第二部「怪物病棟」

第二部「怪物病棟」


ここはイッシュ地方の某病院、そこに一匹のナースタブンネが働くことになってから一か月が経ちました。
最初は色々と不安なところがありましたが、優しい医院長や同僚の看護婦達が色々と教えてくれたり、
アドバイスしてくれたおかげで、今ではすっかりナースの仕事に慣れていました。

「おおっタブンネ、今日も頑張れよ」
「たぶねぇ♪」
病院の人達に優しい言葉をかけられて、今日もタブンネは楽しそうにナースの仕事をしています。
病院の廊下を歩くと、患者さん達も「あら、タブンネちゃんは今日もかわいいわね」
「頑張ってね、ナースさん」等と声をかけてくれます。
タブンネはそれに笑顔で「たぶね♪」と答えます


「あっ、タブンネだっ!オーイ、タブンネーー!」
笑顔で患者さん達に挨拶しながら廊下を歩くタブンネに男の子が駆け寄ってきました。
「タブンネ、この前は僕のポケモンを治してくれてありがとう!」
男の子は、少し前にタブンネがいやしのはどうで治療したポケモンのトレーナーでした。
「おかげでもう元気になって走り回ってるよ、タブンネが治してくれたおかげだよ!」
「たぶぅ♪」
男の子にお礼を言われ、タブンネはとても嬉しい気持ちになりました。
ナースタブンネにとって一番幸せなのはこういう瞬間なのかもしれません。

その余韻に浸っているタブンネに「おはよう」と医院長が声をかけます。
「今日もお仕事頼むよ」
「たぶねぇ♪」

タブンネが毎朝病院でやっている仕事は、病室の患者さん達を一人一人診て、熱等を計ったりするというものでした。

道具を持って一部屋ずつ見て回ったタブンネ、残すところはあと一室です。

「たぶ…」
しかしその病室の前に立つと、タブンネの足はピタリと止まりました。ずっと楽しそうに
していたタブンネの顔からは笑顔は消え、不安そうな面持ちになっています。

タブンネが躊躇するのも無理はありません、実はこの病室に一週間程前から入院しているロアーさんという中年の男は、何かと医師や看護婦に文句をつけては大声で怒鳴ったり、暴れたりする、所謂モンスター患者で、医師と看護婦の間ではそこそこ有名でした。

そのロアーさんにタブンネはとくに目を付けられていて、いつも集中的に苛められるのです。


「たぶぅ…」
意を決してタブンネはロアーさんの病室に入りました。

「何だ、豚か」
ベッドに寝転がっていたロアーさんが鋭い目でタブンネのことを睨み付けます。
「た、たぶね?たぶねぇ」
それでもタブンネは笑顔を作り、「ご気分どうですか?」と訊きました。
「気分も糞もねぇよっ、こんなかったいベッドで一日中寝かされて、肩が痛いわっ!」
ロアーさんは早速文句を言います。
「たぶねぇ…」

「おいっ」
さらに気遣うタブンネに自分の肩を指差して肩揉みを要求します。
まだ他の仕事があったタブンネですが、大切な患者さんの要求なので揉んであげました。
「何だよ、全然気持ち良くないな、もっと強く揉めよ」
「たぶっ、たぶぅ!」
「いてて!今度は強すぎるわボケッ!」
ロアーさんはタブンネの頭をげんこつで殴りました。
「たぶぅぅ……」
タブンネは育成場の怖かった職員のことを思い出して泣いてしまいそうになりましたが、
ぐっと堪えてペコリと謝ります。

「まったく、ここの病院の奴は肩揉みの一つもまともにできないのかっ!」
「たぁぶんねぇ……」
「多分じゃねぇんだよっ!」
理不尽な理由で怒鳴りつけるロアーさん、タブンネの耳にはそれがジンジンと響きます。
しかし耳を押さえることはできません、タブンネはひたすら頭を下げて謝り続けました。


病室を出た頃には、タブンネの顔は暗く沈み、目には涙が浮かんでいました。

お昼頃、タブンネは患者さんの部屋にお昼のご飯を持っていく仕事をします。
もちろんロアーさんの病室も例外ではありません。
タブンネは食事を乗せた盆を持ってロアーさんの病室に入ります。
今日のメニューはタブンネがロアーさんのために作ったお粥、医院長からロアーさんの病
状を聞いて、それに合わせて一所懸命作りました。

「たぶね♪」とタブンネはロアーさんにお粥を差し出しました。
しかしロアーさんはそれを見て露骨に不満そうな顔をします。
「何だこれは?」
「たぶぅね♪」

「ふざけるなっ!」
「たぶぅ!?」
ロアーさんはいきなりタブンネを怒鳴りつけました。驚いたタブンネは危うくお粥を落と
しそうになります。
「いつまでこんなどろどろした歯応えのないもん食わせるんだ!もっとまともな飯持って
こいっ!」
「たぶ、たぶねぇ、たぶ…」
気持ちはわかりますが、ロアーさんは医院長から今はそういうものしか口にしてはいけな
いと言われている患者なので仕方がありません、タブンネは何とかロアーさんを説得しよ
うとします。

「こんなもん食えるかっ!」
ロアーさんはタブンネの持っているお粥の器を叩き飛ばしました。タブンネは零れたお粥
を頭から被り、大事なナースキャップに大きな染みができてしまいました。

「たぶぅぅぅ…」
涙目になりながらタブンネはベタベタになってしまった体と床を雑巾で拭いて、転がって
いる器と盆を片付けました。
「作り直して来いよ」
「たぶ……」

その日の夜、タブンネは更衣室で一匹泣いてしまいました。
「たぶぅね……」
どうしてロアーさんは怒ってばっかりなんだろう…タブンネは一生懸命頑張ってるつもりなのに…
染みの付いたナースキャップを眺めてタブンネは溜息をつきます。
タブンネのどこがいけないんだろう…何だか心がズキズキするよぅ…

ふと、育成場にいた時のことをタブンネは思い出しました。
怖かった育成場の職員も、言われたことをちゃんとやったり、今までできなかったことができるようになったりした時はちゃんと褒めてくれました。
でもロアーさんは何をしても怒ってばかりです…

ロアーさんが怒るのはもしかしてタブンネがまだロアーさんの満足のいく対応ができてないからなのかな…?
もっと頑張ってしっかりやればロアーさんも褒めてくれるのかな…?


明日からもっともっと頑張って、きっとロアーさんに認めてもらおう。
タブンネはそう決めました。


しかしそのタブンネの思いとは裏腹に、ロアーさんの自分勝手な行為はどんどんエスカレートしていきます…その度にタブンネの体や心は大きく傷付けられます…
時折心配した患者さんが「大丈夫?医院長さんに言ってあげようか?」等と声をかけてくれますが、タブンネは笑顔で大丈夫ですと答えます。
他の患者さんには余計な心配をかけたくないというタブンネの配慮でした。
そして何より、医院長には迷惑をかけたくなかったのです。

しかしタブンネにも限界というものがあります…ある日、とうとう耐えられなくなったタブンネは、新しく入った後輩のラッキーにロアーさんの病室の仕事を任せました。

「たぶぅぅ…」
任せたものの、タブンネはその間不安で不安で仕方がありませんでした。今頃ロアーさんにどんな目に遭わされているか…それを想像するとタブンネの心は罪悪感でいっぱいになります。

「らきぃ♪」
しばらくして、ラッキーが戻ってくると、その無事な様子にタブンネはホッと胸を撫で下ろしました。
そして、ラッキーにロアーさんの様子を訊きました。
ラッキーの話では、多少の悪態は吐かれたが、それ以上のことはされなかったということでした。

「たぶ……」
安堵すると同時に疑問を抱くタブンネ。
どうしてだろう…いつもタブンネには怒ったり暴力を振るったりするのに…

そうかっ!もしかしてラッキーちゃんの対応がタブンネのよりも良かったから…
だからロアーさんは怒らなかったんだ!
ならタブンネもラッキーちゃんと同じ風にすればロアーさんも怒らない筈!

そう合点したタブンネはラッキーに、ロアーさんに対してどういう対応をしたのかを詳しく訊きました。


翌朝、タブンネは自信満々でロアーさんの病室の戸をノックして入りました。
「たぁぶ♪」

「おい、お前何で昨日こなかった?」
そんなタブンネにロアーさんは開口一番に訊きました。

「たぶ……っ」
回答に困りました。まさか、ロアーさんが怖かったからだとは言えません。

「お前、俺と顔合わせたくないから他の奴にやらせたんだろ?」
ロアーさんは見透かしたように言いました。
「たぶね、たぶたぶぅ~~!」
首を横に振って否定するタブンネですが、言われていることはほとんど事実なのでそれ以上の否定はできません。

「嘘を言うなっ!」
「た……っ」
「俺のことが嫌だったんだろ?俺の世話なんかしたくなかったんだろ?」
ロアーさんはタブンネの肩を掴んでガクガク揺すります。
「た……たぶね…!たぶねぇぇっ!」
「ナースが患者さんを選り好みしていいと思ってるのかっ!!」
そう言うとロアーさんはタブンネの柔らかいお腹を病人とは思えない程の力で殴りました。
「たぶぅぅぅう!!」
勢いでタブンネは机に激突し、上に置いてあった花瓶が床に落ちて割れました。
腹を殴られたタブンネは苦しさから、その破片の上に手をついてしまいます。
「たぶ!ねぇぇぇっ!」

ピンク色をしたハート型の肉球には深々と花瓶の破片が刺さり、そこから血が溢れ出てき
ます。

「たぶぅぅ…」
なるべく突き刺さった破片に触れないように痛みを耐えながら肉球をペロペロ舐めるタブンネ、
それもロアーさんには気に食わなかったようで「お前は患者さんより自分の怪我の方が優先なのか!?」とタブンネの足を踏みつけました。
「たぶねぇ……!」

「不愉快だ、責任者だっ!誰か責任者を呼んでこいっ!」
責任者とは明らかに医院長のことです。タブンネは説得しようとしますが、ロアーさんは聞く耳を持ちません…


「どうしたんですか!?」
そこに間の悪いことに医院長が音を聞きつけてか、他の患者さんに呼ばれてか知りませんが病室に入ってきました。
「おう、ちょーどいいところに来たな、あんたが医院長だろ?」


その後、タブンネと医院長は30分以上もロアーさんに「おたくの病院じゃ一体ナースにどういった教育をしてんだっ!」等と、文句や罵倒を浴びせられました。
その間医院長は「申し訳ありませんでした!」「この子(タブンネ)には悪気はなかったんです」とひたすら頭を下げ続けていました…
その姿を見て、タブンネはいつもロアーさんに怒られている時以上に悲しい気持ちになりました。

タブンネのせいで医院長さんまで怒られちゃった…あんなに頭を下げてロアーさんに謝ってるよぅ……医院長さん、ごめんなさい、本当にごめんなさい…!

自分の仕出かしたことで医院長まで巻き込んでしまった申し訳ない気持ちでタブンネの心は張り裂けそうです。

「たぁぶ…」
病室を出ると、タブンネは医院長に謝りました。

「何、気にすることはないさ、病院で働いてればよくあることだよ」
医院長はタブンネを怒ることなくポンと肩に手を置いて慰めます。

「しかしキミもそんな患者さんからも目を背けてはいけないよ、たとえどんな人であろうとうちの大切な患者さんだ」
「たぶねぇぇ……」
「地道に向き合っていけばいつかはロアーさんもわかってくれる日が来るさ、しかしそれまでの間、キミはしっかりとロアーさんに向き合ってあげないといけないよ?なぁに、何か心配事があったらすぐにボクが相談に乗ってあげるよ」
「ぷぅ…」
そう医院長に言われてもタブンネにはもう自信がありませんでした。タブンネの大きな耳は力なく垂れ下がり、しょんぼりとしています。
そんなタブンネの気持ちを察したように医院長は言いました。
「忘れてはいけないよ、キミはナースなんだ」

「たぶっ……!」
その言葉を聞いてタブンネはハッと顔を上げます。
「大丈夫だ、キミならかならずできるっ!もっと自分に自信を持って胸を張りなさい」
「たぶぅ!」
医院長の言葉にタブンネは、ほんの少しですが勇気付けられました。
「よしよしその意気だ。 あっそうそう、後でボクの部屋に来なさい、怪我の治療をしてあげるから」
タブンネは医院長の優しさに涙をぽろぽろと流しました。





しかしそれから数日後に事件は起こりました…

その日タブンネはいつものように朝の仕事を終え、廊下を歩いていると背後から「オーイ、タブンネー!」と、この前の男の子が駆け寄ってきました。

「タブンネ、実は大ニュースがあるんだよ!」
「たぶ?」
「この前タブンネが治してくれたボクのポケモンが卵を産んだんだよ!」と男の子は手に抱えていた卵をタブンネに見せます。
「たぶっ!たぶね、たぶねぇ~~♪」
タブンネは喜んで新しい命の誕生を祝う言葉を男の子にかけてあげました。男の子は楽しそうに笑っています。

「そこでちょっとタブンネに頼みがあるんだよ」
「たぶ?」
「明日からボク、家族で出掛けるんだけどその間タブンネにこの卵を預かっていてほしいんだ!タブンネなら信頼できるし、もしも卵が孵ってもナースさんだから安心だしね」

もちろんタブンネは二つ返事でそれを引き受けて卵を受け取りました。
「たぶ、たぶねぇ~♪」
卵に耳を当ててみると中からコトコトと音がします。まるで「はやくうまれてきたいよぅ」という声が聞こえてくるようです。
タブンネは卵をギュッと抱き締めました。
最近辛いことばかりありましたが、この小さな卵はタブンネに大きな希望を与えてくれたような気がしました。


「おいっ」
その時、その声がタブンネを呼び止めました。
振り向いて見るとそこにいたのはやはり病室から顔を覗かせたロアーさんでした。
「ちょっとこい」
ロアーさんは乱暴なので卵を持ったままでは危ないと思ったタブンネは「今はちょっと…」と言いたげに抱いた卵を見せますが、「いいからこい」とロアーさんは睨み付けます。
タブンネはそれに恐れをなして仕方なく従いました。

ベッドに戻るとロアーさんは背中を向けて座り「肩揉め、この前注意したからちっとはやり方覚えただろ」と指示しました。
「たぶぅ、たぶねぇ…」
タブンネは両手が卵で塞がっているのでそれはできません、卵を置きにいかせてくれとロ
アーさんに頼みましたが、「俺は今揉んでほしいんだっ!そんな卵より俺優先だっ!」と
分かってくれません…

「たぶぅ、たぶねぇ…」
「あーっもう、そんな卵なんか床にでも置いときゃいいだろっ!」
痺れを切らしたロアーさんはタブンネが大事そうに抱えている卵を奪い取ろうと手をかけ
ました。
「たっ!?たぶぅぅ!たぶぅんねぇぇっ!!」
慌ててとられまいと卵を引っ張るタブンネ。
「おいっ、放せよっ!コイツ…」
「たぶぅ!たぶぅぅぅ……っ!」
ロアーさんとタブンネは引っ張り合いになりました。この卵は自分を信頼してくれた男の子から預かった大切な物です、放す訳にはいきません。

「おわっ!」
不意に手が滑り、卵がロアーさんの手から放れました。
「たぶっねぇぇぇ!?」
そのまま引っ張っていた勢いでタブンネはドスンと尻餅をつきます。
「たぶぅっ!」
タブンネは慌てて卵の安全を確認しようとしますが、そこには卵はありません。
それと同時にグチャッと後ろで嫌な音がしました…

「たぶ…………っ!」
恐る恐る振り返ると、そこには無残に潰れた卵がありました…
「た……たぶ……たぶねぇええええええっ!!!」
「あーあ、俺知らねーよ」



卵が割れてしまったことを知った男の子ははじめ、呆然とした様子でしたが、そのうちブルブルと震えだし、大声で泣き出しました。
そして、「お前なんてナースじゃないっ!卵殺し!ボクの卵をかえせっ!」とタブンネをポカポカとたたきながら責め立てました。
その男の子の泣き声と責める言葉の一つ一つがタブンネに深く突き刺さっていきます…
最早タブンネはたたかれようが責められようがされるがままでした。
自分は卵を殺してしまった…男の子を悲しませてしまった…自分に期待をかけてくれた医院長にまた迷惑をかけてしまった… 自分はナース失格…


その夜タブンネは医院長の机の上に辞表を置いて病院を出ていきました…
戻ってきた医院長は、ぎこちない平仮名で書かれたタブンネの辞表に気が付きました。

医院長はそれを見てすぐに、二人の人間を自分の部屋に呼びました。
少しして、部屋に入ってきた二人…それは、あの男の子とロアーさんでした。

「あの豚がやっと出て行ったぞ、お前達のおかげだ」
そう言って医院長は二人の頭を撫でます。
すると二人の姿は歪み、ゾロアとゾロアークに姿を変えました。

「長い間あんな役をやらせて悪かったね、ゾロアーク、お前も名演技だったぞ、ゾロア」
照れ笑いをする二人、いや、二匹はどうやら医院長のポケモンのようです。
「まったく、前の医院長がタブンネなんて引き受けちゃったせいでこっちが大迷惑だよ…」


実はこの医院長、大のタブンネ嫌いで、毎日自分の病院で働くタブンネに対して憎悪していました。
しかし医院長と言えど簡単に正当な理由も無しにタブンネを病院から追い出すことはできません、そこで思い付いたのがモンスター患者でした。
ゾロアークにモンスター患者ロアーを演じてもらい、タブンネを肉体的にも精神的にも追い詰めて自分から病院を辞めさせようと考えたのです…
自分は飽くまで良い医院長を演じつつ、裏ではゾロアークにタブンネに対してどういった仕打ちをすれば良いのかを指示していました。

そして、どうせ辞めさせるのならついでに自分にはナースの資格が無いということをわからせて
やろうと、ゾロアに男の子に化けてもらい、今回の卵割り事件を意図的に起こしたのでした…

すると、ゾロアがその時の卵の件は大丈夫なのかと不安そうに医院長に訊きました。
「ああ、問題はない、あの卵はタブンネ食肉加工場からもらったものだ。しかし本当は関係のない命まで奪いたくはなかったんだがね…だがあの豚は無駄に聴力があるから無精卵じゃすぐに気付かれる恐れがあったからな…まぁ、とにかく辞めてくれて良かった。まったく、いやしのはどうが使えるというだけでナース気取りで媚びた面して毎日毎日ボクの病院の床を踏まれるのは心底腹立たしかったからね、やっぱりナースはラッキーじゃないとな」

最後に医院長は窓の外を見ながら呟いた。
「ポケットモンスターペイシェントってか…」

第二部終わり
最終更新:2014年06月26日 23:57