三つの鎖 32 後編

690 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:11:14.19 ID:aDetRqKV
 僕は梓を探さなかった。
 向かう先は警察署。父の勤務先。
 父に、話すつもりだ。
 梓が、夏美ちゃんのお父さんを殺したこと。
 証拠は何も無い。父が信じてくれる保証も無い。
 でも、これ以外に方法は無い。
 もう、僕では梓を止められない。
 放っておけば、いずれ梓は同じ過ちを犯す。
 その時に犠牲になるのは誰だ。
 春子?夏美ちゃん?
 それとも、それ以外の誰か?
 どちらにしても、絶対に避けなければならない。
 僕は、結局何もできなかった。
 自首してほしいという僕の言葉を、梓は鼻で笑うだけだった。
 それでも、いつか分かってくれると信じていた。
 その結果が、今日の春子。
 もし僕が行かなければ、春子はどうなっていただろう。
 殺されたかもしれない。
 もう、迷ってはいられない。


691 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:13:37.60 ID:aDetRqKV
 父は悲しむだろう。失職するに違いない。僕も、学校にはいられない。人殺しの兄として、一生をすごさなければならない。
 夏美ちゃんとの関係も、終わりだろう。
 きっと僕を憎む。恨む。
 それは仕方がない。それだけのことを、僕はした。
 梓が夏美ちゃんを階段から突き落としたのを黙っていた。
 梓が夏美ちゃんのお父さんの命を奪ったのを知っていて、プロポーズした。
 もしかしたら、春子との関係も知られるかもしれない。警察に捕まった梓がしゃべる可能性はある。
 それでも、もう迷ってはいられない。
 僕では梓を止められない。いずれ、梓は僕の大切な人を傷つける。
 それだけは避けなくてはいけない。
 例え、失い難いものを失っても。
 警察署の受付で、父を呼んでもらう。
 待合室のソファーで父が来るのをぼんやりと待っていた。
 父さんは信じてくれるだろうか。


692 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:15:46.46 ID:aDetRqKV
 証拠は何も無い。
 昔、父も柔道をしていたらしい。その父が信じられるだろうか。
 梓のような華奢な少女が、大の男を素手で殺傷したなんて。
 「幸一」
 物思いにふけっている僕に父が声をかけた。
 「何かあったのか」
 父はいつものように無表情に僕を見つめている。その双眸だけが鋭い光を放っている。
 「父さん。話したいことがある」
 何も言わずに僕の前に座る父。
 「信じられない事かもしれないけど、聞いて欲しい」
 僕の声が震えているの、嫌でも自覚した。
 父は手に持った缶ジュースを僕に差し出した。冷たい緑茶。
 僕は礼を言って受け取り、一口飲んだ。
 冷たくておいしい。
 「落ち着いて話せ」
 父の言葉に、僕は頷いた。
 胸が痛む。父に、どのように話せばいいのだろう。
 娘が、父の同僚を殺傷し、息子の婚約者の父親を殺害したなんて。


693 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:18:06.01 ID:aDetRqKV
 父はずっと真面目に勤務してきた。
 柔道の稽古で同僚の人から父の事をよく聞いた。
 真面目で優秀な警察官だと。
 その父の娘が、犯罪者に、それも人殺しになった。
 「幸一?」
 父の言葉に僕は顔を上げた。
 脳裏に夏美ちゃんと春子が浮かんだ。
 もう、迷ってはいられない。
 「梓が、人を殺した」
 僕の言葉に父は何の動揺も見せなかった。
 「夏美ちゃんのお父さんを殺したと僕に言った。言ってはいないけど、警察官も殺傷したと思う」
 父は黙って話を聞いてくれた。
 「お父さんは信じられないかもしれないけど、梓は武道の天才だ。僕なんて、足元にも及ばない。今でも意識不明で入院している警察官も強いけど、梓なら簡単に勝てる」
 梓が合気道を始めたきっかけは、おばさんから聞いた。塞ぎ込む様になった梓を見かねて、春子の通っていた合気道の教室に連れて行ったらしい。


694 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:20:25.66 ID:aDetRqKV
 塞ぎ込んでいた原因は、きっと僕だ。
 僕が柔道にのめりこんで、梓を放置していたから。
 今なら思い出せる。柔道の練習を終えて帰ってきたとき、梓はいつも玄関で迎えてくれた。
 両親がいなくても、梓はいてくれた。梓が作ったご飯を食べ、梓が入れたお風呂に入り、梓が干してくれた布団で寝た。
 食事中、梓は一生懸命僕に話しかけてくれた。
それなのに、僕は何も言わなかった。ご飯を食べてお風呂に入ったら、すぐに寝ていた。
 春子も僕に言っていた。梓を心配だと。注意して見守って欲しいって僕に言った。
 僕は、何もしなかった。
 結局、僕が招いた事なのか。
 「幸一」
 何も言わなかった父が口を開いた。
 相変わらずの無表情。動揺しているようには見えない。
 「証拠はあるのか」
 「無い。梓がそう言った」


695 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:22:29.49 ID:aDetRqKV
 父の表情が微かに変化した気がした。どんな表情なのか、僕には分からなかった。
 「結論から言う。あの事件に関係する限り、梓が人を殺した可能性は無い」
 父の言葉が、どこか遠い。
 「梓の言葉に惑わされるな」
 父は、信じてくれなかった。
 当然といえば当然なのかもしれない。
 実の娘が、それも華奢な少女である梓が、大の男たちを素手で殺傷するなど、信じられないほうが当たり前なのかもしれない。
 「加原さん!」
 振り向くと、岡田さんがいた。
 父と何か話している岡田さん。
 「幸一。このことについてはまた今度話そう」
 それだけ言って父は岡田さんと去って行った。
 僕は、立ち上がることができなかった。

 公園で私はぼんやりとしていた。
 太陽が沈み、公園は暗かった。
 誰もいない公園。人通りの少ない公園は、何の物音もしない。


696 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:24:38.25 ID:aDetRqKV
 今、兄さんはどうしているのだろう。
 兄さんが柔道に夢中になっていた頃、私は兄さんを追っていた。
 そして、兄さんを幻の鎖で縛り付けてからは、兄さんが私を追ってくれた。
 兄さんが夏美と付き合うようになってからは、私が兄さんを追っていた。
 そして今、再び兄さんは私を追っている。
 なんて皮肉。
 兄さん、遅いわね。どうしているのかしら。
 やっぱり、夏美のあの伝言だけじゃ分かってくれないかしら。
 そんな事を考えていると、公園の入り口から一人の男が入ってきた。
 兄さん。
 私は手を振った。兄さんは気がついたのか、まっすぐに近づいてくる。
 兄さんは無表情だけど、悲愴な雰囲気を漂わせていた。
 微かに胸が痛む。兄さんをそこまで苦しめているのは、紛れも無く私。
 「遅かったわね」
 私の言葉に兄さんは一瞬だけ悲しそうな表情をした。
 「梓」


697 名前:三つの鎖 32 後編  ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/05/23(月) 22:26:39.59 ID:aDetRqKV
 兄さんは私の名前を呼んだ。
 それきり無言で私を見つめる。
 無表情な兄さん。それなのに、瞳だけが悲しそうな光をたたえている。
 やがて兄さんは静かに話し始めた。
 「お願いだ。これ以上、誰も殺さないで欲しい。僕と夏美ちゃんの仲を、認めて欲しい」
 いつもと違う。
 自首して欲しいとは言わない。なぜか。
 「もしかして、警察によっていた?」
 私の言葉に兄さんの瞳の色が微かに変化した気がした。
 そうなんだ。だから来るのが遅かったんだ。
 胸が痛む。
 結局、兄さんは私を信じてくれなかった。
 「お父さん、信じてくれなかったのでしょう」
 兄さんは何も言わない。でも、兄さんの状況は理解した。
 そして私の状況も理解した。私は今、兄さんに対して絶対的に優位に立っている。
 でも、私が説得されるはずがない事も兄さんは理解している。


700 名前:名無しさん@ピンキー[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 23:33:48.62 ID:281yvxMP
 「兄さんは分かっているでしょ?だったら私の言う事を聞いて」
 微かにうつむく兄さん。
 私は自分の優位を確信した。
 「夏美と別れて。私以外の女に近づかないで。一緒にいてくれるだけでいい。そうしてくれたら、他の人を傷つけない」
 私にとって相当な譲歩。それなのに、兄さんは辛そうにうつむくだけ。
 「断ったら、分かっているでしょ?」
 「夏美ちゃんや春子を、傷つけるのか」
 「うんうん。違うわ。傷つけるんじゃない。殺すの」
 兄さんは顔を上げた。
 血走った目で、私を見つめている。
 兄さんは一歩私に近づいた。
 「本当なのか」
 「何が」
 兄さんはもう一歩近づいた。
 「本当に二人を殺すのか」
 「二人だけじゃないわ。兄さんに近づく女は全員殺す」
 さらに兄さんは近づいた。
 私の目の前で、兄さんは私を見下ろした。歯を食いしばり血走った目で私を見下ろす。
 兄さんは震える両手を私の両肩に置いた。
 私に向けられる敵意と害意。兄さんの両手は震えていた。
 「私を殺すの?」
 びくりと兄さんは震えた。
 「兄さんになら殺されてもいい」
 「梓」
 「だって、兄さんが私を殺したら、兄さんは私を忘れない。兄さんの心の中で、私はずっと生きていける。兄さんがどの女と一緒にいても、私のことを忘れることができない」
 兄さんは震える両手で私の首を覆った。
 「そのまま思い切り力を入れれば、私を殺せるわ」
 血走った目。荒い息。震える両手。
 「どうしたの?夏美や春子が大切じゃないの?警察は動かない。だったら、兄さんがけりをつけるしかないのよ?」
 私は本気だった。兄さんにだったら殺されてもいい。
 そして分かっていた。兄さんに、人を殺せるはずないと。
 兄さんは私の首から両手を離した。崩れ落ち、膝を突く。
 むせながら、涙を流す兄さん。
 「兄さん。無理しないで」
 私は兄さんの背中をさすった。
 「兄さんに人殺しなんて無理よ」
 口元を押さえ、震える兄さん。
 私は勝利を確信した。勝ったと思った。
 「立てる?」
 兄さんは立ち上がった。微かに震える足元。
 「私のものになってくれる?」
 兄さんは視線を逸らさなかった。
 「断る」
 私は驚いた。
 「断れば、どうなるか分かっている?」
 「止める」
 兄さんはそう言って私を見下ろした。
 迷いの無い、力強い視線が私を射抜く。
 「僕が梓を、止める」
 私は間違っていた。
 結局、どんな事をしても兄さんは私のものにならなかった。
 兄さんは追い詰められていた。
 大切な人を人質にとられ、お父さんに本当のことを告げても信じてもらえない。
 家族を大切にする兄さんにとって、お父さんに私のことを報告するのはどれだけ辛かったのだろう。そして、そのことを信じてもらえなかったのはどれだけ辛かったのだろう。
 そして、兄さんは私を殺そうとしてできなかった。
 それぐらい兄さんは追い詰められていた。
 それでも、兄さんは屈しなかった。
 私を止めると言う。
 ここまで辛くても屈しない理由。
 夏美。


701 名前:名無しさん@ピンキー[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 23:34:26.13 ID:281yvxMP
 全身に悪寒にも似た熱が走る。
 許せない。
 思い知らせてやる。
 この場を去ろうとする私の前に、兄さんは立ちはだかった。
 「どいて」
 「どこに行く」
 「分かっているでしょ。夏見と春子の場所によ」
 「・・・殺しに行くのか」
 私は何も言わなかった。兄さんは私の沈黙を肯定と捕らえたようだ。
 兄さんは軽く両足を開き、両手を胸の前に構えた。拳は握らず、手は軽く開いている。
 「行かせない」
 兄さんは私を睨み付けた。
 血を分けた妹を見る視線じゃない。
 胸が、痛い。
 兄さんにそんな風に見られるのが、辛い。
 分かっている。悪いのは私。
 兄さんは一歩踏み出し私の両手を掴もうとした。
 私はそれは避け、兄さんの襟を掴み投げた。
 公園の地面に叩きつける。兄さんは受身を取り、すばやく立ち上がり私と距離を置いた。
 鋭い瞳で私を見つめる兄さん。
 胸が、痛い。

 荒れた部屋の中で、私は泣き続けていた。
 梓ちゃんに殺されるかもしれないという恐怖。
 そんな状況で身を挺して私を守ってくれた幸一くん。
 いったい、何がいけなかったのだろう。
 少しでも耕平君に心惹かれた罰なのだろうか。
 幸一くん、大丈夫かな。
 大丈夫なはずがない。きっと、梓ちゃんともめている。
 助けてあげないと。
 そう思うのに、足が動かない。
 もし幸一くんが来てくれなかったら、私、どうなっていただろう。
 どれだけ一緒にいた時間が長くても、私と梓ちゃんは所詮他人なのを私は思い知らされた。
 だって、梓ちゃんは本当に私を殺そうとしていた。
 私は、何があっても梓ちゃんを殺せないと思う。
 梓ちゃんは違った。
 私は信じていなかった。梓ちゃんが夏美ちゃんのお父さんを殺したなんて。
 何の証拠も無いし、直接夏美ちゃんを狙わなかった理由も漠然としている。
 でも、今なら信じられる。
 梓ちゃんが、殺したと。
 幸一くんの姿が脳裏に浮かぶ。
 お願い。無事でいて。
 死なないで。

 腰をかけ、兄さんを投げ飛ばす。
 受身も取れずに兄さんはしたたかに地面に叩きつけられた。
 どれだけ投げられても、兄さんは立ち向かってきた。
 でも、これで終わり。
 兄さんは荒い息をつくだけで立ち上がってこない。
 あれだけ叩きつけられたら、どんな人間でももう立てない。
 兄さんだって分かっていたはず。兄さんでは私に勝てないって。
 それなのに、兄さんは私に立ち向かった。
 絶対に不可能と分かっていても、諦められない。
 愚かだとは思わない。だって、私も同じ。私も兄さんを諦められない。
 結局、私と兄さんは同じ。
 同じ血を分けた兄妹。
 人間としての根本は異なるのに、どうでもいいところばかり似る。
 私は笑った。笑うしかなかった。
 兄さんは立ち上がってこない。立ち上がれない。
 私は地面に横たわる兄さんに背を向けた。


702 名前:名無しさん@ピンキー[sage] 投稿日:2011/05/23(月) 23:34:54.99 ID:281yvxMP
 歩こうとした私の足に、何かが引っかかる。
 兄さんが私の足を掴んでいた。震える手で、私の足を必死に掴んでいる。
 痛くもかゆくも無い。私は振り払おうとして、止めた。
 兄さんは乱れる息で必死に喋ろうとしていた。
 「・・・従う・・・」
 泥と汚れた顔を上げて、兄さんは言った。
 「梓に、従う」
 今にも泣きそうで、疲れ切った表情の兄さん。
 「だから、殺さないで」
 かすれた声で兄さんは必死に懇願した。
 「これ以上、殺さないで」
 兄さんの頬を涙が伝って落ちた。

 お兄さんから電話があってから、ずいぶん時間が過ぎた。
 私は携帯電話を前にぼんやりとしていた。
 お兄さん、梓と何があったのだろう。
 梓は電話で泣いていた。
 何で私から兄さんを奪うのと。
 何で私じゃなくて夏美なのと。
 私は、何も言えなかった。
 言う資格は無かった。
 だって、私が梓からお兄さんを奪ったのは、紛れも無い事実。
 そして、お兄さんと別れるつもりも無かった。
 お兄さんを好きだから。
 お兄さんを愛したいから。
 結局、梓はお兄さんへの伝言を託して電話を切った。
 梓、お兄さんといるのかな。
 何を話しているのだろう。
 二人は仲直りして欲しい。
 梓は私の大切な友達で、お兄さんは私の愛しい人だから。


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最終更新:2011年05月27日 20:37
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