俺の…俺の魂を奪ったからだッ!!!』
ドゥネスは矢を乱射する。
町を巻き込みながら、ドゥネスと魔物は戦いを続ける。
戦いは3日3晩続き、やがてドゥネスは魔物の首を刎ねた。
戦いが終わる頃には、町はもう無くなっていた。
そこには巻き込まれた人々の亡骸と、瓦礫の山しかなかった。
『…カノン…』
ドゥネスはカノンの亡骸を抱きかかえた。
すでに熱はなく、すっかり冷えてしまったその体を抱えた。
ザーザーと雨が降ってくる。
ドゥネスの懐から写真が落ちた。
写真の向こうのカノンは笑っていた。
『…カノン…この雨は…お前の涙か…?俺の代わりに…泣いてくれているのか…?』
ドゥネスは空を見上げた。雨はなおも降りしきる。
彼は写真を拾い上げた。
裏を返すと『私はカノン。アナタの友達。忘れないでね』と書かれている。
ドゥネスは瓦礫の山からペンを探し出し、その写真の下に『忘れない』と書いた。
『…カノン…』
ドゥネスは再び彼女の体を抱えた。
その体から、ふわりと光る玉が抜ける。
きっと彼女の魂だ。
光の玉はふわりと浮かび、空へと舞い上がった。
『………』
やがてドゥネスは亡骸を抱えて立ち上がり、それを森の入口に埋めて塚を立てた。
作業が終わる頃には、すでに雨は上がっていた。
『………』
ドゥネスは何事もなかったかのようにそこを後にした。
彼の記憶回路は曖昧になっている。
すでにカノンのことなど、彼の記憶にはなかった。
ただ、彼はたまに写真を見て、フと彼女を思い出していた。
その写真の向こうの笑顔を、思い出していた。
だがそれも、長続きはしない刹那のモノだった。
ドゥネスは一人で旅を続けた。
平地を越え、空を飛び、堕邪から逃げ続けた。
そして彼はある日、森で一夜を明かしていた。
そんな中一人の男に声をかけられた。
『何を、泣いている?』
『…泣く…?私が…?』
ドゥネスは顔を上げて男を見た。
『あぁ、一人でこのような所にいるのも珍しいが…何故泣いているのだ?』
『…涙など…枯れたかと思っていたが…』
ドゥネスが頬をさすると、確かにそこには涙が流れていた。
『…何か…哀しいことでもあったのか?』
『…分からぬ…』
『…ふむ…』
男はローブの裾からタロットカードを出した。
『………。ふむ…御主はおそらく…大切な者を亡くしたのだろう』
『…大切な者…?』
『と、私の札は示している』
男はカードを裾にしまった。
『私の名はたか…リベットだ。リベット』
そう言って男…リベットはドゥネスを見た。
『御主の名はなんと言う?』
『私の名はドゥネス…全ての哀しみを統べる者…』
ドゥネスは短く言った。
その日から、ドゥネスとリベットは旅をすることになった。
やがて二人はゼロに
出会い、そしてゼロは狂い、感情が戻りかけたドゥネスは再びその魂を破壊されることとなる。
それから幾年月が流れ…
『貴様…戦闘狂か?』
「違う、戦いは大嫌いだ」
やがて俺達は出会ったんだ…。
はたと気付くと、俺は例の写真を持ったまま、竿の前で固まっていた。
「…なんだったんだ…今の…」
…シグナルの…記憶…なのかな?
とりあえず俺は写真をローブのポケットに戻した。
晴天の空の下で、赤いローブはゆらゆらと揺れていた。
<FIN>
シグナルの過去話。
ひたすら暗くて重い話。
最終更新:2010年02月19日 15:36