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裏切られた人の話 New! 2010/06/30(水) 00:25:28 ID:MbMb5Pj5
「いまさら1億円ですか……。」
思わず頭を抱えてしまった。
「話には聞いていましたが、本当にそういう額になるものですね。」
医師はこちらの顔を伺いながらおずおずと答える。
「はっきりと言ってしまえば、臓器売買ですので。」
1億か、今までに使った額がそれくらいあったかもなぁ。
もっと早くそう言ってくれば、役に立たない検査なんぞに使わなかったのに。
今までこいつが遊んでいたわけではないのは分かる。
分かるが、その首を絞め上げてやりたくなる。
「いつまでに、必要ですか?」
「手術に耐えられる体力を考えますと、一月ぐらいでしょう。」
「一月以内に1億円、悪い冗談みたいですね。」
頭の中で今有る流動資産の額を考える。ああ、多く見積もって6000万は足りないな。
こちらの算段がひと段落ついたところで先生が切り出す。
「その、従来どおりの治療を続ければ、あと三年は大丈夫だと思われます。」
要は諦めて、余生をどう過ごさせるかを考えろと言うことか。
常識的に考えればそうだろう。だが、そういうわけにはいかない。
夜澄をこんなところで死なせない。あいつの人生をずっと独りで、寂しいままで終わらせるものか。
「いえ、手術をしてください。一月以内に用意します。」
俺は先生に挨拶をして診察室を出た。
方法は有るんだ、手を尽くせば有る筈なんだ、そう言い聞かせて。
196 裏切られた人の話 sage New! 2010/06/30(水) 00:27:47 ID:MbMb5Pj5
話は4時間前に遡る。
××総合病院受付と書かれた窓口に座っている事務のおばちゃんに挨拶をして階段を上る。
四階の左端、特別個室「永瀬 夜澄(ながせ やすみ)」と書かれた部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
「こんにちは、夜澄」
「こんにちは、宗一兄様。13時00分、いつも通り午後の面会時間きっちりですね。」
そういって少女がにこりと笑う。
夜澄、随分年下の、9歳程歳の離れた俺の大事な妹だ。
夜澄を一言で表すならば人形のような少女だと思う。
白い肌に澄んだ黒い髪。
笑う表情は上等の人形師が作り上げたように端整だ。
そして、そのような傑作は大切に箱の中へ仕舞われるように、夜澄もこの病室から出られない。
「邪魔だったかな?」
「いえ、兄様がいらっしゃらないときはこれ位しかする事もありませんから。」
そう言って、ベッドに腰掛けていた夜澄が櫛をテーブルに置く。
絹のような髪、丁寧に梳かれた長い髪は本当に上等な布のように見えてきれいだ。
ただ、それを見られるのがもう俺以外にはいないのが残念だが。
「体調はどう?」
「ええ、昨日と一緒ぐらいです。」
という事はここのところは小康といったところだろう。
「だんだん良くなっているんですよ。ふふ、早く戻って一緒に暮らしたいですね。」
「そうだな・・・・・・。」
夜澄には心臓の病気が有る。本人には言えない事だが原因が不明だ。
医者が言うにはだんだんと心臓が弱くなっているにも関わらず、どう検査してもその他の兆候が何も見られない、
見た目は変わらないのにゆっくりと死に向かっているそうだ。
「ところで、昨日の夜は何をしていらしましたか?」
「ああ、いつもどおりバイトだよ、昨日は・・・・・・。」
そういって、昨日のあったことの話を始める。
まあ昨日あったことと言っても実に取り留めの無い話ばかりだ。
例えば、いさきの有無をしつこく聞く客、つうか、いさきしかねぇよこの店。
あと、なんで愛称がお兄ちゃんなんだ、俺の兄妹は夜澄だけだ!! 等々。
ん、俺の紹介がまだだったか。地元で中高年の男性から莫大な支持を得ている居酒屋「いさき船」で
調理助手をしているフリーター、永瀬 宗一、20台後半の「お兄さん」だ。
おじさんでは断じてない。
「くすくす、それでその新規のお客さんはどうされたんですか?」
「結局食べたよ、季節の野菜とカニ尽くし鍋(イサキ入り)。・・・謎なんだが、あの店ではイサキ抜きは出来ない。
かに鍋(イサキ入り)カニ・野菜・出汁抜きは出来てもイサキ抜きは決して出来ない。
何を頼んでもイサキが付く、土手焼き(イサキ入り)、アジの叩き(イサキ入り)、・・・」
・・・イサキ、イサキ、イサーキ、イサァーーーキ!! (立ち上がる周りの客)、歌うな。
「はあ、頭がおかしくなりそうだ。・・・・・・なあ、何かイサキに意味でもあるのか?」
ちょっと困った顔をしてから答える。
「さあ? 夜澄はイサキが特別おいしいとは思いませんが?」
「だよなあ?」
「くすくす、楽しいお店ですね、一度行ってみたいです。」
「いやまあ、楽しく無いわけではないけど、・・・・・・止めたほうが良いよ。なんか生臭いからあの店。」
くすくす、と控えめに夜澄が笑う、それが鈴の音のようで耳に心地良い。
197 裏切られた人の話 sage New! 2010/06/30(水) 00:30:12 ID:MbMb5Pj5
「さて、もう三時です。ちょっとお茶にしましょうか?」
そう言っていつもどおりお茶を煎れ、お菓子を出してくれる。
ほぅ、今日はほうじ茶と葛桜か。
さすが夜澄、お兄様のツボを良く抑えてらっしゃる。
お茶を啜りながら、家に帰ったら部屋をこうしよう、食事当番は、と夜澄が語りだす。
熱の入った様子で矢継ぎ早に家の事を言う妹、その様を見るのが痛々しくて辛い。
いつかはここを出るつもりなんだろうな、やっぱり。
「・・・聞いてますか? それで、お布団に猫を入れて湯たんぽにするんです。ほっかほっかですよきっと?」
「ああ、ついでにお兄ちゃんも入っちゃてもいいか? 猫たんよりホッカホカだぞ多分。」
「はい?」
「へ?」
ぽかんと口を開ける夜澄。
あ、やっちまった。
「ごめん、聞かなかったことにして。」
「くすくす、狼さんが入っちゃたら夜澄が食べられちゃいますよ?」
・・・・・・夜中まで居酒屋で働いているのでこの時間というのはどうしても眠くなり、
段々とアウトとセーフの境界が曖昧になってくる。
すると夜澄が俺の眠気を察したのか気を回してくれる。
「くすくす、そろそろお昼寝の時間ですか? はい、それじゃあどうぞ。」
そう言ってベッドの片側により、開いたスペースをぽんぽんと叩く。
俺はそこにゆっくりと寝そべる。
夜澄もそれに合わせるようにこちらを向いて横になる。
「いつも悪いな、窮屈な思いをさせて。」
「ふふ、良いんですよ、夜澄もこうしてると独りじゃないんだって落ち着きますから。」
笑顔の夜澄を見ながら眠りに落ちた。
198 裏切られた人の話 sage New! 2010/06/30(水) 00:30:57 ID:MbMb5Pj5
まだ高校生の頃の俺がまだ小さな夜澄の手を握って、ベッドの前に立っている。
夜澄は状況が理解できないのだろう、ただ必死の形相の俺の顔を呆けたように見つめている。
ベッドにはお袋が包帯グルグル巻きのミイラのようになって横たわっている。
またこの夢だ、ここが病院だからなのか、それとも夜澄の着物のせいなのか。
「宗一・・・、夜澄をお・・・願い・・・・・・。」
「お袋!!、いいから喋るんじゃない!!」
高速道路で後ろからトラックにぶつけられ、おやじは即死、お袋は重体だった。
「夜澄・・・、幸・・・・・・せ・・・」
「分かっている! 分かっているから、絶対に夜澄を幸せにするから! だから!!・・・」
夢の中の自分が必死にお袋に喋っている、いや、怒鳴っているといった方が正しい。
「宗一・・・、夜澄、・・・手を・・・・・・」
最期に手を繋ぎたいのだろう、お袋の肩がわずかに動いた。
・・・・・・でも、俺たちは繋げない。だってお袋の両手は根元から千切れているんだから・・・。
そのまま、心電図が弱まっていって、
199 裏切られた人の話 sage New! 2010/06/30(水) 00:31:37 ID:MbMb5Pj5
「おい!! お袋!!!」
夢から目が覚めた。寝汗を掻いた、シャツが濡れて気分が悪い。
眠っていたはずなのに体が重い、力が入らない。
「あら、お目覚めですか?」
布団とは違う感触がする。ベッドの上に正座する夜澄、そしてその頭に載る俺の頭、要は膝枕だ。
手にはタオルがある、どうやら顔を拭いてくれていたようだ。
「起こしちゃったのか?」
「いえ、先に目が覚めまして、兄様の顔を見ましたらとても苦しそうでしたので。」
「ああ、ありがとうな。」
夜澄の膝から頭を退かせ、ベッドに胡坐をかく。
「・・・・・・手、ですか?」
「ん、ああ。」
「きっと同じ夢を見ていたのですね? 夜澄を幸せにとおっしゃるおかあさま、そしておかあさまの手・・・。」
「分かってる、言わなくても大丈夫だよ。」
「はい・・・。」
俺たちは寝ていると、よくあの夢を見てしまう。
そして、それが恐らく一番古い共通の思い出だ。
「それにしても、やっぱり着物のせいかな。その着物好きでよく着ていたからな、お袋。」
なんとなしに藍色の着物の袖をひらひらと摘んでみる。
「ええ、夜澄もこれを着ているとお母様の匂いがして、一緒にいるような気になれるんです。」
もう覚えてないが、これがお袋の匂いなのかな、ならきっとお袋は良い匂いだったんだな。
昔を思い出そうとしている俺に、夜澄がよそよそしげに俺の顔を覗くようにして尋ねた。
「あの、兄様にとって、夜澄は邪魔でしょうか?
夜澄が居なければ、大学でおかあさまの手を作れましたよね?」
・・・・・・俺はフリーターになる前は大学研究室で助手をしていた。
両親を失った後の俺の心には、「手」が常に引っかかっていた。
あの最期の時、手があれば俺たちは握れたのに、手を付け足したい、無駄だと知っているのにそんな気持ちが晴れなかった。
結局、当時文系だった俺は機械駆動の義肢というものを知り、理転して工学部を目指すようになった。
そして、大学入学後に恩師と呼べる人にたまたま目を掛けて貰い、義肢を作る為にそのまま教授を目指して大学に残っていた。
「本当は、今でも兄様は夢に向かって進めたのに夜澄のわがままで・・・・・・。」
夜澄の表情が暗くなる、やめてくれ。
我侭だったのは俺なんだ、夜澄は悪く無い。
ただでさえ細い体が余計に小さく見えてしまうから、そのまま消えてしまいそうに。
「でも、あの時の生活にはもう、今の夜澄は耐えられないんです……。」
ぽつりと呟くように言う。
200 裏切られた人の話 sage New! 2010/06/30(水) 00:32:36 ID:MbMb5Pj5
当時の永瀬家の日常は酷かった。
朝早くに家を出て、夜中に帰ってくる毎日、飯を食って倒れるように爆睡、時には研究室に連泊。
そして、二人分の家事も笑顔でこなし、家にいるときはどんなに遅くても俺を待っていてくれる夜澄。
そんな夜澄にありがとうの一言も言ったこが無かった。
時折言う「寂しいですね。」という言葉にも「ああ。」と生返事をするだけ。
頭の中では得体の知れないモーターと歯車がぐるぐると回っている。
休日だって、ただぼんやりと夜澄と一緒に部屋に居るだけだったな。
幸せ、とは程遠い生活だった。
そんな時に夜澄の病気が発覚した。
いや、医者に世話になりっぱなしの一家だ、はは。
難しい病気だと医者に言われても夜澄の表情は崩れなかった。
俺はその気丈さに暢気に感心しているだけだった。
夜澄は大人びた子だった。
だから、俺なんかが居なくても全て自分だけで心の整理を付けてくれるのではないかという卑怯な期待もあった。
けれど、家に戻ったときに何気なく聞いた何が欲しいという言葉に夜澄は笑顔を作って、
「何も要りません、でも夜澄がずうっと傍に居てください。もう独りは嫌です」と言って、
・・・・・・泣き出した。
ごめんなさい、嫌です、もう嫌です夜澄、ごめんなさいと声を上げて夜澄は泣いた。
いつも笑顔で文句一つも言わない、そんな夜澄が感情をむき出しにしたのは初めてだった。
そして、そんな時でも俺を罵ろうともせずに泣きながら謝り続けるを見て、俺は言葉が出なかった。
そこでやっと自分が唯一の家族にして来た仕打ちの酷さに思い当たった。
ああ、自分のするべき事は妹を幸せにする事だった。
取り返せない過去なんかに固執している場合じゃなかったんだ。
それなのに自分は夜澄を無視して自分の我侭を押し付けていた。
また家族との大切な時間を失った。
俺は夜澄の望みに応えて傍に居ることにした。
即決したわけではない。
情けないが、未練がましく自分の夢と唯一の家族を一晩中天秤にかけた末だ。
そして、その足で大学に行き、引き止める教授の話を聞かずに研究室を辞めた。
治療費の充てには、賠償金と遺産、それでも駄目なら家と土地を売って金を作る、後は研究の過程で出来た教授曰く「がらくた」の特許料がある。
自分の生活費はバイトでもすれば何とかなる。
少なくとも夜澄の命が終わるまでは。
そして、現在の生活に至ったわけだ。
決してその事を後悔はしていない、と思う。
いや、決してしていない。
201 裏切られた人の話 sage New! 2010/06/30(水) 00:33:19 ID:MbMb5Pj5
過去を思い出し黙っている俺に夜澄がまた不安そうに尋ねる、夜澄は兄様にとって邪魔ですか、と。
「そういうことは言うなよ、俺にとっては何よりもお前が大事なんだ。決して嘘じゃない。」
「兄様。」
「俺にとって大事なのは夜澄の幸せだけだ。
たった一人の家族の夜澄が幸せなら、俺も幸せだ。
夜澄が幸せじゃなきゃ、俺も幸せなんかじゃない。
夜澄の居ない幸せなんかないんだからさ、・・・・・・だからそんな悲しそうな顔しないでくれ、な。」
「ごめんなさい・・・。」
そう言って夜澄が抱きつく、その小さな体を抱きしめる、暖かくてやわらかい。
俺の胸に顔を埋める夜澄がどんな顔をしているのか分からない。
ただ、幸せな時にする顔ではないのだろう。
お互い黙って抱きしめてからしばらくがたった、夜澄がいつもの調子に戻ってくれる。
「ふふ、恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね?」
そう言って恥ずかしそうに笑う。
「いや・・・、・・・ああ、もう面会時間が終わりか、もちろん明日も来るからな。」
「ええ、もちろん13時ぴったりにお待ちしております。」
そうして病室を出ようとして、つい聞いてしまった。
「なあ、夜澄」
「はい?」
「今、幸せかな?」
「はい、兄様が毎日傍に居てくださって、一緒に寝られて、話せて、夜澄は本当に幸せですよ。」
「そうか。」
ごめん。
心の中で夜澄に謝り、病院を出ようとしたところで主治医の先生に声を掛けられた。
最終更新:2010年07月12日 20:37