【名前】奥村五百子
【よみがな】おくむら いおこ
【生没年】1845年~1907年
【現時点】1865年、20歳
【流派】タイ捨流
【簡単な来歴】
「首と胴とが離れぬうちは家に帰らぬ」
手島益雄編による、『奥村五百子言行録』 によると、このような言葉が残されているとのこと。
奥村五百子は弘化2年(1845年)今の唐津市中町にある高徳寺の住職・奥村了寛の長女として生まれた。
父了寛はもともと京都の公家である二条治孝の孫で、京都よりこの寺に派遣されていたのだという。
尊皇思想の根っこは、この血筋によるものが大きいのだろう。
そのような背景もあり、父や二つ違いの兄円心等は周囲からも尊敬を集めていた。
五百子はそういう環境で、幼少期から周囲が困惑するほど元気に育ち、男の子とばかり遊んでいたという。
母がそれをなんとか辞めさせようと、女性のたしなみである舞踊、管弦、裁縫などを教えるとすると、それらをいち早く、人並み以上に習得する。
これには母も何も言えず、やむなく 「男勝り」 な彼女の遊びは、公認のものとなってしまった。
7歳の頃から私塾に通い、また正義漢が強く、「女のくせに」 等という周囲の言動には強く反抗した。
15歳の頃には周囲の反対を押し切り、あこがれの京都、大阪へと旅に出て、見聞を広める。
18歳の頃、文久3年(1863年)の下関戦争のとき、長州藩は警戒をして、一時男子の入国を禁止した。
維新前夜のこの時期、既に肥前一帯の尊皇攘夷派の拠点となっていた高徳寺の中で、長州に密使を送る必要が出た。
その密使の役を、五百子は自ら名乗り出て、その道中、若武者姿に男装したという。
入国の際、いったんは長州藩士に捉えられるも、実は女性であることが判明する。
五百子が落ち着き払った態度で密使として潜入した旨伝えると、彼らは感心し、家老への面会が実現した。
(また長州では、奇兵隊の高杉晋作と遇い、大いに感銘を受けたとも伝えられる。そのほかの長州藩士らとも知遇を得ていたかも知れない)
この武勇伝は尊皇志士たちの間で有名になり、一目置かれる存在となった。
22歳の時に結婚するが、夫は翌年病死する。
その後明治に入り、元水戸藩士の反体制主義者と、周囲の反対を押し切って再婚。
商売を初めて生活を支えるが、明治20年、五百子43歳の時に離別。
その後は再婚せず、社会運動家として本格的行動をし始め、政財界の大物達との交友も得て、大いに支援を受けることとなる。
【剣客バトルロワイアルにおいての注釈】
参戦SS投下時に一旦指摘したとおり、どうも剣客としての来歴は、後世のフィクション (おそらく、長州へ男装で密使として旅をしたことに由来するもの) のようです。
調べてみると、昭和15年に映画が作られたりもしているらしいのですが、内容は多分剣劇ものではないように思います。
山田風太郎の明治モノなどにも登場しますが、こちらのシリーズも、基本的に明治を舞台とした推理小説なので、派手な立ち回りはほとんどありません。
そのあたり、戦前はなかなか有名な人物ではあったようですが、おそらくは苛烈な性格から、反戦平和主義とはとうてい言えなかったため、戦後は黙殺される事となったのではないかと思われます。
と。
そのような考察はさておきまして、何れにせよ本『剣客バトルロワイアル』 内では、それらを踏まえつつ、「タイ捨流の使い手」 という事になっていますので、結果かなりフィクショナルなものになってますが、その線で描写していただければ。
尚、文中 「肥前佐賀、奥村五百子」 とよく名乗ってますが、厳密には出身藩は佐賀鍋島藩ではなく、唐津藩だそうです。
最終更新:2009年09月15日 03:30