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三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:51:58 ID:MH6Hn2UJ
帰りのホームルームが終わり、私は鞄を手に教室を出た。
今日は梓ちゃんのお誕生日だ。この後、幸一くんと一緒にお買い物してからお料理する。ちょっと豪華な晩ご飯にする予定。
梓ちゃんのご両親はともにお仕事で帰ってこられない。だから、ご両親の分もしっかりお祝いしなくちゃ。
人でごった返す廊下を私はゆっくりと進む。幸一くんの教室まであと少し。
今まで幸一くんと同じクラスだった事は無い。小学校も中学校も。
寂しくないと言えば嘘になる。幸一くんとクラスメイトだったら、毎日がもっと楽しいと思う。
幸一くんのいる教室を覗く。幸一くんは女の子と話していた。
どこかで見たことがある気がする女の子と幸一くんと二人で楽しそうにお話している。
その光景に、胸が痛んだ。
思わず胸を押さえる。
信じられなかった。自分の胸が痛むのが。こんな感情が湧き上がるのが。
幸一くんは私の弟みたいなものなのに。幸一くんが他の女の子と楽しそうにしていても、関係無いのに。
それなのに、私の知らない女の子と楽しそうにお話している幸一くんを見ると、胸が痛む。嫌な気持ちになる。
「どないしたん」
立ち尽くす私に、男の子が声をかけた。
見覚えのある男の子。確か田中君だったと思う。この前のお買い物でも見た。ずっと幸一くんと同じクラスの友達。私とは接点がないから、田中君の事は幸一くんからしか聞いていない。
「村田春子やろ?幸一の幼馴染の」
田中君は私を心配そうに見下ろした。幸一君ほどじゃないけど、身長は高い。細身だけど鍛えているのが分かる。
「幸一に用があるん?」
「あの女の子」
私の視線を先を田中君は見た。
「あれ、俺の彼女や。クラスは別やけど」
田中君の言葉に思い出す。あの女の子、幸一くんと買い物に行った時に見かけた女の子だ。田中君と一緒にいた女の子。
胸のもやもやが消え、代わりに理不尽な怒りがわき上がる。
腹が立った。幸一くんのせいで、こんな気持ちになるのが。
「幸一!幼馴染が来てるで!」
田中君の言葉に幸一くんはこっちを見た。田中君の彼女に挨拶して私の方に来た。
「女の子を待たせたらあかんで」
「ごめん」
「ま、俺の彼女の話し相手をしてくれたんは感謝するわ」
親しげに会話する幸一くんと田中君。
すぐそばに私がいるのに、私を見ていない。
その事に、どうしようもないぐらい寂しさと苛立ちを感じる。
私は幸一くんの腕を抱きしめるように組んだ。胸を押しつけるように抱きつく。
クラスにいる人たちの視線が集中する。
びっくりした表情で私を見下ろす幸一くん。恥ずかしがっていない。その事に腹が立つ。
「行こ」
私は組んだ腕で幸一くんを引っ張るように歩いた。
廊下には生徒が大勢いる。視線が私達に集中する。
いつもは握った手を引っ張るように歩いているから、恋人同士に見られる事はあまりない。でも、今回は違う。腕を組んで引っ張るように歩いている。何も知らない人が見れば、恋人同士にしか見えないだろう。
教師に見つかれば、言い逃れのできないレベル。それでも私は組んだ腕を離さなかった。
「春子。腕を離して」
幸一くんの落ち着いた声。
「先生に見つかったら大変だよ。離して」
お姉ちゃんと腕を組むのは嫌なの。
その言葉が喉元まで出て、止めた。
自分が惨めだった。
私は組んだ腕を解いて幸一くんを見た。
幸一くんは心配そうに私を見つめている。
落ち着いた大人びた眼差し。その瞳に、心臓が暴れる。
「どうした?何かあったの」
心配そうな幸一くん。心の底から私を心配してくれているのが分かる。
「幸一くんが女の子と親しげにお話してるからびっくりして」
嘘じゃないけど、本当でもない。
「田中君の恋人って聞いたけど」
「うん。耕平いるって聞いて来て、そのまま話してた」
「田中君はどこにいたの」
「お手洗い」
そんな事を話しながら、私達は歩いた。
お話の内容は今日の晩ご飯の事に移る。梓ちゃんの好きな食べ物で豪華な誕生日にするために必要な食材。
455 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:52:49 ID:MH6Hn2UJ
ローストチキンとシチューにしようって決めた。シユーのお肉はもちろん鶏肉で。
幸一くんと二人でスーパーで食材を見繕う。
食材を吟味する幸一くんの横顔。真剣な表情に、寂しさを感じてしまう。
寂しさを感じる理由を分かってしまった。幸一くんは私といるのに、私を見ていない。見据えているのは梓ちゃんの事。
感情を押し殺して買い物を済ます。お料理の手順を話しながら幸一くんの家に向かう。
私とお話してても、幸一くんが考えているのは梓ちゃんの事。お料理をしている時も、幸一くんが考えているのは、梓ちゃんがおいしいと思ってくれるかどうか。
何で幸一くんは梓ちゃんの事ばかり考えているの。お姉ちゃんがそばにいるのに。お姉ちゃんとお話しているのに。
胸を押しつぶされそうな寂しさ。私の様子に何か感じたのか、幸一くんは心配そうに私を見た。
「春子。どうしたの」
「何でもないよ」
胸中を隠して笑顔を作る。
知られたくない。私がこんな想いをしているなんて。
自分でも認めがたい感情。幸一くんが私の事を見ていないのが、考えていないのが寂しいなんて。
気がつけば幸一くんの家が見えた。私の家の門からシロがしっぽを振って出てきた。
シロは幸一くんに近づき、嬉しそうに体を擦り付ける。
笑いながら家の扉を開ける幸一くん。シロもその後に続く。私もシロに続いて家に入った。
シロは階段を上って行った。梓ちゃんは二階にいるようだ。
「どうするの?」
「たくさん作るから、今から作るよ」
ローストチキンにシチュー、ケーキ。確かに結構ある。
「お姉ちゃんも手伝うよ」
「ありがとう」
そんな事を話しながらキッチンに向かう。幸一くんからエプロンを受け取り、食材を取り出す。
二人で手分けして料理を進める。
幸一くんの横顔をちらりと見る。真剣な表情で料理を進める幸一くん。
胸が苦しくなる。切なさにも似た寂しさで胸が一杯になる。
すぐそばにいるのに、一緒に料理しているのに、幸一くんが考えているのは私じゃなくて梓ちゃん。
手慣れた動きで手際よく料理をする幸一くん。多少注意すべき点はあるけど、十分玄人のレベル。私が教え始めた時は、包丁の持ち方も分かってなかったのに。
それも全て梓ちゃんのため。
「春子?」
訝しげに私を見る幸一くん。
「どうしたの?」
私は何もせずに突っ立っていた事に気が付いた。慌てて食材と包丁を手にするけど、誤って指先を軽く切ってしまった。
私の指の先に、微かに血が流れる。
「大丈夫?」
幸一くんはハンカチで傷口を押さえてくれた。
そのまま傷口を圧迫して止血してくれる幸一くん。
私の指に触れる幸一くんの手が、熱い。
「後は僕がやるから、春子は休んでて」
立ち尽くす私の肩をそっと押す幸一くん。私はされるがままにリビングのソファーに座った。
幸一くんはキッチンに戻っていく。幸一くんの後ろ姿が、小さくなって消えた。
私はため息をついてソファーに深く座った。胸に手を当てる。自分でも嫌になるぐらい、心臓の鼓動をはっきりと感じる。
最近の私はおかしい。切なさにも似た寂しさで、頭がおかしくなりそう。
弟が独り立ちするのって、こんなに寂しいんだ。
自分が必要とされなくなったような錯覚。
ずっとそばにいた幸一くんが、手の届かない場所に行ってしまう。恐怖にも似た寂しさ。
そんな事を考えていると、目の前のテーブルにコップが置かれた。
私の好きなスポーツドリンク。顔を上げると、幸一くんが心配そうに私を見下ろしていた。
「さっきからどうしたの?体調でも悪いの?」
幸一くんが私を心配するなんて、おかしな話。少し前まで心配していたのはいつも私なのに。
そんな事を考えていると、私の額に幸一くんの手が触れる。
「熱は、無いかな」
幸一くんの手。大きくて、温かい。
頬が熱くなる。私は幸一くんの手を離した。
「何でもないよ。ちょっとぼんやりしてただけ」
私はコップに口をつけた。よく冷やされたスポーツドリンクがおいしい。
「指を見せて」
私は幸一くんに手を掲げた。幸一くんはバンドエイドを貼ってくれた。
手に触れる幸一くんの指が、熱い。
「後は僕に任せて」
456 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:54:07 ID:MH6Hn2UJ
そう言って幸一くんはキッチンに戻って行った。
その後ろ姿は、大きくて頼もしかった。
それが寂しく感じた。
ローストチキン、シチュー、サラダ、手作りのショートケーキ。
どれも幸一くんが作った料理。
どれも丁寧に作られていて、おいしそう。
席に着いた梓ちゃんもテーブルの上の料理を凝視している。
テーブルの下にはシロも座っている。ちょっと豪華なドッグフード付きで。
幸一くんは私に目で合図した。せーので口を開く。
『お誕生日おめでとう』
「…ありがとう」
梓ちゃんは小さな声で答えた。そのまま料理に視線を戻す。
「食べていい?」
幸一くんが驚いた表情で梓ちゃんを見た。
多分、今まで食べていいなんて聞かなかったんだと思う。
「もちろん」
幸一くんの一言に、梓ちゃんはナイフとフォークを手に取った。
「いただきます」
無表情に料理を口にする梓ちゃん。
でも、瞳は輝いている。
「どうかな」
心配そうに幸一くんは尋ねた。
梓ちゃんは無言。無言で次々に料理を口にしていく。瞬く間にシチューが空になる。
何も言わずにシチューの深皿を幸一くんに差し出す梓ちゃん。
幸一くんも無言で受け取り、キッチンに姿を消した。シロもなぜかついて行く。すぐにシチューでたっぷりの深皿を手に戻ってくる。
「はい」
梓ちゃんは無言で受け取り、再び食べ始めた。
静かな食事は進んでいく。シロも静かにドッグフードを食べている。
デザートのケーキも、梓ちゃんは無言で食べた。一人で4つも食べた。さすが成長期。たくさん食べる。
「ごちそうさま」
相変わらず無表情に梓ちゃんは言った。でも、よく見ると満足そうに見える。食べ過ぎて暑いのか、手で顔をぱたぱたあおいでいる。
幸一くんもそんな梓ちゃんをほっとしたように見ている。
次は
プレゼントだ。
「梓ちゃん。お誕生日おめでとう。これはお姉ちゃんから」
私は梓ちゃんに包装されたマフラーを渡した。梓ちゃんは素直に受け取った。
「寒いから、風邪をひかないように注意してね」
「…ありがとう」
無表情に礼を言う梓ちゃん。喜んでくれたかわからないけれど、とりあえずお礼を言ってくれた。
私は横目に幸一君を見た。すごく緊張している。
幸一くん。頑張って。
「梓。これは僕から」
幸一君は梓ちゃんに包装された扇子を渡した。梓ちゃんは何も言わず受け取った。
そのまま立ち尽くす兄妹。
「梓ちゃん。開けてみたら」
梓ちゃんは私の言葉に微かにうなずき、袋を開けた。
落ち着いた色合いの扇子。梓ちゃんが持つと、そのために作られたかのようによく似合う。
無言で扇子を見つめる梓ちゃん。その表情からは、何を考えているか分からない。
幸一君も緊張して梓ちゃんの言葉を待っている。
沈黙は唐突に破られた。
「兄さん」
梓ちゃんは扇子から視線を外し、幸一くんを見た。
どこまでも深い漆黒の瞳が、強烈な意志の光を放っている。
「なんなのこれ。馬鹿じゃないの」
抑揚のない梓ちゃんの声。
「冬なのに扇子?何を考えているの。私に風邪をひけって言うの」
真っ青になる幸一くん。
「いや、いつも手で顔をあおいでいるから」
幸一くんの言葉は途中で終わった。
梓ちゃんが幸一くんの頬を張る音が響いた。
457 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:55:40 ID:MH6Hn2UJ
茫然と叩かれた頬を抑える幸一くん。
「私のことが嫌いならそう言ったらいいじゃない」
奇妙な光を放つ梓ちゃんの瞳を向けられた幸一くん。その姿が、微かに震えている。
「ねえ。どうなの?私のこと、嫌いなの?」
「違う。そんなことない」
幸一くんの声は微かに震えていた。
「じゃあどうなの。私のこと好きなの」
「好きだ。大切な家族だと思ってる」
梓ちゃんの表情が微かに変わる。無表情なそれが、嫌悪の感情に染まる。
「妹のことが好きなんだ。変態シスコン。気持ち悪い」
幸一くんは悲しそうだった。見てられないぐらい傷ついていた。
そんな幸一くんを見て、梓ちゃんは笑った。嬉しそうに笑った。
「私は兄さんが大嫌い」
言うだけ言って、梓ちゃんは背を向けた。リビングを去っていこうとする背中に、私は声をかけた。
「梓ちゃん。待って」
面倒くさそうに振り向く梓ちゃん。
「なに」
「幸一くんに謝って」
鼻で笑う梓ちゃん。
「今のは梓ちゃんが悪いよ。幸一くんに謝って」
「何よ。春子はこの変態シスコンに味方するの」
梓ちゃんの言葉に怒りを覚えた。
幸一くんがどれだけ真剣になって梓ちゃんのプレゼントを選んだか。どれだけ努力をしたか。
それらを全て踏みにじった梓ちゃん。
いくら梓ちゃんでも、許せない。
馬鹿にした表情で部屋を出ていく梓ちゃん。その背中を追おうとする私の肩を、幸一くんが止めた。
「春子。いいよ」
幸一くんは悲しそうに言った。
「だめだよ。さっきのは梓ちゃんが悪いよ」
苦笑する幸一くん。
「僕が変なプレゼントしちゃったから、梓が怒っちゃっただけだよ」
何で。何でなの。
何であれだけの仕打ちを受けたのに、そんなことを言えるの。
幸一くんは悪くないのに。
「ごめん。せっかく買い物に付き合ってくれたのに、こんなことになって」
申し訳なさそうに言う幸一くん。
あれだけの仕打ちを受けても、私を気遣う事ができるなんて。
切なさに似た寂しさが、胸に湧き上がる。
幸一くんは立派に成長している。
成長していないのは、私のほう。
「後片付けするから、春子はゆっくりしておいて」
そう言って幸一くんは食卓の上の食器を運び始めた。
シロはそんな幸一くんに体を擦り付けた。まるで慰めるように。
私は見ている事しか出来なかった。
結局、幸一くんの家に長居してしまった。
幸一くんにかける言葉が思い浮かばなかった。慰めようって思っても、幸一くんは平然としていた。悲しそうに見えなかった。
あれだけ傷ついた様に見えたのに、勘違いだったのかもしれない。
シロは慰めるように幸一くんに体をすりよせるけど、幸一くんは微笑んでシロの頭をなでるだけだった。
帰る私を幸一くんは玄関まで見送ってくれた。
「今日はありがとう」
笑顔でお礼を言う幸一くん。
もう落ち込んでいるようには見えない。
「春子。これ」
幸一くんは包装された小さな箱を差し出した。
「よかったら受け取ってくれるかな」
私はびっくりして箱を凝視してしまった。
「だめかな」
悲しそうな幸一くんを見て、慌てて箱を受け取った。軽くて小さい箱。
「お姉ちゃんの誕生日、まだだよ」
459 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:57:03 ID:MH6Hn2UJ
「これは今日のお礼。誕生日の分は別にあるから」
そう言ってほほ笑む幸一くん。
その表情に、頬が熱くなる。
「あの、開けていいかな」
「どうぞ」
箱を開けると、銀色の指輪だった。見覚えのあるシンプルなデザイン。
梓ちゃんのお誕生日プレゼントを買いに行ったときに、私が見ていた指輪。
「春子が熱心に見ていたから、欲しかったのかなと思って」
幸一くんは私のことも見てくれていたんだ。
苦しく感じるほど胸が熱くなる。
嬉しくて、恥ずかしくて、幸一くんの顔を見られない。
信じられない。今までそんな事は無かった。恥ずかしくて幸一くんの顔を見られないなんて無かった。
「えっと、どうかな」
不安そうに私を見る幸一くん。
「お姉ちゃん、すごく嬉しい。ありがとう」
幸一くんは嬉しそうに笑った。その笑顔を見ただけで心臓の鼓動が乱れる。頬が熱くなる。
「あの、よかったらお姉ちゃんにつけてくれる?」
私は幸一くんに指輪を差し出した。幸一くんは驚いたようだけど、笑顔で指輪を手にした。
幸一くんは私の左手の薬指に指輪をつけてくれた。
左手の薬指。結婚指輪をつける場所。
頭が爆発しそう。
「これでいい?」
不思議そうに私を見る幸一くん。幸一くん、知らないみたい。
ちょっと落ち着きを取り戻した。同時にちょっと腹が立った。
「左手の薬指って、結婚指輪をつける場所って知ってる?」
「え!?」
驚いたように私を見る幸一くん。その表情が赤く染まる。
「幸一くん、お姉ちゃんと結婚したいんだ」
恥ずかしそうに首を横に振る幸一くん。可愛い。
「あれれ。幸一くん、お姉ちゃんのこと嫌いなの」
顔を赤くしたまま首を横に振る幸一くん。
「じゃあ、好き?」
顔を真っ赤にしたまま硬直する幸一くん。
「どっち?」
幸一くんは恥ずかしそうに少しだけうなずいた。
「…大切な家族だと思ってる」
私はそんな幸一くんを見て満足だった。
「ありがとう。この指輪、大切にするね」
銀の指輪。不思議と手になじむ感覚。
「幸一くん。じゃあね」
「今日はありがとう。おやすみ」
「おやすみ」
シロもワンと吠えた。
家には私しかいなかった。
お父さんもお母さんもお仕事。
寂しくないと言えば嘘になる。特に幸一くんと梓ちゃんと一緒にいた後は。
ベッドに横になり、手を掲げる。
左手の薬指にある銀の指輪が、蛍光灯の光を受けて鈍く光る。
頬が熱くなる。
そしてその事が不快じゃない。
ちょっと前まで幸一くんにドキドキしてしまうのが腹立たしかったのに。
自分でも信じられない。
弟としか思っていなかった幸一くん。
幸一くんの成長が嫌だった。
私が必要とされなくなるようで嫌だった。
でも、今は違う。
今の私はおかしい。
幸一くんの事を考えるだけで、胸が苦しくなる。頬が熱くなる。心臓がドキドキする。
昔はそんな事なかった。幸一くんの事を考えると胸が温かくなったけど、それだけだった。
460 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:57:53 ID:MH6Hn2UJ
まるで、幸一くんに恋してるみたい。
今まで恋した事は無いから、本当のところは分からない。
幸一くんは私の事をどう思っているのだろう。
幼馴染のお姉ちゃんなのかな。
それとも、一人の女の子として見てくれているのかな。
幸一くんの告白が脳裏に浮かぶ。
少し顔を赤くして恋人になってと言う幸一くん。
私に恋していたのではなく、恋に恋していただけ。
だから私は断った。
あの時、断らなければどうなっていたのだろう。
時計を見る。びっくりするぐらい時間が過ぎていた。
窓の外を見ると、加原の家の電気は一か所を除いて消えていた。
幸一くんの部屋の電気だけついていた。
まだ起きているんだ。
昔、幸一くんは寂しがり屋だった。ご両親が帰ってくるのが遅い時、幸一くんはよく泣いていた。
当時はご両親の帰りが遅い時は幸一くんも梓ちゃんも私の家にいた。
ご両親が帰ってきて加原の家に戻っても、ご両親は明日のお仕事に備えてすぐに寝る。だから幸一くんは寂しいままだった。
私の部屋から幸一くんの部屋を見た時に明かりがついている日は、幸一くんが泣いているのを
なんとなく知っていた。
だからピッキングを勉強した。今はもう亡くなったお祖父ちゃんに教えてもらった。
お祖父ちゃんは鍵屋だった。お祖父ちゃんがピッキングを学びたい理由を尋ねた時に、私は弟に会いに行くと答えた。
悪用しないという条件で教えてもらった。
私は小さい時から器用だった。一般の鍵ならすぐに開けられるようになった。
夜、幸一くんの部屋の明かりがついている時に、私はこっそり幸一くんの家に忍び込んだ。
幸一くんの部屋をこっそり覗くと、やっぱり泣いていた。枕に顔を押し付け、声を殺して泣いていた。
声をかけた時の幸一くんの表情は忘れられない。
それ以来、幾度となく幸一くんの部屋に忍び込んだ。泣いている幸一くんを抱きしめてあげた。幸一くんが寝付くまで傍にいて手を握ってあげた。
最後に忍び込んだのは随分昔の話。
幸一くんの部屋の明かりがつくことが無くなった頃、ある夜に私は幸一くんの部屋に忍び込んだ。
そこで幸一くんはすやすやと寝ていた。
その頃の幸一くんは柔道の稽古に通い始めていた。疲れた幸一くんは夜すぐに眠るようになっていた。
少し寂しかったのを覚えている。
それ以来、幸一くんの部屋に忍び込む事は無くなった。夜遅くまで幸一くんの部屋の明かりがついていることも、ほとんど無くなった。
今、久しぶりに幸一くんの部屋の明かりがついている。
朝早く起きて家事をしている幸一くんがこんな時間まで起きているのは珍しい。
もしかしたら、明かりをつけたまま眠っているのかもしれない。
あるいは昔みたいに寂しくて泣いているのかな。
私はピッキングツールを確認して部屋を出た。
久しぶりに幸一くんの部屋に忍び込みたくなった。幸一くんの寝顔を見たくなった。
加原の家の扉を解錠する時、手が震えて時間がかかった。
本当に起きていたらどうしよう。
夜遅くに、幸一くんの部屋で二人っきり。
緊張のあまり手が震える。頬が熱くなる。
今の私は本当に変。幸一くんと二人っきりなんて何回もあったのに、緊張する。
でも、昔と今は違う。
子供だけど、子供じゃない。
もし、何か間違いが起きたら。
幸一くんが、襲ってきたら。
考えたくもないのに想像してしまう。
幸一くんが私を押し倒して、組みふせて、口づけして、私の服を脱がして…。
頭がおかしくなりそうな妄想。
自分でもはっきりと分かる。
もし、妄想の通りの事を幸一くんにされても、嫌じゃない。きっと拒めない。いえ、心のどこかで望んでいるかもしれない。
足音を殺してゆっくりと階段を上る。
私は幸一くんの部屋の前に立った。
何度も深呼吸する。
左手の薬指を見る。暗闇の中でも鈍い光を放つ指輪。
ドアをそっと開ける。
微かに声が聞こえてくる。
幸一くんはそこにいた。
461 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 18:59:58 ID:MH6Hn2UJ
ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を押しあてて泣いていた。
必死に泣き声を押し殺していた。
どれだけ泣いていたのだろう。枕は涙でぐちゃぐちゃだった。
私は幸一くんの事を何も分かっていなかった。
血を分けた妹にあそこまで嫌われて、平気なはずないのに。
心配をかけないように必死になっていただけなのに。
私、お姉ちゃんなのに、何も気がついてあげられなかった。
「幸一くん」
私の声に驚いた様に振り向く幸一くん。
涙に腫れた目が痛々しい。
「は、春子?」
何か言おうとする幸一くんを、私は抱きしめた。
背中に腕をまわし、そっと抱きしめた。
幸一くんの背中は、思ったより小さかった。震えていた。
「は、離して」
身をよじる幸一くん。
「何も言わなくていいから」
幸一くんの後頭部に手を当て、そっと抱きしめる。
「お姉ちゃんの前なら、どれだけ泣いてもいいから」
涙でぐちゃぐちゃの顔で私を見上げる幸一くん。涙にぬれた瞳には頼りない光が浮かぶ。
私の背中に幸一くんの腕がまわされる。
幸一くんの手は震えていた。
私に抱きついたまましゃくりを上げる幸一くん。
部屋に静かに響く幸一くんの嗚咽。耳をふさぎたくなるような悲しい泣き声。
幸一くんは頑張っている。梓ちゃんのために必死に努力している。
あれだけ好きだった柔道をやめて、家事に専念している。
お勉強も頑張っている。今でも私にお勉強を教えて欲しいと頼んできた幸一くんを覚えている。梓ちゃんにとって恥ずかしくない兄になりたいって。
家事もお勉強も駄目だったのに、今ではどちらも優秀。
梓ちゃんのお誕生日のために、一生懸命プレゼントを考えている。今日も梓ちゃんのお誕生日のために、梓ちゃんの好きなお料理を作った。
でも、梓ちゃんは幸一くんを嫌ったまま。
何で気がついてあげられなかったのだろう。幸一くんが平気なはずないのに。
「お姉ちゃんが傍にいるから」
私は幸一くんの背中をゆっくりと撫でた。
成績が上がっても、お料理がうまくなっても、気がきくようになっても、大人っぽくなっても、幸一くんは変わらない。
夜、一人で泣いていたころと変わらない。私が傍にいて、手を握ってあげないと眠られなかった幸一くんと変わらない。
昔と同じように、幸一くんにはお姉ちゃんが必要。
「大丈夫だから。お姉ちゃんが傍にいるから」
泣き続ける幸一くんの頭をそっと撫でた。
私にもたれかかったまま静かな寝息を立てる幸一くん。
結局、幸一くんは泣きつかれて眠ってしまった。
眠り続ける幸一くんの寝顔。思ったより幼い寝顔。
涙でぬれた目元。私は涙をそっと拭った。
私の手の銀の指輪が鈍い光を放つ。
指輪をそっと外し、ポケットに入れた。
幸一くんを寝かし、布団をかける。
静かに眠る幸一くんの頬にそっと触れる。
柔らかくて温かい幸一くんのほっぺた。
バスの中で、幸一くんの頬に口づけした記憶がよみがえる。
自分の心臓が微かに暴れる。
私はかぶりを振って部屋を出た。
朝、私は早めに家を出た。
家を出たところで制服姿の梓ちゃんと会った。
梓ちゃんは私のプレゼントのマフラーをつけていた。
「おはよう」
「…おはよう」
挨拶だけ交わして梓ちゃんは去って行った。
幸一くんの家のチャイムを押そうとした瞬間、ドアが開く。
京子さんと誠一さん。幸一くんと梓ちゃんのご両親。
463 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 19:02:44 ID:MH6Hn2UJ
「春子ちゃん。おはよう!」
京子さんは笑顔で近づいてきた。
「昨日は梓ちゃんのためにありがとうね。」
「いえ、私も楽しかったです」
「幸一君なら家にいるから」
そう言って笑う京子さん。
「春子ちゃん。いつも二人がお世話になっている。昨日も本当にありがとう」
誠一さんはそう言って微かにほほ笑んだ。
幸一くんの面影。幸一くんが大人になったら、こんな人になるのかな。
「さ。行きましょ」
促す京子さん。二人は去って行った。
仲睦まじい二人。少し羨ましい。
雑念を振り払って家にお邪魔する。
幸一くんはリビングでお茶を飲んでいた。
「あれ?春子?」
「幸一くん。おはよう」
「おはよう」
気恥ずかしそうにそっぽを向く幸一くん。
「…昨日はごめん」
「そこはありがとうでいいよ」
「…ありがとう」
幸一くんは立ち上がってキッチンに消えた。すぐにコップを持って戻ってくる。
「どうぞ」
礼を言って受け取る。温かい緑茶。
「指輪、ありがとう」
「どういたしまして。まさか学校につけていかないよね」
心配そうな幸一くん。私は笑った。
学校につけて行ったら没収されちゃうよ。
「幸一くん。見て」
私はブレザーを脱いで、ブラウスのボタンを上から外す。
「え?ちょ、ちょっと!」
顔を赤くして慌てる幸一くん。
「これ。見て」
「だ、だめだよ」
「違うから。見て」
顔を赤くして私の胸元に視線を向ける幸一くん。
私の胸元には細い鎖に繋がれた指輪が見えるはず。
「これは、僕のあげた指輪?」
「うん。指にはつけないで、こうしておくよ」
不思議そうな顔をする幸一くん。
「こうしておけばずっと身に着けておけるでしょ?」
本当は違う。
幸一くんがはめてくれた左手の薬指だと、幸一くんのお姉ちゃんとして相応しくないから。
私は幸一くんのお姉ちゃんだから、左手の薬指に幸一くんがくれた指輪をしているのはおかしい。
「幸一くん。何かあったらいつでも言ってね」
私は幸一くんの手を握った。
「お姉ちゃん、いつだって幸一くんの味方だから」
照れくさそうにそっぽを向く幸一くん。
「…ありがとう」
少し幼さの抜けた横顔。でも、それは見かけだけなのを私は知っている。
「そろそろ学校に行くよ」
私は幸一くんの手を引っ張って立ち上がった。
「今日もお勉強頑張ろうね」
私の言葉に、幸一くんは笑顔で頷いた。
その笑顔に微かに心臓の鼓動が速くなる。
でも、今はそんな事に悩んじゃいけない。
私は、幸一くんのお姉ちゃんだから。
幸一くんに必要なのは恋人の私じゃなくて、お姉ちゃんとしての私だから。
でも、もし幸一くんがお姉ちゃんを必要ないぐらいに成長して、お姉ちゃんとしての私じゃなくて女の子としての私を必要としてくれる時が来たら。
その時には、別の関係になれるかもしれない。
464 三つの鎖 外伝1 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/07/15(木) 19:04:28 ID:MH6Hn2UJ
「春子?どうしたの?」
不思議そうに私を見下ろす幸一くん。
「何でもないよ」
そう言って私は幸一くんの手を引っ張って歩き出した。
最終更新:2010年07月30日 22:26