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三つの鎖 25 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/04(水) 22:05:43 ID:wGt7FVol
三つの鎖 25
まどろみの中、誰かが私に触れる。
知っている声。私の好きな人の声。お兄さんの声。
起きてと、私をゆするお兄さん。
困ったように起きてというお兄さん。私の名前を呼ぶお兄さんの声が心地よいい。
その時、ドアが開く気配がした。
誰かが入ってくる。お兄さんを呼んでいる。
聞き覚えのある声。
梓の声。
私は跳ね起きた。
心臓の鼓動がはっきりと聞こえる。全力で走った後みたいに全身に汗をかいていて、呼吸も乱れている。
ふらつく足取りで私はベッドを下りた。汗に濡れたシャツが張り付いて気持ち悪い。
さっき、お兄さんが私を起こしに来てくれた気がした。
薄暗い部屋には私以外誰もいない。
私は部屋を出てリビングに向かった。
薄暗いリビングの電気をつける。私一人には広すぎるリビング。誰もいない。
もしかしたらキッチンかも。お兄さんは私が寝ている間に料理を作ってくれることが多い。
でも、キッチンにもいない。鍋を開けると、肉じゃががある。昨日お兄さんが来てくれた時に作ってくれた。料理は冷たくなっていた。
洗面所かもしれない。もしかしたらお風呂のお掃除をしてくれているのかもしれない。
でも、洗面所にもいない。お風呂場にもいない。
お父さんとお母さんの部屋も、ベランダにも、お兄さんはいない。
玄関に私の靴だけが乱れて置いてあった。昨日、家に戻った時に脱いだままの靴。
お兄さんは来ていないのを思い知った。もしお兄さんが来てくれたなら、きっと靴の位置をなおしている。
私は肩を落としてキッチンに向かった。お兄さんの作ってくれた料理を食べたかった。
途中の和室のドアの隙間から仏壇が見えた。
それを見たとたん、お母さんの事を思い出した。
お葬式の次の日、もう死んだお父さんを探して家の中を探し回るお母さんの姿。
不安と恐怖が私を包み込む。
今の私、お母さんと同じ事をしていた。
「違う!!」
誰もいない部屋に私の叫びは虚しく響く。頭が痛くなるそうな静寂。
答える人は、誰もいない。
この家には、私しかいないのだから。
朝ごはんを食べて、学校に行く準備をしてから私は家を出た。
学校に行くにははやすぎる時間だけど、この家に一人でいる事に耐えられそうになかった。
お兄さんの作ってくれた料理を食べている時だけが、心安らぐ瞬間だった。
マンションの一階に下りた時、昨日の光景が脳裏に浮かぶ。
お兄さんが私の手を振り払って、梓と帰って行った昨日の光景。
二人を追いかけてマンションを出た時、口づけしてたお兄さんと梓。
思い出すだけで泣きそうになる。私は必死に涙を堪えた。
昨日のあの光景も夢だったのだろうか。
恐怖と不安の生んだ妄想だったのだろうか。
考えてもきりのない事を考えながら私は学校に向かう。
通学路には人はまばらだ。時々散歩やランニングをしている人とすれ違うぐらい。登校には早すぎる時間。
学校の中も誰もいない。教室にも誰もいない。
私は自分の席に座ってため息をついた。
お兄さん、来ないかな。
以前、一度お兄さんがすごく早い時間に登校してきた事があった。
あの時、屋上で抱かれた。
顔が熱くなる。
お兄さんに抱かれたい。乱暴に犯されたい。
乱暴に抱かれると、快感よりも苦痛が大きい。でも、お兄さんに必要とされているような気がして、安心する。
少なくとも私を抱いてくれる間は、私の事を必要としてくれているはず。それが例え私の体だけでも。
不安が霧のように私を包む。
お兄さんは私の事をどう思っているのだろうか。
本当に私の事を好きなのだろうか。
お兄さんが私の事を好きになりたいって言ってくれた事は今でも覚えている。顔を真っ赤にして好きになりたいって言ってくれたお兄さんの事を思い出すと、それだけで嬉しくなる。温かい気持ちになる。
75 三つの鎖 25 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/04(水) 22:07:38 ID:wGt7FVol
でも、何でお兄さんは私と付き合ってくれるのだろう。
私より魅力的な女の子はお兄さんの周りにいる。
ハル先輩。すごく大人っぽくて美人なのに、子供のように輝く瞳と柔らかい笑みのせいかとても親しみやすい人。艶のある長い髪、柔らかそうな白い肌、モデルの様な身長と体形。お料理が得意で文武両道。
梓。私と同じぐらいの身長だけど、細いせいかそうは見えない。無表情でお人形みたいな整った顔。ハル先輩と同じ艶のある長い髪、眩しいぐらい白い肌、細い体。儚い外見の中で、瞳だけが強烈な意志を放っている。ハル先輩と同じでお料理が得意で文武両道。
百人に聞けば、百人が私より魅力的だと答えるに違いない二人。
私が勝っているのは何もない。
せめて綺麗で長い髪の毛だけでも同じになりたくて伸ばし始めたけど、まだ肩にかかるぐらいだし、二人ほど綺麗でもない。鏡を見るたびに惨めな気持ちになる。
二人はお兄さんにたくさんのものを与えられる。お料理もそうだし、怪我の治療とか、お勉強を教えるとか、家事全般も手伝えるに違いない。特にハル先輩は気がきくし、お兄さんと幼馴染だから何でも知っているに違いない。
私はお兄さんに何も与えられない。与えられるばかり。せいぜい、抱かれるぐらいしかない。
それでもいいと思っていた。お付き合いする中で、お兄さんに見合う女の子になればいいと思っていた。
でも、お兄さんはどう思っているの。
私と一緒にいて楽しいの。面倒くさいとか手がかかるとか思ってないの。
お兄さんは私の事を好きって言ってくれる。嬉しいけど、信じきれない私がいる。
だって、どう考えても私よりハル先輩や梓の方が魅力的。
お兄さんと一緒にいたいのに、一緒にいると不安になる。
楽しんでもらえているのか、面倒くさいって思われていないか。
私はかぶりを振った。こんな事を考えても気分がめいるだけだ。
教室の時計を見る。まだはやい時間。あれだけ考え事をしていたのに、時間はほとんど進んでいない。
最近、時間の進みが不規則に感じる。今みたいに時間の進みが遅いと感じる時もあれば、気が付いたら時間がすごく過ぎている時もある。
疲れているのかもしれない。お父さんが死んで、それほど時間もたっていない。
クラスの女の子の陰口が脳裏に響く。
(悲劇のヒロインを気取っているんじゃないの?)
(いくら加原先輩でも、付き合いきれないって思っているんじゃないの?)
(そーだよねー。いくらなんでも、お父さんが殺されたとか重過ぎだよねー)
全身が震える。熱くもないのに汗が出る。
お兄さん、私の事を重い女だって思っているのだろうか。
思えば、お父さんが死んでからお兄さんに助けられてばかりだ。
お葬式の時も、私とお母さんを助けてくれた。お父さんとお母さんの親戚はほとんどいないし、私達に冷たいから、お兄さんの手助けは本当にありがたかった。何よりもお兄さんが傍にいてくれるだけで安心できた。
でも、お兄さんはどう思っているのだろう。面倒くさいとか、重いとか、そんな風に思わなかったのだろうか。
そんな事を考えていると、声をかけられた。
「夏美ちゃん」
聞き覚えのある声。
柔らかい声。何度もお世話になった人の声。
顔を上げると、ハル先輩がいた。
「こんな朝早くにどうしたの」
「ハル先輩こそ」
「私は生徒会のお仕事を片付けようと思って。それよりも、どうしたの?何かあったの?」
心配そうに私を見下ろすハル先輩。
「何でもないです」
私はそっぽ向いた。
馬鹿な私。ハル先輩にはあれだけ助けられたのに、何も話せないなんて。
ハル先輩に嫉妬している私がいる。
「幸一くんの事でしょ」
ハル先輩の口からお兄さんの名前を聞くだけで心が乱れる。
「ハル先輩には関係ないです」
「不安なんでしょ。幸一くんの心が梓ちゃんに向いているか」
ハル先輩の言葉が胸に入り込む。
「やめてください」
答える私の声は自分でも信じられないぐらい硬かった。
「色々言われているもんね。悲劇のヒロインを気取っているとか、重いとか。幸一くんがどう思っているのか心配なんでしょ」
「やめてください!!」
「昨日ね、梓ちゃんと幸一くん腕を組んで帰ってきてたよ」
思わず息をのむ。
昨日。お兄さんが私の家に来てくれた日。
梓が来たのは夢でも妄想でもないんだ。
「昨日の夜も幸一くんと梓ちゃんのご両親の帰宅は遅かったよ。ずっと家で二人きりで何をしていたのかな」
お兄さんと梓が寄り添い口づけする光景が脳裏に浮かぶ。
「やめてください!!」
76 三つの鎖 25 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/04(水) 22:09:43 ID:wGt7FVol
「昨日ね、梓ちゃんと幸一くん腕を組んで帰ってきてたよ」
思わず息をのむ。
昨日。お兄さんが私の家に来てくれた日。
梓が来たのは夢でも妄想でもないんだ。
「昨日の夜も幸一くんと梓ちゃんのご両親の帰宅は遅かったよ。ずっと家で二人きりで何をしていたのかな」
お兄さんと梓が寄り添い口づけする光景が脳裏に浮かぶ。
「やめてください!!」
私は叫んでいた。立ち上がってハル先輩を睨みつける。
「そんな事、聞きたくないです!!」
ハル先輩がハンカチを手に私の目元をぬぐう。気がつけば私は泣いていた。
涙がとめどなく溢れる。
考えたくない。お兄さんと梓が一緒にいて何をしているなんて。
昨日、梓はお兄さんの手を引いて帰っていった。
路上でキスしていた。
家に帰って何をしていたかなんて、考えたくない。
「教えてあげようか」
「何をですか」
「幸一くんの心をつなぎ止める方法」
心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。
喉がからからに乾いていく。
お兄さんの心をつなぎとめる方法。
「そんな方法、あるのですか」
ハル先輩はにっこりと笑った。
「簡単だよ。幸一くんの子供を身ごもればいいんだよ」
子供。お兄さんの子供。
「そうすれば夏美ちゃんと幸一くんの間に断ち難い絆ができるよ。二人の血を受け継ぐ子供だからね」
私が、お兄さんの子供を妊娠する。
「だ、だめです。私達、まだ高校生です」
「高校生でも子供は産めるよ」
「違います。そんな事をしたら、生まれてくる子供が可哀そうです」
お兄さんの心をつなぎとめるためだけに子供を産むなんて、いくらなんでも酷過ぎる。
「別に産まなくてもいいよ。堕ろしてもいいよ」
私は自分の耳を疑った。ハル先輩は何でもないように笑顔を崩さない。
「そうすれば幸一くんは罪悪感で夏美ちゃんから離れられなくなるよ。妊娠させた挙句、堕ろす事になったら、幸一くん、責任を感じるよ」
ハル先輩の言っている内容は間違いない。お兄さんは誠実で責任感の強い人だ。もし私が妊娠して、堕ろす事になれば、きっと責任を感じる。
でも、生まれてくる命を犠牲にする事が許されるはずない。
「そんなの、そんなのダメです」
「じゃあどうするの。幸一くんの心がどこにあるのか心配しながら生きていくの」
ハル先輩の言葉が胸に突き刺さる。
お兄さんの心は誰に向いているのだろう。
ハル先輩?梓?それとも他の女の人?
「それにね、これは幸一くんと梓ちゃんのためにもなるよ」
「どういう事ですか」
「もし幸一くんの子供ができたら、梓ちゃんも諦めるよ。幸一くんの子供だもん。梓ちゃんも不幸にはしたくないはずだしね。子供ができれば、幸一くんは梓ちゃんから解放されるよ」
ハル先輩はニッコリと笑う。柔らかい微笑み。
「でも、もし梓が納得しなくて、生まれてくる子供に危害を加えるようなことがあったら、どうするのですか」
「その時は幸一くんのお父さんが梓ちゃんを逮捕するだろうね」
事もなげに話すハル先輩。
「幸一くんのお父さん、厳しくて公平な警察官だからね。実の娘でも容赦はしないよ」
「そんなに厳しい人なら、私が妊娠したらお兄さん怒られます」
「だろうね。そして責任を取れって事になると思うよ。その時に夏美ちゃんが産みたいって言えば、結婚になると思うよ。もちろん、夏美ちゃんが了承すればだけど」
結婚。お兄さんと。私が。
頬が熱くなる。胸が高鳴る。
「でも、でも」
「まだ何かある?」
「もし妊娠したら、私もお兄さんも退学になっちゃいます」
「それは仕方がないよ。でもね、幸一くんは成績がいいから高認でも大丈夫だと思うし、幸一くんのご両親も経済的な支援はしてくれるよ。何せ息子の不始末で一人の女の子が妊娠して退学になるんだからね」
淀みなく話すハル先輩。
「そんなに難しく考えなくていいよ。幸一くんと梓ちゃんのためでもあるんだから。私も協力するよ」
ハル先輩が私の両肩に手を置く。白くてほっそりとした女性らしい手。
77 三つの鎖 25 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/04(水) 22:10:47 ID:wGt7FVol
「でも、どうやって妊娠するのですか。お兄さん、必ずスキンを使いますし」
「いくらでも方法はあるよ。今日は大丈夫な日だって言うとか、小さく穴をあけたスキンを渡すとか。未開封でも細い針を使えば目立たないように穴をあけられるよ」
私は呆然としてしまった。確かにハル先輩の言う方法なら、妊娠するかもしれないし、もしそうなれば、お兄さんは私に責任を感じるに違いない。
でも、私の胸の中で罪の意識を感じる。
生まれてくる赤ちゃんを、そんな事のために利用するなんて。
「夏美ちゃんが感じる罪の意識を我慢すれば、全てが上手くいくんだよ。梓ちゃんは幸一くんを諦めるし、幸一くんは梓ちゃんから解放される。夏美ちゃんは幸一くんと一緒にいられる」
何が不満なのと不思議そうに私を見つめるハル先輩。
「でも、やっぱり赤ちゃんが可哀そうです」
ハル先輩の目がすっと細くなる。
「さっきから聞いていたら、綺麗事ばかりだね」
軽蔑したようなハル先輩の言葉が胸に突き刺さる。
「他に方法はあるの?」
方法。
「梓ちゃんは幸一くんを諦めて、幸一くんは夏美ちゃんの傍にいて、みんな幸せになる。そんな都合のいい方法はあるの?」
冷めたハル先輩の視線。
「みんなが幸せになる方法があるなら、その方法をとればいいよ。無いでしょ?無いから幸一くんはあんなに苦しんでいるんだよ」
私も梓も納得する方法なんて無い。
だって、私も梓も同じ人が好きだから。
どちらかが諦めないといけない。
「それなのに夏美ちゃんは綺麗事ばかり言うんだ。赤ちゃんが可哀そうとかいうんだ。夏美ちゃんは何もせずに幸一くんに守られるばかりなんだ」
「…違います」
「どこが」
ハル先輩の言葉に何も答えられない。
「どこが違うの。梓ちゃんと幸一くんが仲直りできるように何かしたの」
「私、梓とお話しようと」
「できたの」
ハル先輩の言葉が私の言葉をさえぎる。
「梓ちゃんとお話もできていないのに、どうやって仲直りさせるのかな」
「その、お兄さんに梓と話さない方がいいって」
「結局、幸一くんに守られているだけだね」
何も答えられない。
全部ハル先輩の言うとおり。
「その調子だと、幸一くんに負担をかけるようなことしてそうだね。幸一くんと梓ちゃんの仲がこじれるような事、してないかな?」
昨日の事が脳裏に浮かぶ。
梓がお兄さんを連れて帰ろうとした時に、お兄さんを引きとめた。
あの時、お兄さんは私の腕を振り払った。恋人の私より、梓といる事を選んだ。
でも、あの時お兄さんが私の腕を振り払わなかったら、どうなっていただろう。
梓は私かお兄さんを傷つけたに違いない。
そう考えると、私の行為はお兄さんを苦しめただけ。
「心当たり、あるんだ」
心底軽蔑したように私を見つめるハル先輩。
「実はね、もっと簡単にできて幸一くんと梓ちゃんの仲を改善する方法があるよ」
「…何ですか」
「簡単だよ。夏美ちゃんが幸一くんと別れたら全てが解決するよ」
私とお兄さんが、別れる。
「そうすれば梓ちゃんも大人しくなるよ」
そんなの、そんなのいや。
お兄さんと別れるなんて、絶対にいや。
「嫌なんだ。幸一くんと別れるのが」
私の気持ちを見透かしたようなハル先輩の視線。
はっきりと怒りと侮蔑を感じた。
「私、そろそろ行くね」
おもむろに立ち上がり背を向けるハル先輩。
「あの!」
その背中に思わず声をかけてしまった。
「何かな?」
「私、どうしたら」
「自分で考えたら?」
冷たく言い捨ててハル先輩は去って行った。
私はその背中を追えなかった。
78 三つの鎖 25 前編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/08/04(水) 22:11:54 ID:wGt7FVol
結局、私は何もしていない。
お兄さんには守られているだけ。それどころか負担になっている。
そしてお兄さんと別れる事も出来ない。お兄さんと恋人でなくなるなんて、想像する事も出来ない。
ハル先輩が怒るのも無理はない。
「…お兄さん」
思わずお兄さんを呼ぶ。
返事は無い。
教室には、私しかいないのだから。
最終更新:2010年08月29日 22:45