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訃報日記2003:01月〜03月

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【蔵原惟繕】

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 05日(日曜日)
『南極物語』の監督、蔵原惟繕氏死去。去年の12月28日に亡くなっていたとのこと。日活出身で、かの無国籍アクションの極北のような怪作『メキシコ無宿』を監督したヒト、ということで私の中では偉大である。あと、ショーケンが『エマニエル夫人』のスケベ爺さんアラン・キュニーにオカマを掘られる『雨のアムステルダム』という映画を高校のとき観にいって、変梃なものじゃと思ったのを記憶している。映画関連ではもう一人、『モンティ・パイソン』のプロデューサー(『モンティ・パイソン・アンド・ナウ』の監督)イアン・マクノートン死去。これも昨年12月10日。スポニチアネックスの訃報情報では“俳優・監督”となっていた。『怪獣ウラン』のキャストにあるイアン・マクノートンというのは彼なんだろうか。植木不等式氏の日記で、若い頃の作品に『ハギス・未知なるX』というフィルムがあるという話があったが、『怪獣ウラン』の原題が『X:THE UNKNOWN』であることを考えると、どうも自己出演作のパロディっぽい。と、いうか、このフィルムのこと自体、パイソン流のジョークではないかと思えてくる。

【深作欣二】

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 13日(月曜日)
新聞に大きく深作欣二監督死去の報。つい先月、『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和雄が死んだばかり。続くなあ。スーパーモーニングではその人生を絶賛しながらも、荻野目慶子との不倫のこともちゃんと触れており、感心。しかし松坂慶子、荻野目慶子と連続不倫したときには、慶子という名前フェチだったのかと思ったな。
その荻野目慶子の書いた不倫暴露本で、前立腺摘出手術をすれば命が延びると言われ、命より男性としての機能を選ぶ、というマッチョイズムの美学を貫いたということが書かれている、とテレビで紹介されており、なかなかスゴい、と、すぐネットでその本を注文。好きだねオレも。世の中に対する闘争心、反骨精神を最後まで貫き通して遺作『バトルロワイアル』を大ヒットさせたのは、黒澤明などよりずっと映画人として恵まれた晩年だったのではないかと思う。作品中一本だけ選ぶとしたら、もちろん『仁義なき戦い』を挙げたいのは山々だが、青臭い映画少年だった頃の思い出に免じて、『軍旗はためく下に』をあげさせてほしい。一時極端な反戦思想カブレだった私の、思想的基盤みたいになっていた作品であることはおいても、夫の戦地での不可解な処刑死の謎を、戦後になって教養もない老いた妻が解き明かそうとして、かつての軍隊時代の人々の話を聞いて回る、という現代版『羅生門』とも言うべきミステリ作品として完成度が高い作品だった。

 ただし、深作監督フィルモグラフィー中、汚点というよりは異点、珍点というべきなのがそのSF作品群である。この人はまさに戦後闇市の暗黒の中から情念を全身にべっとりまとわりつかせて這い上がってきた人であり、そういう情念を切り捨てたと ころで成り立っているSFという世界を描くと、とたんにどうしようもない駄作ばかりを連発した。会社もまあ、どうしてそれなのに次々とこの人にSF・ファンタジーを撮らせ続けたか。『ガンマ3号宇宙大作戦』、『宇宙からのメッセージ』、『復活の日』、『魔界転生』、『里見八犬伝』……思い出すだけで頭を抱えたくなるものばかり。まあ、それもこの人の場合ご愛敬か。最後の作品であるバトロワが血まみれで はあれ、ファンタジーなんだし、それでモトはとったということか?

【榎本滋民】

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 17日(金曜日)
新聞に秋山庄太郎氏死去の報。82歳。しかしそれよりもその隣の、榎本滋民氏宅全焼、焼け跡の焼死体は榎本氏か? という記事が気になる。容易に判別できぬほど黒焦げになっていたということか。腹ンとこだけ生焼けに……(などという不謹慎なギャグを落語ファンはみな、思い浮かべたと思うが)。TBSの落語特選会での山本文郎とのコンビの姿が真っ先に思い浮かぶ。あのシャツの趣味はどうにかならないかとか、みな言っていたものだが。

【田中明夫】

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 21日(火曜日)
俳優・田中明夫氏死去。76歳。例により特撮作品先行で行くと、『鉄腕アトム』実写版のお茶の水博士(ただし第一部のみ)、そして『ウルトラマン前夜祭』の怪獣 博士と、初期オタクたちにとって忘れがたい二大博士役を務めている。一般には大岡越前、水戸黄門という二大長命時代劇の悪代官・悪商人役で有名だが、吹き替えマニアには『オリエント急行殺人事件』のアルバート・フィニー、『ナイル殺人事件』のピーター・ユスチノフという、二大エルキュール・ポアロをアテた人として記憶に残る。何か“二大”がつきまとう人だな。声優で、劇団四季出身という経歴が新聞に報じられているので、ああ、新劇俳優さんがアルバイトで声優をやっていたんだな、と思うところだが、キネマ旬報『日本映画俳優全集』によれば、最初声優として名前が売れ、その後に四季に入って舞台俳優に転向したんだそうである。

【松田定次】

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 24日(金曜日)
映画監督松田定次死去。九十六歳。マキノ省三が愛人に生ませた子であったが、結果として正妻の子(マキノ雅広)、メカケの子と、二人が二人大監督になった。日本映画の主・マキノ省三の遺伝子の濃さよ。例えてみればマキノ雅広は談志、松田定次は志ん朝という芸風であった。個性の押し売りはせず、スターをきちんと立て、白塗りの顔をライトでぴっかぴかに照らして撮る。マキノ雅広だったらさまざまな工夫をこらして演出するであろうところを、松田定次は真っ正面からどーん、とストレートに出す。大味ではあるが、横綱相撲だ。両者のフィルモグラフィーを比べて見ればわかるが、兄・雅広が次郎長ものや国定忠治などの任侠映画が多く、武士の主人公でも丹下左膳のようなアウトローや遠山金四郎など横紙破りなキャラクターが主なのに対し、弟・定次は旗本退屈男、新吾十番勝負のように折り目正しい、正統派ヒーローを描くことに長けていた。仮面ライダーシリーズを生んだ平山亨プロデューサーはこの松田監督の直弟子である。初期仮面ライダーシリーズが持つ、ヒーローとしての折り目正しさは、松田定次譲りなのだ。この折り目正しさ、時代劇とかでは完璧に効果を発揮するのだが、現代劇となるとどうもトチ狂う。時代劇のセオリーをそのまま現代に持ってきた『多羅尾伴内』シリーズなど、どうみても非現実というよりはシュールな世界が展開してしまう(今、見るとこの映画は古い作品だからこんな変てこなのだろうと思いがちだが、とんでもない、当時から変てこだったのだ)のだが、しかし、この徹底した浮世離れぶりあればこそ、“ある時は片目の運転手……”というセリフがいまだに通用する生命を持ち得ているのである。現実世界にいない者は年をとりようがない。松田作品は今見ても、時の風触から逃れ、見事に華やかにカッコいい。
一本、作品を選ぶなら、以前にもこの日記で取り上げた記憶のある、『赤穂浪士・天の巻・地の巻』。重厚なセットと、様式美の美しさを徹底追及した演出。ことに内匠頭(東千代之介)が切腹の場に向かうシーン、庭からそれを見送る片岡源五(原健策)との対面の、月明かりの下でのしびれるような構図は、黄金期にあった日本映画 の美学の粋が感じられる、圧倒的な名場面だった。


【長高橋俊昌】現役編集長

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 26日(日曜日)
昨日のニュースで、ジャンプの現役編集長高橋俊昌氏が24日に死去との報。ワンピースの映画の製作発表の最中にいきなり倒れて亡くなったとのこと。使い古された言葉ではあるが戦死、というのが最も適当している。死を悼みながらも、同業者間の会話は“いつかはこういうことになると思ったが”に収斂されていくであろう。出版関係者の葬儀の席での話は“この仕事は体に悪いでなあ”というものばかりで、作家組合だか石屋の組合だかわからない、と嘆いたのは阿川弘之だったか。私もこのところ、朝方など、心臓のへんがケッタイしたりしている。人ごとではない。まあ確かに、体には悪い仕事 だでなあ。
しかし、悼みはしても同情はあまり出来ないのはその直前に『B−GEEKS』の10号で、ジャンプの短期間打ち切り作家たちの悲惨な有様を紹介した『ちゆまんが大王』を読んでいたせいか。今年の新年第一号で切られた(何もおめでたい新春第一号で切らずとも)という道元宗紀など、この訃報をなんと聞いたか。1998年、新連載がわずか15週打ち切りのあと、まだ20代で“ストレス性栄養失調”でこの世去ったしんがぎんという人もいる(まだ高橋編集長就任前であるが)。いや、とはいえプロの世界だ、こういうことは最初から覚悟の上でなくてはマンガ家などになれはしない。しかし、マンガ雑誌編集というのは、常にこういう消えていった者たちの怨念を肩に背負う、因果な職業だということは覚えておいた方がいい。


【アンソニー・M・ドーソン】

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 27日(月曜日)
昨日も出たが三才ブックスの『B−GEEKS』、またパラパラやっていたら、坂口亜紀の映画コラムで、アンソニー・M・ドーソンが去年死んだ(11月)と書いてあった。あわててネットで検索したら、ビデオマーケットでもドーソン追悼とかやっているじゃないですか。ショック、とまで言うとウソになるが、いわゆるマカロニの名に恥じぬ、感動的なまでにB級一直線のカツドウヤ人生は、私のあこがれみたいなものであった。ベトナムで人肉の味を覚えた兵士が帰国しても人を食いまくるようになるという、ストーリィを書くだけでも呆れ返るB級映画『地獄の謝肉祭』とか、槍に突き刺された心臓がその穂先に引っかかって飛び出し、そこでまだドックンドックン動いているという『悪魔のはらわた』(監督表記はアンディ・ウォーホルの弟子のポール・モリセイだが、実質的監督はアントニオ・マルゲリティ名義のドーソン)だとか、とにかく良識だの質だのに一切こだわらない見世物的演出を、しかもオタク的でも職人的でもない“商売人気質”で(“撮影に入る前にチェックするのは小切手の後ろのゼロの数で、シナリオなんかじゃない”という名言を吐いている)撮りまくった人であった。死去を伝える下記サイトでも、彼の肩書きは“PROLIFIC(多 作な)FILM DIRECTOR”となっている。
http://www.senseofview.de/newsticker.php?read=110
まぎらわしい名に『ダイヤルMを回せ』のハサミで刺し殺される殺し屋や、『ドクター・ノオ』のデント教授、さらに『ロシアより愛を込めて』・『サンダーボール作戦』のブロフェルドの後ろ姿などを演じたベテラン俳優アンソニー・ドーソンがおり(彼は1992年に死去)、確か70年代に、TVの洋画劇場で彼の『惑星からの侵略』を見たときも、解説者が“この監督は007映画にも出ていて……”と言っていた記憶がある。しかし、それでまあ、名前が脳裏に焼き付いたことは確かで、怪奇映画ファンにはもはや昔がたりの、1986年、九段のイタリア文化会館で行われたイタリア映画上映会(チネテーカ・イタリアーナ)にわざわざ無字幕イタリア映画を観に出かけて行ったのも、ドーソンことマルゲリティ監督の『幽霊屋敷の邪淫(プログラムのタイトルは『死の舞』だった)』が上映されると知ったからだった。やや太り気味の、あまり似ていないエドガー・アラン・ポーが狂言回しになっていたその映画は、アンニュイ感あふれる幻想ムードの上質な怪談に仕上がっており、もっとB級の怪奇映画を予想していた私に、思わぬ感心をさせてしまった。そう、このヒトは同じB級監督でも、エド・ウッドのように、作ったものが結果としてB級になっているのではなく、最初からB級映画をめざして作っている、実は才能ある人なのであった。商売人監督として長年の間、通用してきたのは、乱作の底に安定した質のものを送り出し続ける技術が彼にあったからである。信じられない、信じたくないという人も多いと思うが、しかし、彼の才能は私ばかりではない、もっとウルトラ級の大物が認めている。かのスタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮る際に、スタッフとして手塚治虫を招こうとしたのは有名な話だが、そのとき一緒に呼ばれていて、一緒に断ったのがこの、アンソニー・M・ドーソンなのである。何故か手塚ファンはその事実をあまり語りたがらないのであるが。


【ザ・シーク】アラビアの怪人

日記 :: 2003年 :: 01月 :: 28日(火曜日)
昨日のアンソニー・M・ドーソンの件もあって、見のがしていた訃報がなかったかと検索してみたら、なんと18日にアラビアの怪人ことザ・シークが亡くなっていたのがわかった。享年72歳。火を噴く怪奇レスラーとして、真樹日佐夫/一峰大二の『プロレス悪役シリーズ』以来、日本のファンにおなじみだった。もっとも、梶原兄弟はあまりシークがお好きでなかったらしく、『悪役シリーズ』ではほとんどの悪役レスラーを“本当はいい人”として描いているのに、シークだけは汚いトリックを使う(香炉の煙にまぎれて美女アシスタントが相手レスラーにしびれ薬を塗った吹矢を吹くというお笑い)インチキレスラーとしているし、後の梶原一騎による『プロレススーパースター列伝』でも、新人レスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーを徹底していじめぬく悪役として描いていた。まあ私などの世代が見たシークはすでに50を超えた老レスラーでしかなかったが、それでも何度も何度も日本に招かれていたというのは、プロモーター業界の大立て者だったという他に、エンターテイナー・レスラーとしての実力が群を抜いていたからであろう。K−1もパンクラスも結構だが、商業的格闘技というものには絶対にケレンの要素が必要なのだ。彼に学ぶことが今の若手にも、まだまだ多かったはずである。高校生のころ、レスラーの発する奇怪な文句を暗記するというのが流行って、ブッチャーが“マカラカシトモマカラ”、タイガー・ジェット・シンが“ハッタラマタハタラー”、そしてシークが“マキマキッ”であった。大学に入ってからも、酒飲んで議論しながら、よくマキマキッ、とかわめいていたなあ、あの頃。


【板坂剛】

日記 :: 2003年 :: 02月 :: 05日(水曜日)
ネットで“板坂剛氏死去”と出ていたので、『飯島愛の真実』の著者か、と思って読んだら、元日研化学取締役の人だった。フラメンコダンサー兼スキャンダルライター板坂剛については去年の暮れにカスミ書房で先鋭疾風叢書I『板坂剛の世界』を購入したが、刊行の1981年当時には嫌悪感(というより軽蔑感)しかなかった乗り遅れ革命家独特の臭みが、今見ると時代遺産としてなかなかいい感じに熟成していた。時間によるイメージの変化は大したものだなあ、と思ったものだ。死ねばもっと好意 的に見られるのではないか、と思うのだが。


【生島治郎】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 03日(月曜日)
新宿駅のキオスクの新聞見出しで、生島治郎の死去を知る。70歳。小泉喜美子の悲しい死のニュース以来、イメージがどうしても悪い方に向かう。編集者出身でありながら、作家志望の女性(しかも自分の編集していた雑誌に応募してきた)と結婚する際、家庭をとるか作家の道をとるか、と選択させたなどというのは、本人はいろいろ言訳しているが、およそプロとは言えまい。好きな作品(『頭の中の昏い唄』とか)も多々あるのだが、晩年の作品のボケ具合(ことに『暗雲』とかは、別の意味で面白かったほど文章もひどくなっていた)を見た身には、出来れば小泉喜美子と死去の時期を逆転させてほしかったと、これは本気でそう思う。


【ホルスト・ブッフホルツ】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 04日(火曜日)
読売夕刊にホルスト・ブッフホルツ死去の報。69歳。『荒野の七人』がこのところ、コバーン、デクスターと次々逝く。演技力ある青春スターとして、一時はあのビリー・ワイルダーの映画(『ワン・ツー・スリー!』)にも出演したが、ドイツ出身らしく華やかさに欠けたせいか、中年以降どうもパッとせず、アーウィン・アレンの駄ッ作SFTVムービー『アトランチスの謎』(けっこう好きだったりするんだが。悪役はバージェス・メレディスだし、ホセ・ファーラーとメル・ファーラーのチャンバラ対決、なんて珍なものも見られるし)ではアトランチスの王子という情けないマンガチックな役で登場。『アバランチ・エクスプレス』では、どこに出ていたのかも思い出せない薄い印象でしかなかった。



【井上瑤】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 06日(木曜日)
読売新聞に声優・井上瑤さん死去の報。2月28日死去とのことで、ネットでは既にあちこちで広まっていた。ああ、若い声優さんが、と思って年齢を見たら56歳。私にとっては若手、というイメージだったんだがな。彼女の声で “軟弱者!”と叱られてみたい、と切望したオタクは多かろう。本人はそのセイラ役でイメージが固まってしまい、色っぽい役が来なくなったと晩年のインタビューで語っていた。小説版だと色っぽくないどころかアムロの初体験の相手で、終えたあと“乳首って、意外と小さいんだな”という珍感想を吐かせるのだが。きびしい女性の乳首が小さいというイメージは、いかにもアニメのキャラ設定的だな、と読んで変な感心をしたのを覚えている。そもそも乳首は……と、追悼からどんどん離れていきそうなのでやめる。


【伊万里すみ子】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 06日(木曜日)
もうひとつ訃報。レディースコミック作家の伊万里すみ子氏が亡くなったと、漫画新聞で知った。もっとも、伊万里すみ子というのは原作担当の夫と、作画担当の妻とのコンビのペンネームで、亡くなったのは夫の方。1月27日、心筋梗塞、55歳。ホームページにも“とても仲睦まじい夫婦の漫画家です”“一卵性夫婦と呼ばれていまーす”などと自己紹介しているだけに胸が痛む。しかし、彼女といい花小路小町といい、レディース作家には夫婦共作が多いな。一応、うちもであったが。レディースコミック最盛期には月間平均執筆枚数300枚だった、とサイトで自慢していたが、これはうちのK子もそのくらいであった。レディースコミックという業界自体が、多作を前提とした業界だったのである。ただし、向こうはそれで一年に出た単行本の数が(特集増刊含め)36冊という記録を持っているという。私たちはケにもハレにも『ギロチン女』一冊だけ。ここらが本道・王道を行く作風の人と、変なものばかり描 いている作風の作家との差であろう。


【黒岩重吾】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 08日(土曜日)
新聞に黒岩重吾死去の報あり。この人の小説の底にはどんなギリギリの人間的欲望を描いても、どこかに通俗小説の匂いがあり、それは、言ってみれば飾らないホルモン焼きのような、食欲をそそる匂いだった。西成のドヤ街を描くとこれがピタリとはまるが、歴史小説、ことに一連の古代王朝ものにもこの匂いが強く漂っていて、閉口したのを覚えている。飛鳥・奈良時代を舞台にした作品を書いてくれる作家は貴重だったから、なんとか読み通さないと、とがんばったのだが、ちとつらいことであった。


【滝沢解】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 10日(月曜日)
大盛堂書店で雑誌立ち読み。『噂の真相』に、伊万里すみ子と並んで、滝沢解死去の報(やはり一月)があった。ふくしま政美『女犯坊』『聖徳太子』などの原作者であり、一時の(突発的ではあったが)ふくしま政美再評価で、最近の読者にもなじみが深くなっていたのではないかと思われる。2月の2日の日記に、赤塚不二夫『鬼警部』のことを書いたが、あのストーリィ協力が滝沢解で、それから赤塚不二夫と彼はコンビを組み、『狂犬トロツキー』『幕末珍犬組』といった、頭でっかち的な失敗作を多数生み出していく。先にも書いたように、純粋なナンセンスの世界に変な思想を盛り込んでいく作風に反発を感じていた私であったが、その底に流れている異様な情念の濃さはビリビリするほどに感じて、なんなんだろうこの人は、と、単なるマンガ原作者を越えたものを彼には感じていた。また、そのような“傾向的マンガ”に失敗し、娯楽派に転じてからの、異様なコワレ方はまた梶原一騎や小池一夫といった成功者の作品にはついぞ見られない、ドス黒いまでの情念の世界を描き出していた。成功作よりは失敗作の方が多い人だったが、失敗作でなくては味わえない、異様なインパクトというものもまた、あるのである。代表作と言えばなんと言っても『女犯坊』だろうが、小森一也・画の『怪豪力士伝』なんかも、コワレ方は凄まじかった。大島渚などと同世代の、60年安保世代で、その挫折を一番色濃くひきずっていた一人ではなかったろうか。



【天本英世】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 23日(日曜日)
ネットニュース回っていたら、7時過ぎ、天本英世死去のニュースが。よくこの日記で訃報を記すたびに“私を作ってくれた人”という書き方をするけれども、まさに天本英世氏はその大きな中核をなしていた人だった。脇役俳優マニアに私をはまりこませたのも、学生時代、天本英世出演作を追っかけたのが最初だったと思う。映画というものが非日常を体験させてくれるシステムであるとするなら、まさに、その非日常が人間のカタチをとってこの地上に降りてきたようなキャラクターだった。あれは確か昭和46年だから死神博士とほぼ同時期かちょっと前、堺正章主演のコメディ番組『笑っていただきます!』で、精神病院から逃げ出したミイラ学の世界的権威、という役で登場、あのマント姿でお茶の間に上がり込み、ちょこんと座布団に座っている姿は、まさしくホームドラマ的日常を侵略する非日常というイメージそのままだった。あれほどお茶の間が似合わない俳優もちょっとおらず、そこが値打ちの人だったように思う。そのドラマ内で一番強い人、というレギュラー設定だった和田アキ子の体育教師が部屋をのぞき、天本の一瞥をくらって腰を抜かし、
「あたし、ああいう『土曜怪奇劇場』みたいな人、ダメなの」
 と逃げ帰る、というギャグがあって、ホームドラマ嫌いだった(日常性を軽蔑していたのだ。若かったね)中学生の私に快哉を叫ばせた。もっとも、このドラマで天本の博士は、堺正章をミイラにしようとつけねらった挙句、病院からの迎えの車に閉じ こめられてしまい、ドアをバタン、としめた藤村俊二が
「キチガイも、フツーのヒトも、紙一重。アハハ」
 と笑ってドラマを〆メていた。深読みをすれば、ドラマというものの中から次第に非日常が閉め出されていき、橋田寿賀子、向田邦子等に代表される“日常”がテレビを支配する、という変遷の転換期であった1970年代初頭の、ひとつのアナロジーであったようにも見えたものだ。

 それ以来、天本英世の居場所は子供向け変身もの番組の中に限定されてきた感がある。映画雑誌などで彼の紹介をするライターはほとんど、“いま、彼を使いこなせない日本のテレビ・映画界は情けない”と書いていた。思えばわれわれがいい年をして変身モノなどにのめりこんだのは、非日常が、そこにしか残っていなかったからではなかったか。その非日常の代名詞として、天本英世という名前があった。そういう意味では、SF文化、オタク文化の象徴、みたいな人ではなかったかと思う。

 死亡記事では“あまもと・ひでよ”と書いてあったので、あれ、ひでよは本名で、芸名の読みは“えいせい”ではなかったか(キネ旬の俳優名鑑でもそう記載)と思い調べてみたら、円谷プロ出演俳優のサイトに“旧芸名・えいせい”とあった。改名したらしい。バラエティなんかでずっとひでよ、ひでよ、と呼ばれていたので通りのいいそちらの名にしたのかも。……大学生の頃、中野から渋谷に向かうバスに乗っていたら、初台あたりでいきなり天本氏が乗り込んできた。その異様なオーラに圧倒された私は、終点の渋谷で降りた後を追って駆け寄り、ノートを差し出してサインを求めた。私はサインというものを人に求める習慣のなかった(ミーハー、とバカにしていた)男なのだが、その禁を破った初めての人物が、天本英世氏であったのだ。物憂げに“……ハアイ”と答えて、いかにも嫌そうにしてくれたその態度が、サイン以上にいかにも天本英世という感じだったのだが、そのときも私は“アマモトヒデヨさんですね、大ファンなので、サインお願いできますか”と言ってしまった。気を悪くしたろうなあ。

 この一作、と言って選べば、もちろんキン逆のドクター・フーや、日本映画史上に輝く狂人役を演じた『殺人狂時代』などいろいろあるのだが、彼がまだ“あの天本英世”でなかった頃の、岡本喜八の暗黒街シリーズ第一作『暗黒街の顔役』の殺し屋、小山を上げたい。殺人を目撃したラーメン屋の女店員を殺すために河津清三郎に呼ばれたフリーの殺し屋で、出演シーンはたったの二場面に過ぎないのだが、まず、標的の顔を確認するためにそのラーメン屋に入り、“ラーメン”と注文する(セリフはこれだけ。“ラーメン”……)。そして、彼女の顔をジロリ、と見て記憶に焼き付けると、彼女が外出したのを見計らい、トラックを運転して、表情ひとつ変えずいたいけな娘を轢き殺すのである。この二シーンのみで、天本英世の名は日本一の殺し屋役者としてファンの間に焼き付けられた。当時の『ヒッチコック・マガジン』に、殺し屋スターのインタビューというのが載っていたが、“ピストルで一気に殺すより、ナイフでじわじわと殺していく方が好きですねえ……”などと、イカニモなリップサービスがなされていた。実際にそんな奴がいたらホンモノの精神異常者なのだが、何か、この男なら本当にそう考えているかもしれない、と、そう思わせるような雰囲気があまりにただよっていた。あの役は俳優・天本英世を一生食わせたが、また一生、そのイメージの中に縛り付けたのではなかったか。『オール怪獣大進撃』における、人のいい発明狂のおじさん役は、最初、天本英世が演じているとはわからなかったくらいのユーモラスな演技で、あ、こういう役も出来る人なんだ、と後で驚いたほどであった(他に珍演としては、『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』の銀ラメタイツに全身を包んだ宇宙人サムソン役がある。サリーだったかトッポだったかに股間を蹴り上げられ、股を押さえてピョンピョン飛び跳ねていた)。それを思ってから、私はいかにも天本英世、という演技を強いられている彼を、あまり注視できなくなってしまったように思う。ともあれ、日本に希有な個性の昇天に、黙祷。愛するスペインのイラク攻撃容認を、どう思っていたろうか。


【冬木弘道】

日記 :: 2003年 :: 03月 :: 24日(月曜日)
昨日、天本英世が死んだが、その数日前に、理不尽大王、冬木弘道も大腸癌で死去。『死体解剖医ヤノーシュ』の主人公が“夏や冬はそんなに人は死なないから忙しくない。春が大変だ”と言っていた が、まさに。


最終更新:2010年03月05日 18:48
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