ひきこもり大戦記 第一話

389 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:40:16.58 ID:y6fI1JVG
 生まれ変わろう。
 六畳一間の小汚いアパートの一室。その部屋の中心で、僕は遂に決心したのだった。
 いつもの僕なら、決心するだけで終わりだった。己の無知を自覚するソクラテスのように、自分が駄目な奴だと自覚している分、他の同じ駄目人間達よりも幾分マシであろうと、己を無理やり納得させて終わりだった。
 僕はいつも決心するだけで、その後にはなんの行動も伴なわなかったのだ。自己満足と自己嫌悪の応酬を続けるだけだった。
 しかし、今回の僕は一味違っていた。胸中で渦巻くモヤモヤとした黒い塊に、とうとう耐え切れなくなったのだ。
 もう嫌だ。こんな陰鬱な気分でこれからの日々を過ごすくらいなら、いっそ死んでしまったほうがマシだ。けど、当然僕には自殺するような勇気は微塵も無い。
 なら、重い腰を上げて動くしかないのである。酔生夢死の徒からの脱却。厳しい任務だ。けれど、僕は今夜、生まれ変わってみせる。
 そうと決まれば即行動である。決意の熱が冷めてしまわぬ内に、具体的な行動計画を立てよう。
 壁時計へと視線を移した。
 現在の時刻は午前一時半。普通の生活サイクルを送る者ならば、今頃はみんな床についている時間帯。つまり、僕にとっては今が絶好の外出時刻だ。
 僕が住んでいる街は、世間一般に言う郊外のベッドタウン。こんな夜更けに出歩いている人間といったら、せいぜい酔っ払いのサラリーマンぐらいが関の山だ。なんら心配はない。
 あっ、けど、もし道中でからまれたりしたらどうしよう。酔っ払いは何をしでかすかわからない分、素面のサラリーマンよりも余程に性質が悪い。妙な難癖をつけられて、殴られたりするかも。
 嫌だな。痛いのは嫌だ。そもそも酔っ払い以前に、パトロール中の警察官に出くわして、職務質問とかされたらどうしよう。
 まともに対応出来る自信なんて、からきし無い。逆に、不審者として連行されてしまうかもしれない。
 嫌だ。外は危険だ。危険な外になんか出たくない。やっぱり無理だ。今日はもう止めて、また明日頑張ろう。そうしよう。
「いけない、いけない」
 ネガティブな考えが脳内を支配し始めているのに気づき、僕は雑念を振り払うように左右に頭を振った。
 とにかく、今は物思いに耽ったりせずに、ただ動こう。益体のない思考は、行動の硬直化を招くだけだ。


390 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:42:25.37 ID:y6fI1JVG
 今夜の作戦を決定する。
 僕は今から深夜のコンビニへと赴き、店内に置いてある求人誌をゲットする。ついでに、夜食のポテチとコーラを一緒に購入。そしてそのまま寄り道することもなく、真っすぐにこのボロアパートへと帰宅。
 大丈夫、簡単なことだ。この程度のおつかい、小学生どころか幼稚園児にだってこなせる。今年で二十七になる自分に出来ないはずがない。
 頬をピシャリと叩き、自らを鼓舞する。
 万年床から這い出て、毛玉だらけの着古したスウェットを脱ぎ捨てた。そして、押し入れにある真新しいシャツとジーンズを着る。その上に厚手のコートを羽織り、最後に黒のニット帽を被った。
 洗面所の鏡で自分の姿を確認。とりあえず、おかしな格好ではないと思う。
 あいうえおー、と年のために発生練習した。ただレジを通すだけの簡素な買い物だ。おそらく声を出す機会など一度もないだろうけれど、万が一に備えての事である。暇を持て余したコンビニ店員が、僕に世間話をふる可能性もあった。
 脱ぎっぱなしのスウェットを洗濯機へ放り込み、僕は玄関へと移動した。
 大学生の頃から使っている汚れの目立つスニーカーを履いて、目の前にそびえ立つドアと対峙する。
 ここから先は、もう未知の世界だ。この部屋と違って、僕以外の人間が平然と闊歩する異世界。そして僕のことを守ってくれる存在など、勿論ひとりも居ない。
 気分はさながら、魔王を討伐しにいく勇者の心境だ。大袈裟だと思われるかもしれないが、ひきこもりの僕にとってはそれほどの一大イベントだった。
 一度、大きく深呼吸。心を落ち着かせる。
 それから冷たいドアノブを握り、ゆっくりと引いた。冬の寒気が、ドアの隙間から漏れ出てくる。それだけで引き返したくなる。だけど、それじゃ駄目なのだ。僕は今夜、生まれ変わらなくてはならない。
 外に出た。
 久しぶりの外界は、ゾッとしてしまうほどにしんと静まり返っていた。肌を突き刺すような冷気が、僕の体温を奪っていこうとする。思わず、両手で身体を擦った。
 とりあえずの所、視界に人はうつらない。ホッとする。
 錆びた階段を降りて、道路に出た。等間隔に並んだ街灯が、スポットライトのように地面を照らしていた。遠くでバイクのエンジン音も聞こえる。
 カチカチと歯の根が合わない口をギュッと引き締めて、僕はコンビニを目指して歩き始めた。
 大丈夫、大丈夫と心の中で何度も反芻させながら。


391 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:43:48.20 ID:y6fI1JVG
 吐き出した白い吐息が溶けていくのをぼんやりと眺めながら、僕は闇の中を進んでいく。
 しばらく歩いていると、さすがに気持ちも落ち着いてきた。心に余裕が出てくると、ついつい考えごとをしてしまう。
 僕はゆくりと回顧する。
 僕は所謂、ニートであった。社会不適合者の烙印を押されてから、かれこれ六年ぐらい経つ。今は、特に何もやっていなかった。本当に、なんにも。ただ無意味に一日を消化するだけの毎日を過ごしている。
 今思えば、元々そのケはあった。
 僕は昔から、どうも人とコミュニケーションをとるのが苦手で、許される限り孤独を謳歌するような人間だった。
 友達らしい友達なんて、ひとりも居やしなかった。だけど、別に欲しいとも思っていなかったので不満はなかった。
 転機は大学三年生の春に訪れた。相も変わらず孤独な日々を過ごしていた僕は、なんの意味も意義も無い大学生活に疑問を感じ、勢いそのままに大学を中退した。
 中二病をこじらせたのか、若気の至りであったのかは、今ではわからない。
 が、たとえ無事大学を卒業したところで、僕はおそらく同じような道を辿っていたと思う。
 相槌を打つ協調性すら皆無の自分が、就職活動なんてたいそれたものを成功させる姿は、とても想像出来なかったからだ。
 さて、そんなひきこもりニートの自分がどうやって生計をたてているのかというと、答は簡単。もちろん家族に養ってもらっているのである。
 大学を中退してからも、僕は実家に帰らずに下宿先のボロアパートに居残り、親父の送る生活ギリギリの送金で糊口をしのいでいた。
 そんな日々が、しばらく続いていた。僕は決して幸福ではなかったけれど、不幸でもなかった。親父には悪いとは思っていたけど、実際動くとなると話は別だった。僕は、ひたすらに外が怖かったのだ。
 だがある日のこと、僕の生活基盤を揺るがす大事件が起きた。
 今から二年前のことだった。僕の扶養主である親父が、交通事故にあって亡くなってしまったのだ。母親はとうの昔に死んでいたので、これで僕は両親二人を失うことになった。
 自分でも非情な奴だと思うが、僕はこの時、親父が死んだ悲しみよりも、むしろこれからの生活への不安のほうが大きかった。
 両親が死んだ。つまり、僕を養ってくれる人間が消えた。生活の糧をも失ってしまった。
 当時、僕は深く絶望していた。行き先の無い未来に対して、途方もない恐怖を抱いていた。


392 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:45:31.50 ID:y6fI1JVG
 これからどうやって生きればいいのか、それだけばかりを必死で考えた。親父の遺した僅かばかりの金では、この先とても持たなかった。このままでは野垂れ死んでしまうことは目に見えていた。
 どうすれば、どうすれば、どうすればいい。
 しかし、僕は存外あっさりと、自分が生存する方法を見つけるのだった。それが最低最悪の方法だと自覚しながら。
 そう。僕は両親は失ってしまったけれど、家族は失っていなかったのだ。
 僕の家族構成は四人。両親二人が死んだ今、残りは二人いる。一人は僕で、もう一人は二つ下の妹だった。
 そう。両親が死んで以来、僕はあろうことか唯一の肉親である妹に頼ったのだ。そして今も現在進行形で、彼女に養ってもらっている。
 兄として、これほど情けないことはないと思う。畜生にも劣る存在だ。けれど、僕は妹が何も言わないことをいいことに、ダラダラと今の生活を続けている。
 今回の一大決心の要因は、なによりも妹の存在が大きかった。今までは親父に迷惑をかけ、さらにこれからは妹にまで迷惑をかけていいはずがない。
 とにかく、アルバイトでもなんでもいいから一刻も早く職を持って、僕は妹の負担を減らさなければならない。
 そのためにも、早く生まれ変わるのだ。今夜は、その第一歩であった。

 異変が起きたのは、コンビニまで後五分というところだった。
 二つ先の街灯の下に、三人の人間が照らされていた。僕は反射的に近くの電柱に身を潜めた。外出してから初めて現れた登場人物に、戸惑いを隠しきれなかったのだ。
 頼むからさっさと何処かに行ってくれ、と必死に念じながら、電柱の影からこそりと前の様子を伺う。
「なあ、いいじゃんかよ」
 やけに甲高い男の声が耳に届いた。閑静な住宅街だけあって、声は明瞭に聞こえる。
 目をこらす。
 前方にいる三人は、男二人に女一人の構成だった。
 男は、背の高いのが一人に低いのが一人。両方とも頭髪を明るい色に染めている。穿った見方かもしれないが、軽佻浮薄の四文字が最も似合いそうな二人だった。
 一方、女のほうはこちらに背を向けて立っているので、表情まではわからない。長い髪をひとつに結んでいて、暗い色のスーツをビシッと着こなしている。コートを着ていないので、かなり寒そうだ。どこかに勤めるOLさんなのだろうか。


393 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:46:53.10 ID:y6fI1JVG
「やめてくらあさい」
 と、次に聞こえてきたのは女性の声だ。が、どうにも様子がおかしい。なんていうか、夢見声というか、呂律が回っていないというか。
 よく見れば、OLさんはフラフラと左右に揺れていて重心が定まっていないようだった。どうやら酔っているらしい。
「いいじゃん、いいじゃん。ちょっと俺の家で休むだけだって。ほら。ここら辺、最近物騒だって聞くし、そんな中を酔ってる女性が一人で歩いてちゃあ、危ないでしょ?」
 お前らのほうがよっぽど危ないよ、と心の中で一人ツッコミ。というか、背の高いほうが甲高い声の持ち主だったのか。なんか意外。
 だいたい状況は掴めてきた。
 OLさんはひどく泥酔しているらしく、それを目敏く見つけた二人組の男が、彼女が酔っているのをいいことに、家へと連れ込んでニャンニャンしようとしているらしい。
 尤も、あの様子じゃOLさんが連れて行かれるのも時間の問題だろう。
「それにしても寒いな。身体も冷えてきちまったし、さっさと行こうぜ」
 そう言いながら、背の低い男がOLさんの肩に手をかけた。しかし身長が足りていないので、見ようによっては子供が大人にぶら下がっているようにも見えた。
 が、OLさんが意外な行動に出る。いきなり男の手を振り払ったかと思うと、一際大きな声を上げたのだ。
「だーかーらー、やめてくらさいって、言ってるでしょうがっ」
 相変わらず舌っ足らずな口調だったけれど、想像していたよりもずっと強い拒絶に、男達は狼狽しているらしかった。僕も驚いていた。
 今の一言で、彼女が簡単には身を許さない、身持ちの固い女性であることが明白になった。
 チッ、と背の低い男が舌打ちする。
「うっせえなぁ、いいからさっさと来いよ」
 あからさまな拒絶に腹が立ったのか、男達はさっきとは打って変わり、乱暴な所作でOLさんを連れて行こうとした。
 ヤバイ。
 漸く、僕も自身の身が危ないことに気付く。
 進路方向によっては、僕が彼等と鉢合わせてしまう可能性があった。それだけは避けたかった。見た感じ男達は苛立ってるし、変なイチャモンをつけられるかもしれない。
 僕は最悪の場合を危惧し、逃げ場を探そうと視線をさ迷わせたが、杞憂に終わることになった。
 幸運なことに、男達が向かって行くのは僕の居る場所とは正反対の方向であった。鉢合わせの可能性はこれで潰えた。僕は安心する。


394 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:47:55.97 ID:y6fI1JVG
 正直なところ、OLさんがどうなろうと僕は知ったこっちゃなかった。
 今回のことは、どう考えてもベロンベロンに酔っているOLさんの不注意によるものだし、自業自得である。
 それどころか、後々のための良い薬になるだろうとさえ、僕は考えていたのだった。
 他人の心配なんかする余裕はない。そんなことよりも、僕にはやるべき事があるのだ。
 正直、彼女のことは可哀相だとは思うけど、目撃者がニートである僕であったことが運の尽きだ。
 どっちにせよ、僕には関係が無い。OLさんへのせめてもの餞に、心の中で合掌をしてやろうと思っただけだった。
 そう、思っていた。そう、思っていたのに
「やめてっ」
 今までで一番大きなOLさんの叫び声に、僕の死んでいたはずの良心が刺激された。
 即座に、周囲に視線を張り巡らせる。人っ子ひとりいない。通りすがりのヒーローが彼女を助けてくれる可能性は消えた。彼女を助けられるのは、自分一人しかいない。
 心臓が有り得ないぐらいの速さで脈を打っている。鼓動は、男達との距離が広がっていく度に速さを増しているようだった。
 良心が警鐘を鳴らす。
 本当に、僕はこのまま何もせずに、彼等を見送ってしまってもいいのだろうか。
 どう見ても、OLさんは嫌がっている。これはれっきとした犯罪行為ではないのか? 僕には、警察へ通報する義務が生じるのではないのか?
 けど、僕はあいにく携帯電話なんて持ち合わせていない。ひきこもりニートにそんなものは必要ないからだ。
 なら、交番へ行くか? だけど、僕は交番の場所なんか知らない。今から探して間に合うだろうか?
 でも、仮に交番へ行けたところで、僕みたいなひきこもりニートがまともにこの状況を伝えることが出来るのか?
 いや。おそらく、失笑されて終わりだ。いい年した男が、変なことを口走っていると思われて。それで終わりだ。
 いや。それどころか、不審者と見なされて取り調べとかされるかもしれない。そして、拘置所の中にぶち込まれるかもしれない。
 いや。きっと、そうなる。だって僕、ひきこもりニートだもの。人間のクズだもの。絶対に、無理に決まってる。
「…………」
 結局、僕には何も出来なかった。茫然として、彼女が連れ去られるのを見届けるだけだった。
 仕方がないのだ。
 僕はコミュニケーション不全の駄目人間なのだ。こうやって深夜に出歩けるようになったのも、ついさっきの出来事なのだ。


395 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:49:07.92 ID:y6fI1JVG
 言うならば、僕は生まれたばかりの小鹿に等しい。悪漢に連れ去られる女性を助けるなんて、絶対に無理だ。最低レベルのまま、ひのきのぼうと布の服で魔王に挑むようなものである。
 だから、仕方ない。
 いや。それどころか、こうやってOLさんを助けなくてはならないという正義感に駆られてるだけ、僕はまだマシじゃないか。そこらのニートよりも、格段に勝っている。こんなこと、普通のニートに出来るか?
 そうだよ。逃げ出さないで、辛い現実から目を逸らさないでいるだけ、僕はまだカッコイイじゃないか。少なくとも、ただのニートではない。スーパーニートだ。
 だから、いいんだよ。別に、僕は立ち向かわなくたっていいんだよ。
 自己を合理化して、罪悪感を薄れさせる。知りもしない他者に対して、よくわからない優越感を抱く。いつもの僕がやる常套手段だった。
 だけど、それの何が悪い?
 僕がそのまま、マイナスの感情に身を委ねてしまおうと思った時だった。
 声が聞こえた。
「誰か、助けて」
 決して、大きい声ではなかった。しかしはっきりとした声が、僕の鼓膜を震わせ、脳を揺さぶった。
 フラッシュバックするセピア色の光景。
 夕日に照らされて、教室の中で立ち尽くす少女。机の上には、刻まれた体操服。普段は凛としている彼女の瞳が、今は頼りなく光っていた。
 そして、今にも泣きだしてしまいそうな顔で、見えない何かに耐えるように拳を力強く握りしめながら、少女は誰にでもなく呟くのだ。
 ――誰か、助けて。
「ああああ、あっの、少し、よろしでしょうか?」
 突然だった。
 噛みまくりの情けない声が、急に聞こえだしたのだ。
 誰だ? こんな聞くに耐えないような不快な声を出すのは。
「誰だよ、お前」
 いつの間にか、背の高い男の顔が目の前にあった。
 あれ? どうして、こんな近くに男の顔があるのだろう? さっきまでは、あんなに遠くにあったのに。
「あっ」
 そうして僕は、やっと気付く。
 僕は男達のすぐ側まで、全力で駆け出して来ていたのであった。息が途切れ途切れでひどく苦しい。
「だから、何のようなんだって聞いてんだろ」
 背の低いほうが、いつまでも返事をしない僕の肩を軽く小突いた。
「ひっ」
 たったそれだけの行いで、僕は情けのない声を出して、その場にペタンと尻餅をついた。男達はキョトンとした顔でそれを見た後、ゲラゲラと下品に笑った。


396 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:50:56.78 ID:y6fI1JVG
「おいおい、なんだよ。ちょいと触っただけじゃねぇか。何をそんなにビビってんだよ」
 頭の整理がまだ出来ていない僕は、羞恥心やら恐怖心やらで顔を赤らめる。
 くそっ、何をやっているのだ僕は。傍観するだけって決めたじゃないか。なのに、なんでノコノコとコイツらの前に参上しているんだよ。正義の味方にでもなったつもりなのかよ。
 立ち上がって、パタパタとお尻を叩く。
 ええい、ままよ。
「いいい、いや、嫌がっつるじゃあないですか、その人」
 半ばやけくそになった僕は、男達へ向かって声を上げる。自分達の行いが非難されてると知って、男達の顔色も変わった。
「テメェには関係ねぇだろ」
「けけけっ、ど、それってはは犯罪になりますよね。女の人、いややがってるし」
「だからなんだってんだよっ」
「たとえ、たとえですよ。仮にぼぼ僕が、なにもしなくたってえ、その女の人が、後ほど、けけ警察に通報したりするんじゃああありませんか?」
 あくまで自主的に止めさせようと、僕は説得じみたことを始めた。この場が丸くおさまれば、それが一番だからだ。
 しかし、
「ああ、それについては大丈夫だよ」
 下卑た笑みを浮かべながら、背の高い男はあっけらかんと言った。
「ハメ撮り写真でも撮って、これをばら撒くぞって脅せば、女なんて何も言わないからさ、実際。
 心底わかってんだよ。警察に行って一生の恥かくよりも、たった一夜の過ちを悔やんだほうが割に合うってな」
 目眩がした。世界が回って、足元もふらついた。
 駄目だ。コイツら、下手したら僕以上のクズだ。男達がこういう行為をするのが初めてでないことは、今の物言いで一目瞭然であった。
「でででで、でもですねえ」
 正義のヒーローなら、ここで迷わす鉄拳制裁なのだろうけど、非力な僕には説得を続けることしか出来ない。
「ああ、もうウッゼェ。さっきからネチネチうるせぇんだよ」
 いつまでも突っ掛かってくる僕に痺れを切らしたのか、背の低いほうが、遂に僕の顔を殴った。
「ひっ」
 殴られた勢いで、僕は地面に倒れる。アスファルトの道路にモロに顔をぶつけ、頬が擦り切れた。痛い。
 僕はそのままダンゴムシのように丸まって、ガタガタと震えた。口内では鉄の味が広がっている。
「んー?」
 そんな僕の情けない仕草の一々に疑問を感じたのか、背の低いほうがボソリと呟いた。


397 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:52:17.72 ID:y6fI1JVG
「お前って、もしかしてひきこもりか何か?」
 思わず、ビクリと震えてしまった。ひきこもり、という単語に脊髄反射してしまう。目の奥がカッと熱くなった。僕は恐る恐る顔を上げた。
 僕の頭上では、我が意を得たり、と背の低い男はニヤリと笑っている。
「おいおい、マジでヒッキーなのかよコイツ。えっ? なんですか? 今までずっと、社会の底辺が俺らに口を出していたって訳ですか?」
「えっ、あっ」
 なんで、なんで、なんで、なんで。
 なんで僕がひきこもりニートだってことがバレたんだ。顔か、体格か、それとも雰囲気か。
 僕はうろたえる。この瞬間、優劣関係が硬固たるものへと変わった気がした。
「ふーん、ひきこもりねぇ」
 背の高い男も、これまで以上に馬鹿にするような目で、僕のことを見る。
「ひきこもりとか、社会のゴミじゃねぇか。ゴミがなに偉そうに人様に説教してんだよっ」
 背の高い男が、僕の腹を蹴る。痛い。不意に吐き気が込み上げてきて、慌てて口を塞ぐ。胃液を飲みこむ。
「その通りだな。ヒッキーはヒッキーらしく、じめじめと岩の下で暮らしてりゃあいいんだよっ」
 背の低いほうも、僕の顔を蹴った。痛い。唾液と血が混じったものが、口から流れ出て道路を汚した。
「ていうか、いっそ死んじまえよ」
「そうだそうだ。さっさと死ね。穀潰しが」
 容赦なく降り注ぐ、僕の存在を否定する声。自分自身、己の存在を否定するなんて日常茶飯事の事であるが、他人に否定されるの初めてのことだった。
「死んじまえ」
「死んじまえ」
 サラウンドに聞こえてくる、死ねの声。
 不思議な気持ちだった。普段、自分で自分の存在を否定していると、坂を転がり落ちるように気分も落ち込んでくるものだ。そして、実際に死にたくなってくる。
 けれど、他人に自分の存在を否定されていると――
 僕はゆらりと幽鬼のように立ち上がって、目の前の男達を見据えた。
 僕の視界は真っ赤に染まっていた。この感情は、久しぶりだ。久しぶり過ぎて、忘れていた。そう、これは怒り。僕は今、猛烈に怒っている。
 風船が破裂するように、僕も破裂した。
「僕はひきこもりじゃないっ」
 夜空に向かって、叫んでいた。


398 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:53:46.49 ID:y6fI1JVG
「ぼぼぼ僕のどこが、ひきこもりだって、言うんですかっ? ほら、見てくださいよ。僕はこうして今現在進行中で外を、ででで出歩いているじゃああありま、せぬか? なら、ひきこもりじゃあないでしょう。
 ええ、そうですよ。僕はたしかにひきこもりでしたよ。けど、それは過去のことです。過去形です。ワズです。
 だあかあらあ、いいいまは違うでしょうっ。ひきこもりじゃないでしょう? ニートですけど、ひきこもりではないでしょうがっ。
 て訂正してくださささいよおっ、今言ったひきこもりって言葉。訂正してくださいよおおお。どうせならニートって呼べよ。つーか、そう呼べええっ。さあさあさあささあさあっ」
 深夜の寒空の下、唾と血を飛ばしながら騒いでいるニートが、ここに一人。ええ、そうです。それは、僕です。
「…………」
 突如、態度が百八十度変化した僕に対し、男達はドン引きしていた。口をポカンと開けて、僕のことを凝視している。
「お、おい。コイツ、ちょっとヤベェんじゃねぇの?」
 背の低いほうが高いのを肘でつつき、高いほうもハッと我に返る。
「あ、ああ。確かにコイツ、かなりヤベェよ。見ろよ、目がイッちまってる。あれは完全にキ〇ガイの目だ」
 背の低い男も、同意するように無言で頷いた。
「なっ、ななななにをさっきからあ、ごごゴチャゴチャ言っ、てるんですかかかねえっ」
 しかし、僕の興奮は収まることを知らない。ぼたぼたと鼻血を垂らしながら、じりじりと男達に詰め寄って行く。
「てて、て訂正しててくださいよおお。ぼ僕のことをひひ、ヒッキーって言ったことお、訂正してくださいよっ。ごご、語弊を正し、ってくださいよ」
 僕が一歩進むと、男達が一歩下がる。僕が二歩進むと、男達も二歩下がる。それを何度か繰り返した後、背の高い男が遂に諦めた。
「今日は、もういい。さっさとずらかろうぜ。コイツ、マジでなにをしでかすかわからねぇぞ」
「ああ、同感だ」
 そして、男達はぐちぐち悪態をつきながらも、僕の前から逃げるように去って行った。
 狂人を相手にするリスクのほうが、OLさんを手にするリスクよりも上回ってしまったのだろう。
 なにはともあれ、計らずとも僕は二人の悪漢に打ち勝ったのだった。
「…………」
 なのに、どうしてこんなに虚しいのだろう。いつの間にやら、僕はポロポロと涙を流していた。自分のメンタルの弱さに、さらに呆れてしまう。


399 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:55:06.49 ID:y6fI1JVG
 僕は一体、何をやっているのだ。ただ徒に自分の矮小さをさらけ出して、己のことを傷付けただけじゃないか。僕がやっているのは、ただの自傷行為だ。カッコイイことなんて、何一つない。ていうか、カッコワルイ。
 熱くなった頭とは対照的に、指先はとうに冷え切っていて、既に感覚が無かった。寒い。
「帰ろう」
 今更、コンビニへ行く気にもなれなかった。早く家に帰って、万年床の中でぬくぬく温まりたかった。しばらくの間は、外に出たくなかった。
 僕は踵を返して、自宅を目指す。
「待ってくらさい」
 しかしそれを妨げたのは、すっかり蚊帳の外であるOLさんだった。僕の肩を掴んで、相変わらずの不安定な喋りのまま行く手を憚る。
 対して僕は、そういえば女の人に触られるのは小学生以来だなぁ、なんてことをぼんやり考えていた。
「とりあえーず、礼を言っておきましょう」
 助けられた側なのに、なぜだか尊大な口調でOLさんは礼を言った。甘ったるい酒の匂いが、こちらまで漂ってくる。
「いいですよ、別に」
 僕は素っ気なく言い放った。テンションが最低辺にまで落ち込んだ影響か、吃りまで消えてしまっている。誰かとまともに会話するなんて、随分と久しぶりだ。
「いや、そういう訳にもいきまひぇんよ」
 しかし、OLさんしつこく食い下がる。
「私、借りを預けっぱなしっていうのはあ、どうにも性分に合わないんれす。今はこんなんですから無理ですけど、後ほど改まって礼をさせてくらだい」
「いや、本当にそういうのいらないんで」
「わったしがよくないんですよぉ」
「いや、だから」
「ほら、さっさと連絡先ぃ教えんしゃい」
「その」
「ほらぁ、早く早く早くぅー」
 ブチッ、と何かが切れる音がした。
「あああ、もう五月蝿いっ。僕のことなんかほっといてくださいよっ」
 先程の興奮が未だ冷めていなかった僕は、遂に耐え切れなくなって激昂する。肩に置かれた彼女の手を乱暴に振り払った。
「あららら」
 しまった。
 身体の支えを失ったOLさんは足元をふらつかせて、そのまま後ろへ倒れていく。危ない倒れ方だった。このままでは、彼女は後頭部を打ってしまうだろう。
「危ないっ」
 ほぼ無意識だった。僕はOLさんへと必死に手を伸ばして、彼女の身体を抱き寄せた。普段の僕では考えられない、紳士的な行動だ。
 必然と、OLさんと目が合う。今になって気付いたが、彼女はびっくりするぐらい整った容姿をしていた。


400 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/05/05(木) 19:56:02.71 ID:y6fI1JVG
 酔いのせいか頬は赤く染まり、目はとろんと半分垂れ下がってだらしの無い表情をしているが、それを差し引いたとしても、彼女は美しかった。
 女性と見つめ合うなんてことは、僕には出来ない。が、この時ばかりは違った。僕は彼女の瞳にスッカリと魅入られてしまい、視線を外せずにいた。
 OLさんが口を開いたの突然だった。
「……武井、くん?」
 いきなり呼ばれた、僕の苗字。時が止まった。心臓も止まった。
 どうして? なんで、僕の名前を。何故、僕の名前をOLさんが知っているんだ?
 僕はひどく動揺した。ゲージがフルテンまで振り切れる。色んな感情が織り交ざって、何も考えられなくなる。
 ひきこもりニートにとっての最大のタブー。それは、過去の知り合いと出くわすこと。そして今、僕の目の前にいるOLさんは僕のことを知っていた。
「武井くん……れしょ?」
 OLさんがもう一度尋ねる。
「……違います」
 僕は呟く。
「えっ?」
「違いまあああああすっ」
 キャパシティを超えた。
 僕は悲鳴となんら変わらない叫び声を上げて、OLさんのことを突き飛ばした。いったあい、と色っぽい声を出してOLさんが僕を非難した。
「ちっ、違いますから」
 わなわなと震えて抗議する。
「僕は、僕は、決して、武井ヒロシなんかじゃあ、ありませんからああああああああ」
 出した結論は、逃避。
 全力疾走した。少しでも彼女から遠ざかろうと、只ひたすらに走った。
 明日はきっと筋肉痛だろう。疼痛で一日中苦しむだろう。だけど、今はそんなことを考慮する暇もなかった。僕は走る。目的地は考えていない。ただ走るのだ。親友のもとへ向かう、メロスのように。
 こうして、僕が一大決心のもとに挑んだ一夜の冒険は、目的地に辿り着くことすら出来ずに敢え無く失敗し、僕は悲痛の涙を流しながら、夜の街を一人遁走したのだった。


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最終更新:2011年10月21日 22:56
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