秋月文種とは
秋月文種(あきづきふみたね)は武将。大蔵姓
秋月氏の一族。
秋月種時の子であり、秋月氏を継ぐ。子には家督を継いだ
秋月種実などがいる。(詳しくは子孫の項を参照)
秋月氏は当初周防大内氏に属していたが、大寧寺の変にて当主
大内義隆が自害すると、九州北部は大友氏の天下となる。文種も当初はこれに服属することで所領を守った。だが、大寧寺の変を引き起こした陶晴賢が厳島の戦いにて
毛利元就に敗死すると、
毛利元就は旧大内氏領内を席巻していき、九州にもその歯牙を向けた。それに呼応するかように動いたのが秋月文種であり、その背後には
毛利元就だけではなく、
筑紫惟門ら少弐氏系の諸族も関係していた。何故ならば、少弐氏家臣に肥前を追放された
龍造寺隆信は、
大友宗麟と手を結び筑後勢の手を借りて旧領回復を狙っていたからである。対大友氏という立場において、秋月文種ら旧大内家臣と、親大友な龍造寺氏を討ち果たしたい少弐氏家臣、それに新興勢力として台頭してきた毛利氏という、三者の思惑が一致したということであろう。また、叔父菊池義武を討って菊池氏を打倒し、筑後を獲得したばかりの大友氏に属さない勢力も多分におり、味方といえる龍造寺氏でさえ己の復権のために大友氏の威光を利用しているだけに過ぎない面も多々あり、未だ大友氏の覇権は盤石とは言えなかった。
大友氏に謀反を起こした秋月文種の勢力は野仲・山田・長野氏らの支持を得て、豊前における大友方勢力の所領などに攻め入るが、田原親弘や佐田隆居の反攻に遭い、野仲氏が降伏し、山田氏が滅ぼされるなど、逆に豊前から追い出される結果となる。
一方で戸次鑑連と志賀親度が主力軍を率いて筑後方面から筑前秋月へと侵入し、これに呼応する形で田原親宏ら豊前方面軍も降将を先駆けとして秋月に侵入、両面から文種の居城である古処山城を包囲する形となった。
七月七日に総攻撃が開始されると、秋月方の小野四郎左衛門尉の裏切りがあり、四日後の七月一一日に古処山城は落城した。
文種の最後は討死とも自害ともされよくわからないが、『大分県史』では自刃したとしている。
子孫
嫡男秋月晴種は文種とともに大友氏と戦って戦死、文種の遺児三人が毛利氏の元へと亡命している。
秋月種実の家系が江戸時代に日向高鍋藩として廃藩置県まで存続。
江戸時代の名君とされ、ジョンFケネディに尊敬された政治家といわれた上杉鷹山公は、秋月氏の出身である(文種から見ても子孫に当たる。)。
関連項目
人物
出来事や用語
最終更新:2013年07月15日 03:07