「褥瘡」というものをご存じだろうか?
持続的な圧迫を受け続けることで、身体の局所が欠損もしくは壊死してしまう現象だ。
一般的には「床ずれ」という言葉で知られている。
そして、その治療の研究にはタブンネが使われている。
「ミ……ミィッ……ミゥゥ……」
1匹のタブンネが板の上に寝かされている。その声はひどく苦しそうだ。
全身の毛をそり上げられ、薄いピンク色の皮膚がむき出しになっている。
「ミィィ……ミググ……ミハッ……」
全身から汗を流しながら、あおむけになった体を動かそうとするが、うまく力が入らない。
このタブンネは、何重にもかけられたしびれ粉によって体が麻痺してしまっているのだ。
そのため、自らの意志で動くことができず、尿や糞も垂れ流している状態だ。
「実験開始から72時間が経過」
抑揚の少ない機械的な声が聞こえると、白衣を着た人間たちがタブンネの周りに集まる。
白衣の人間たちは、慣れた手つきでタブンネの汗や糞尿をきれいにふき取っていく。
そして、タブンネの体をひっくり返してうつぶせにすると、皮膚の状態を観察し始める。
背中やお尻の広範囲がうっすらと赤く染まり、一部が陥没して真っ赤な色を見せている。
ひどいところになると、壊死した皮膚や肉が黒く変色してしまっている。
「ミフー……ミフー……」
当のタブンネはというと、何度も深呼吸を繰り返し、落ち着いているように見える。
自分の力ではないとはいえ、姿勢がうつぶせに変わったことで、先ほどまでの苦痛が緩和されたのだ。
しかし、その表情はゆがんだままで、完全に苦痛から解放されたわけではないことを語っている。
背中の大部分はまだ完全に壊死しておらず、その部分が「ズクズクとした痛み」を訴えているのだ。
白衣の人間たちはタブンネの状態を観察すると、淡々とした様子でデータをコンピューターに入力していく。
データの入力を終えると、白衣の人間たちは動きを止めて次の指示を待つ。
「処置開始」
抑揚のない声が簡潔に指示を出すと、白衣を着た人間たちが動き出す。
石鹸や生理食塩水を使用して、欠損部位を洗浄していく者。
皮膚の下にできた褥瘡を処置するために、皮膚を切り開く者。
メスやハサミを使って、壊死した部分を取り除いていく者。
彼らは事前に指定されていた通りの動きで、タブンネの体を治療していく。
「ミッヒ! ミガァ!? ミックゥ……ミギャギャギャ!」
しかし、その治療を受けるタブンネとしてはたまったものではない。
体の自由がきかない状態で、自分の体をいじられているのだ。
さらに、処置が行われているのはタブンネの背中側であり、タブンネ自身の目で見ることができない。
タブンネの優れた聴覚が処置の音をはっきりと拾っているものの、何が行われているのかを想像することすらできない。
「もうやめて!」という哀願も、白衣の人間たちにはただの鳴き声にしか聞こえていない。
麻痺した体では、最低限の抵抗を行うことすらできない。
タブンネにわかることは2つだけ。
自分の見えない場所で、自分の知らない何かが行われているということ。
自分がどれだけ泣き叫ぼうと、今の状況がかわることはないということ。
タブンネにできることはただ1つ。
少しでも早くこの地獄が終わることを願う。
ただそれだけだった。
「処置終了」
無機質な声が聞こえたことで、タブンネは地獄が終わったことを認識する。
だらしなく開いた口からは舌が飛び出し、粘度の高い唾液が板の上に流れている。
充血した瞳からは光が失われ、流れ出した涙が顔全体をしっとりと濡らす。
泣き叫んだことでのどは嗄れてしまい、「ヒィヒィ」という息が漏れるのみだ。
そんな状態ではあるが、タブンネは安堵していた。「ようやく解放されるのだ」と。
しびれ粉の効果が切れてきたのだろう。うまく動かなかった口が、かすかな笑みの形をつくる。
しかし、次の瞬間だった。
タブンネの体に、新たにしびれ粉がかけられた。
状況が理解できずに困惑するタブンネに、無機質な言葉が聞こえてくる。
「これより治療後の経過観察に入る」
パニックになりかけたタブンネだったが、その言葉を聞いて落ち着きを取り戻す。
なんだ、自分を安静にするために体を動かなくしたのか。
そんなタブンネの楽観的な考えを打ち砕くかのように、無機質な声が静かに、無慈悲に告げる。
「また、今回と同様の処置を2時間おきに行なっていく」
タブンネの地獄はまだ終わらない。
「処置開始から72時間が経過。結果および経過を報告」
相変わらずの抑揚のない声に従い、白衣を着た人間たちが動く。
タブンネに貼ってあるガーゼや被覆材がはがされていく。
タブンネの体は、元通りとまではいかないまでも、ある程度のきれいさを取り戻していた。
欠損していた部分には新しい肉が盛り上がり、一部の皮膚はうすいピンク色を取り戻している。
あれだけの状態だったものが、わずか72時間である程度修復されていたのだ。
これが褥瘡治療の研究にタブンネを使う理由。
タブンネの特性「さいせいりょく」を利用しているのだ。
本来ならば、軽度の褥瘡であれ、完治するまで1~2週間程度の時間が必要となる。
つまり、新しい治療法や薬を試しても、成果が出るまで長い時間がかかってしまう。
しかし、「さいせいりょく」をもつタブンネならば、圧倒的に早い時間で効果を確認することができる。
そして、タブンネをつかった実験で有効性と安全性が確認されて初めて、人間の体に同様の処置を施すことができるのだ。
タブンネの周りを囲む白衣の人間たち。
その一部からため息が漏れる。
考えていたほどの芳しい成果が上がらなかったのだ。
そしてこの時、タブンネには嫌な予感がしていた。
背中が少しかゆい。それは大して気にならない。
問題なのは、少し前に背中に感じていた「ズクズクとした痛み」をお腹の方に感じるのだ。
「第1回実験の成果を確認。続いて第2実験を開始する」
抑揚のない機械的な声を受けて、白衣の人間たちがタブンネの体を持つ。
しびれ粉によって麻痺しているタブンネは抵抗できずに、されるがままになっている。
白衣の人間たちがタブンネの体をあおむけにする。
自分の体はどうなっているのかと、タブンネの視線が自分のお腹の方に動く。
「ヒッ……!」
短い叫びがタブンネの口から漏れる。
タブンネの視線の先。正常な状態なら、ふっくらとしたお腹があるはずのその場所。
毛を剃られ、薄いピンク色の肌を晒しているはずのお腹の中央。
そこには、大きく陥没して、一部を黒く染めた赤い肉が存在していた。
染み出した体液によりヌラヌラと光り、壊死した黒い部分からは黄色い膿がドロリと流れている。
「ミッ……! ミッ……! ミッ……!」
声にならない叫びが何度もタブンネの口から出てくる。
目の前の光景はタブンネの想像をはるかに上回っていた。
「こんなのは嘘だ」と言わんばかりに目を見開き、タブンネの思考は完全に停止する。
そして、そんなタブンネの様子を気にも留めず、白衣の人間たちは処置を始める。
洗浄し、切開し、切除し、洗浄し……
事前に指定されていた通りの動きを繰り返す。
停止していたタブンネの思考が動き出す。
このときタブンネは知ることになった。
自分の体に何が起こっているのかを。自分が一体何をされているのかを。
そして、72時間前に自分の背中で何が行われていたのかを。
「ミィヤァァァァァァァァァァァァァァ!!」
ガラガラという音を立てて台車が進む。
台車の上には、口をきつく結ばれた真っ黒なビニール袋が乗っている。
ビニール袋の中からは、かすかに「ミ……ミ……」と弱々しい鳴き声が聞こえてくる。
やがて台車の動きが止まると、ビニール袋がドサリという音とともに降ろされる。
ビニール袋が置かれた場所にはほかにも大量の黒いビニール袋が置かれている。
そして、そのほとんどの袋から「ミ……」という鳴き声が聞こえている。
ここはとある実験施設にあるゴミ捨て場。
実験を終えて不要になったタブンネたちはここに捨てられる。生きていようと死んでいようと関係なく。
タブンネの持つ生命力と「さいせいりょく」により、タブンネたちはなかなか死ぬことができない。
暗く狭いゴミ袋の中で、いつ訪れるともわからない死を待ち続けるのだ。
この段階で死ねるタブンネは幸運だ。
なぜなら、運悪く死ぬことができなかったタブンネは、業者に回収された後、生きたまま焼却処分されてしまうのだから。
医療の発展は、決して少なくはない犠牲の上に成り立っている。
私たちは忘れてはいけない。
人間のために犠牲になった多くのタブンネがいるということを。
……たぶんね。
(おわり)
最終更新:2015年02月11日 01:51