青年の詩、少女の季節 第6話

82 ポン菓子製造機 ◆lsywFbmPjI sage 2010/03/10(水) 07:58:30 ID:fww6VM9R
 そらとの情事から一日が経った。冬休み一日目、雪景色の街は昨日のどんちゃん騒ぎを終え、今すぐにも正月へとその頭を切り替えようとしている。
 俺はそんな街の様子を見下ろしたあと、寝ぼけた眼で時計に眼をやる。短針は既に一〇の位置を少しばかり進んでおり、冬休み突入後一日で早くも生活が狂っていることに笑うしか無かった。
 既に部屋にはそらの姿は無かった。
 リビングの方にいるのだろう。俺はそう思いながら顔を洗いに洗面所へと向かう。
 だが、扉を開けたときにふと違和感に気づいた。
 家のどこからも物音が一つもしなかったのだ。
 普通だれかいるはずなら何かしらの音がするはずだが、自分の立てる音以外はそれすら無い。
 「そらー?」俺は無音のリビングに向かって呼びかける。
 一秒。
 二秒。
 三秒
 四秒目で俺は諦めて仄暗い廊下を光の点す方向へと歩いていった。
 結論として、家の中には誰もいなかった。
 父さんがこの時間帯にいないのは普通といえば普通だし、そらもきっと友達と遊びにいったのだろう。俺はそう自分に言い聞かせた。
 昨日の情事も、そらの豹変もきっと関係ない。そう付け加えて。
 「さて……」顔を冷水で洗ったお陰で、まだ重たげながらもなんとか意識が覚醒する。俺はそのまま流れるように食堂へ向かい、薄切りの食パンをトースターに突っ込む。
 数分ほど経って、ちぃん、と小気味いい音を立ててトースターからきつね色の食パンが飛び出した。
思えば、一人きりの食卓と言うのも久しぶりなものだ。
 「……あと三時間か」昨日言った約束の時間まで三時間。三時間もあれば二回は洗濯機が回せるし、その間に家の掃除も出来る。
 でも、その前に着替えなきゃな。と、妙な笑い声をあげながら俺はジャムを載せたトーストを頬張った。
 あと三時間。それが今の北見千歳のリミット。
 三時間後、平凡な受験生の北見千歳は綺麗さっぱりいなくなる。
 いや、もう平凡な受験生の北見千歳など昨日、いやとうの昔に消えてなくなっていたのかもしれない。
 そらとの情事が、いや、そらの思いそのものが俺を平凡と言う生ぬるく、ひたすらに現実感の乏しい世界から引き放していたのだから。
 そして、俺は三時間後にその平凡と言う世界を自ら捨てるだろう。
 何よりも、そらのために。
 俺の、怖がりで泣き虫な妹のために。
 きっと、どこかで俺はそらに恋していたのだろう。
 それが、昨日のそらの事で確実な恋へと変わって、俺に最後の一歩を踏ませる後押しになったのだ。
そらは周りが思ってるよりもずっと弱くて、寂しがりで、泣き虫で。そんなそらを守ってやれなきゃ、俺はそれこそとんでもないクズ野郎だ。


83 ポン菓子製造機 ◆lsywFbmPjI sage 2010/03/10(水) 07:59:36 ID:fww6VM9R


昨日の夜、帰ってきた父さんに俺は全てを打ち明けた。
そらが俺に恋愛感情をいだいていたことも、情事のことも。
その時の俺はとにかく一人でも多く、誰かにこのことを言いたかった。そして楽になりたかった。
父さんは終始沈んだような、憂うような表情で、まるで全てを見越してたかのようにため息を一つついて、沈んだ声で言う。
「千歳、そらは?」
「寝てる。なんかあったらしくご機嫌斜めなんだわ」
「そうか……」
それから数分ほど、重苦しい沈黙の時間が続いた。
そしてそれを破ってなぁ、千歳。と父さんは聞いてくる。その顔はいつもの父さんのように「狂った」表情は消え、今まで見たことも無い、刃のような涼しさと少しばかりの憂いを秘めた顔だった。
「お前は、そらのことをどう思ってるわけだ?」
「……そりゃ、いい妹だと」濁し気味に俺は答える。が、父さんはすぐにそれを遮った。
「そうじゃない、そらの気持ちにお前が応えられるか。だ」
また沈黙。時計の音だけが広いリビングに響きわたっている時間が何秒ほど過ぎただろうか。
俺はやっとのことで声を搾り出す。
「俺だって………応えたいよ…………そうじゃないと、そらが……壊れる」
「だけど、俺にそらを守れる力なんて無い。ってか?」
言いたいことを言われたのに戸惑いを隠せなかった俺をよそに、父さんは続ける。
「わかるんだよ。俺もお前と同じ大馬鹿野郎だから」
「じゃあ、父さんと母さんも……」
「まぁな。あまり大声で言えるようなことじゃないが」
父さんは、ため息を一つついて、また口を開く。
「あいつも相当なお兄ちゃんっ子でな。俺が釧路の家から札幌に就職に出るのも最後まで反対してて、札幌に出てきて最初の夏にあいつが俺のアパートに来て、その夜に泣きつきながら俺のこと襲ってきやがった」
自嘲気味にくくっ、と枯れ気味の声が漏れる。
「私は兄さんさえいればいいの、兄さんと一緒に入られるのが一番の幸せなの。って、もう鼻声で涙ボロボロ垂らしながら俺に詰め寄ってきて、その瞬間に、なぜだか美幸のことを絶対ない守ってやらないと。って気持ちになっちまった。そこからが運のつきさ」
「……で?」
「釧路の爺ちゃん婆ちゃんいるだろ?もうさんざん怒られた挙句に絶対に帰ってくるなって言われたよ。まぁ、どうも親父もお袋も前から美幸に妙なフシがあるってのはわかってたから多少の理解はしてもらえたがな」
 だがな。と父さんは、口元を緩ませ、しかし真剣な眼差しのまま俺を睨む。
 「別にお前が実の妹を好きになろうと構わない。この国には誰を好きになっちゃいけないって法律はないからな。
だが、周りは?世間体はどうなる?この国の法律は近親婚なんざ許さない。味方だってぐっと少ない。それどころか周りが敵ばかりになる。
俺も誰も知ってる奴のいない札幌で働きはじめたから、美幸と暮らせたんだ。だが誰も頼る人間のいないこの街で暮らして、そのせいで体の弱い美幸に負担もかけちまった。
それに仮にお前がそらと結ばれて、そのあとどうなる?進学は?就職は?お前の人生も滅茶苦茶になるんだ。これでもお前はそらと一緒に生きられるのか?」
 父さんの口から吐き出される言葉、それは俺の抱いていた心配そのものだった。そらを思う気持ちと一緒に俺の中に渦巻き、俺たちの幻想のごとき恋愛を残酷な現実へと引き戻すもの。
 そんなことはとうの昔にわかっているというのに。
 「おれは……そらと」覚悟を決めて俺は声を絞った。だが、搾り出そうと思った言葉は肝心のその先が欠け落ちる。
 何も言えない。不安が、恐怖が邪魔をする。ただただあ、とかう、とかうめき声を上げるだけ。
 畜生、言えよ。と何度も心のなかで自分に向かって叫ぶ。が、体は何も応えない。
 父さんは内心驚きながらも、まぁ予想の範囲内だったとでも言うような冷ややかな目でこちらを眺めている。
 「父さん」ようやく、声が戻ってきた。情けないほど震えた声で俺は言う。
 「一晩、待ってくれないか」


84 ポン菓子製造機 ◆lsywFbmPjI sage 2010/03/10(水) 08:00:11 ID:fww6VM9R
 そして、今俺はその一晩を終えた。
 俺はもう、答えを決めた。
 「そらを……受け入れてみせる」
結局の所、もう何度悩んでもその答えしか出なかった。
どうしようもない不安も確かにあるといえばある。まだ心の何処かに重く淀んだ恐怖が残ってはいる。
だが、もし俺がそらを裏切れば、そらはきっと俺の抱く恐怖や不安なんかが現実となった時の傷よりももっと深い傷を負うことになるだろう。
そらを一生守って、一生付き添ってやる。それがそらの兄として、そらの愛した男として、北見千歳としてやらなければいけないコトだ。
『人を裏切るのは妹とセックスするようなものだ』
うるせぇ、そのヤった妹を追いて逃げ出すのはそれ以上の最低野郎だっつの。
俺はそらを見捨てて、てめぇのやりたいように生きる糞野郎になってたまるかよ。
「じゃ、行くか」
父さんの指定した場所。市電車庫側の近くの喫茶店。
そこに立ち寄るにはまだ時間があるが、本屋にでもよって時間でも潰せばいい。
窓の外に広がる街は昨日と同じように、てっぺんから爪先まで真っ白のままだ。夏タイヤの俺のバイクではまともに走れもしないだろう。
「まぁ、冬タイヤがあっても乗る気はしないけどな」
コートを羽織り、ソファの上においてあった鞄を肩にかけると、俺は家を出た。
いつも乗り慣れた陰気なエレベーターで一階に降り、くすんだ色のホールをくぐると、そこには眼に突き刺すほどに眩しい陽光と、透き通るような、冬特有の高い青空があった。
俺は表の電車通りへと足を進めると、電車通りの先にはもう新緑色の丸い電車の姿があった。俺は慌てて電車の方へと駆け出した。


『お待たせしました。三番ホームの手稲方面小樽行き、快速エアポート発車いたします』
アナウンスに続くようにしてホイッスルの音が薄暗いホームいっぱいに響き、しばらくすると列車のドアが閉まる。
そして空気の抜けるような音の後に、がくん、と電車が揺れる。
私は、徐々に加速してゆく電車のデッキで一人、溜息をつく。
 その溜息はドアのガラスにあたると、すぐに白い露に変わっていった。
「ごめんね。兄貴」
勝手に関係迫ったりしてごめん。そりゃ兄貴の人生は兄貴が決めたいよね。たとえ妹でも、兄貴をどんなに愛してても、私なんかが勝手に自分の好きなようにしちゃいけないよね。
それに兄貴は実の兄が大好きな気持ちの悪い妹なんかと一緒に暮らしたくも無いよね。
私バカだから一晩考え直して、ようやく藍の言葉の意味がわかったの。
だから私は兄貴の前からいなくなるの。
そうすれば私も辛くなくて済むし、兄貴も気持ちの悪い妹と一緒にいなくてすむ。
そんな自虐的な、だが覆し難い事実を思いながら不意に私はコートのポケットに手を入れる。
ポケットのなかには手に収まるほどのすべすべとした四角い何かが入っている。私のパールホワイトの携帯電話だ。
「そういや、まだ酷いこと言ったの、兄貴に謝ってなかったな」
私は携帯電話を取り出すと、ぱちん。と折りたたんでる部分の付け根のボタンを押して画面を開く。
兄貴の黒い携帯電話とおそろいの白い携帯電話。かちかちと私の指は文字キーと使いすぎでメッキの磨り減った決定キーの間を踊る。
そして、私の意志に反したとても短い謝罪の文面が出来上がると、最後に一文を付け加えて、それを送信する。
しばらくして画面に浮き出てきたのは『メールの送信が完了しました』と言う無機質な文字。
私はそれが済むと携帯電話をコートのポケットに突っ込み、視線を窓の外に移す。
白く包まれた街の景色は、何故か私を酷く憂鬱にさせたのだった。


85 ポン菓子製造機 ◆lsywFbmPjI sage 2010/03/10(水) 08:01:46 ID:fww6VM9R
午後一時ちょうど。父さんの言ってきた喫茶店のボックス席で、クリームソーダをちびちびと飲みながらテーブルに頬杖をつきながら俺は窓の外の景色をじっと眺めていた。
黒や茶のコートの群れ、深緑色の路面電車、色とりどりの車。そのどれもが昼下がりの街をせわしく行ったり来たりを繰り返してる。
俺はこんなふうに世界は進んでいるんだと思う。淡々と、いろんなとこを行ったり来たりを繰り返していて。たとえその時間の中に誰かの劇的なドラマが孕まれていようと、まるで周囲はそれを気づきはしない。
結局、俺とそらの思いもそんな風に淡々とした世界の一ピースなのだ。
誰かが不用意に首を突っ込まない限りには誰も知ることの無い、ゆがんでいるようで実はきちんとパズルにはまる、この淡々とした世界のピース。俺とそらの恋がもし成就してもそんなものだろう。
この世界をぶち壊すようなマネさえしなければ、俺もそらもこの淡々とした世界で、何も変わらずに生きられるはずだ。
「すまん、遅れたな」
振り返ると、そこには父さんがいた。いつもの背広に、やつれた顔。ただし眼だけは凛とした、非常に鋭いものだった。
父さんは俺とは反対側の席に座ると、近くににいたウェイトレスを呼んで、なにやら注文をすると単刀直入、俺に訊いてくる。
「で、結局お前はそらとどうするんだ?」
「俺は……」昨日絞り出せなかった言葉は、何故か、驚くほど素直に出てきた。「そらと一緒に生きたい」
「例えそれが誰からも非難される道でもか?」
「それでもこの世界を全部敵にまわすんじゃないし、俺は覚悟できてる」
「学費と生活費は?おまえら二人が結ばれれば俺もお前らを家から追い出すし、俺は高校以上の学費なんて出さんぞ」
「俺がバイトして稼ぐ」
はぁーっ、と大きなため息を付いて父さんは呆れた。とでもいいたいのか手のひらで顔をぬぐう素振りを見せる。
「やっぱお前は俺の息子だわ……俺とおんなじコト言ってやがる」そして父さんはその頬を緩めた。「もういい、おまえらの好きにしろ。ただし、おまえらが高校卒業したら俺は何も手助けせんぞ」
その言葉で、俺は心の中につながれていたコンクリートブロックを百個も積み重ねたような重石が一気に無くなった、そんな感覚がした。
そして俺はそのまま何気なしに時間を見ようと、ポケットから携帯電話を出す。黒い、少し古い型の携帯電話をひらくと、新着メールを示すアイコンがぽつんと浮き出ている。
いつの間に受信していたのだろうか、マナーモードが入りっぱなしの携帯ではメールなど気づかないことが多い。
そのアイコンを選ぶと、すぐに受信メールが画面いっぱいに広がった。
差出人の欄には「そら」の文字。
タイトルの欄には「ごめんね」の文字。
昨日は酷いこと言ってごめん。
兄貴には兄貴にふさわしい人がいると思うから、昨日の私とのことは忘れてもいいよ。

さよなら、お兄ちゃん

「おい……何の冗談だよ」俺はすぐさま電話帳を呼び出してそらにつなぐ。だがいくら待っても虚しいコール音が続くだけだった。
「千歳、どうなってるんだ?」父さんが状況を飲み込めないとばかりに訊いてくる。が、俺ですら状況が解らないのにどう説明しろと言うのだ。
「多分、そらがなんか勘違いして出て行った」
父さんはそうか。と短く答えて、とん。と俺の肩を叩く。
「行ってこい」
「そうする」
俺はのみかけのクリームソーダを一気に煽ると、そのまま喫茶店を飛び出た。
そらがどこにいるのかすら解らなかったが、でも何故か外に飛び出してしまったのだ。





86 ポン菓子製造機 ◆lsywFbmPjI sage 2010/03/10(水) 08:02:37 ID:fww6VM9R
またポケットの中で携帯電話が暴れる。
多分電話の主はさっきと同じように兄貴だろう。
「折角邪魔な私がいなくなってあげるっていうのに、なんで電話するのかなぁ……」私は暴れる携帯電話を無視して、列車の振動に身を任せる。
列車の車窓は既に雑然とした郊外を通り過ぎ、眼前には灰色の空の反射のせいで暗い色をした、荒涼とした冬の海が広がっていた。
『次は小樽築港、小樽築港。小樽築港をでますと……』
無機質な車内アナウンスが車内にわんわんと響き渡る。
ここまでくれば小樽市街ももうすぐだ。
数分ほど海を眺めていると、またコートのポケットが震える。これで通算四回目の電話だ。
「もぅ……」
私は面倒くささと、ほんの少しの希望、そして急に沸き上がった兄貴の声の聞きたさを込めて、デッキへと出て行く。
がたん、がたんと断続的な列車の音と振動が直に伝わってくるデッキで、私は通話ボタンを押した。
「もしもし、兄貴?」
「そら……お前いま……どこにいる」はぁ、はぁ、と息を荒らげながらつよい語調で問い詰める兄貴。
「どこだっていいじゃん」
「いい訳あるか! あのメールの内容なんなんだよ!」
「いいじゃん、兄貴も邪魔な妹が消えて自由に恋愛出来るんだからさ」
「そら、お前昨日から何か勘違いしてないか?」
「うるさい、もういいの!」私はまた兄貴相手に怒鳴ってしまった。「こんな妹に電話してる暇があったら昨日の電話みたく藍と電話で話してなさいよ!」
『まもなく、小樽築港。小樽築港……』後ろで虚しく響くアナウンスだけが私の叫びのあとの沈黙を埋める。
私は、もう何がしたいのか解らなかった。
ただ、あれだけ好きだったはずの兄貴とは絶対に逢いたくはないと言う気持ちだけがふくれあがっていた。
「さよなら、兄貴」私は静かに電話を切った。


ぶつっ。と電波の断末魔の後に、ひたすらに虚しいだけのコール音が受話器から聞こえてくる。俺はすぐに通話を切ると、携帯をコートのポケットにしまった。
 「小樽築港……」繰り返すようにアナウンスの駅名をつぶやくと、俺はそのまま雪の駅前通りを駆け出した。
電車で中心街まで行ったのがなんとかなったな。と変な関心を覚えながらも人通りを避けながら、灰色の町を走る。
そらの背後から聞こえたアナウンスの駅名が正しければ、多分そらは小樽行きの列車に乗っているはずだ。
「ってことは、あそこだろうな」
もう一年も前の初夏の日のツーリングの目的地で、そらのお気に入りの場所。俺にはそらの行きそうな場所などそこくらいしか思いつかなかった。
いつの間にかあんなに晴れていた空は重苦しい鉛色に変わり、雪がちらつき始めている。
「ああくそっ! 邪魔なんだよ!」喚きながら俺は人ごみを縫うように駅前通りを、せめて駅まで走ればきっとなんとかなるはずだと信じて俺は足を運んだ。
正直足は痛いし腹もズキズキする。息をするだけでも喉に氷を流し込んだような妙な悪寒が走る。
普段運動なんざしない俺にとってこんなに真面目に走ったのなんかマラソン大会の練習以来だ。
息がヒュウヒュウ漏れる。雪に足がとられそうになる。重いコートが枷のように俺の体力を奪ってゆく。
そして、交差点の真ん前で俺が不運にも足をついたそこはブラックアイス……つまり、中途半端に溶けた雪が再び固まったアイスバーンだった。
足の支えを失った俺は盛大に足を滑らせ、右半身を下にするようにしてその場に倒れた。
「あああ、こん畜生!」
立ち上がろうにも短時間の間に酷使された体が悲鳴を上げ、きっと普段なら立ち上がる気力さえ失っていたと思う。
それでも俺は、痛む体を無理矢理に起こして、再び灰色の駅前通りを走り出した。
やがて眼前に暖色系の巨大な駅ビルが迫ると、俺はさらに、今まで生きてきた中でこれ以上とないほどの力を振り絞って交差点と駅前広場を駆け抜けた。



87 ポン菓子製造機 ◆lsywFbmPjI sage 2010/03/10(水) 08:06:20 ID:fww6VM9R
私が隣町の駅前についたのは、三時を回った頃だった。
灰色の低い空からは雪がちらつき、この港町をアスファルトなど見せないようにと白く染めてゆく。
いっそ、こんなふうに私も、心の中を何も見えないように白く染めてくれればいいのに。そう思いながら私は駅前のバスターミナルに止まったバスを一つづつ確かめるように見渡してゆく。
「あ、あった」
バスターミナルの端で、すこし申し訳なさそうに止まっている紅白の古めかしいバス。私はそのバスの行き先表示をじっと見つめる。
「10系統おたる水族館行き、うん。これでいい」
バスはほとんど貸切状態だった。私の他には和服のおばあちゃんと、私より二歳ほど上なくらいのセーラー服の少女が乗り込んでいるくらいで、座席はどこもかしこもガラガラだった。
私が適当な席に座ると同時に、バスはガラガラと音を立てて駅前を発車した。


『お待たせいたしました。1番線から小樽行き普通列車、発車いたします……』
駅のホームには既に小樽行きの電車が発車の時を待っており、俺はそれに乗り込むと、携帯電話を取り出した。
電話帳を呼び出して、検索。目当ての人物が見つかるとすぐに通話ボタンを押す。
ほとんどコールが聞こえないままに電話はつながった。
「はい、里野です」
「俺だ、北見だ」
駅まで全力疾走したあとのひどく痛い喉で、俺は電話口の里野に言う。
「里野、お前そらに何を吹き込んだ?」
「え?」
「とぼけんな。こっちはお前が昨日なんか吹き込んだせいでそらが妙な勘違いして出ていったんだぞ」
「ああ……それですか。それなら……」里野の話をしばらく聴き続け、そして一分ほど経ったろうか。俺は里野の話を中断させる。
「いい加減にしろ」強く、怒りのこもった口調で俺はそういうと電話を切った。

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最終更新:2010年03月14日 22:29
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