訃報日記2002:10月〜12月

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【平凡太郎】

日記 :: 2002年 :: 10月 :: 05日(土曜日)
朝刊に平凡太郎死去の報。69歳。子供のころからテレビでずっと顔を見ている人であり、もっともっと高齢だと思っていた。連絡先が弟子(仲良太郎、という名前がいかにも喜劇人)の住所になっていたが、家族はいなかったのだろうか。キネ旬の俳優名鑑には既婚、二女ありとあったのだが。先月、『てなもんや三度笠』のDVDを見たのが、たまたま平凡太郎の出ていた回であった。さすがに戦後軽演劇の黄金時代を担った人だけに、芝居は実にきちんとしていて、うまい。うまい人というのは逆にその後、生きていきにくかったろうなあ、と思う。出演作をネットで調べたら、『空の大怪獣ラドン』に出演しているらしいが、いったいどこに出ていたのやらまったく記憶になし。
日記 :: 2002年 :: 10月 :: 06日(日曜日)
こっちの新聞には、今日になって平凡太郎死去の記事。同じ業界の談之助さんも、まだ生きていることを知らなかったと言う。芸能人の訃報で一番もの悲しいのは、最盛期の輝きを知っている人が、何十年か後に“あ、まだ生きていたのか”という状態で亡くなることである。人生に必要なのは、成功のバランスよい配分なのだ。モノカキもそうだが、売れることばかりを考えていると、売れたその先ということがどうしても考えられなくなる。例えば20代で売れて、40歳まで売れ続けたにしろ、人生75歳として、その後が35年間もあるのである。人生の最盛期というのは後に後にとズラして設定しておいた方がいい。

【池谷三郎】

日記 :: 2002年 :: 10月 :: 20日(日曜日)
池谷三郎氏死去。79歳。われわれ東宝特撮ファンにとっては“あのアナウンサー役の人”で通った。『ゴジラ』『空の大怪獣ラドン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『妖星ゴラス』『怪獣大戦争』『怪獣総進撃』などなどなどの映画で、われわれはこの人の報道で怪獣の出現、地球の危機を知ったのである。アナウンサー役専門の役者というのはいかにも妙で、最初、われわれはそれを第一作『ゴジラ』の実況中継アナウンサー役があまりに印象的で、それ以来アナウンサーとなればアイツ、と役が回ってきたんだと思っていたが、なんと本職のTBSアナウンサーだったそうで、アナウンサー養成学校の校長まで務めていたという。東宝の脇役関係にはいろいろマニアックな紹介サイトが多いが、ちょっと切り口が面白いと思ったのは、以下のところで、これはいろんな映画でアナウンサー役をやった俳優・本職のリスト。
http://www.fjmovie.com/horror/j/column/announcer.html
『ただいま実況中』

【笹沢左保】

日記 :: 2002年 :: 10月 :: 22日(火曜日)
笹沢左保死去。肝細胞ガン、71歳。中学生のころ、図書委員を務めていて、全校読書感想文コンクールの事務仕事をやらされていたとき、私のクラスの応募作の中に、木枯紋次郎シリーズ『赦免花は散った』を取り上げたものがあった。で、果たしてこれを応募作として認めていいものか、担任の教師と生徒たちの間に、ちょっとした対立が起こった。股旅ものなどを学校の読書感想文の対象にすることがそもそも認められない、という教師に、それは差別で、本人の感動にはその対象が文学作品であれ大衆小説であれ、差はないのではないか、という生徒側の主張が真っ向からぶつかり、なかなかスリリングな事態だった。で、どちらもこれではラチがあかんと思ったのか、その決定権が図書委員であった私にゆだねられた。私はそこで非常に政治的な判断を下し、“自分も以前、レイ・ブラッドベリのSFの感想文を提出して却下されたことがあり、文学だけが感想文の対象ではないと思う。しかし、この『赦免花は散った』の感想文は、誤字・脱字が多く、文章の質そのものに問題がある。残念ながら、選考以前の問題として、クラス代表の応募作には価しないだろう”と、これを却下した。教師側からは大岡裁きと賞賛されたが、生徒側からは裏切り者と見えたかも知れない。しかし、実のところ、私はもうその当時、読書感想文コンクールなどというもの自体に嫌気がさしきっており、こんなことでグチャグチャ論争するのがバカらしくて仕方なかったのだ。

それはともかく、私はそれがきっかけで笹沢左保の小説を読み始め、なかなか面白いと思ったのを覚えている。ただし、この面白さは作者の器用さに由来するもので、深くはないな、というのが十数冊読んでの結論だった。読み終わって次の一冊にいくときにはもう、前の本の内容はすっかり忘れてしまっているのである。そういう作家は多いが、しかし笹沢作品は、例えストーリィは忘れても、タイトルだけは見事に印象に残るのだった。『赦免花は散った』『見返り峠の落日』『雪に花散る奥州路』といった気恥ずかしくなるくらい華麗なタイトルが、当時としてはいかに斬新だったことか。この人の能力は作家としてというよりは、むしろこのようなコピーライターとしてのものなのかもしれない、いかにも現代的だなあ、と感心した。その後、私がこの人の作品のタイトルで気に入っていたのは、『姫四郎医術道中』という、医者で殺し屋、という主人公の連作で、第一作が『嘉永二年の帝王切開』、以降『嘉永三年の全身麻酔』『嘉永四年の予防接種』『嘉永五年の人工呼吸』『嘉永六年のアルコール 中毒』と続いていた。

【リチャード・ハリス】

日記 :: 2002年 :: 10月 :: 26日(土曜日)
やっと解放されて夕刊を見ると、大物二人の訃報あり。一人は俳優リチャード・ハリス。ホジキン病にて死去、72歳。読売の記事では“『ハリー・ポッターと賢者の石』の魔法学校の校長役で知られる”など、ハリポタ関係のことでしか経歴を書いていない。これはいくらなんでもひどかろう。60年代から70年代にかけて、ハリスは英米をまたにかけてのトップスターで、『カサンドラ・クロス』や『ジャガーノート』などのアクション映画であれ、『キャメロット』『クロムウェル』などの歴史物であれ、『テレマークの要塞』『ワイルド・ギース』のような戦争物であれ、『馬と呼ばれた男』『サウス・ダコタの戦い』などの西部劇であれ、何でもござれの名優であった。その単なる娯楽映画俳優に収まらない渋みと存在感は、ハリウッド俳優ではない英国俳優、しかも英国人ではないアイルランド出身という出自のもたらしたものだろう。そう言えば演技派俳優が大挙出演した『天地創造』では弟殺しのカインの役をやっていた。根っからのひねくれ者、神に向かってもたてつくような役が似合っているのである。

 だからハリスが老バウンティ・ハンターに扮して、ジーン・ハックマンの悪徳保安官に徹底的にボコにされるクリント・イーストウッドの『許されざる者』なんかは見たくない、と思ってしまうのだ。『クロムウェル』でアレック・ギネスの首さえチョン切ったハリスが、ハックマンなんかに負けるというのは、どうしても納得いかないのである。さて、今後のマスコミの訃報欄では、ハリポタ以外の彼の代表作に何を挙げるか。ポピュラー度だけで『ナバロンの要塞』などを出すところが多いだろう。あの大作のときはハリスはまだほとんど無名の青二才、冒頭の英国軍パイロットというチョイ役でしかないんだが。私のお気に入りは日本では封切年における興業ワースト記録を作ったという、ジョン・フランケンハイマーのおふざけアクション『殺し屋ハリー・華麗なる挑戦』で、ハリスはじめ、チャック・コナーズ、エドモンド・オブライエン、ブラッドフォード・ディルマンなどというクセ者役者が全員オーバーアクト満開で楽しませてくれた。林海象や三池崇史など、この映画からだいぶ影響を受けているはずである。この映画でハリスはモデル出身のアン・ターケル(17歳年下)と出会い、結婚したのだが、どうもこの女はサゲマンだったらしい。それ以降のハリスの主演映画は、『オルカ』『黄金のランデブー』『未来元年・破壊都市』などと何かパッとしなくなり、日本公開作品も減って、主演俳優の座からとうとうすべり落ちてしまう。そして、彼女と離婚した1981年、サーの称号を得て、それからは脇役ではあるが光る演技がまた認められ、晩年の作品歴を充実したもので飾ることになるのである。

【山本夏彦】

日記 :: 2002年 :: 10月 :: 26日(土曜日)
そしてもう一人、日本を代表する名エッセイスト、山本夏彦氏が胃ガンにて死去、87歳。ハリスと同じく反骨とひねくれが売り物であった人である。ここ10年くらいのエッセイはさすがに同じことを繰り返すばかりで力量が衰えた感があったが、これまたハリスと同じく70年代半ばから80年代にかけて、私は、いや私ばかりでない、読書のし過ぎで名文中毒になった本好き連中、こぞって山本夏彦エッセイのトリコになり、賛仰者になり、信者となった。徹底した保守主義者で、一部の左翼からは批判もあったが、その文章の、一種居合抜きにも似た切れ味の凄みは、大げさに言えば“日本語というのはここまで洗練されうるものか”という驚きを読む方に与え、思想の左右を問わずファンとなるものも多かった。タクシーを最後まで“タキシー”と表現する、時代錯誤と言いたくなるほどのガンコさと、そのくせテレビのアイドルの変遷などにやたら詳しいジャーナリストとしての好奇心を合わせもっていた。お年寄りの医療費を無料に、とマスコミが言えば『タダほど悪いものはない』と書き、世界がアポロに熱狂すれば『何用あって月世界へ』と書き、“月は行くものではない、眺めるものである”と名言を吐いた。一握りの進歩主義者たちが大衆を蔑視し、先端こそ文化人の居所と騒いでいるとき、ただ一人、新しすぎるものが万人にいいものであるわけがない、と書き、一人の天才に大衆がくっついていった歴史の悲劇を語った。
「ヒトラーもスターリンも、今は犬畜生だが、以前は神人か天才だった。天才なら仰いで一言もなくついて行けば、どこかへつれていってくれる。そこはいいところに決まっている。自分の考えもなく、言葉もなく、晴れてみんなで追従できるのだもの、こんなうれしいことはない。万一しくじっても、それは天才のせいで、凡夫のせいではない。昔なら英雄豪傑、今なら革命家の出現を、いつも、彼ら(また、おお我ら)は待っている。待っていれば、いつかは必ずあらわれる。私はそれをとがめているのではない、とがめて甲斐ないことだから、ただ無念に思っているのである」(『毒言独語』より『大衆は大衆に絶望する』)
さっき『佛教暴露』のところでも書いたが、私は山本氏よりももう少し、大衆というものを信頼している。しかし、その弱さも十分に認識しているつもりだ。とまれ、大衆よ、大衆に絶望するな。天才を待つな、という私の根本の思想は、山本夏彦をその根元とする。つつしんで冥福をお祈りし、あわせて出版書律に、彼がそのひねくれ精神で最後まで復刻を認めなかった戦前の名訳『年を経た鰐の話』を、ぜひこの際に復刻していただきたいとお願いするものである。

【椋陽児】

日記 :: 2002年 :: 10月 :: 27日(日曜日)
ところで調べたら椋陽児氏は昨年7月、死去されていた。享年72歳。縄と女、というよりもっと露骨に言えば縄と少女というモチーフを追い続けた“絵師”。最近は絵師という言葉はSM画家を指す言葉になってしまった感があるが、ゲイジュツカをきどらず、しかしアートをはるかに超えてひとつのテーマを追い求める求道の心が、この分野にしかもはや残っていないということではないか。一年以上の遅れだが、黙祷。

【高坂和導】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 01日(金曜日)
あと、竹内文書で有名な高坂和導氏死去の報がと学会MLにあり。“色が濃いのがイロコイインディアン”“ああ、ぱっちし(バッチリ)見事なのがアパッチインディアン”(『[竹内文書]超古代アメリカを行く』)の人である。まあ、はっきり言えば芳しくない噂ばかりの人で、ニフティのパソ通時代に、詐欺師として騒がれたりもしていた。別の視点から見ればいかにもアヤシゲなオカルト業界人種の典型として(顔もヒゲも極めてアヤシくてよかった)興味深い人であった。バイオ・メディカル・サイエンスの博士号をアメリカの何とか言う聞いたことのない大学から取得したと言っていたし、その前は宇宙人から高エネルギーの凝縮された杖を貰って、これにふれれば全ての病気が治るとか称していたにもかかわらず、脳溢血で55歳の若死に。あまり世間的には悼まれない人であろうとは思うので、裏モノ的にここで追悼の意を表しておく。

【安田卓矢】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 02日(土曜日)
郵便受に入っていた日本漫画新聞、普段はまず目も通さないのだが、ちらと見たら安田卓矢氏死去の報あり。68歳。8月8日とかなり前。企業キャラクターデザインの第一人者で、三菱ビーバーエアコンのあのビーバーのキャラクターをデザインした人である。今の日本で安田卓矢という名を知っている人は1パーセントにも満たないと思うが、ビーバー、と言ったら日本人の70パーセントくらいはあのビーバーを思い浮かべるのではないか?

【ジョナサン・ハリス】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 07日(木曜日)
読売新聞に『宇宙家族ロビンソン』のドクター・スミスことジョナサン・ハリス死去の報。87歳。この役以外、テレビではゲスト出演していたのを二、三回見たきりだったが、新聞によると『トイ・ストーリー』に声の出演をしていたらしい。観てないので知らなかった。熊倉一雄のあのクセのある吹き替えの口調が印象に強いが、原語版で見てみると、女性みたいに優しい声で、実に折目正しい英語を使っていた。気障、というキャラクターだったのだろう。同時代に日本のマンガでは、赤塚不二夫がイヤミというキャラクターを『おそ松くん』で登場させていたが、日米で、こういうキャラが子供たちに人気だったのは面白い。ドクター・スミスも、嫌われ者ではあったが唯一人、ロビンソン博士の息子のウィルとは仲良しだった。好奇心あふれる子供というのは、いい人よりも、こういう、ちょっと悪いことを教えてくれるような大人の方を好きになるのである。

【秦野章】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 08日(金曜日)
同じ夕刊に、元法務大臣秦野章氏死去の報。91歳。東大紛争の際の警視総監だったそうだが、私らの世代には都知事選で美濃部亮吉氏と争った人、の印象が強い。札幌在住でなんで東京の都知事選が印象に残っているかと言えば、当時の新聞マンガがのきなみこのことを取り上げていたからで(『サザエさん』でも波平が占い師に“ミノベが勝つかねハタノかね”と難しい顔で訊くというのがあった)、さらに『少年マガジン』でも、みなもと太郎の『ホモホモ7』で、レスレス・ブロックの会議になぜか突然秦野氏が出てきて、“あちらがだめならこちらを引っ張り出そうと言うのではまるで昭和元禄田舎芝居じゃないのかね”と、候補に擁立されたときに吐いて有名になった辞退のセリフ(でも結局出た)を言い、レスレス・ブロックの女隊長に“人のこと言えた義理かてめえっ!”とケッ飛ばされて退場、というギャグがあった。こん なことで記憶に残されていると知ったら、秦野氏も嘆くであろうが。

【范文雀】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 09日(土曜日)
読売朝刊に范文雀死去とあって驚く。まだ54歳。K子は『サインはV』ファンだったので、“ジュン・サンダースが死んだ”と教える。“えっ、骨肉腫?”と、すぐ出てくるのがいかにもK子である。半分弱、なんてふざけた名前なので、てっきりニセ中国人(李香蘭とか)だとばかり思っていたら、本当に両親が中国人。その後は推理ドラマなどの常連になっていたが、このヒトくらい“いわくありげ”という形容詞のぴったりくる女性を演じられる女優はいなかったな。ジュン・サンダースも、『プレイガール』のユーミン・ダロ ワ(何て名だ)も、しっかりいわくありげだったし。

【ジェームズ・コバーン】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 20日(水曜日)
朝刊にジェームズ・コバーン死去の報。72歳。『荒野の七人』の……と新聞には大書。まあ、『電撃フリント』の、とか『戦争のはらわた』の、とも書けまい。ブルース・リーの弟子、それも高弟、というのは有名なのだろうか。同じく弟子で脚本家のスターリング・シリファント(いま話題の『アルジャーノンに花束を』の68年の映画化の際の脚本家でもある)と、師匠主演予定で脚本を担当(!)した大怪作ニューエイジ・カンフー映画『サイレント・フルート』なんてのもあったなあ。と、思って調べてみたら、なんとDVDがついこないだ(11月6日)に発売になっていたのには驚いた。こんなものまで出るとは。ビデオで出たときは『超戦士伝説ジタン』などという、ロボットアニメみたいなタイトルがつけられていたものだが。とにかく、アメリカ人が東洋思想を自己流に解釈して話にしたらこうなる、という奇々怪々な作品であった。浪人時代、浅草の名画座で観客が私一人という状況でこの映画を観て、こんなところでこんな作品をぽつねんと観ている自分がとてつもなく情けなくなり、急性の鬱に襲われたことをまざまざと思い出す。

【菜摘ひかる】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 22日(金曜日)
昨日風俗嬢作家の菜摘ひかるがこの4日に死去したというニュースを知って驚いたところ(まだ29歳)であったが、今朝の新聞に高円宮殿下急逝の報。皇族で逆縁となる(父親は三笠宮崇仁親王)のは珍しいのではないか。菜摘ひかると並べては不敬かとも思うが、しかし、こちらも47歳という若さの突然死である。菜摘よりも年齢差がないだけに、人ごとじゃない。カナダ大使館で死んだ、と聞き、一瞬、アタマの中にサウスパークの『BLAME CANADA』のメロディーが響くが、あちらの大使とスカッシュ競技の最中に心臓発作(心室細動)で突然倒れて死去した、と報道にはある。心室細動は調べてみると、全身の状態が極度に悪化しているときに起こる症状であるとか。疲れや、それに関係するストレスが相当あったのではないか。

【サンダー杉山】

日記 :: 2002年 :: 11月 :: 24日(日曜日)
新聞に訃報、元プロレスラー、サンダー杉山死去、62歳。案外若かった。国際プロレスで一時はエースの座にあった人だった。必殺技が“雷電ドロップ”。要するにマットに倒した相手選手の上にジャンプして尻餅を落とすというあまりカッコよくない技で、いかにも国際プロレスといった感じで味があった。試合運びを見ていても、どこか人のよさを感じさせてしまうのも、国際プロレス出身者の悲しい特長だったかもしれない。引退後は俳優となったが、大抵ヤクザの用心棒とか、酒場の暴れ者とかばかりで、あまり大きな役をやっていたのは見たことがない。和田勉監督の『ハリマオ』で山下泰文を演じていたのが一番大きな役柄か。『宇宙からのメッセージ』では額にダイヤモンド型のシールを貼り付けただけ(下はTシャツ)で、宇宙人(でも、やはり酒場の暴れ者)を演じていた。それでも、一ぺん見たら忘れられないキャラクターで、その顔をいかして、自社『サンダー杉山コーポレーション』は業界で確固たる地位を築き、飲食業経営などで年商35億の利益を上げていたという。糖尿病で両足右腕を切断という状態だったというが、最後まで意気軒昂であったというのに何となくホッとするものを感じる。

【家永三郎】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 02日(月曜日)
しかし、今朝の家永三郎氏の訃報記事は、久々に明確な対立があって興味深かった。読売が家永氏の教科書訴訟を検定制度に一石を投じたとして評価、「九七年の第三次訴訟の最高裁判決は、『七三一部隊』関係の記述削除を求めた文部省の検定意見を違法と判断するなど、初めて一部勝訴が確定」と裁判に勝ったように書き“検定意見に「見過ごし難い誤り」があった場合、「国による裁量権の逸脱」として違法性を認める司法判断が定着”と、効果があったとい う見方をとっているが、産経新聞の方は
「最終的にはいずれの訴訟も敗訴に終わり、検定制度を合憲とする司法判断が定着」 と、まったく逆の書き方で、“家永氏が脚光を浴びた時代はすでに終わっている” と切り捨てている。
私たちの世代は家永裁判をずっとリアルタイムで追っかけながら教科書を使っていた世代であったが、あまりその認識はない。そもそも、現場の中学・高校生にとっては、近代史などは受験にはほとんど出ないためにスッ飛ばされるものであり、あまり現実的な問題ではなかったのである。家永氏の著作を初めて読んだのは大学生になってからだったが、文章の行間からにじみでる、そのルサンチマンの凄まじさに圧倒されて、なるほど、これはカリスマ人間であるかもしれない、と感心した。家永氏の持つ強烈なパーソナリティがなければ、教科書裁判も、あそこまで事が大きくはならなかったろう。どっちも“何だかなあ”で済んでしまっていたのではないか。そんな気がする。保守主義者のよく言う“自虐史観”なる言葉はあまり好きではないが、こと家永氏に関してはまさに自虐癖があったのではないかと思える筆致が読みとれ、子孫は親の世代の戦争責任を自動的に相続し、永遠にその責めを負い続けねばならぬという主張にはなにか『累ケ淵』のような因果ものを読むのと同じ恐怖感に襲われ、これはたまらん、と感じてしまったものである。現在、この教科書裁判世代に小林よしのり氏をはじめとする逆コース的愛国主義熱が高まっているのは、若いころに家永氏の 戦争責任論にオビエた、その反作用という性格があるのではないか。

【イリイチ】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 04日(水曜日)
ネットニュースでイリイチ死去の報。博多にはイリイチの明太子というのがあるがそそっかしいおくやみが会社に舞い込んでいはしまいか。十五年くらい前に、この人の“バナキュラーな世界”という概念を初めて知ったときはちょっとした知的興奮を覚えた。と、いうのも、その当時吹き荒れていた(今でもか)フェミニズム思想による男女差の否定に対し、頭では理解できても、しかし実質的、オトコとオンナは違うしなあ、と直感で抵抗を感じていたところに、男女の本質的な性差を論の基本とするバナキュラー説が出てきて、民俗学までをも取り入れたイリイチの論に、“まず、どう考えてもこっちの方が自然だよな”と賛同した。しかしバナキュラー論は、フェミニズム論者からは保守的と見られたようだが、それを紹介していた山本哲史(政治社会学者)が“危険思想”といみじくも言っていたごとく、実は社会的、文化的、地域的束縛を全てはぎとった“個人”中心の近代生産社会全ての否定(と言って過激にすぎれば見直し)を要求するものであり、大変にアナーキーな思想でもある。そこらへんにまたゾクゾクするような魅力もあった。もうひとつ、本職は歴史学者であったイリイチの、性差(ジェンダー)がかつては天地万物全てを把握するコスモロジーの基本にあった、という考え方(男女の役割分担により、そのそれぞれに属する自然、概念、道具、全てにジェンダーが与えられた)で、当時もう一度第二外国語に挑戦しようとして、その毎度の挫折のきっかけになっていた男性名詞女性名詞という考え方の発生のモトが見えた気がして、ナルホド! と膝を打ったものであった。

【ウィリアム・ヘンソン】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 07日(土曜日)
産経新聞の訃報欄にウィリアム・ヘンソン死去の報。亡くなったのは今週初めだそうだが、テキサス州ダラス郊外で車にはねられ、病院で死去、78歳。
「ウォルト・ディズニーで『ピーターと狼』などのアニメ映画を製作。シマリス兄弟のキャラクター、チップ&デールを生み出した。その後メキシコでスタジオを率い、リスのロッキー、ヘラジカのブルウィンクル、ボリス&ナターシャなどのキャラクターを創作した」
 おい、ロッキーはリスじゃないぞ、と思ってNEWS@niftyを見てみたら、こっちはムササビと書いてあった。正確にはあれはflying squirrelだからモモンガなのであるが(ムササビはジャイアント・フライング・スクゥアレルである)。テレビではナレーション(牟田悌三)が“空飛ぶリス”と言ってたか。それにしてもロッキーくんのアニメがメキシコで作られていたとは知らなかった。
http://www.charlotte.com/mld/charlotte/entertainment/events/4674167.htm
 ここを見ると、『おばけのキャスパー』も彼が作ったキャラクターだとある。ロッキーもキャスパーも、日本では“アニメとしての質が低い”ということでまったく評価されない作品だったが、アメリカ人にとっては血肉とも言うべきキャラクターで、どちらも後に実写映画化されている。大衆文化は質じゃない、ということがよくわかる事実であると思う。

【ウィリアム・ヘンソン】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 09日(月曜日)
ところで、同じく情報というのがたよりないことであるという事件。おとつい、産経新聞に載ったウィリアム・ヘンソンの訃報であるが、訃報記事を見たあと、
http://www.inkyfingers.com/Jenna/R&B.main.htm
などに行ってみたのだが、ヘンソンの名前はどこにもない。生みの親は同じウィリアムでも、Wiliam Hurtzだ、とある。カートゥーンMLで、やはりおかしいと思って調べた人がいて、経歴がかなりこの二人は一致することから、どうも、ハーツ(2000年10月に死去)とゴッチャになったのではないか、との書き込みがあった。確かにヘンソンも、キャスパーのあとメキシコに行っているが、それは先に渡っていたハーツから協力を依頼されてのことである。あくまでもヘンソンは、これらの作品に関わっていたというだけで、創作したとか、生みの親であった、という事実はないとのこと。英文記事の“his works”というのを、createとカン違いしてしまったのだろう。まあ、日本でも宮崎駿を“『ルパン三世』の生みの親”とか書いてる記事を見ることがあるしねえ。

【千葉茂】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 11日(水曜日)
食い終わって、調整豆乳飲みながら古新聞を読む。千葉茂氏死去(10日)の報があるが、この人の活躍期には、私はまるでカブらないので、野球関係でのイメージはわかない。カツカレーの確か発案者だった、ということで名前を記憶している。カツライスとカレーを別々に食べるのがめんどくさいので、カレーの上にカツを乗っけて持ってきてくれ、と頼んだのが始まりだそうな。ところで、黒澤明が自作の映画『七人の侍』のことを表して“トンカツとビフテキを盛り合わせて、その上にカレーをぶっかけたような映画”と言っていた。黒澤は比喩で言ったんだろうが、千葉氏が何かでこれを目にして、うまそうだと思い、たまたまいきつけの洋食屋(銀座3丁目のグリルスイス)でカツライスを頼んだとき、ふと“カレーをかけてみてくれよ”と頼んだというようなことは……などと空想して楽しむ。

【ブラッド・デクスター】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 15日(日曜日)
新聞にブラッド・デクスター死去の報。『荒野の七人』仲間の一人、ジェームズ・コバーンの後を追うようにして、か。七人を演じた役者の名前を指折って数えていくと、この人でつまづく。実のところ、死んでいく四人の中では一番カッコいい死に方をしているんだが、他の連中がそれぞれその後ビッグになったのに、この人のみはプロデューサー業に色気を出して、そのために俳優の方はおルスになってしまった感がある。占領下の日本を舞台にしたロバート・フラーの怪作アクション『東京暗黒街』にも出演して来日しているし、『シャンプー』での珍演は、“これがあの『荒野の七人』の人か?”と驚くようなものだった。演技力がある分、スターになりきれなかった人なのだろう。

【伊藤昌哉】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 17日(火曜日)
政治評論家・伊藤昌哉氏死去。85歳。こう言ってはなんだが、週刊誌などで顔を見るたびに、“しっかしひどいご面相の人だなあ!”と思っていた。あだ名が “ブーチャン”。ブーチャンとは戦後人気を博したジャズ・ピアニスト兼コメディアンの市村俊幸(黒澤の『生きる』でカチューシャの唄を弾く)の愛称だが、伊藤氏の場合は単に太って豚鼻だったから、のブーチャンであったろう。池田勇人の秘書官時代に、“これからの政治家はマスコミ向けの顔を持たなければいけない”と、冷たい感じのする銀縁眼鏡を鼈甲に変えさせ、庶民派をアピールするために記者会見でカレーライスを食べさせた。新時代を見越した名伯楽と称されたが、これも、自分が外見で若い 頃に悩んだ経験からの知恵ではなかったか?

【笠原和夫】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 17日(火曜日)
そう言えば書き落としていたが、昨日は脚本家・笠原和夫氏が肺炎で死去の報。享年75歳。新宿東映で学生時代、夏休みの帰郷を延ばしてまで『仁義なき戦い』全作品一挙上映オールナイトを観たときの、何というのか、凄いものを観たという疲労感と満足感のないまぜになった気分(館内にヤブ蚊がいて、サンダルばきだった私は右足の薬指を刺されて真っ赤に腫れ上がっていた)は忘れられない。娯楽映画というものが、ここまで人間を描き切れるのだ、という衝撃を私に与えてくれた作品だった。若いころにマキノ正博、佐々木康、佐伯清、沢島忠といった娯楽派の大家と組んでさんざしごかれた(と思う)経験と、後年にやや右傾化した作品を多く書いた原動力になった、戦後の日本人に対する思いが、ちょうどうまくバランスのとれた時期に、深作欣二、菅原文太という才能と出会うという、希有な運命の邂逅がもたらした、あれは奇跡のような作品であったと思う。……とはいえ、それで大家になって以降の作品にはどうもトホホなもの(『オーディーン・光子帆船スターライト』などのアニメも含めて)が多かったのも確かで、中でも“なんでアイドル映画の脚本をこの人に書かせるのか”と呆れた、中森明菜・近藤真彦主演の『愛・旅立ち』は、不治の病におかされた薄倖の少女・明菜の愛読書が『耳なし芳一』で、その芳一が明菜に死後の世界を案内するという、もう本当にワケツワカラン作品になっていた。今観たら、絶対に こっちの方が好きになるだろうが。

【ジョージ・ロイ・ヒル】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 28日(土曜日)
夕刊にジョージ・ロイ・ヒル死去の報、81歳という高齢に驚く。アメリカン・ニュー・シネマの旗手としてとにかく、“新しい人”というイメージがあったからなんだが。

【ケネス・トビー】

日記 :: 2002年 :: 12月 :: 28日(土曜日)
同じく訃報欄に小さくケネス・トビー死去の報。85歳。『遊星よりの物体X』『水爆と深海の怪物』の主役、の他、出演作が『OK牧場の決闘』『原子怪獣現る』『機関車大追跡』というのだから、古い々々。この人とたった4つしか年が違わないということを見ても、改めてジョージ・ロイ・ヒルのイメージの新しさが理解できる。












最終更新:2010年02月19日 22:56
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