ひきこもり大戦記 第二話

170 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 16:50:54.51 ID:Icnw6+Bl
 突然ではあるが、どうして人は寝起きのとき機嫌が悪いのだろう、と僕は常々疑問に思っていた。
 起床。それはこの世に生を受けた者ならば、誰もが経験したことのある生理現象である。子供の頃に何時だかテレビで見た、数年間寝ていない男、みたいな例外を除けば、人は毎日起床しているはずだ。
 それも人間だけではなく、地球上に住む生物の大半が行っている行為だと思うと、なんだか壮大なスケールの話な気がするが、まあ、そんなことはないのだろう。寝て起きるなんて当たり前のことだしね。
 さて、問題は機嫌云々である。朝起きたら気が立っている人が多いという疑問だ。
 尤も、そんなのは洋の東西を問わず、ましてや老若男女の関係もない、この世を生きている者ならば誰にでも理解出来る不変の真理である。そもそも、このような自明の理を議論の俎上に置くこと自体がおかしいのだ。
 なら、なぜ僕は一々ぶり返そうとしてるのか。それは、ひとえに自身の自己満足の他ならない。しかし、誰に迷惑をかけるわけでもないのだし、別に構わないだろう。
 とにかく、僕は疑問に感じていた。どうして人は、起床という行為にここまでの苦痛を抱いてしまうのだろうかと。いや、抱かざるを得ないのだろうかと。
 そりゃあ、血圧の高低とか、睡眠時間の不足とか、バイオリズム云々とか、幾つかの科学的根拠をあげることは可能だ。いや、科学的というのは些か大袈裟過ぎるかな。まあ、細かいことは気にしないことにする。
 それから図書館へ行って睡眠に関する書物を読み漁ったりもしたが、大半が睡眠のメカニズムや効用等を説明しているだけであって、肝心の起床について書かれた本はきわめて少なかった。あったとしても、せいぜいオマケ程度の扱いである。
 けれども僕は辛抱強く図書館に通い続けた。が、めぼしい成果はなにも上げらなかった。活字が僕に与えてくれる情報には、限界があったのだ。
 自分が的外れなことをしていると気づいたのは、しばらく経ってからだった。あれ待てよ、この手の疑問ってどちらかといえば哲学寄りなんじゃね、と。
 そういう訳で、僕はさっさと宗旨替えをし、引き続き答え探しに興じることにした。思いの外、この哲学もどきには没頭できた。昔から時間だけは有り余っていたので、ちょうどいい暇潰しになり得たのだ。


171 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 16:54:39.37 ID:Icnw6+Bl
 しかし、時間をかけて考察しても答えは見つからなかった。いい具合に考えがまとまってきても、必ず途中でほつれが見つかり、最後にはほどけてしまった。
 まるで永遠に終わらないライン作業をやっているみたいだった。あまりにも不毛な作業に、さすがの僕も気が滅入りそうになった。
 遊び半分なのがいけないのかもと思い、戯れ事だという意識を放棄して、本腰をいれて取り組むことにした。寝ても覚めてもこの議題ばかりを考えた。
 けれど、答えは見つからない。何故だ。僕はさらに考えた。だが、やっぱり見つからない。
 脳内会議は平行線を辿った。あるグループがAだと言えば、別のグループがBだと反論する。そんでもって議長までもが、いやいやそれはCでしょ、と余計な口出しをするもんだから、事態はずるずると混乱を極めた。
 探し方が悪いのだ、と結論を出したのも、同じくしばらく経ってからだった。
 僕が今やっているような、目隠しをしたまま手探りのみで探すやり方では、触れられるのは外層だけ。その先は、どうやっても越えることが出来ない。どうすればいい。僕は大層やきもきした。
 そもそもさ、答えなんて無いんだって。考え方は十人十色、人それぞれじゃないか。なんてらしいことを言って妥協する気など、さらさらなかった。
 たしかに、この問いに正解は存在しない。だけども僕は、少なくとも論理的に整合性のとれた、納得のいく答えを見つけ出したかったのである。
 僕が知りたがっていたのは、表面的な原因とかじゃなくって、上手く言えないけど、もっと違う、深い所にあるような、人が本来から持ち備えている本能的な何かというか、心理の内奥に存在する抽象的な概念というか、とにかくそういう系統の事だったのだ。
 我ながら、何を言っているのか要領を得ないけど。
 とにかく、僕は探した。幾度も何度も何回も探してみた。けれど、結果は同じだった。いくら時間をかけて熟考してみても、答えらしい答えは見つけられなかった。
 そして、いつしか僕は答え探しを止めてしまった。
 しかし結論から言ってしまうと、その後、僕は答えを見つけることになる。
 喉から手が出るほど、とまではいかないが、それなりに欲しがっていた答えは、なんとも皮肉な事に、僕がひきこもりへと堕落してしまった後に、至極あっさりと見つけることになるのだった。
 探している時は見つからなかった探し物が、後々になって見つかるアレに近いと思う。


172 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 16:56:23.71 ID:Icnw6+Bl
 答えは、意外なほど身近にあった。灯台下暗し、というやつだろうか。見つけるのは容易であっただろうに、過去の僕には全く見つけられなかった。
 いや、もしかしたら無意識に目を逸らしていたのかもしれない。現在の僕のような、全てを失ってしまった人間だからこそ、それを直視することが出来たのだ。
 何故、人は目を覚ますのが苦痛なのか。答えは、一言で用足りた。それは、起きるという行為が即ち、戦うということに繋がるからなのだ。
 社会に生きている人々は皆、日々いろいろなモノと戦っている。
 爛れきった人間関係。努力とは決して比例しない成績。理不尽に降りかかる不幸。妬み、恨み、つらみ、と数えればキリがない。聞いてるだけで頭が痛くなりそうなものたちと、彼等はしょっちゅう戦っているのだ。
 そして人は就寝することにより、一時的にその戦闘から開放される。だから人は睡眠という行為に途方も無い幸福感を得られる。
 意識が途切れ、無意識に切り替わる刹那なんかは、この世で最も至福な一瞬と大言してもいいだろう。
 だけれども、起床はその真逆。再び戦場へと身を置くプレリュード。先に待つのは長い一日の戦闘であり、加えて休息は無に等しいときてる。
 そんな未来が待ち受けているのに、誰が好き好んで暖かい寝床から起き上がるというのだろうか。十人いたら十人起きないこと間違いなしである。
 なのに、実際に世界に目を向けてみると、人は起きていた。毎日、毎日、飽きもせずに戦場へと向かい、自身の心と身体を傷つけていた。それは冷静に考えるとトンデモナイことである。
 彼等は被虐主義者なのか。普通はそう考えてしまう。だが、違う。彼等はただ知っているだけなのだ。起きないことを選ぶ方が、起きるよりもよっぽど恐ろしい未来が、大口を開けて待っていることに。
 もし、仮に起床することを放棄し、睡眠という麻薬に身を委ねてみろ。その先にあるのは破滅。社会という大舞台から役割を剥奪され、居場所を喪失し、終いには強制追放されてしまう結末。
 観客にもなれず、黒子にもなれず、劇場内の滞在すら許されず、終いには宙ぶらりんで曖昧模糊とした存在に成り下がる。それはある意味、死よりもずっと恐ろしいことだった。
 だから、人は戦う。毎日、毎日、ボロボロになるまで。彼等は、後門の無を相手にするくらいなら、前門の虎と戦ったほうがマシだと理解していた。


173 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 16:58:45.80 ID:Icnw6+Bl
 しかし、だ。
 例えば戦いを放棄し、ただひたすらに逃げることを選択する者がいたのなら。起床を放棄し、仕事も学校も家事も全て投げ出して、ただひたすらに惰眠を貪ぼり続ける者がいたのなら。果たして、その者は一体全体どうなってしまうのか。
 こっちのほうが、答えは簡単だよね。
 ご察しの通り、そうした人間の成れの果てが、今の僕だ。
 僕は快適な起床を手にした代わりに、それ以外の全てのモノを失った。文字通り、全てのモノをだ。
 それで釣り合いがとれているのかどうかはわからなかった。もしかしたら、僕はしてはいけない選択をしてしまったのかもしれない。掴んではいけない未来を手にしてしまったのかもしれない。
 だけども、そんなのはいくら考えてもわかりっこないし、どうでもよかった。だって、昔の自分の選択を責めたところで、過去には戻れないのだから。今の僕には、現在しかない。現在を生きていくしかない。
 そういうわけで、僕は寝覚めがいい。全世界の人類に対して、申し訳なるほどに。
 そうして、今日も僕は目を覚ます。
 ハッキリとした覚醒だった。
 万年床の中からむくりと上半身を起こすと、まだ若干寝ぼけの残る瞼を擦った。カーテンの隙間から漏れでている月明かりが、ちょうど僕の顔を照らしていて眩しい。けれど、眠気の残滓はその月明かりのおかげですっかりと雲散霧消してしまう。
 部屋の中は真っ暗で、しんと静まり返っていた。蛍光塗料で光る壁時計の針を見て、今が午後十一時半だと知った。いつもの僕の起床時間だった。
 くうあ、と奇妙な欠伸をひとつかまして、毛布を捲りあげる。すると、妙な匂いが僕の鼻腔を刺激した。なんだろう。微かに香る、薬品の匂い。匂いの発生源である毛布の下に、無意識に視線を下げる。そこには、湿布で真っ白になった貧相な足が伸びていた。
「あっ」
 やばい。
 ぎゅっと目を瞑って、咄嗟に身構えた。
 が、いつまで経ってもくるべき筈のものがやってこない。おかしいなと思い、恐る恐る目を開けて、自分の足を眺め見る。
 見たところ、昨日と変わったとこは何もない。試しに、爆発物でも扱うような手つきで足をつついてみた。激痛覚悟だったが、何もなし。ふくらはぎが感じているのは、人差し指による微力な圧力だけだ。


174 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:00:06.38 ID:Icnw6+Bl
 いつの間にやら、あれ程までに僕を苦しめていた筋肉痛がすっかり消えていた。まだ多少の倦怠感は残るものの、完治したと言っても差し障りがないほどの回復ぶりだった。
 やっと治った。ホッと胸を撫で下ろし、溜め込んでた息を吐く。
 そして今度こそ万年床から這い出ると、頭上でぶら下がっている電灯の紐を引っ張った。何度か点滅を繰り返しながら、電灯に光が灯る。眩しさに目が眩む。
 ついでに万年床近くに設置してあるコタツの電源も入れて、卓上にあるノートパソコンも立ち上げた。起床したらまずパソコンを起動させる。それが、ひきこもりのライフワークである。
 パソコンが立ち上がるまでの間、僕は脳内で例の音楽を再生させながら、ひとりラジオ体操を開始した。
 こうやってコマメに身体を動かすことが、ひきこもりを長く続ける秘訣だったりする。ひきこもりは本当に動きが少ない生き物なので、こうして身体を動かしでもしないと、後々ガタがきてしまうのだ。
 チェア使用者ならまた話は別なのかもしれないが、僕みたいな床に座るタイプのひきこもりだと、肩こりとか腰痛とか本当に酷くなる。
 僕は黙々と固まった身体をほぐしていった。
 単調な作業が続くと、嫌でも考え事をしてしまうものだ。そして僕は不本意にもあの忌々しき夜のことを思い出してしまった。
 回想すら忌避したくなる、あの悪夢の夜から、かれこれ三日が経っていた。
 僕が曲がりなりにもひきこもりを卒業し、ひきこもりニートからノーマルニートへとレベルアップした夜。そして、輝かしい未来へ向かって大躍進する筈だった夜。そして、無残に、無様に、散ってしまった夜。
 あの後は散々だった。翌日には酷い筋肉痛に悩まされて、少し足を動かすだけでも痺れるような痛みが走った。トイレにだって満足に行けず、波のように押し寄せる疼痛で、夜も眠れなかった。いや、正確には昼なんだけど。
 それに筋肉痛だけじゃなく、悪漢二人組に殴る蹴るされた傷も、筋肉痛に劣らず僕を苦しめた。口内の切り傷は今だってしみるし、顔の腫れも未だ引いていない。まさに満身創痍の状態だった。
 けど、それよりももっと酷い傷があった。心の傷だ。
 肉体的な傷はじきに癒える。どんなに重い怪我だって、治る怪我なら時間さえ経てば必ず治るのだ。


175 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:02:16.24 ID:Icnw6+Bl
 が、心の傷はそうはいかない。あれは目に見えないぶん尚更タチが悪く、しかも個人差があるので、程度の判断すら難しい。そして、治療法も千差万別で確立されていない難病だ。
 そして、僕はむしろ心がやられてしまった。あれ程の一大決心の元に外へ出たのだ。期待が大きかったぶん、やられた時のダメージも計りしれないものだった。
 もう、いいや。僕は一生、ひきこもりニートのままでいい。
 それが、僕の出した結論。出すのがあまりにも遅すぎた結論。
 外の世界は、僕が思っていたよりもずっとずっと恐ろしかった。
 はっきり言って、僕は舐めていたのだ。一応、僕は過去にあの世界で過ごしていた時期があった。だから、今回もきっとうまくいくさ。あの頃を踏襲すればなんの問題はないさ。そんな風に思ってた。けど違った。現実はもっと厳しかった。
 高い授業料だったと思う。けど、得た物が何も無かったわけじゃない。
 僕は今回の事件から大事なことを学べた。本質的に人が変わるのは不可能、ということだ。
 僕みたいな根っからの社会不適合者が外へ出ようったって、どだい無理な話なのである。人間が己の力のみで空を飛ぶことが出来ないように、ひきこもりもまた外へ出ることが出来ない。ずっと、ずっと、自分を、社会を、全てを憎みながら生きていくしかないのだ。
 僕はにやりと暗い笑みを浮かべた。泣きそうになるのを誤魔化すように。
 ラジオ体操を終えた。
 身体が大きくぶるりと震える。体操を一通りこなしたってのに、身体は全然温まってなかった。
 このボロアパートは素晴らしいくらいに通気性がいいので、部屋が極寒の地方の如し温度を保っているのが原因だろう。そのくせ夏はジメジメしてて暑いのだからたまったもんじゃない。この不良物件め。
 僕はそそくさとコタツの中に滑り込んだ。文明の機器だけが、僕にぬくもりをくれる。じんわりと身体に熱が伝わっていくのがわかった。両手をコタツに入れて、指が十分に動けるのを待つ。
 数十秒後、既に立ち上がってるであろうノートパソコンを目の前に置いて、蓋を開けるように開いた。
 そしてそのまま――固まった。
 僕は目を剥くようにしてデスクトップに映る文字を凝視する。念のために何度も目を擦って見間違いじゃないかを確認したが、結果は変わらなかった。ノートパソコンは無機質に残酷な事実を告げている。


176 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:05:38.53 ID:Icnw6+Bl
 そうか、もう、そんな時期になるのか。
 諦観にも似た気持ちが、僕の中に充満する。いつものことながら、これだけは慣れない。ビックリ箱だとわかっていても、開けたらやっぱり驚いてしまうのと一緒だ。
 しかしながら、驚愕はそれだけでは終わらなかった。
 突然だった。
 ドンドン、とノックにしては些か激しすぎる音が、突如室内を揺るがしたのだ。
 タイミングがタイミングだったので、文字通り僕は飛び上がった。それも婦女子のように、キャアッとか気持ち悪い悲鳴をあげながら。
 何事だ?
 落ち着きなく視線を迷子させて、漸く音の発生源であるドアに辿り着く。間違っても、こんこんと手の甲で優しくノックする感じではない。ガンガン、とまるでドアを殴り破らんばかりの勢いである。
 いきなり訪れたホラー映画よろしくのシチュエーションに、僕は言うまでもなく恐怖した。先程から脳裏にちらついているのは、あの凸凹コンビの男達だ。
 もしや、アイツらがあのあと僕の居場所を突き止めて、三日前の報復に来たのでは、と嫌な想像が頭の中で膨らむ。
 膨張は止まることを知らず、爆発寸前まで膨れ上がり、果てには、自分が惨殺された事件を朝のニュースで取り上げているところまで飛んでいく始末だった。
 先日、都内某所のアパートで二十七歳無職男性が殺害される事件が起きました、とファンデーションを塗りたくった女性アナウンサーが概要を淡々と告げている。
 スタジオのコメンテーターは、本人の防犯管理の怠慢じゃないの? と辛辣なコメントを吐いていた。おいおい少しは肩入れしてくれよ。これじゃあ、お茶の間の同情は得られそうに無いじゃないか。
 ドアを叩く音で妄想から引きずり出される。ノックは依然として休みなく続いていた。
 正直に告白しよう。僕はもう限界だった。ドアを叩かれる度に僕の精神は磨耗し、無くなるまで擦り切れてしまいそうだ。
 僕はすっかりまいってしまい、ガクガクと情けなく身体を揺すり、呆然と叩かれるドアを見つめることしかできなかった。
 そして緊張が最高潮に達し、遂に死さえも覚悟した時、
「はやく開けてよー」
 と、妙に子供っぽい声が室内に響き渡ったのだった。
「…………」
 しばらく後、僕は無言のまま両手で顔を隠した。無論、恥じているのだ。おそらく、今の僕は耳まで真っ赤になっているだろう。ああ恥ずかしい、恥ずかしくてしょうがない。自害したくなるほど恥ずかしかった。


177 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:08:59.18 ID:Icnw6+Bl
 なんで僕はあんなにも怯えていたのだろうか。穴があったら入りたいよ。でも穴がない。コタツしかない。仕方がないのでコタツに入る。暑い。顔だけ出す。今の僕ってコタツが甲羅の亀みたいだなー、なんて軽く現実逃避。
 ハァー、と長い息を吐き出して、胸の動悸が収まるのを待つ。
 そもそも冷静に考えれば、この部屋を訪れる人間など新聞の勧誘と受信料の催促を除けば、ひきこもりである僕の元に食料品やら娯楽品やらを届けにきてくれる宅急便のお兄さんぐらいしかいない。
 そして、お兄さん以外に此処を訪れる人物といえば――
 開けろー、と相変わらず取り立てじみた声は続いている。
 その声を聞いて、僕は何度目になるかわからない嘆息を吐いた。
 マジでどうしよう。ぶっちゃけ、今は誰にも会いたくない気分なので、このまま無視してしまいたかった。それに、今の僕はひどく傷ついてしまっている。彼女の相手をする余裕など、微塵も無いのだ。
 が、そういう訳にもいかないのだろう。彼女には、決して少なくない恩義もあるし、そしてなにより、ひきこもりである僕には居留守という裏技が使えない。
 仕方ないか。
 僕はパソコンを折り畳むと、コタツから出て、のそりと立ち上がった。いやだいやだ会いたくない会いたくないとゴネている重い足を引きずるようにして、玄関へと向かっていく。
 ドンドンと未だうるさいドアの鍵を解錠すると、自分の視界分を確保出来るだけの、ほんの少しの隙間だけ開けた。
 一瞬だった。
 突っ掛けを履いた白い足が、ドアの隙間をぬうようにして蛇の如くスルリと伸びてきたのだ。僕は慌ててドアを閉めようとしたが、時既に遅し。足が完璧にドアをブロックしていて、閉めることが出来ない。
 おいおい、やってる手口がマジで取り立て屋とか訪問販売とかと同じじゃないっすか。
「やっと開けてくれたかー。出るのがちょっと遅いぞヒロシ」
 隙間から漏れ出てくる声に合わせて、白い足がピョコピョコと動いた。その動きがあまりにも複雑軽快なので、まるでその足が、本体とは独立した別の生き物のように感じられる。
「な、なんの、ようですか?」
 僕はひねり出すようにして声を出した。誰かと話すのは三日振りだったので、自然とくぐもった声になってしまう。相変わらずの不快ボイスだ。


178 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:12:00.22 ID:Icnw6+Bl
 が、彼女はそんなの気に留めた風でもなく、
「何のようですかって、そんなつれないこと言わないでよ。用が無かったらあたしは来ちゃいけないんかい」
 と、軽く僕を非難した。
 そうですよ、と言いたかったが我慢。
 彼女は甲高い声で続けた。
「生存確認にきたんだよ。ほら、お姉ちゃん最近ヒロシに構ってあげられなかったじゃん? あたしと会えなくてヒロシが夜な夜な泣いていることを思うと、あたしも胸が張り裂けそうでさ。
 仕事で疲れてクタクタなのをがまんして、こうして会いにきたってわけ」
 弁明するまでもないと思うが、僕は決して夜な夜な泣いてなんかいない。嘘、ひとりでめそめそ泣くときは結構あるけど、彼女のために泣いたことは一回たりとも無い。
「べ、別に、頼んでないですし」
 まだ癒えきっていない傷がそうさせたのか。僕の声は意図せずともぶっきらぼうで粗暴なものになった。
「と、いうか、もう、来ないでくださいよ。め、迷惑なんすよ。ほ、ほんとうに。僕の、ことを気遣って、くれているんなら、ほっといてください。僕には、それが、一番いい」
「えっ……」
「生存確認と、やらに、きき、来たんでしょ。僕が生きてるって、わ、わかったんだから、早く帰って、ください。僕は、忙しいんで。やることとか、あるし……」
 僕の呟きを最後に、長い沈黙が訪れた。その沈黙に揺らぎを与えるように、彼女がポツリと言った。
「そんな風に言わなくたっていいじゃん……」
 言い過ぎた、と思った。彼女が僕のことを心配しているのは紛れもない事実だというのに、今の言い方はないだろう。
「お姉ちゃん、ほんとに心配してるんだからね」
 白い足が、落ち込んだようにしゅんと頭を垂れた。履いている突っ掛けは脱げそうになっている。
「ヒロシはひとりだから、もし怪我とか病気とかで危ない状況になってても誰も気づけないし、それで誰も気づけないまま、最後に野垂れ死んだりしちゃったら、そんなことになったら、あたし……」
 謝ろう、そうは思うけど、口は閉ざしてばかりで開こうとしない。照れてるとかじゃなく、単純に謝罪の言葉が思い浮かばないのだ。人に謝るという経験が、僕には圧倒的に不足していた。
 こういう時って、なんて言えばいいんだろう。わからない。
 けど、言わなくちゃいけない。なんでもいい。アドリブで適当に繋げてけ。とにかく、今は一刻でも早く彼女に声を届けるんだ。


179 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:15:45.32 ID:Icnw6+Bl
 そう思って口を開きかけ、
「そんなことになっちゃったら……この部屋が事故物件扱いになって、ただでさえ低い家賃がさらに下がっちゃうじゃない。
 そんなことになったら、あたしの……あたしのささやかな副収入が……うぅ。今、欲しい服とかバッグとかあるのに……」
 って、そっちの心配かよ! 僕は心の中で鋭いツッコミをいれた。
 いやいやここは常識的に考えて、もしヒロシが死んじゃったりしたらあたしもう生きていけない好き好き大好き愛してるそうなったらあなたを追ってあたしも死ぬわー的なセリフを言うべきだったでしょ。空気読んでくださいよ空気。
 ああやっぱり謝る必要なんてなかったね。なんだよ家賃って。僕より家賃の方が優先順位が上なのかよっ。そんなわけないだ――いや……まあ、そうか、うん。
 普通、そうだよね。僕、ひきこもりニートだしね。社会の屑だしね。どう考えても家賃>僕だよね。ごめんなさい、僕自惚れてました。
 ああ、なんかいい感じに死にたくなってきたぞ。今の僕ならサクッと死ねる気がする。どうしよう、このあと自殺でもしよっかな。まあ、どうせ出来ないんだけどね。……死にたい。
 段々とダウナーになっていく僕とは対照的に、てゆうかお姉ちゃん最近ねー、とか聞いてもいないのに嬉々として自分の近況を語り始める彼女。相変わらず切り替え早いっすね。ついていけないっすよ正直。
 鬱状態に突入した僕には、彼女の話が全く耳に入らなかった。言葉は右から左にだらだら流れていく。まあ、今は好きに喋らせておこう。
 ところで、先程からドアの向こうの彼女は何かにつけて僕の姉を自称しているが、誤解しないでほしい。僕と彼女の間に血の繋がりは一滴だってない。
 さらに言えば従姉妹とか遠い親戚って訳でもない。はっきり言って他人である。彼女が勝手に僕のお姉ちゃんを名乗っているに過ぎない。
 余談になるけどさ、血の繋がらない姉って邪道もいいとこだよね。そもそも近親相姦の醍醐味ってのは血縁者同士が契りを結んでしまうという禁忌、その背徳感がよいのであって、義姉や義妹、ましてや自称姉ごときではそのカタルシスを――
 ヒロシ、と僕を呼ぶ声で思考が中断された。
 出来ればまだ自身の近親相姦観を語っていたかったのだが、仕方ない。この話はまた機会があるときにでもゆっくり。
 なんですか、と僕はおざなりに返事をした。


180 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:19:26.67 ID:Icnw6+Bl
「いやー、さっきから言おうと思ってたんだけどさ、タイミングを逃しちゃって。さて、ヒロシくん。そろそろお姉ちゃんを中に入れてくれないかな? 真冬の深夜は寒くてしょうがねえのですよ」
 さむさむ、と白い足がブルブルと震えた。
 いやー、それにしても本当に器用な足ですね。素直に感心できる。テニスボールくらいなら簡単に掴めてしまいそうだ。僕も鍛えよっかな足。
「……お姉ちゃん、無関心ってれっきとした暴力だと思うの」
 拗ねたような口調で、ブツブツ文句を垂れる彼女。
 けど無関心ほど優しい暴力はないですよ、と経験者は語ってみる。
「嗚呼、こんな仕打ちってないよ。あたしがこんなにもヒロシのことを想ってるってのに、部屋にすら入れてもらえないなんて。お姉ちゃん寂しいなー悲しいなー」
 それを言われると僕も弱い。ちょっと、やりすぎちゃったかな。彼女が可哀想になってきて、僕は様子を見るために少しだけドアを開いた。
「ほら、見てよ。お手々がかじかんで真っ赤になってる。それに身体も冷えて鳥肌だらけだし、たぶん唇も真っ青だよ。寒いなー、寒いなー。このままあたしは凍死しちゃうのかなー」
 もう少しだけドアを開いた。
「実を言うと、今お姉ちゃんスッゴくエッチなカッコをしてます」
 思いっきりドアを閉めた。
「んぎゃっ」
 尻尾を踏まれた猫みたいな声を出して、扉に挟まれた足が悶える。
「いったーい! なんで急にドアを閉めるのっ。今のところはむしろ血走ったいやらしい目を爛々とさせながら光速でドアを開けるべき場面でしょうがっ」
「すんません。本当に興味ないんで」
「まさかのガチ謝罪!? 止めて止めて。そういうの止めて。あたしがむなしくなるから。てゆーか、ちゃっかりヒロシの吃り治ってるしっ。どんだけ冷めてんのよ!」
 ムキー、と白い足が怒りでのたうちまわった。加えて鬼畜ドSリョナ好きー、とか叫ぶもんだから、たまったもんじゃない。通行人が聞いたらあらぬ誤解を受けてしまうだろう。ひきこもりで変態とか最悪だよ。
 ああ、もう、わかりました。わかりましたよ。入れればいいんでしょ入れれば。
 僕は眉間を指で軽く揉んで盛大な溜め息を吐いてから、黙ってドアを押し開け、漸く彼女と対峙した。


181 名前:ひきこもり大戦記[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 17:23:43.62 ID:Icnw6+Bl
 そこに居たのは、小さな女の子だった。
 身長は間違いなく百五十センチを切っているだろう。僕より頭一つ分以上は小さいく、今も精一杯首を曲げて見上げている状態だ。
 小動物然としたくりくりの丸い瞳が小さな顔に収まっており、栗色に染めた髪にはゆるいパーマがかけられていた。
 美人というよりも可愛いといったベクトルではあるが、それなりに容姿は整っているほうだ。
 着用しているのは子供っぽい桃色のパジャマで、その上には学生が着ているような小麦色のカーディガンが羽織られていた。当然のことながら、エッチなカッコとやらはしていない。
 どう見ても中学生、いや、見ようによっては小学生にも見える外見をしているが騙されることなかれ。その実、今年で三十路である。
 それが、僕を除くこのボロアパート唯一の住人であり、また持ち主でもある人物。大家さんであった。
 と、僕はそこで異変に気づく。
 大家さんが壊れてしまった時計のようにピクリとも動かないのだ。呆けたような顔をして(もし口に出したら怒るだろうがまさにマヌケといった表情で)丸い瞳でまじまじと僕のことを見つめているだけだった。
 見た目はロリっ娘でも一応は女性。なんとなく気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「ど、どうしたんですか?」
 僕の声に反応して、大家さんは漸く我に返ったみたいだった。弾かれたように目を見開いて、ううんなんでもないのと顔の前で手を振った。
「そ、そいじゃあ、お邪魔しまするかな」
 妙な日本語を呟きながら、ドアをおさえている僕の腕の下をアーチのようにくぐって、そそくさと室内に入っていった。履いていた突っ掛けは、途中で乱雑に放り投げている。行儀悪いなあ。
 僕は建て付けの悪い木造ドアを閉めて施錠し、ついでに大家さんの突っ掛けを玄関に綺麗に並べてから、先に入った彼女の後を追っていったのだった。
 胸の内から徐々に湧き上がり始めている、なんとも言えぬ違和感を無視して。


戻る 目次 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2011年10月21日 22:55
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。