「ミィ♪」
1匹の子タブンネがガラス越しに外の様子を見ている。
天気は雨。ガラスを流れていく水滴をおもしろそうに目で追いかけていく。
「タブンネ、外で遊ぶ時間だ」
後ろから声をかけられて子タブンネが振り向くと、いつもと同じ白い服を着た男が立っていた。
子タブンネは「ミィ♪」と笑顔になって男のもとへ歩いていく。嬉しい気持ちを表すかのように、尻尾がパタパタと揺れる。
1日中、せまい部屋の中に入れられている子タブンネにとって、外で遊ぶことはご飯の次に楽しみな時間なのだ。
「ミィッ♪ ミィッ♪」
激しい雨の中を子タブンネが楽しそうに走り回る。
固くて灰色の地面に溜まった水を手ですくったり、水たまりの中で転がったり。
せまい部屋の中では過ごす間は感じることのない楽しさ。
子タブンネは雨の日が大好きだ。
「ミィ……?」
しばらくして遊び疲れた子タブンネはふと気づく。
いつもなら傘をさして見守っているはずの男の姿がどこにも見当たらない。
不安になった子タブンネは、キョロキョロとあたりを見回し、「ミィッ! ミィッ!」と大きな声で男を呼ぶ。
しかし、どれだけ待っても男が姿を見せる様子がない。
子タブンネは男を探すために、激しい雨の中を歩きはじめた。
……いったいどれだけ歩いたのか。子タブンネにはわからない。
ふわふわの尻尾は水を吸ってぐっしょりと重く濡れている。
体をプルプルと振って水を飛ばしても、雨の中ではすぐに濡れてしまう。
固い地面を歩き続けた小さな足には疲労がたまり、足の裏にはズキズキと鈍い痛みがある。
それでも男を見つけるために、子タブンネは歩き続けなくてはならない。
子タブンネ1匹だけでは何もできないのだから。
……とても寒い。力尽きた子タブンネの頭にあるのはその言葉だけだ。
雨は子タブンネから体温を奪い、小さな体から容赦なく体力を奪っていった。
薄れていく意識の中で子タブンネは思う。
雨なんて降らなければいいのに。
子タブンネが次に目を覚ましたのはいつもの部屋の中だった。ふかふかの毛布に包まれていて、とても温かい。
自分の体を包んでいた毛布から出てくると、部屋の中にはいつもと同じ白い服を着た男がいた。
子タブンネは男のもとに歩いていき、男の足にひしっと抱きついて再会できたことを喜ぶ。
男は子タブンネの体を優しくなでながら尋ねてくる。
「タブンネ、雨の日は好きかい?」
子タブンネは首を振る。
寒くて寂しいのは嫌だった。
子タブンネは雨の日が大嫌いになった。
「ミィ♪」
子タブンネがガラス越しに外の様子を見ている。
天気は晴れ。ガラス越しでもわかるほど外は暖かいようだ。
「タブンネ、外で遊ぶ時間だ」
白い服を着た男が子タブンネに声をかける。
子タブンネは嬉しそうに男のもとへ歩いていく。
せまい部屋の中はとても退屈だ。広くて自由な外に出ることはとても楽しい。
それに雨の日と違って、晴れている日は寒くない。
子タブンネは晴れの日が大好きなのだ。
「ミ゛ィィィィ……」
強烈な日差しが子タブンネの体を焼く。
固くて灰色――コンクリートの床や壁は熱を蓄え、子タブンネの体に熱を加えていく。
上下から襲ってくる熱量に、子タブンネの体は熱を逃がすことを許されない。
ヒィヒィと息を吐く子タブンネの口から粘度の高いよだれが流れる。
よだれはコンクリートの床に落ちると、シュワッと音を立てて蒸発する。
タブンネという種族のもつ高い耐久性が、子タブンネを苦しみを長引かせていく。
体が焼け、水分を奪われていきながら子タブンネは意識を失った。
子タブンネが次に目を覚ましたのはいつもの部屋の中だった。
空調が効いた部屋はとても快適で、部屋の外の熱気とは無縁の環境だった。
目を覚ました子タブンネに、いつもの白い服―白衣をきた男が尋ねる。
「タブンネ、晴れの日は好きかい?」
子タブンネは首を振る。
とにかく暑くて苦しかった。
子タブンネは晴れの日が大嫌いになった。
子タブンネはあられの降る日が大好きだった。
いつものように白衣の男に連れられて、外に遊びに行った。
そして、目を覚ました子タブンネはあられの降る日が大嫌いになった。
子タブンネは砂嵐の日はもともと好きではなかった。
男に言われ渋々遊びに行き、子タブンネは砂嵐の日が大嫌いになった。
「ミィ……」
せまい部屋の中、子タブンネは壁に寄りかかりながらガラス越しに部屋の外を見ていた。
部屋の外は激しい雨のようで、ガラスに雨粒が次から次へとたたきつけられていく。
「タブンネ、外に遊びに行くかい?」
白衣の男にそう尋ねられ、子タブンネは首を横に振る。
部屋の外に出ればひどい目に遭う。それなら、退屈であっても部屋の中で過ごす方がよかった。
子タブンネは「ミィ……」と鳴いて、外には遊びに行きたくないと伝える。
「そっか、タブンネは部屋の中の方がいいんだね?」
自分の気持ちを理解してもらえたことで、子タブンネが笑顔になる。
尻尾を振りながら「ミィミィ♪」と鳴いて、男に感謝の気持ちをアピールする。
男は子タブンネを優しくなでながら、ドアの方に向かって「入ってきていいよ」と声をかける。
ガチャリとドアが開くと、部屋の中に次々と人間が入ってくる。彼らの手には様々なものが握られている。
何かが入っていそうな箱。トゲのついた金属の棒のようなもの。変な色をした水が入った容器。
入ってきた人間も、彼らが手に持っているものも、どれもが子タブンネには見覚えがなかった。
不思議そうな顔をする子タブンネに男が説明する。
「みんなで今からこの部屋で遊ぶんだよ」
子タブンネは大喜びした。
澪簿のない人たちが持っている見覚えのないものは、自分の知らないおもちゃか何かなのだ。
これから、たくさんの人たちに遊んでもらえる。子タブンネはそう考えた。
笑顔で手を振りながら、部屋に入ってきた人たちのもとへ歩いていく子タブンネ。
「たくさん遊んでね」と、ペコリと頭を下げる。
「ああ、嫌になるくらい遊んでやるよ」
次の瞬間、子タブンネの頭に強い衝撃が走った。
立っていることができなくなり、子タブンネは床の上にへたり込む。
何が起こったのかわからない子タブンネであったが、床の上に赤い液体が広がっていくのが見えた。
そして、それをきっかけに、激しい痛みが子タブンネの頭を襲い始めた。
「ミッ!? ミミィッ!? ミィィッ!?」
次々と襲いくる状況に、子タブンネは完全に混乱していた。
顔を上げて、救いを求めるように白衣の男の顔を見る。
「言ったじゃないか。みんなで今から遊ぶって。みんな、タブンネで遊びたいってさ」
子タブンネの首にひもが巻きつけられ、強い力で後ろに引っ張られる。
子タブンネの視界に映るのは、ニヤニヤと笑う人間たちと、その手に握られたいくつもの道具。
これから何が起こるのかを理解した子タブンネに、容赦のない暴行が加えられていく。
子タブンネの悲鳴を聞きながら、おもしろそうに男がつぶやく。
「部屋の外に遊びに行きたいって言ってればこういうことにはならなかったのに。
部屋の中がいいっていったのはタブンネ自身なんだから、しょうがないよな」
「…………」
うつろな目をした子タブンネが壁に寄りかかっている。
苦痛を与えられるだけの毎日。楽しみも、安らぎも、何もかも奪われてしまった。
ふわふわの尻尾も、カールした触覚も、ハート形の肉球も、何もかもなくなってしまった。
子タブンネには何も残されていなかった。
そんな子タブンネのもとに、白衣を着た男がやって来る。子タブンネは男の方を見ることもしない。
男がやって来たということは、これから苦しい時間が始まるのだから。
男の方を見ないのは、子タブンネにできるかすかな抵抗だった。
「タブンネ、『本当の外』に出てみたくはないか?」
その言葉に子タブンネの顔が上がる。『本当の外』という言葉に反応したのだ。
男の顔に視線を向けて、子タブンネは男の次の言葉を待つ。
「今までタブンネがいたところは実験施設の中なんだよ。
雨も晴れもあられも砂嵐も、どれもポケモンの技で作り出したものだったんだ。
施設の中じゃなく『本当の外』なら、あんなにひどい天気になることはないんだよ。
タブンネが望むのなら、そこに連れて行ってあげてもいいけど。……どうする?」
子タブンネは間を置かずにうなずいた。
ひどい天気でもなく、苦痛を味わうでもない、未知の世界に行ける。
それは子タブンネにとって、あまりにも魅力的な提案だった。
「よしわかった。こっちにおいで」
男にそう言われ、子タブンネは立ち上がる。
まともに力が入らないうえに、激しい痛みが全身を襲う。
それでも子タブンネは立ち上がり、不安定な足取りで1歩1歩進んでいく。
今の状態から抜け出せるという希望を目指して。
「ミィ……!」
外に出た子タブンネは今までにないものを感じていた。
ぽかぽかとあたたかい光。風に乗って運ばれてくる土や草のにおい。施設の中とは違うやわらかい地面。
それは子タブンネが初めて見る『本当の外』の世界。
「ミィ……♪ ミィ……♪」
ヨタヨタと子タブンネは歩き出す。
何もかもが新鮮で、何もかもが楽しい。世界は素敵なものだったのだ。
子タブンネは、生きることの素晴らしさをかみしめる。
子タブンネは近くの草むらへと足を向ける。草むらがかすかに揺れる。
「ミ……ッ!?」
草むらが揺れたと思ったそのとき、子タブンネは地面に押さえつけられていた。
次の瞬間、子タブンネの首が圧迫されて呼吸ができなくなる。
徐々に意識が薄れていき、体からゆっくりと力が抜けていく。
「あーあ。無警戒に草むらに近づくから」
白衣を着た男は楽しげな様子でつぶやく。
男の目の前では、肉食ポケモンにのどを噛みつかれ、力尽きた子タブンネの姿がある。
やがて、肉食ポケモンは子タブンネの体を離すと、小さな体をガツガツと食べ始める。
「施設の中で生きることを選んでいたら、こういうことにはならなかったのに。
次からはよく考えて……って、もう聞こえてないか」
男の目の前には、子タブンネを貪る肉食ポケモンと、お腹の中が空っぽになった子タブンネ。
ため息をついて立ち上がり、「次のタブンネを用意しないと」と言って施設の中に入っていった。
その光景を、かすかに残った意識で子タブンネは見つめていた。
タブンネの持つ生命力が、子タブンネが簡単に死ぬことを許さない。
生きながらにして自分の体が食べられていく感覚を子タブンネは味わい続けている。
やがて、肉食ポケモンの牙が子タブンネの頭に食い込んでくる。
目を失って視界がつぶれ、耳を失い音が何も聞こえなくなる。
自分の体を食べられることだけを感じながら、やがて子タブンネの意識は、二度と覚めることのない闇の中へ沈んでいった。
(おしまい)
最終更新:2014年06月24日 21:00