幸せのありか

「こらっ、タブンネ! 好き嫌いしちゃだめだろ!」
「ミィヤァァァァ!」
とある小さな家の中に、飼い主とタブンネの声が響く。
マトマの実を食べさせようとする飼い主と、それを拒否するタブンネの攻防が繰り広げられているのだ。

マトマの実をタブンネに近づければ、ぶんぶんと首を振って拒絶する。
タブンネの頭をがっしりと捕まえれば、「んーっ」と口を閉じて、意地でも口にしない。
辛いマトマの実を何としてでも食べたくないタブンネ。
飼い主もそのことは理解している。彼だって、タブンネをいじめようとしているわけではない。

今の季節は冬。
今年は特に寒さが厳しいようで、日に日に冷え込みが厳しくなってきている。
マトマの実は体の中からぽかぽかと温かくしてくれる効果があるという。
タブンネに少しでも寒い思いをさせたくないという、飼い主の親心だ。
しかし、タブンネにとっては知ったこっちゃない。
どれだけ体があったまろうとも、マトマの実は辛い。そんなものは食べたくない。
モモンやオレンなら喜んで食べるし、オボンの実ならさらに大歓迎だ。
オボンの味を思い出すと、よだれが出そうになる。その拍子に、口がわずかに開いてしまう。
その決定的な隙を飼い主は見逃してくれるはずもなく……
食べやすいようにと細かく刻まれたマトマの実が口の中に押し込まれる。
タブンネの口の中に刺さるような辛さが広がっていく。
「ミッファァ――ッ!」

食後、ヒリヒリとする口を押さえながらタブンネはテレビにくぎ付けになっていた。
そこには、森の中で仲良く暮らすタブンネたちの様子が映し出されていたからだ。
どのタブンネも笑顔で、さらに、たくさんのオボンの実を頬張っている。
その映像を見ながらタブンネは決意する。
「こんなところ、いつか出ていってやる」と。
どうやって脱走しようかと考えていたタブンネだったが、その機会は案外早くやってきた。
タブンネが家の廊下を歩いていると、飼い主が外で洗濯物を干しているのが見えた。
そして、開けっ放しになっている玄関のドアも。
気付かれないように、そろりそろりと玄関から外に出て、そのまま近くの草むらへと静かに姿を消す。
タブンネ自身も驚くほどあっさりと、脱走することに成功した。

しばらく身を低くした状態で、草むらの中をそろそろと進む。
タブンネが脱走したことに飼い主が気付く様子はない。
タブンネは立ち上がると、転ばないように慎重に走りだし、どんどん家から離れていった。
あこがれていた野生の世界での幸せな暮らしを夢見て。
家から脱走することに成功して約半日。
陽が沈み、辺りが薄暗くなってきた。
どんどん視界が悪くなっていくなかで、タブンネは困り果てていた。
タブンネが食べるような木の実はどこにもなく、お腹はペコペコだ。
気温が下がり、タブンネの体を冷たい風がなでていくと、寒さに体が震えてしまう。
さらに、固くて冷たい地面では、満足のいく睡眠をとることも難しいだろう。
家にいたころは、食べるものも、温かい部屋も、ふんわりとした毛布も、すべてが用意されていた。
脱走したことを後悔し始めながら、タブンネは草むらの中で眠れそうな場所を探す。

「ミシュンッ」
朝になり、クシャミとともにタブンネは目を覚ました。
あのあと、草むらの中で野生のタブンネが作ったであろう巣を発見し、そこで一晩過ごすことにした。
草を寄せ集めてつくった巣の中に温かさなどなく、タブンネは震えながら夜を明かすことになった。冷え切ってしまった体を抱くように丸くなって、なんとか寒さをしのごうとする。
だが、そんなことで寒さが和らぐはずもなく、ただガタガタと体が震えるだけだった。
飼い主にマトマの実を食べさせられた時のことを思い出す。
マトマの実はとても辛くて嫌いだったが、食べた後は体の中からぽかぽかと温かくなっていった。
飼い主のことを思い出し、タブンネは「ミィィ…」と弱々しい鳴き声を上げる。

あの温かかった家に帰ろう。
タブンネがそう決意した時だった。

カサリ……

遠くの方で草むらが揺れる音が聞こえた。
タブンネとしての本能が大型の肉食ポケモンが出した音だと判断した。
鳴くのをやめ、冷たい地面にべたっと伏せると、周りの音に耳を傾ける。
草でできた巣からのろのろと這い出し、音がした方向とは反対側にそろそろと逃げる。
タブンネというポケモンは俊敏というわけではなく、どちらかといえば動きの遅い部類に入る。
肉食のポケモンに1度見つかってからでは逃げ切ることは難しい。
そのため、優れた聴力をいかして、見つからないようにすることが最も安全な方法なのだ。

タブンネは草むらの中をひたすら移動し続けた。
途中、ミネズミの群れの縄張りに入ってしまったり、ズルズキンたちに囲まれたりといったことがあり、
タブンネの体はすっかりボロボロになっていた。
泥まみれになった全身の毛はボサボサで、ふわふわの尻尾もクシャクシャになってしまっている。
ミネズミたちに噛まれたり、ズルズキンたちに殴られたりしたところはズキズキと痛む。
何も食べていないお腹はくぅくぅと鳴り、涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃだ。
唯一の幸運は、大型の肉食ポケモンに1度も遭遇していないことだろう。

肉体的にも精神的にも限界を迎え、タブンネの気力が尽きそうになったときだ。
タブンネはあることに気が付いた。
景色がどことなく懐かしい気がするのだ。
自分の勘を信じ、ボロボロの体で進んでいくと、見覚えのある光景が見えた。
タブンネと飼い主が住んでいた家だ。

めちゃくちゃに移動していたタブンネだったが、幸運にも自分の住んでいた場所の近くに来ていたのだ。
最期の力を振り絞り、家に向かってずりずりと這って移動する。
優しい飼い主、温かくて安全なおうち、毎日食べることができたご飯。
目の前に見えてきた希望を力に変えて、タブンネは進み、ついに懐かしい家へとたどり着いた。
しかし、家は真っ暗で、あまりにも静かで、誰かのいる気配がまったくしなかった。
「ミィ…?」
どうにか鳴き声を絞り出し、ドアをぺたん、ぺたんと叩いて、自分の存在を伝える。
しかし、家は沈黙を守り続け、タブンネに応えるものは何ひとつとしてない。
タブンネの体を突き動かしていた気力がここで尽きた。
ひんやりとしたタイルの上に力なく横たわり、目からどんどん涙がこぼれてくる。

そんなタブンネに追い打ちをかけるように雪が舞い始める。
風に舞った雪は、屋根に、庭に、タブンネの体に静かに重なっていく。
意識が遠のいていく中、タブンネは飼い主の声を聞いたような気がした。
「……ミィ」
たった1度だけ鳴き声を上げると、タブンネの意識は暗闇の中に落ちていった。


………………
………………
………………
「帰るよ、タブンネ」
「ミミィ♪」
ここはポケモンセンターの入り口。
人間とタブンネが仲良く手をつないでポケモンセンターを後にする。
「お大事に」という声にタブンネは手を振ってこたえる。
その顔は満開の笑顔で、とても嬉しそうだ。

家出をしたタブンネが命からがら家にたどりついたあの日。
仕事から帰ってきた飼い主は、玄関でボロボロに汚れきっているタブンネを見つけた。
すぐさまポケモンセンターにタブンネを運び込み、タブンネが回復するまで治療してもらい、
今日になってようやく回復したタブンネを家に連れて帰れるようになったのだ。

「ミッ♪ ミィ♪」
ボロボロだったのが嘘のようにウキウキと歩くタブンネ。
飼い主のもとを離れたことで、自分がどれだけ恵まれていたかを身を以て思い知った。
飼い主といっしょに暮らすことが自分にとって1番の幸せだとようやく気付いたのだ。

「なあ、タブンネ」
飼い主から声をかけられて振り向く。その顔はとても幸せそうだ。
「退院祝いに、ごちそうを食べようね」
「ミィッ♪」
もう2度とこの人からは離れないぞ、とタブンネは心のなかで固く決心するのだった。

なお、この後タブンネにふるまわれたのは「マトマの実のフルコース」であり、
それを食べさせられたタブンネは改めて決意する。

「こんなところ絶対に出ていってやる」と。

(おわり)
最終更新:2014年12月30日 17:46