「ハァ、ハァ…はっ……」
薄暗いヤグルマの森の中を一匹のタブンネが走り回っていた。
その体はボロボロで、顔に至っては誰かに殴られたかのように腫れていた。
タブンネは時々後ろを振り返る。何かから逃げるように。
トウコと別れた後、タブンネは痛む体を引き摺って、森の中を彷徨った。
涙がぽろぽろと零れるがそれを拭う余裕は無い。暫く歩いていると、どこか見覚えのある場所に着いた。
そこはあの家に行く以前、タブンネと仲間達が住処にしていた大きな木だった。
久々に戻ってきた自分の故郷。タブンネは痛みを忘れたかのように、晴れやかな気持ちで木へ向かう。
木の下にはタブンネ達が数匹居た。仲間だ。まずこの傷を治してもらって、木の実なんかも分けてもらおう。
そう考えながら歩いていると、向こうのタブンネ達も気付いたらしい。みぃみぃと驚いたような声を上げる。
「みぃ…」助けて、そう言おうとしたタブンネに、石が投げつけられた。
突然の事に思わず目を瞠る。何故、どうして、私に石なんて投げてくるの。
木の下にいたタブンネ達は昔このタブンネと群れを成していた固体とは違ったのだ。
トウコの家に連れて行かれてからもう6、7年程経っているので仕方のない事なのだが。
そして更にそのタブンネ達は群れではなく家族のようで、木の下に縋る母と子を父が守るように庇い威嚇する。
タブンネ一家にとってこのタブンネは仲間ではなく、自分達の家を狙う侵略者でしかなかった。
まだ石は投げられている。その石から逃げるようにタブンネはこの場を後にした。
タブンネはまた、森の中を彷徨う事になった。
再生力により体の傷は治ってきたが、そんな力で心の傷は治らない。
タブンネは決してトウコの事が嫌いなわけではない。でも、好きと自信を持って言えなかった。
青年の、優しいがどこか威圧を感じる質問。何度も痛めつけられていたタブンネはそれに曖昧に答えてしまったのだ。
何故自分が捨てられたのか、なんとなくは理解していた。でも信じたくなかった。
あんなに優しかったのに、可愛がってくれたのに、好きだといってくれたのに。
基本的に甘やかされ不自由無く育ったタブンネには、今の重い現実を受け入れる事ができなかった。
暖かくて美味しいご飯が食べたい。大好物の甘いモモンで作られたクッキーが食べたい。
ふかふかの寝床が恋しい。もう一度、トウコに頭を撫でてもらいたい…。
ぼーっとしながら歩いていたタブンネは、自分の足元に居た何かに気付く事なく踏みつけてしまった。
「みっ?」何を踏んだのかな、とタブンネが足元を見ると、そこには小さなフシデが。
慌てて足を退けるが、恐らく生まれたばかりであっただろうフシデは潰れ、既に息絶えていた。
どうしよう、どうしよう…。小さな命を軽々しく踏み潰してしまったタブンネは狼狽える。
すると、どこからか大きな足音が響いてきた。ズシン、ズシンと、こちらへ向かってくる。
何の音だろう?と首を傾げ音のする方向を見つめるタブンネ。そこから現れたのは…、
「キュシィィイイイイィィーーーーッ!!!」
大きくて赤い体、鋭く巨大な角。メガムカデポケモン、ペンドラーだった。
ペンドラーはタブンネの足元で潰れたそれを見つめると、もう一度大きな鳴き声を上げた。
このペンドラーはメスで、タブンネが踏んでしまったフシデはこのペンドラーの子だったのだ。
我が子を無残にも殺されたペンドラーは怒り狂い、タブンネに向かって突進する。
必死で逃げるタブンネ。しかし、元々鈍足なタブンネと素早い足を持つペンドラーとでは結果は見えていた。
「みひぃっ!!」
あっと言う間に追いつかれたが、咄嗟に体を捻りペンドラーの角を避ける。あんなものが突き刺さっては即死だろう。
しかし中途半端に丈夫なタブンネではそうもいかず更に角で体を抉られるか、じわじわと毒で嬲り殺されるか…。
どっちにしろ、そんな目には遭いたくない。タブンネはまさに命がけで逃げた。
が、またもやあっと言う間に追いつかれたタブンネは、ギリギリで角を避けたものの強烈な突進を喰らい吹き飛んだ。
「み゛、が、ふぅっ…みぃ」
大きく飛ばされたタブンネは木に激突し、そのまま地面に落ちた。酷い激痛だが、あの角より何倍もマシだろう。
なんとか九死に一生を得たタブンネだが、ペンドラーは非常に凶暴な性格で狙った獲物は必ず仕留めるという。
このまま森の中にいては危険だ。タブンネは森を抜け、どこか別の地に住み着く事に決めた。
タブンネは走る。ペンドラーが追っていないか、時々後ろを振り返りながら。
足が痛い、手が痛い、顔が痛い、体が痛い。全部全部痛かった。心も痛かった。
トウコに捨てられた事、自分は一匹では何もできない事、小さなフシデの命を踏み潰してしまった事。
タブンネは後悔した。自分がもっとしっかりしていれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。
今更そんな事を考えたってどうにもならないのは分かっているが、それでも考えずにはいられなかった。
昔はもっと『おとなしい』性格で、自分で言うのもなんだが仲間を大事にしていた。
ところがトウコの家で過ごす内に、我侭で図々しくなっていった。自分の周りにある幸せに気付く事ができなかった。
幸せは後から気づくものだと誰かが言った。どれだけ手を伸ばしても、もう掴む事はできない幸せ。
今までの自分が確かに持っていた沢山のもの、家族、居場所、誰かからの愛。それらはもう手に入らないのだろうか。
タブンネは涙をぽろぽろ流しながら走る。前が歪んで見えないが、それでも外の光を目指して走る。
すると突然、目の前に見えていた微かな光が無くなった。何で?と思い一度立ち止まり涙を拭うと、そこには。
「みっ…みひぃ……」
目の前にはあのペンドラーが居た。鼻息荒く、その鋭い目でタブンネを睨み付ける。
どうしよう、タブンネは考えた。そうだ謝ろう。きちんと謝れば、きっと…。
どれだけ痛い事をされても自分がきちんと言う事を聞くようになれば、トウコは優しくしてくれたから。
「みぃ、みいみいみぃ。み…みぃ、みぃみぃ……」
ごめんなさい、本当にごめんなさい。悪気はなかったんです。私にできるお詫びなら何でも致します。
タブンネは何度も何度も謝った。膝を着き、頭を伏せ、土下座した。
しかし元来の性格もあり、その程度で我が子を奪われたペンドラーの怒りが収まるわけがない。
寧ろ跪いて命だけはと懇願するタブンネの姿は詫びではなくただ媚び諂ったものにしか見えなかった。
ペンドラーは未だ顔を伏せるタブンネに前に立つとその頭の角でタブンネの腰を勢い良く貫く。
「み゛ぎゃああああああああぁぁぁぁぁあぁぁぁ!!!!??!」
角はタブンネの腹を貫通し、そこからは血がドボドボと溢れていく。
いつかの日、トウコに腹を切られた時よりもずっと痛かった。貫かれた腹から毒が自分の血に混ざるのが分かる。
痛い、痛い痛いいたいいたい、痛いよ、助けて。助けて、トウコ!
タブンネの声は声になっておらず、ただ不気味な悲鳴がヤグルマの森に響く。
少しずつ血は収まっていき、痛みも落ち着いていく。しかし自分の体を回る毒の感覚が気持ち悪くて、吐きそうになった。
ペンドラーはこれ以上タブンネには何もしなかった。ただ、己の角に刺さるタブンネの顔を見つめている。
体が寒くなってきた。血が大量に流れたから当然だ。タブンネも自分から流れ落ちた血をぼんやりと見つめていた。
だんだん、毒が自分の体を蝕んできたのが分かる。頭の中がぐるぐると回るような感覚がする。
目は虚ろになっていき、手足は痺れ、何も考えられなくなっていった。
ペンドラーに襲われてからどれくらい経ったのだろう…?もう寒さは感じない。寧ろなんだか暖かいような気がしてきた。
あぁ、このまま私は死んでしまうんだな。なんとも呆気ないものだとタブンネは思った。
自分はさっきまで元気に走り回っていたのに、今では指も動かせない。
このまま死ねば、もう一度幸せな家庭で、やり直せるのかもしれない。タブンネは安らかな気持ちになっていった。
もう感覚が無い。目も見えない。このまま、眠るように自分は死ぬのだ。そう思っていた。
「ビ…ひッ……、ぃあ゛…あ゛ぁ…ミッ、ぎいィっ… ぉ、お゛おッ、い゛ぁ…ッ」
しかし、もう何も感じないと思った自分の体は鋭い痛みを訴える。
ペンドラーが安堵の表情を浮かべるタブンネに腹が立ち、更にタブンネの体を抉り始めたのだ。
その酷い痛みは穏やかで幸せな妄想に浸っていたタブンネの目を無理やりに覚まさせる。
悲鳴を上げようにも声が枯れ、ひしゃげたような小さな声が喉から絞り出される。
グチャグチャと腹で暴れる角。毒で痺れる脳と体。自分でも信じられない程に汚らしい声。
「あ゛」
それらを感じながらタブンネは、最後に首下まで角で貫かれ、死んだ。
ペンドラーは冷たくなったタブンネを角にぶら下げたまま、自分の住処へ戻る。
まだこのペンドラーには養うべき子供達がいるからだ。
こうしてタブンネは、無残な最期を遂げた。それをトウコが知る事は一生無い。
最終更新:2014年07月30日 23:37