三つの鎖 30 前編

272 :三つの鎖 30 前編 ◆tgTIsAaCTij7 :2010/12/14(火) 20:16:46 ID:+uQd24c8
三つの鎖 30

 兄さんと夏美。
 手を取り合う二人。
 その二人の左手の薬指で、銀色の指輪が鈍い光を放っていた。
 私はその光景をただ眺める事しかできない。

 誰かが私を呼ぶ。
 「梓。起きて」
 誰かが私を揺さぶる。
 私は目を開けた。
 兄さんが心配そうに私を見下ろしていた。
 「そろそろ起きないと遅刻するよ」
 私は上半身を起こした。
 全身が汗でべとついている。体が重い。寝た気がしない。
 のろのろと顔をあげる私に兄さんはペットボトルを渡してくれた。
 既に蓋は開いている。少しぬるめのスポーツドリンク。私は一気に飲んだ。
 時計を見ると、もう既に遅い時間。
 「お父さんとお母さんは?」
 「もうご飯を食べて出勤したよ。ご飯を食べてないの、梓だけだよ」
 「…何で起こしてくれなかったの」
 いつもはもっと早くに起こしてくれるのに。
 「京子さんが起こしに行ってくれたんだけど、疲れているみたいだからもう少し寝させてあげてって」
 それだけで私は理解した。
 きっと、兄さんは夏美にプロポーズした事をお母さんに報告したのだろう。それで気を遣ってお母さんが起こしに来てくれたけど、疲れている私を見てもう少し寝させてくれたのだろう。
 「梓?」
 訝しげに私を見つめる兄さん。
 兄さんの左手で、銀色の指輪が鈍い光を放っている。
 微かに、頭痛がした。
 「何でもないわ。先にシャワーを浴びる」
 「分かった」
 そう言って兄さんは部屋から出ていった。
 兄さんは変わらない。
 例え夏美にプロポーズしても、私への接し方を変えたりはしない。
 あくまでも妹として私を扱う。
 それが、辛い。

 微妙な距離のまま学校までの道を歩く。
 友達でも兄妹でも恋人でもない、微妙な距離。
 もっと兄さんに近づきたい。それなのに、できない。
 どれだけ兄さんの近くにいても、兄さんに触れていても、兄さんの心に一番近いのは私じゃない。
 兄さんにとって私は何なのだろう。
 ただの妹でしかないのだろうか。
 これだけ愛しているのに。
 女としては見てくれないのだろうか。
 気がつけば、既に学校の靴箱についていた。
 ここで兄さんとお別れ。
 「梓。それじゃあ」
 そう言って兄さんは去っていった。
 兄さんの大きな背中が、徐々に小さくなっていく。
 追いたくても、追えない。
 だって、兄さんを追っても、追いつけない。
 どれだけ傍にいても、兄さんの心にいるのは私じゃない。

 私は教室に入った。もう既に半分近く席は埋まっている。
 その中に夏美がいた。椅子に座って、静かに自習していた。
 落ち着いた静謐な瞳が教科書の文字を追っている。
 その左手の薬指に、銀の指輪が鈍い光を放っていた。
 私は立ち尽くすしかなかった。
 「梓?どうしたの?」


273 :三つの鎖 30 前編 ◆tgTIsAaCTij7 :2010/12/14(火) 20:17:39 ID:+uQd24c8
 後ろから私を呼ぶ声に私は我に返った。
 どれぐらい立ち尽くしていたのだろう。振り向くと、美奈子が怪訝そうに私を見ていた。
 「おはよー。どうしたの?入り口でぼんやりして」
 「何でもないわ」
 私は自分の席に座った。
 夏美が私の方を見る。
 「梓。おはよう」
 微笑む夏美。
 女の私から見ても魅力にあふれる明るい笑顔。
 幸せそうな、女の笑顔。
 「なつみー。おはよう!」
 美奈子がうるさいぐらい元気に夏美に挨拶する。
 「あれれ?その指輪…?もしかして加原先輩から?」
 不思議そうに夏美の左手を見る美奈子。
 普段は鈍いくせに、何でこういう時は鋭いのだろう。
 「ええと、うん」
 少し気まずそうに頷く夏美。その一方で目を輝かせる美奈子。
 「田中先輩の言うとおりだったんだ。見せて見せてー。うわー。何か地味だけど、これはこれでいいかも」
 困ったように眉をひそめる美奈子。言っている事は完璧にけなしているけど、美奈子に悪気は全く無い。
 「村田先輩ってこういうのが好きなんだ。もっと可愛らしいのが趣味だと思ってた」
 「え?ハル先輩?」
 不思議そうな顔をする夏美。
 「加原先輩と村田先輩が買い物しているのを見たから、きっと村田先輩がアドバイスしたのだと思うけど」
 きょとんと見返す美奈子。
 あの春子が、兄さんのプロポーズのための指輪選びを手伝った?
 ありえない。
 「ていうか、この学校そういうのうるさいから、外しておいた方がいいよ。先生に見つかると没収されるよ」
 「え?そうなの?」
 慌てて指輪をはずしポケットにしまう夏美。
 それと同時にチャイムが鳴る。
 自分の席に戻る夏美と美奈子。
 私も自分の席に戻った。
 指輪が放つ鈍い光が頭から離れない。

 お昼休みのチャイムが教室に響く。一気に騒がしくなる教室。
 教室の喧騒がどこか遠くに感じる。
 鞄の中にはお弁当がある。兄さんが作ってくれたお弁当。
 私はお弁当を手にした。
 ちゃんと中身はあるのに、軽く感じる。
 「なつみー。加原先輩の教室に行かない?」
 美奈子の声が遠くに感じる。
 「うーん。お兄さん、今日はハル先輩と食べるって言ってたから、私はいいよ」
 「そう?あずさー。一緒に行かない?」
 私は顔をのろのろと上げた。美奈子が笑顔で私を見ていた。
 「田中先輩のお昼ご飯をチェックしに行こうよ」
 「…約束しているの?」
 私の問いにきょとんとした顔をする美奈子。
 「してないよ。でもきっと大丈夫」
 どこからその自信は来るのだろう。
 「私はいい」
 「そう?じゃあ私行ってくるね」
 美奈子はお弁当を持って教室を出ていった。
 「夏美」
 私の呼び声に夏美は振り向いた。
 「さっき、兄さんが春子と一緒に食べるって言ったわね」
 「うん」
 「何で?」
 夏美は少し黙った後、ポケットから指輪を取り出した。
 鈍い光が私を貫く。
 「お兄さんからこの指輪の事は聞いた?」


274 :三つの鎖 30 前編 ◆tgTIsAaCTij7 :2010/12/14(火) 20:18:38 ID:+uQd24c8
 「…ええ」
 「お兄さん、ハル先輩に報告するって言ってた」
 そうなんだ。
 春子にはまだ報告していなかったんだ。
 「夏美。一緒にお弁当を食べない」
 「うん」
 「色々お話聞きたいし、屋上に行かない?」
 「うん」
 私の言葉に即答する夏美。
 屋上は人が来る事がほとんどない。夏は強い日差しで暑く、冬は強い風で寒い。人に聞かれたくないお話をするにはちょうどいい場所。
 痛めつけるのにも都合がいい。
 「行きましょう」
 私と夏美は立ち上がった。

 屋上の強い日差しの中、私と夏美は黙々とお弁当を食べていた。
 痛めつける事はいつでもできる。まずはお弁当を片づけてから、話を聞けばいい。
 「日焼けしちゃうけど、いいの?」
 確かにこれだけ強い日差しだと、日焼けするかもしれない。
 でも、別に兄さんは白い肌が好きというわけではない。だったら日焼けしても構わない。
 夏美も平然としている。多分、日焼けに対してあまり関心が無いのだろう。
 ほとんど喋らずにお弁当を食べたせいか、思ったより早く食べ終えた。
 「夏美。兄さんがプロポーズしたのは本当なの?」
 「うん」
 落ち着いた表情で答える夏美。
 胸が、痛い。
 「夏美はそれを受け入れたんだ」
 「…うん」
 微かに頬を染めて夏美は答えた。
 幸せそうな女の顔。
 自分でも信じられないぐらい黒い感情が湧き上がる。
 許せない。絶対に。
 「何で断らなかったの」
 私はゆっくりと夏美の胸ぐらに手を伸ばした。
 「私が兄さんを好きな事、知っているでしょ?」
 夏美の胸ぐらを掴む。いつでも投げられるように重心を軽く落とす。
 「私から兄さんを奪うつもりなら、容赦しない」
 夏美は落ち着いた表情で私の顔を見る。
 「私、お兄さんに恋してる」
 突然の言葉に私は戸惑った。
 「何を言ってるの」
 「でもね、愛してはいなかった」
 夏美の言葉に怒りよりも戸惑いが生まれる。
 「お兄さんの事を知りたかった。お兄さんに私の事を知って欲しかった。お兄さんを手に入れたかった。でもね、それだけだった」
 「さっきから何を言っているの。好きならば当然じゃない。好きな人の事を知りたいし、好きな人に自分の事を知って欲しい。好きな人を手に入れたい。何がおかしいの」
 悲しそうに首を振る夏美。
 「愛ってそれだけじゃないよ。私ね、その事をお兄さんから教わった」
 夏美は私の顔をまっすぐに見た。
 背筋が寒くなるほど澄んだ瞳が私をとらえる。
 「私、お兄さんを愛したい」
 さっきから夏美は何を言っているの。
 愛するって何なの。
 好きと何が違うの。
 「夏美の言っている事が理解できないわ。夏美の言う愛って何なの?」
 「私、お兄さんに幸せになって欲しい」
 「私だってそう思ってる。兄さんに幸せになって欲しいと思ってるわ」
 「もし私と一緒にいない方がお兄さんが幸せになれるなら、私はそれでもいい」
 夏美の言葉が理解できなかった。
 「もしお私と一緒にいない方がお兄さんが幸せになれるなら、私はお兄さんから離れる」
 静かな声で淡々と喋る夏美。
 「愛するって、そういう事だと思う」


275 :三つの鎖 30 前編 ◆tgTIsAaCTij7 :2010/12/14(火) 20:20:02 ID:+uQd24c8
 「何を綺麗事を言っているの。自己犠牲が愛だとでも言うの」
 「違うよ」
 夏美は悲しそうに首を振った。
 「相手の幸せを願い、行動することが愛だと私は思う。自己犠牲と愛は違う。私はお兄さんのために自分を犠牲にしたいとは思わない。だって、そんな事をすればお兄さんは悲しむから」
 夏美の左手の薬指で、銀の指輪が鈍い光を放っていた。
 一瞬で感情が沸騰する。
 夏美の悲鳴が聞こえる。
 気がつけば、夏美は私の足元で苦しそうにもがいていた。
 「けほっ…がはっ…」
 苦しそうに咳をする夏美を見ていると、少しだけど気分が良くなった気がした。
 「何が愛するよ。そのためには兄さんと別れても構わない?何よそれ。私に対する当てつけなの?」
 夏美は苦しそうにもがくだけで何も言わない。いえ、言えない。
 もがく夏美の左腕を踏みつける。
 私は夏美の左手の薬指から指輪を抜き取った。
 「ねぇ。どうなの?自分を犠牲にするのが愛じゃないって言ったわよね?だったらこの指輪を取り返せるの?」
 夏美は苦しそうに立ち上がった。荒い息をつき、肩を上下さしている。
 「それとも何もしないの?兄さんが夏美にプロポーズした証の指輪を奪われても指をくわえて見ているの?」
 夏美の澄んだ瞳が私を見つめる。
 「一つ言っておくけど、もし夏美がこの指輪を取り返そうとするなら、夏美を徹底的に痛めつけるわ」
 夏美は息を整えて私を見つめた。
 綺麗な瞳。その瞳が哀れみの感情を湛えている。
 「…何なの。何なのよ」
 「その指輪は確かに大切なもの。お兄さんが私に付けてくれた大切な指輪。でも、本当に大切なのは指輪なんかじゃない」
 指輪、なんかですって?
 「何なのよ。その言い方は」
 指輪すらも貰えなかった私は何なの?
 そこまで私を哀れむの?
 「本当に大切なものは、お兄さんからもうもらった」
 夏美は私を見つめた。澄んだ瞳が私を射抜く。
 「欲しいと言うなら、その指輪をあげてもいい。お兄さんだって分かってくれる」
 私は夏美の手を取って投げ飛ばした。
 大けがをさせないよう、背中から叩き落す。それでも受け身をとれない夏美には相当の衝撃と痛みだろう。
 悲鳴もあげずに地面を這いつくばる夏美。
 その背中を私は踏みつけた。
 「偉そうなこと言わないで」
 私は肩を上下させて息をついた。
 怒りが私から体力を奪っていた。
 私は手を開いた。銀の指輪が鈍い光を放っている。
 夏美がそこまで言うなら、この指輪は奪ってやる。
 私が付けて、兄さんに見せつけてやる。
 夏美は指輪を取り返そうともしなかったと言ってやる。
 銀の指輪を左手の薬指に近付ける。
 指輪ははまらなかった。
 微かに指輪の方が小さくて、指を通らない。
 顔から血の気が引くのが自分でも分かった。
 ただ単にサイズが小さかっただけ。それだけ。
それだけなのに、兄さんに拒絶された気がした。
 手が震える。指輪がこぼれ落ちる。
 小さな音を立てて指輪が屋上に落ちる。
 指輪は転がって夏美の足元に転がっていった。
 まるで自ら夏美のもとに戻っていったかのように。
 夏美は落ち着いた仕草で指輪を拾った。
 気がつけば私は膝をついていた。顔をあげると、夏美が私を見下ろしていた。
 「何でなの」
 夏美は何も言わない。
 「何で夏美なの。私の方が兄さんの傍にいた。兄さんをずっと好きだった。それなのに何で私じゃないの」
 夏美は何も言わない。
 「夏美だってそうよ。何で兄さんなの。他に男なんてどこにでもいるじゃない。よりによって何で私の兄さんなの。私の兄さんは、兄さんだけなのに。何で私から兄さんを奪うの」
 兄さんの言葉が脳裏によみがえる。
 (もし梓が妹じゃなくても、梓を女性として好きにはならなかった。恋人になりたいとは思わなかった)


276 :三つの鎖 30 前編 ◆tgTIsAaCTij7 :2010/12/14(火) 20:20:37 ID:+uQd24c8
 血のつながりだけが障害だと思っていた。血のつながった兄妹だから兄さんは私を愛してくれないと思っていた。
 (もし夏美ちゃんが血のつながった妹でも、きっと好きになっていた)
 でも、違った。
 私にとって、兄さんとの血縁は多くの物をもたらし、多くの物を奪った。
 兄さんの妹だから知り合えた。傍にいられた。
 兄さんの妹だから、女として見てくれない。
 そう思っていた。
 でも、実際は違った。
 少なくとも、兄さんはそう言った。
 私は、兄さんにとっていったい何なの。
 ただの妹なの。
 もし妹でなくても、女として見てくれない。
 夏美は例え兄さんと血がつながっていても、女として見られる。
 何なの。何でなの。
 それとも、夏美の言っていた愛のせいなの。
 夏美は愛があるから、兄さんに愛してもらえるの。
 私は愛が無いから、兄さんに愛してもらえないの。
 分からない。何も分からない。
 夏美は何も言わない。
 何も言わずに私の傍にいるだけ。
 黙って私の言葉を聞いているだけ。

 お昼休みのチャイムが鳴り、教室は一気に騒がしくなった。
 さて、今日は誰と食べよか。
 久しぶりに幸一と食べよか。
 「こーいち。昼飯食べにいかへん」
 幸一は困ったような顔をした。
 「どないしたん。夏美ちゃんと食べるんか?」
 「その」
 幸一の視線の先を見ると、村田がおった。
 ぼんやりと椅子に座っていた。
 「春子に用事があって」
 微かに胸が痛んだ。
 でも、それだけやった。
 「おーけーおーけー。またの機会に頼むわ」
 「誘ってくれてありがとう」
 俺は昼飯の菓子パンを持って教室を出た。
 今日の村田と幸一の様子はおかしかった。
 いや、幸一に関しては普通になった。いつも通りの落ち着きを見せている。今までが悩んでいるように見えたから、むしろいつも通りに戻ったと言っていい。
 問題は村田。明らかに様子がおかしい。
 授業中もぼんやりとしている。話しかけても上の空。
 ショッピングモールで見かけた時はあれだけ楽しそうで幸せそうだったのに、見る影もない。
 想像はつく。多分、幸一に振られたんやろう。
 傍にいたいと思っても、できなかった。
 失恋の辛さは俺もよく知っている。
 しばらくはそっとした方がええ。
 「田中先輩!」
 そんな事を考えながら歩いていると、聞き覚えのある声が俺を呼ぶ。
 美奈子ちゃんや。
 元気いっぱい俺の方に走ってくる。
 ついこの前の事が脳裏に浮かぶ。
 俺の事を励ましてくれた後輩。
 「こんにちは。この前はありがとうな」
 「お昼食べましょう!!」
 愛かわらず人の話を聞かへん子やな。
 でも、今は一人でいたい。
 村田のあの様子を見た後に、楽しく食事をとる気にはなれへん。
 「あー、できれば一人でいたい気分やねんけど」
 「大丈夫ですよ!」
 いや、美奈子ちゃんは大丈夫かもしれへんけど、俺は大丈夫やないねん。


277 :三つの鎖 30 前編 ◆tgTIsAaCTij7 :2010/12/14(火) 20:21:27 ID:+uQd24c8
 「ところで梓のお兄ちゃんはどこですか?」
 「あー。村田と食うって言ってた」
 「…そうですか」
 明らかにテンションが下がった美奈子ちゃん。
 やっぱり、夏美ちゃん関連で心配してるんやろう。
 変な子やけど、根はいい子や。
 「大丈夫や。幸一が夏美ちゃん一筋なんは知ってるやろ?」
 「そうですけど…」
 心配そうな美奈子ちゃん。
 次の瞬間、悲鳴じみた声が響いた。
 「それ以上言わないで!!」
 女の子の声が廊下に響く。
 知っている声。
 村田の声。
 騒がしかった廊下が急に静かになる。
 教室から村田が出てきて、早歩きで廊下を歩く。俺の方に歩いてくる。
 村田は泣いていた。
 悲しそうに、辛そうに、涙をぽろぽろとこぼしていた。
 いつもの笑顔は無く、涙でぐちゃぐちゃの顔があった。
 「村田」
 俺は思わず声をかけた。
 一瞥もせず村田は去っていく。
 その肩を、思わず掴んでいた。
 「どないしたん」
 「触らないで!!」
 乱暴に俺の手を払いのけ、村田は去っていった。
 俺は呆然とするしかなかった。
 「あの、田中先輩」
 美奈子ちゃんが心配そうに俺を見上げる。
 「大丈夫や」
 俺の声は嫌になるぐらい震えていた。
 村田が泣いていた。
 それだけで胸が張り裂けそうになる。
 分かっている。俺にできる事は、何も無い。
 村田が必要としているのは、俺やない。
 胸が痛い。
 涙が出そうになる。
 泣いてしまう。そう思った瞬間、手が温かくて柔らかい感触に包まれる。
 美奈子ちゃんが俺の手を握っていた。
 小さな子供みたいな手が、俺の手をそっと包む。
 柔らかくて温かい感触に、心が落ち着いていく。
 ただ単に手を握られているだけなのに、信じられないほど安心してしまう。
 美奈子ちゃんは何も言わない。心配そうに俺を見上げている。
 「大丈夫や」
 俺は美奈子ちゃんの手をそっと振りほどいた。
 「…ありがとう」
 美奈子ちゃんが俺の手を握ってくれなかったら、きっと泣いていた。
 不思議そうに俺を見上げる美奈子ちゃん。
 俺は自分の教室を覗いた。
 幸一はすぐに分かった。幸一は身長が高いから、目立つ。
 明らかに意気消沈している背中が目に焼きつく。
 「美奈子ちゃん。幸一も飯に誘ってええ?」
 「もちろんです」
 幸一に近づき、背中をそっと叩く。
 振り向く幸一。落ち込んだ表情。
 「幸一。一緒に飯食いに行こうや。美奈子ちゃんもおるで」
 少し迷った様子を見せてから、幸一は頷いた。
 「中庭にしよか」
 中庭はこの暑い季節でも風が気持ちいい。人は多いけど、座る場所はたくさんあるから話をするにも都合がええ。
 俺達三人は教室を出た。


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最終更新:2010年12月19日 20:29
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