原文&書き下し文&読み仮名

 呉王闔廬挙伍員謀国事。員字子胥楚人伍奢之子。
呉王闔廬伍員を挙げて、国事を謀らしむ。員字は子胥、楚人伍奢の子なり。
ごわうかふりよごうんをあげてこくじをはからしむ。うんあざなはししょ、そひとごしやのこなり。

 奢誅而奔呉。以呉兵入郢。
奢誅せられて呉に奔る。呉の兵を以ゐて郢に入る。
しやちゆうせられてごにはしる。ごのへいをひきゐてえいにいる。

 呉伐越。闔廬傷而死。子不差立。
呉越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差立つ。
ごゑつをうつ。かふりよきずつきてしす。このふさたつ。

 子胥復事之。夫差志復讎。朝夕臥薪中、出入使人呼曰、
子胥復た之に事ふ。夫差讎を復せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰はく、
(子胥復た之に事ふ。夫差讎を復せんと志し、朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰はく、)
ししよまたこれにつかふ。ふさあだをふくせんとこころざし、てうせきしんちゆうにふし、しゆつにふするにひとをしてよばしめていはく、

 「夫差而忘越人之殺而父邪。」
「夫差、而越人の而の父を殺ししを忘れたるか。」と。
(「夫差、而越人の而の父を殺せるを忘れたるか。」と。)
ふさ、なんぢゑつひとのなんぢのちちをころせるをわすれたるか。と。

 周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。
周の敬王の二十六年、夫差越を夫椒に敗る。
しうのけいわうのにじふろくねん、ふさゑつをふせうにやぶる。

 越王勾践、以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。
越王勾践、余兵を以ゐて会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。
ゑつわうこうせん、よへいをひきゐてくわいけいざんにすみ、しんとなりつまはせふとならんとこふ。

 子胥言、「不可。」
子胥言ふ、「不可なり。」と。
ししよいふ、ふかなりと。

 太宰伯ヒ受越賂、説夫差赦越。
太宰伯ヒ越の賂を受け、夫差に説きて越を赦さしむ。
たいさいはくひゑつのまひなひをうけ、ふさにときてゑつをゆるさしむ。

 勾践反国、懸胆於坐臥即仰胆嘗之曰、
勾践国に反り、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰はく、
こうせんくににかへり、きもをざぐわにかけ、すなはちきもをあふぎこれをなめていはく、

 「女忘会稽之恥邪。」
「女会稽の恥を忘れたるか。」と。
なんぢくわいけいのはぢをわすれたるかと。

 挙国政属大夫種而与范蠡治兵、事謀呉。
国政を挙げて大夫種に属し而して范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。
こくせいをあげてたいふしようにしよくししかしてはんれいとへいををさめ、ごをはかるをこととす。

 太宰ヒ、譖子胥恥謀不用怨望。
太宰ヒ、子胥謀の用ゐられざるを恥ぢて怨望すと譖す。
たいさいひ、ししよのはかりごとのもちゐられざるをはぢてゑんばうすとしんす。

 夫差乃賜子胥属鏤之剣。
夫差乃ち子胥に属鏤の剣を賜ふ。
ふさすなはちししよにしよくるのけんをたまふ。

 子胥告其家人曰、「必樹吾墓カ。カ可材也。
子胥其の家人に告げて曰はく、「必ず吾が墓にカを樹ゑよ。カは材とすべきなり。
ししよそのひとかじんにつげていはく、「かならずわがはかにかをうゑよ。かはざいとすべきなり。

 抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」
吾が目を抉りて、東門に懸けよ。以つて越兵の呉を滅ぼすを観んと。」
わがめをゑぐりて、とうもんにかけよ。もつてゑつへいのごをほろぼすをみんと。」

 乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。
乃ち自剄す。夫差其の尸を取り、盛るに鴟夷を以つてし、之を江に投ず。
すなはちじけいす。ふさそのしかばねをとり、もるにしいをもつてし、これをかうにとうず。

 呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。
呉人之を憐れみ、祠を江上に立て、命けて胥山と曰ふ。
ごひとこれをあはれみ、しをかうじようにたて、なづけてしよざんにいふ。

 越十年生聚十年教訓。周元王四年、越伐呉。
越十年生聚し、十年教訓す。周の元王の四年、越呉を伐つ。
ゑつじふねんせいしゆうし、じふねんけいくんす。しうのげんわうのよねん、ゑつごをうつ。

 三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。
三たび戦ひて三たび北ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成を越に請ふ。范蠡可かず。
みたびたたかひみたびにぐ。ふさこそにのぼり、またたひらぎをゑつにこふ。はんれいきかず。

 夫差曰、「吾無以見子胥。」為幎冒乃死。
夫差曰はく、「吾以つて子胥を見る無し。」と。幎冒を為りて乃ち死す。
ふさいはく、「われもつてししよをみるなし。」と。べきばうをつくりてすなはちしす。

現代語訳

 闔廬は伍員を重く用いて、国の政治を任せた。伍員は字を子胥といい、楚国の人である伍奢の子である。父の奢が楚王に殺されたので、伍員は呉に亡命した。後に呉の軍隊を率いて楚の都の郢に攻め込んだ。 呉は越を攻めた。闔廬は負傷して死んだ。子の夫差が位についた。子胥はまたこの夫差にも仕えた。夫差は仇討ちをしようと心に決めた。そこで、朝夕薪の中で寝起きし出入りする際に人々に、「夫差、おまえは越の人間がおまえの父を殺したのを忘れたのか」と言わせた。

 周の敬王の二十六年、夫差は越を夫椒で破った。越王勾践は、敗残兵を率いて、会稽山にこもり、自分は臣下となり妻は召使いとなるので命は助けて欲しいと懇願した。子胥は「だめだ」と言った。宰相の伯ヒは越から賄賂を受け取り、夫差を説得して越王を許させてしまった。 勾践は国に帰り、胆を寝起きするところにつるし、寝起きのたびに胆を仰いで嘗め、「おまえは会稽で受けた恥を忘れたのか」と言った。国の政治はすべて重臣の種に任せ、范蠡と兵を訓練して、呉を倒すことに専念した。

 宰相のヒは、子胥が自分の謀が用いられなかったことを不名誉に思い、呉王を恨みに思っていると、嘘の訴えをした。夫差はそこで子胥に属鏤の剣を下した。子胥は家族に告げて「必ず私の墓にひさぎの木を植えてくれ。ひさぎの木は棺の材料になる。私の目を抉りだして、東門に懸けてくれ。そこで越の兵が呉を滅ぼすのを見るのだ。」と言った。そこで自分で自分の首をはねた。夫差は子胥の屍を奪い取り、馬革の袋に詰め込み、長江に投げ込んだ。呉の国の人々はそれを気の毒に思い、祠を長江のほとりに建てて、胥山と呼んだ。

  越は十年間人口や財貨を増やして国力を高め、十年間立派な兵士になるように人々を訓練した。周の元王の四年、越は呉を攻めた。呉は戦うたびに敗れた。夫差は姑蘇に逃げ上り、また講和を越に願い出た。范蠡は聞き入れなかった。夫差は「子胥に合わせる顔がない」と言った。死者の顔に掛ける布で顔を覆って自殺した。
最終更新:2012年03月06日 03:01