訃報日記2003:10月〜12月

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【横山まさみち】

日記 :: 2003年 :: 10月 :: 16日(木曜日)
朝刊に横山まさみち氏死去の報。73歳。家でとってる二紙のうち、読売には代表作の欄に『やる気まんまん』が載ってない。産経には載っていた。アレを乗せないでどうしますか。とはいえ、私らの世代には、横山まさみちはスマートな画風のアクション劇画のヒト、というのが最初の印象であって、『少年サンデー』に『マイティジャック』なんかの漫画化作品を連載していたのを愛読していた ものである。


【塩まさる】

日記 :: 2003年 :: 10月 :: 17日(金曜日)
歌手の塩まさる氏死去、95歳。“くだんのはは”と聞けば、たとえ小松左京ファンであっても、元ネタであるこっちの『九段の母』(塩氏の代表曲)をまず、思い出さねばいかんのである。それが順序だ。生涯現役をつらぬき、毎年、九段で開催される軍歌会に出席し、去年も車椅子で歌っていたと睦月影郎さんに聞いた。私はこの人の名は、徳川夢声の戦争日記で知った。一緒に南方慰問にまで行った仲であり、以前に、まだお元気と知ったとき、インタビューして夢声のエピソードなどを聞いておこうかと考えたこともある。今にして思えば、無理しても聞いておけばよかった。


【松尾孝】

日記 :: 2003年 :: 10月 :: 31日(金曜日)
カルビーの創業者、松尾孝氏死去の報が新聞に。91歳。イタロ・カルヴィーノという作家の名前を衝動的に思い出したが何の関係もない。かっぱえびせんで一世を風靡しただけでなく、仮面ライダースナックで、現在の食玩ブームの元祖みたいなパターンを作った人であった。食品のおまけ自体はグリコや丸美屋など、もっと以前からあるが、ついているおまけの方が主体で、食品自体を目的に買わない、という買い方を子供たちにさせた最初の商品なのである。スナック(間食)菓子という言葉も当時は新鮮だったなあ。ちなみに、衝動食いのことを英語で“スナック・アタック”というらしい。な んかカッコいい。


【辰巳四郎】

日記 :: 2003年 :: 11月 :: 16日(日曜日)
ネットで、かなり遅れ辰巳四郎氏の死去を知る。8日に亡くなったらしい。gooニュースの訃報欄にも出てなかったので見のがしていた。つい最近まで椎名林檎の公演のポスターなどで名前を見かけていたので、実感がわかない。死因は何だったのだろう。装丁家としても名高いが、独特の、アクの強いタッチのイラストは一度見たら忘れられない。初めて辰巳四郎という名前を知ったのは、と学会の活動の元祖とも言える迷信・誤伝打破本の名著、B・エヴァンズ『ナンセンスの博物誌』の、大和書房バージョン(1971年。初刊行は抄訳・毎日新聞社1960年)での挿絵(装丁も)だったと思う。内容の面白さにハマって何十度となく読み返すたびに、その挿絵もまた脳裏に刷り込まれていった。極端にディフォルメされた、巨大な目玉のキャラクターたちが、今もなお目に焼き付いている。焼き付いているどころか、その本は常に私の仕事場の棚にあって、折に触れ読み返しているのだ。黙祷。


【江見俊太郎】

日記 :: 2003年 :: 11月 :: 19日(水曜日)
読売昨日夕刊と産経の朝刊に、江見俊太郎氏死去の報。80歳。怪談映画の最高峰である中川信夫の『東海道四谷怪談』における直助権兵衛、テレビでは『レインボーマン』のヘロデニア三世で印象深い。知的冷酷さが一転、崩れて凶暴さを剥き出しにするような芝居の巧さはちょっと他になかった。直助権兵衛は他に映画では近衛十四郎、田中春男、中村勘三郎、高松英郎、小林昭二などの演じたのを観ているが、どれも伊右衛門の冷酷さに対するにやや三枚目的な小悪党としての描かれ方であり、それに対してこの人の直助は“あの”人非人を演じさせたら天下一の(『憲兵と幽霊』など)天知茂を手玉にとるほどのメフィストフェレス的役柄であって、その悪逆度はダンゼン、他を圧する迫力、出来映えであった。そして最期、錯乱した伊右衛門の刀で直助が額を割られたとたん、部屋が、そのままかつてお岩を沈めた隠亡掘となり(合成でなく、セットをそのように作り込んでいる)、すでに魂が天外に飛んだ無表情のまま、その中へとスローモーションで倒れ込む。日本映画史上においても屈指の死に 様であった。


【相川浩】アナウンサー

日記 :: 2003年 :: 12月 :: 04日(木曜日)
日記に書き忘れていたが、元NHKのアナウンサー、相川浩氏が先月27日に死去、70歳、肝硬変。もともと肝臓を悪くしていて、一時一線から退いていた記憶がある。語り口に見事なまでに鋭角なところのない人で、NHK時代からファンだったが、NHKを離れてからの『御家人斬九郎』のナレーションなど、ひとつ間違えると必殺シリーズみたいな殺伐とした話になりかねないストーリィを、見事に家庭人情時代劇のワクに囲って〆ていた。


【バーブ佐竹】

日記 :: 2003年 :: 12月 :: 06日(土曜日)
新聞に、歌手のバーブ佐竹と英俳優デビッド・ヘミングス死去の報。バーブ佐竹は子供の頃、オトナの歌謡曲の世界の代表、みたいなイメージで見ていた人だった。代表作『女心の唄』の“どうせ私をだますならだまし続けてほしかった”の歌詞は寺山修司が絶賛していたのではなかったっけ。


【デビッド・ヘミングス】

日記 :: 2003年 :: 12月 :: 06日(土曜日)
一方のデビッド・ヘミングスはこの7月に『リーグ・オブ・レジェンド』で若い頃とはまるでイメージが変わってしまった姿を見て、愕然としたばかり。『遙かなる戦場』『バーバレラ』『ジャガーノート』『パワープレイ』と、私好みの映画にたくさん登場していた俳優で、若い頃の感じは同じ英国俳優のアンソニー・ホプキンズに似ており(年齢は確かホプキンズの方が4つほど上)、目の表情が実によく、ホプキンズよりこっちの方が大物になるだろうとばかり思っていた(世間の評価もヘミングスの方が高かった筈)。『遙かなる戦場』に主演したとき(1968)には、その美青年ぶりを新聞でこう絶賛されたという。「ロシアの革命党員やカリフォルニアの金鉱夫の色あせた写真を思わす、やや、やせこけた顔だち、バラのつぽみのよのような唇、そしてバイキング風の口ひげ」……思えば美貌なんてはかないものだ。若き日と晩年の比較はこのサイトで。
http://news.bbc.co.uk/1/hi/entertainment/film/3290919.stm


【都筑道夫】

日記 :: 2003年 :: 12月 :: 13日(土曜日)
新聞に都筑道夫氏死去の報。74歳。最後に姿を見かけたのは無くなった渋谷の東急文化会館で皆神龍太郎氏と観た『MIB』の試写会のときだった。あのときに、ずいぶん歳をとったなあ、とすでに思っていたけれども。ご本人は自分の編集者としての最大の功績を日本に007を根付かせたことだと思っていらした、とどこかで読んだことがある(“リブ・アンド・レット・ダイ”を『死ぬのは奴らだ』と苦心して訳したのに、映画化のとき試写の招待状も送ってこなかったと腹を立てていた)が、個人的考えでは007は都筑氏がいなくても根付いたと思う。むしろ、SF草創期の時に、シェクリィやブラウンを風刺とウィットに富んだ短編小説作家、として紹介したことが、後に日本にSFを根付かせる大きな土壌になった、一大功績ではないか。そして、都筑氏がなぜこういう作家が好きだったかというと、早逝した兄が落語家(鶯春亭梅橋)だった、という環境にあることもあきらかだ。SFの本来持っていた、馬鹿ばなしを大まじめにやるシャレっ気が都筑道夫の感覚にぴったりとフィットしたのだろう。
そういう都筑氏のシャレッ気で一番好きだったのは、仲間の境田昭造(漫画家)や星新一たちとやっていたという“正月ごっこ”。夏でも秋でも、とにかく唐突にみんなで紋付きを着て、初詣に行き、“おめでとうございます”と年始回りをして、カルタとりをし、お屠蘇を飲んで、雑煮を食べる。ただそれだけのことなのだが、大の大人がまじめくさってこういうことをやる、というのが実にどうも太平の逸民の遊びという感じで、バカバカしさの極みで結構であった。ミステリやSFは、この感覚じゃ なきゃいけない。
思えば都筑氏はB級映画マニアという点でも元祖だった。今の私と同い年だった頃にこの人、『超人バロム1』なんて番組を大まじめに見て、“ウデゲルゲなる怪人が叫ぶ「フィンガー」という科白に抱腹絶倒した”と、それを“噛もう”から転訛した日本古来の化け物の叫び声“モモンガー”に対比させて論じたりしていた。70年代初期のことである。40代半ばの、社会的地位のある人間が、ものもあろうにウデゲルゲのことを論ずる、ということが当時、どれだけ異端なことであったか。その“数奇者” としてのスタイルのカッコよさに私は痺れた。同じ怪奇幻想派でも、フランス文学などにハスによりかかっている澁澤龍彦より、都筑氏の行き方がよほど拗ね者のダンディズムとして光って見えた。こういうモノカキになりたいものだ、とそのとき中学生だった私は心底から思った。結果、当時の都筑氏と同い年の今、本当に『バロム1』のことなどを始終原稿に書く身分になっている。人生の目的は達した、という ことになるのかも知れない。
沖縄の中笈木六さんに、“唐沢さんが小説を書くなら都筑道夫みたいなものを書くと思う”と言われたことがあり、うれしく感じたことがある。私があちこちに書き散らしている雑学エッセイも、都筑氏の『昨日のツヅキです』を究極の目標にしているのである。しかし、氏の活動はあまりに多岐、あまりに雑多な分野にまで及んだために、狭量な日本の土壌では、報いられること、あまりに尠かったのではないか。開高 健が『書斎のポ・ト・フ』でいみじくも洩らした「(『なめくじ長屋シリーズ』で)なんで都筑道夫が直木賞をとれなかったのか、わからんねえ」の言葉に、私の全ての想いは集中しているのである。


【チャールズ・バーリッツ】

日記 :: 2003年 :: 12月 :: 31日(水曜日)
新聞にチャールズ・バーリッツ死去の報。89歳。新聞ではベルリッツ名義になっていたが、日本での翻訳物のほとんどはバーリッツ名義だったはず。ベルリッツで名前が出たのは、報道にあるようにベルリッツ語学学校創立者の孫、という血筋を重視しての報道だったろう。記事は申し訳程度に『バミューダ・トライアングルの謎』を著作の代表として挙げていたが、そればかりではない、われわれトンデモ本愛好者にとり、アトランティス大陸ものをはじめとして、ロズウェルUFO墜落事件、フィラディルフィア・エクスペリメント事件、ノアの箱船は実在した等、無節操なまでに手を広げまくるトンデモプロパー作家として記憶に深く刻み込まれていた名前である。アトランティスものの翻訳者は、北朝鮮擁護で最近悪名を馳せた、あの吉田康彦氏で ありましたな。


最終更新:2010年03月05日 18:50
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