三つの鎖 24 前編

565 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:31:53 ID:fkbJ2FCv
三つの鎖24

 久しぶりに制服の袖を通す。
 今日、久しぶりに登校する。
 階段をゆっくりと降りる。体調は万全ではない。階段を下りる動作だけでもそれが分かる。
 それでも、これ以上休んではいられない。
 洋子さんに頼まれた。夏美ちゃんの事を。
 雄太さんにも遺書で頼まれた。娘を頼むと。
 そんな事を考えながら階段を下りると、父さんがいた。
 今から出勤するようだ。
 僕が寝込んでいる間も、父さんは仕事で忙しかった。
 未だに啓太さんを殺した犯人は捕まっていない。
 「おはよう」
 「おはよう。体調はどうだ」
 「まあまあだよ」
 「無茶をするな」
 そう言って父さんは家を出た。
 夏美ちゃんのお父さんを殺した犯人を捜すために。
 僕はリビングに足を踏み入れた。
 「兄さん。おはよう」
 梓は僕を見て微笑んだ。柔らかな笑み。
 背中まで流れる艶のある髪。いつもの髪形ではない。
 最近、僕が梓の髪を整える事は無い。
 「…おはよう」
 僕は声を絞り出して応じた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 教室に入ると視線が集中した。
 この教室に入るのも久しぶりだ。
 「幸一!体調は大丈夫なんか?」
 耕平が駆け寄って僕の背中をたたく。
 「登校できるぐらいには大丈夫だよ」
 「そら良かったわ!」
 歯を見せて笑う耕平。そんな僕たちを生温かい視線が見守る。
 …そういえば昔、僕と耕平ができている疑惑があった。
 もちろん、そんな事実は無い。僕は夏美ちゃん一筋だ。
 「幸一くん」
 柔らかい声が僕を呼ぶ。
 「久しぶり」
 春子はそう言ってにっこりと笑った。
 久しぶり、というのは少し違う気がする。
 お昼休みの度に春子は僕の家に来てくれた。昨日も来てくれた。
 「元気になってよかったよ」
 そう言って春子は僕の頬に触れた。
 春子の白い手が僕をぺたぺたと触る。
 「春子。恥ずかしいからやめて」
 「ちぇっ。お姉ちゃん寂しい」
 「村田、あんまり幸一をからかったらあかんで」
 こういうやり取りも久しぶりだ。
 そんな事をしている間にチャイムが鳴る。
 僕たちは席に着いた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私は返却されたテスト用紙を確認した。
 そこにはこう記されている。
 堀田美奈子。31点。
 赤点ぎりぎりだ。


566 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:32:44 ID:fkbJ2FCv
 私はため息をついた。これじゃあ今度の定期テストは危ない。
 前では英語の先生がテストの解説を行っている。聞いてもチンプンカンプンだ。
 今は4時間目。ああ。はやくお昼にならないかな。
 教室を見渡すと、みんな結構真面目に先生の解説を聞いている。だから真面目に聞いていない人間はすぐに分かった。
 夏美はぼんやりと頬づえをついている。一目で分かる。この子授業聞いてないなって。
 でも先生は注意しない。生徒の授業を聞く態度に関心が無いのもあるけど、夏美の英語の成績が優秀なのもある。あの子、不思議と英語の成績は優秀だ。
 うーむ。なんか納得できないぞ。数学は私と同じぐらいの成績なのに。
 そしてもう一人興味無さそうにぼんやりしている子。梓だ。
 まあこの子も成績は優秀な方だ。きっと梓のお兄ちゃんに教えてもらっているに違いない。梓のお兄ちゃんは成績優秀で有名だし。
 梓の長くて綺麗な髪の毛が微かに揺れる。最近、梓はいつものポニーテールじゃなくてそのまま背中にたらしていることが多い。村田先輩の同じ髪型。
 背中にたらしているだけなのに、すごく似合っている。もともと梓は(不機嫌そうな顔さえしなければ)儚い外見だし、活動的な髪形よりもこっちのほうが似合っているように私は思う。
 そんな事を考えていると、チャイムが鳴る。授業が終わり、一気に騒がしくなる教室。
 さて。誰と食べようかな。
 ぼんやりとしている夏美が目に入る。よし。今日はこの子と食べよう。
 「なーつーみー!お昼ご飯食べよ!」
 「美奈子?」
 びっくりしたように私を見る夏美。
 「ご、ごめんね。先約があるんだ」
 「先約?梓?」
 「違うよ。お兄さん」
 …っけ。なんでぇ。彼氏とかよ。
 へんっ。羨ましくなんてないやい!
 「って梓のお兄ちゃん体調不良から回復したんだ」
 「うん。会うの久しぶりなんだ」
 はにかむように笑う夏美。うわっ。なにこの子。可愛い。
 そんな事をしている間に、教室のドアが開き、背の高い男の人がひょっこりと顔をのぞかせる。本人は隠れているつもりなのかもしれないけど、ばればれ。
 「お兄さん!」
 夏美は弾かれたように立ち上がり、走り出した。
 そのままの勢いで梓のお兄ちゃんに抱きついた。うおっ。大胆。
 目に涙を浮かべ梓のお兄ちゃんの頬に触れる夏美。嬉しさと切なさの混ざった表情で梓のお兄ちゃんを見上げる。見ているだけで胸が締め付けられそうな表情。
 「久しぶり。元気にしてた?」
 「…はい」
 そう言って夏美は梓のお兄ちゃんの胸に顔をうずめた。
 この二人、身長差がありすぎでしょ。夏美の身長がちっちゃいのもあるけど、梓のお兄ちゃん大きすぎ。
 でも、すごくお似合いの二人だと思う。
 「…あの」
 「…はい」
 「…恥ずかしいから」
 「ご、ごめんなさい」
 顔を赤くして離れる夏美。梓のお兄ちゃんも頬を赤くしている。梓のお兄ちゃんみたいな大きい人が照れている姿がちょっと可愛い。
 初々しい二人。教室の中で抱きつくなんてバカップル的な行動なのに、不思議と許せてしまう。
 「兄さん」
 梓がお弁当を手に二人に近づいた。無表情に梓のお兄ちゃんを見上げる。
 こうして見ると梓も小さい。細身だからあまりそうは見えないけど。
 「話があるの」
 そう言って梓は梓のお兄ちゃんの手を掴んだ。
 びっくりしたように兄妹を見る夏美。
 「梓。今じゃないとだめなのか」
 「だめ」
 そう言って梓は自分の兄の手を引っ張って歩き出した。
 「夏美ちゃん。ごめん。また放課後に」
 泣きそうな顔をする夏美に梓のお兄ちゃんは申し訳なさそうに言った。
 教室を出ていく兄妹。ぽつんと残される夏美。
 さすがに可哀そうに感じた。
 「なつみー。一緒にご飯食べよ」
 「…うん」
 とぼとぼと歩いてくる夏美。しょげた顔してるなー。
 二人で席に座りお弁当を開く。今日の夏美のお弁当は普通だ。
 うつむいて食べる夏美。暗すぎ。
 うーむ。いつも明るい夏美がこうだと調子が狂う。何を話したらいいのか分からない。


567 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:33:36 ID:fkbJ2FCv
 「梓、何の用だったのかな」
 「…分からない」
 暗い顔でつぶやく夏美。
 会話終了。だめだこの子。
 「ねー、さっきの見た?」
 後ろの方で話し声が聞こえる。
 夏美の事を目の敵にしているクラスメイトの女の子達だ。
 「彼氏の妹が奪っていったって感じよね」
 「もしかして梓と禁断の関係なんじゃない」
 「まさかー。そんな事ないでしょ」
 「村田先輩との関係も怪しいでしょ。知ってる?」
 「あれでしょ。お昼休みに中庭で抱き合っていたって」
 「中庭で?お昼休みと言えば人がいっぱい集まるじゃない」
 「だから目撃者多数よ」
 「へー。あの二人だったらすごく絵になるわよね」
 「確かにね。夏美よりもお似合いじゃないの」
 そう言って夏美の方を見てくすくす笑う。
 なんて性質の悪い奴ら。
 夏美は蒼白な顔でうつむいている。
 気にしないで。そう言おうとした瞬間、夏美は立ち上がった。
 ゆっくりと、幽鬼の様な足取りで話していたクラスメイト達に近づく夏美。
 そしてクラスメイトの前で止まる。
 「な、なんなのよ」
 椅子に座ったまま上ずった声で夏美を見上げるクラスメイト。
 「……う」
 夏美はぼそっと呟いた。小さな声で何を言っているのか聞こえない。
 それは目の前のクラスメイトも同じようだ。怪訝な顔で夏美を見上げる。
 「はあ?なんて言ったの?」
 「違う!!」
 突然の大声。
 夏美はクラスメイトの胸ぐらを掴んで持ち上げた。
 大声を出したのが夏美だと、やっと気がついた。
 「お兄さんとハル先輩はそんな関係じゃない!!」
 教室に悲鳴じみた夏美の声が響く。
 「お兄さんは私を好きって言ってくれた!!私と一緒にいたいって言ってくれた!!」
 いつもの夏美からは想像もできないような怖い表情。
 クラスメイトの表情が恐怖に歪む。
 「お兄さんの恋人は、私なの!!」
 夏美はクラスメイトを睨んだ。睨まれたクラスメイトは恐怖に震えるだけ。
 突然の事態に教室は静まり返ったまま。
 「な、夏美」
 私は恐る恐る声をかけた。
 「そ、その、離してあげたら」
 私の言葉に夏美は我に返ったように手を離した。
 解放されたクラスメイトは床にへたり込んだ。そのまま震えながら脅えたように後ずさる。みっともない姿とは思わなかった。
 それぐらい夏美が怖かった。
 夏美は泣きそうな顔で立ち尽くす。
 誰も何も言わない。恐怖に凍りついたまま。
 夏美は走って教室を出て行った。
 誰も追わなかった。
 私も追えなかった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 頭の中がぐちゃぐちゃのまま私は走った。
 (確かにね。夏美よりお似合いじゃないの)
 クラスメイトの言葉が脳裏に何度も木霊する。
 違う。
 絶対に違う。
 お兄さんの恋人は私。


568 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:34:43 ID:fkbJ2FCv
 ハル先輩じゃない。
 私なの。
 「夏美ちゃん」
 聞き覚えのある柔らかい声が耳に届く。
 思わず立ち止まる。
 「廊下を走っちゃダメだよ」
 ハル先輩が私を見て眉をひそめる。
 「どうしたの。何かあったの」
 「…何でもないです」
 私はそう言ってハル先輩から離れようとした。
 今はハル先輩と話したくなかった。
 それなのに、ハル先輩は私の腕を掴む。
 「嘘でしょ。何があったのかな」
 白くて綺麗な手が私の手を離さない。
 温かくて柔らかい感触。
 ずっとハル先輩はこの手でお兄さんに触れていたんだ。
 「離してください!!」
 気がつけば私はハル先輩の手を乱暴に振り払っていた。
 「夏美ちゃん」
 哀れむような視線を向けるハル先輩。
 その視線に我に返る。
 私、何をやっているんだろう。
 「ご、ごめんなさい」
 「夏美ちゃん。ついて来て」
 そう言ってハル先輩は歩きだした。
 「どこに行くのですか」
 「生徒会準備室。お話しようよ」

 生徒会準備室に入り椅子に座る私とハル先輩。
 前に来たのはそれほど昔じゃないはずなのに、久しぶりに感じる。
 でも懐かしくは感じない。
 「夏美ちゃん。どうしたの。何があったのかな」
 ハル先輩の問いかけに、何も答えられない。
 何て言えばいいの。
 ハル先輩はお兄さんと付き合っているのですか、なんて聞けない。
 「もしかしたら、梓ちゃんの事かな?」
 予想外の事に面食らう。
 梓?お兄さんと何かあったの?
 「梓とお兄さんに何かあったのですか?」
 「うんうん、何かあったのかなと思って」
 不思議そうに私を見るハル先輩。
 どういう事だろう。
 「何でお兄さんと梓の間に何かあるなんて思ったのですか」
 胸がざわつく。
 梓とお兄さんは血のつながった兄妹なのに。
 「…本気で言ってるの?」
 ハル先輩は哀れむように私を見つめた。
 その視線が癇に障る。
 「梓とお兄さんは兄妹です」
 「兄妹だけど、梓ちゃんが幸一くんを好きなのは知っているでしょ?」
 それは知っている。その事で梓と喧嘩した事もあった。
 でも、今はもうそんな事は無い。私は梓のいる時にお兄さんの家にお邪魔する事はしない。梓の領域を侵すようなことはしない。
 だからお兄さんのお見舞いに行かなかった。梓とお兄さんが二人でいられる空間に足を踏み入れなかった。
 「二人は一緒に住んでいるでしょ。ご両親も共働きだし帰ってくるのが遅いから、二人っきりの時間も多いよ」
 ハル先輩は何を言っているのだろう。
 あの二人は兄妹だから、一緒に住んでいるのは当然だし、二人っきりでも何の問題ない。
 問題ないはずなのに。
 「好きな人と同じ屋根の下で何の問題もないと思うのかな?」
 ハル先輩の言葉が胸に入り込む。
 「梓ちゃん、すごく積極的になったよね。きっと他の人の目が無い時はもっと積極的だと思うよ」


569 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:35:50 ID:fkbJ2FCv
 積極的。
 確かにそれはそうかもしれない。学校でもそう。お兄さんに抱きついたり、お弁当を持って行ったりしている。
 人目のある学校であの調子なら、家で二人きりの時はどうなのだろう。
 「もしかしたら、幸一くんを誘惑しているかもしれないよ」
 誘惑。
 梓が。
 お兄さんを。
 「梓ちゃん、美人だもんね。血のつながった妹でも、あんな綺麗な子に迫られたら断れるのかな」
 確かに梓は美人だ。
 艶のある綺麗な髪。眩しくて滑らかな白い肌。綺麗な唇。
 ハル先輩みたいに大人の成熟した体じゃないけど、少女から大人の女性になろうとしている体は、花咲く前の蕾の様な可憐さ。整った顔はお人形のよう。
 そしてお人形ではない瞳は強烈な意志を放っている。
 一目しただけで忘れられない綺麗さ。
 でも、何の問題があるの。
 お兄さんと梓は血のつながった兄妹。
 妹がいくら綺麗でも、お兄さんには関係ない。
 「確かに幸一くんは立派だし、そんな趣味は無いよ。例え梓ちゃんが迫っても、幸一くんは断るよ。でもね、梓ちゃんがその気になれば幸一くんの意思なんて関係ないよ」
 ハル先輩の言っている意味が分からない。
 お兄さんの意思は関係ないって、いったいどういう事なのだろう。
 「梓ちゃんの腕っ節は知っているでしょ?」
 知っている。梓がお兄さんを投げ飛ばしたところを見た。
 私は柔道に関しては何も知らないけど、梓はお兄さんよりはるかに強い事は見て分かった。
 「梓ちゃんがその気になればね、無理矢理でもすることができるんだよ」
 ハル先輩の言葉が胸を貫く。
 「変な事言わないでください」
 私の声はかすれていた。
 ハル先輩の言う事に何も言わずに耳を傾けていた事に、今になって気がついた。
 「もちろん私の考えすぎだと思うよ。ただね、いくつかおかしい事があるから気になっただけだよ」
 「おかしなことって何ですか」
 「幸一くんの体調不良、長引いたでしょ。幸一くんね、健康だし鍛えているから滅多に体調を崩さないんだよ。体調を崩してもすぐに治ってた。なのに今回は長引いた。何かあったのかと思ったけど、幸一くんは何も言わないし」
 お兄さんの体調不良。
 私も一回だけお見舞いに行った。
 ハル先輩がいたあの日。
 疲れ切ったお兄さんの寝顔。
 「だから何かあったのかと思ったの。私の思いすごしだと思うけど」
 私は唇をかみしめた。
 「梓はそんなことしません。お兄さんを不幸にする事なんてしません」
 梓だってお兄さんを好きなのだから。
 好きな人に、そんな事をするはずない。
 ハル先輩は私を見下ろした。瞳に哀れみの感情が浮かべて。
 「夏美ちゃんは梓ちゃんの事を何も分かっていないね」
 「私は梓の友達です」
 「私は梓ちゃんのお姉ちゃんだよ」
 私は言葉を失った。
 確かに、一緒にいた時間だけならハル先輩の方がはるかに長い。
 「梓ちゃんね、すごく執念深いよ。だって幸一くんをそばに縛り付けるためだけに何年間も嫌いなふりをしていたんだよ。幸一くんを好きなのに、それを隠して。どれだけ大変か分かるのかな?」
 ハル先輩は笑った。乾いた笑い。
 「それだけの事をしてきたのは、幸一くんを誰にも渡したくないからだよ。それなのに今更になって幸一くんを諦められると思うの?」
 お兄さんを諦める。
 お兄さんの隣に自分以外の女の子がいるのを見る。
 お兄さんと他の女の子が抱き合っているのを見る。
 そんな事、私にはできない。
 でも、だからってお兄さんを不幸にするようなこともできない。
 私だったら、迷って結局何もできないと思う。
 でも、梓は、梓なら、どうするのだろう。
 いえ、どうしたのだろう。
 「私の思いすごしだと思うけどね」
 そう言ってハル先輩は肩をすくめた。
 分からない。何が本当なのか。どうすればいいのか。
 お兄さんを信じていいのか、それすらも。


570 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:36:53 ID:fkbJ2FCv
 昼休みでごった返す廊下で、人々の視線が僕達に集中する。
 そんな事を気にせずに僕の手を引っ張る梓。
 はっきり言って恥ずかしい。
 でも、手を離してと言っても梓は笑うだけ。
 嬉しそうな梓を見ていると、強くは言えなかった。
 梓が進むにつれて人が少なくなる。階段を上り、屋上の扉をくぐる。
 強風が梓の長い髪の毛を揺らす。強い日差しが降り注ぐ。
 誰もいない。目も覚めるような雲ひとつない蒼穹。
 もうそろそろ衣替えの季節だ。
 僕と梓はベンチに座った。
 「兄さん。これ」
 梓は僕にお弁当を差し出した。
 今日の朝、梓は僕にお弁当を渡さなかった。梓の教室に向かった目的の一つはお弁当を受け取ることだった。
 お弁当を受け取り蓋をあける。炊き込みご飯にかぼちゃの煮つけ、ほうれん草のおひたし、魚の塩焼き、うさぎの林檎。
 丁寧に作られているのが一目で分かる。病み上がりを考慮した、ビタミンたっぷりのお弁当。
 「頂きます」
 お弁当を口にする。おいしい。
 「どう?」
 「…おいしい」
 「良かった」
 梓は微笑んだ。柔らかい笑み。
 二人で黙々とお弁当を食べる。梓は微笑みながら僕を見ていた。
 幸せそうな柔らかい笑み。梓がこんな笑顔をするのを久しぶりに見た気がする。
 思えば、体調を崩している時は本当にお世話になった。
 今度、何かお礼しないと。
 そんな事を考えているうちに食べ終え、お弁当に蓋をする。
 「ごちそうさま」
 僕は梓を見た。大切なのはこれからだ。
 梓は、僕に何の用なのだろうか。
 わざわざお昼休みに呼びつけるぐらいだ。
 急を要する用事なのだろうか。
 あるいは、人目を避けて離したい用事なのだろうか。
 「梓」
 「なに?」
 でも、微笑みながら僕を見る梓を見ていると、そんな用事があるとは思えない。
 「僕に話って何?」
 「何の事?」
 梓の言葉に耳を疑った。そんな僕を不思議そうに見る梓。
 「僕に話があるって言わなかった?」
 梓は不機嫌そうな表情を浮かべた。
 「用事が無いとお昼を一緒にしちゃいけないの」
 その様子に全てを理解した。
 梓は僕に用事なんてない。ただ単に、僕と夏美ちゃんが一緒にいるのが気にくわなかっただけ。
 それだけの理由で僕に話があると嘘をついて、僕と夏美ちゃんを引き離した。
 泣きそうな表情の夏美ちゃんが脳裏に浮かぶ。
 お昼の時間はまだある。僕は立ち上がった。
 「お弁当、ありがとう」
 「どこに行くの」
 「夏美ちゃんのもとに」
 歩こうとする僕の袖を梓が掴む。
 「離して」
 「離さない」
 僕の袖を掴む梓のほっそりとした白い手を僕は掴んだ。引き離そうとしたら、もう片方の梓の手が重ねられる。
 手首の関節が軋む音が聞こえた。
 「夏美のもとに行かせない」
 さらに手首の関節が軋む。激痛が走る。
 振りほどこうにも、腕が動かない。
 「私を置いて夏美のもとに行くなら、兄さんの両手両足をへし折る」
 手首に走る痛みが全身を駆け巡る。
 額に汗が浮かぶ。決して暑さのせいではない。


571 三つの鎖 24 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/21(水) 22:38:49 ID:fkbJ2FCv
 「そうすれば兄さんはどこにも行けない。私の傍から離れられない」
 梓の視線が僕を射抜く。黒い水晶のような瞳が僕には理解できない奇妙な光を湛えている。
 恐怖と痛みに、背筋が凍る。
 「私ね、兄さんが体調不良で寝込んでいる時ね、幸せだった」
 梓の白い手が僕の頬に触れる。
 人の手とは思えない、焼けるような熱さ。
 「兄さんの傍にいられたから。兄さんを一人占め出来たから」
 言えない。夏美ちゃんと春子がお見舞いに来てくれた事を。
 特に春子は毎日のように来てくれた事を。
 もし梓が知ったら。
 「もし夏美や春子が来たら、両足をへし折ってでも来られないようにするつもりだった」
 僕の考えを読んだかのような梓の言葉。
 恐怖に震えそうになるのを必死にこらえる。
 まさか、知っているのか。
 「兄さん。座って」
 梓に手をひかれるまま僕はベンチに座った。
 僕にもたれかかる梓。背中に梓の腕が回される。
 「誰にも兄さんを渡さない」
 僕に抱きついたまま梓は囁く。
 「愛している」
 僕は何も言えなかった。

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最終更新:2010年07月30日 20:58
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