三つの鎖 32 前編

263 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:51:17.60 ID:jYjLVp+X
三つの鎖 32

 授業が終わり、生徒でごった返す靴箱を出たところに夏美ちゃんはいた。
 僕に気がついた夏美ちゃんが笑顔で手をふってくれた。
 急いで靴を履き替え、人をかき分けて夏美ちゃんの傍による。
 「待たせてごめん」
 「いえ、私も今来たところです」
 二人で並んで学校を出る。
 「お兄さん、大きいですからすぐに分かりました。私は小さいですから、ちょっと羨ましいです」
 そう言ってにっこり笑う夏美ちゃん。笑顔がまぶしい。
 二人で並んで他愛もない事を話しながらゆっくり歩く。
 目的地は夏美ちゃんの家。
 お邪魔すると約束していた。
 夏美ちゃんの小さな手が僕の手を握る。
 僕はそっと握り返した。

 夏美ちゃんの家で二人でご飯を作る。僕は肉じゃがの作り方を教えた。
 悪戦苦闘しながらも夏美ちゃんは何とか作り上げた。
 二人で味見する。味は悪くなかった。
 以前より確実に上達している。
 「いつかお兄さんにおいしいって言わせます」
 そう言って夏美ちゃんは微笑んだ。
 影のない明るい笑顔。笑いかけられるだけで泣きそうな気持ちになる。
 胸に湧き上がる不安。
 僕はこの笑顔を守れるのだろうか。
 「お兄さん?」
 不思議そうに僕を見上げる夏美ちゃん。左手の薬指で銀の指輪が鈍い光を放っている。
 気がつけば僕は夏美ちゃんを抱きしめた。
 腕を背中に回し抱きしめる。
 小さな背中。
 夏美ちゃんは何も言わずに抱きしめられるがままでいてくれた。
 自分が何をしているか漸く気がついた。
 「ご、ごめん」
 手を離そうとしたところを夏美ちゃんの手がそっと押さえる。
 夏美ちゃんも僕の背中に腕をまわして抱きしめてくれた。
 それだけの事で信じられないほど安心してしまう。
 「お兄さん。大丈夫ですか?」
 心配そうに僕を見上げる夏美ちゃん。
 「大丈夫だよ。ありがとう」
 夏美ちゃんの頭をそっと抱きしめる。
 「お兄さん、何だか不安そうです」
 夏美ちゃんの言葉が胸に突き刺さる。
 脳裏に浮かぶのは春子と梓。
 「本当に大丈夫ですか?」
 大丈夫、ではない。
 二人きりのとき、梓は泣いている。
 僕の事を好きといい、夏美ちゃんと別れてと言う。
 春子もそう。今日も話を聞いてくれなかった。
 僕が夏美ちゃんにプロポーズした事を、どうしても聞いてくれない。
 「お兄さん?」
 不安そうに僕を見上げる夏美ちゃん。
 僕は抱きしめる腕にわずかに力を込めた。
 「大丈夫」
 家族の絆と夏美ちゃんとの絆のどちらかを選ばなくてはいけないなら、僕は夏美ちゃんとの絆を選ぶ。
 例え梓と春子との絆を失っても。
 「お兄さん。少し痛いです」
 微かに身じろぎする夏美ちゃん。
 僕は慌てて腕を離した。
 「ごめん」
 「いえ。大丈夫です」


264 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:51:52.76 ID:jYjLVp+X
 夏美ちゃんはまっすぐに僕を見上げた。
 信じられないほど澄んだ瞳が僕を射抜く。
 胸が苦しい。
 たくさんの事を隠している。
 どれも言えない。
 言えば夏美ちゃんを悲しませる。
 いつまで黙らなくてはいけないのだろう。
 夏美ちゃんと一緒にいる限り、秘密にしなければいけない。
 それが辛い。
 「お兄さん?」
 不安そうに僕を見上げる夏美ちゃん。
 澄んだ瞳に僕が映る。
 いつも通りの無表情だけど、微かに辛そうな顔。
 「何でもないよ」
 僕は無理やり笑顔を作った。
 絶対に知られてはいけない。
 僕は夏美ちゃんから視線を外した。
 夏美ちゃんの澄んだ瞳に見つめられるのを耐えられなかった。
 「お兄さん」
 頬に柔らかくて温かい感触。
 夏美ちゃんが僕の頬に手を添えていた。
 精いっぱい背伸びして僕の頬を撫でてくれる。
 「言いたくないなら何も聞きません。私、お兄さんを信じています。でも、黙っているのが辛いなら、遠慮しないでください」
 どこまでも澄んだ瞳。
 夏美ちゃんの手に僕の手を重ねる。
 絶対に守る。例え何があっても。どんな手段を用いても。
 「お兄さん。お時間は大丈夫ですか?」
 僕は時計を見た。そろそろ帰らないといけない時間。
 今日は梓が食事当番の日。きっと、今頃梓は晩御飯を作ってくれている。
 遅れるわけにはいかない。
 「そうだね。申し訳ないけどそろそろ帰るよ」
 名残惜しい。もっと夏美ちゃんと一緒にいたい。
 でも、今は帰らなくてはいけない。
 夏美ちゃんはくすりと笑った。
 「夏美ちゃん?どうしたの?」
 「お兄さん、すごく寂しそうな顔をしています」
 顔が熱くなる。
 そんなに寂しそうな表情をしていたのだろうか。
 「私も寂しいです」
 笑いながらそう言う夏美ちゃん。全然そんな風に見えない。
 「玄関まで送ります」
 そう言って夏美ちゃんは立ち上がって僕の鞄を手にした。
 「僕が持つよ」
 「これぐらいさせてください」
 そんなやり取りをしながら玄関で靴を履いた。
 「どうぞ」
 「ありがとう」
 夏美ちゃんから鞄を受け取る。
 うつむく夏美ちゃん。どんな表情をしているのか、よく分からない。
 「あの」
 小さな声が僕に囁く。
 「その、目を閉じて少しかがんでくれますか」
 頬が熱くなるのが自分でも分かった。
 言われるままに目を閉じ少しかがむ。
 唇に暖かくて柔らかい感触。
 熱い何かが僕の唇をゆっくりと撫でる。
 夏美ちゃんの背中に腕を回し抱きしめる。
 そのまま抱き合う。
 どれぐらいそうしていたのだろう。しばらくして、僕たちは離れた。
 目を開けると恥ずかしそうに頬を染める夏美ちゃんが目に映る。


265 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:52:27.42 ID:jYjLVp+X
 愛おしい。思わず抱きしめそうになったのを我慢した。
 「お兄さん。今日は来てくれてありがとうございます。嬉しかったです」
 「僕も会えて嬉しかった」
 夏美ちゃんと視線が合う。恥ずかしそうな夏美ちゃん。
 頬が熱くなる。僕は視線を逸らした。
 「帰るよ。これ以上いたら、帰られなくなっちゃう」
 僕は夏美ちゃんに背を向けた。
 「さようなら。また明日」
 「はい。さようなら」
 僕は夏美ちゃんのマンションを出た。
 きっと梓は待っている。誰もいない夕方の道を早足に歩いた。
 鞄を持っていない手が心細い。
 夏美ちゃんの笑顔が脳裏に浮かぶ。
 微かに胸が痛む。
 僕は夏美ちゃんにたくさんの事を隠している。
 春子の事。梓の事。
 梓が、夏美ちゃんのお父さんを殺した事。
 その事を隠したまま夏美ちゃんと付き合って、結婚を申し込んだ。
 夏美ちゃんがそのことを知ったらどうなるのだろう。
 きっと嫌われる。婚約も解消になるに違いない。
 それも仕方が無い。それだけの事を僕は隠している。
 もう気がついている。夏美ちゃんと添い遂げる事はできない。
 夏美ちゃんとの結婚式を思い浮かべる事ができない。
 結婚式に梓や春子がいるのを想像できない。
 きっと僕と夏美ちゃんは別れる。
 警察は無能ではない。いずれ梓の凶行が明るみになる。
 でも、その日までは。
 夏美ちゃんのそばにいたい。
 不意に僕は笑ってしまった。春子の言うとおりだ。僕は夏美ちゃんを大切にするより、自分自身の願いを優先している。
 本当に夏美ちゃんを大切に思うなら、結婚を申し込んだりしてはいけない。
 別れるときに夏美ちゃんをより一層悲しませるだけ。
 確かに春子は僕のお姉さんだった。僕よりも僕のことを知っていた。
 春子は泣いているのだろうか。
 夏美ちゃんのマンションから僕の自宅までそれほど遠くない。
 僕の自宅の隣。春子の家。
 物心がついたときから何度もお邪魔した。
 僕と梓と春子の三人で数え切れないぐらい遊んだ。
 寂しい時や辛い時、春子はそばにいてくれた。
 何も言わずに抱きしめてくれた。
 そんな時間は、もう戻らない。
 春子の家が見えてくる。
 僕は眉をひそめた。
 物音が聞こえる。鎖を乱暴に引っ張るジャラジャラとした音。
 足音を殺して春子の家の門に近づく。
 夜でも分かる黒い影が蠢いている。
 シロだ。必死になって自分の鎖を外そうとしている。
 どういうことだろう。シロは賢くておとなしい。暴れたりするなんて無い。
 僕に気がついたのか、シロはくるりと僕のほうを振り向いた。何かを伝えるように僕にほえる。
 「どうした?」
 僕の質問にシロは僕の家を見上げた。
 視線の先。梓の部屋。明かりはついていない。
 リビングで料理を作って僕を待っているのだろうか。
 「梓がどうかしたの?」
 次にシロは春子の家を見上げた。
 視線の先。春子の部屋。明かりはついている。
 鳥肌が立つ。
 「梓が春子と一緒にいる?」
 シロは頷いた。
 「そして今よくない状況になっている?」
 シロは頷いた。


266 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:53:10.00 ID:jYjLVp+X
 僕は走り出した。
 春子の家の玄関に鍵はかかっていなかった。
 見覚えのある靴。
 梓の靴。
 僕は乱暴に靴を脱ぎ捨て階段を駆け上がった。
 何かを殴りつける音と共に梓の叫びが聞こえる。
 春子の部屋の扉を開けた。
 部屋の中はぐちゃぐちゃになっていた。
 そこに梓と春子がいた。
 梓は春子にまたがり春子を殴りつけていた。
 泣きながら殴りつけていた。
 ピクリとも動かない春子。
 「春子!!」
 僕は梓に体当たりした。
 梓は簡単に吹き飛ばされた。
 春子を抱きかかえる。信じられないほど軽い。
 春子の顔はほとんど脹れていなかった。ただ、どこからか血が流れていて白い頬が血で汚れていた。
 「春子!!しっかりして!!」
 僕の呼び声に春子は薄っすらと目を開けた。朦朧とした視線で僕を見上げる。
 「・・・こう・・・いち・・・くん・・・なの・・・?」
 喋るたびに辛そうに表情を歪める春子。
 「無理に喋らなくていい」
 春子は微かに頷いた。
 「兄さん。そこをどいて」
 震える声が僕に話しかける。
 梓がゆっくりと起き上がり僕と春子を見下ろした。
 「その女を離して」
 僕は首を横に振った。
 梓は唇を噛み締めて僕に一歩近づいた。
 「梓。何でこんな事を」
 梓の視線が春子を射抜く。信じられないほど冷たく暗い視線。
 それでも先ほどの狂乱が嘘のように梓は落ち着いていた。
 「その女が私たち兄妹を裏切ったからよ」
 怒りと憎しみに顔をゆがめ梓は吐き捨てるかのように言った。
 分からない。春子は梓に知られたといっていた。そのことで梓は春子に暴力を振るった。
 それが今になって突然春子に暴力を振るう理由はいったい何なのか。
 「理解できないって顔をしているわね」
 梓は春子を睨み付けた。春子はただ震えていた。
 「教えてあげるわ」
 「梓ちゃん。お願い」
 春子は震える声で懇願する。
 「その女はね、兄さんとの情事を撮影した動画を見ながら一人でしてたのよ」
 みるみる春子は蒼白になる。
 僕は春子の机を見た。ごなごなになったパソコンにディスプレイ。
 「浅ましい。許せない。汚らわしい。私の兄さんを穢すだけでは飽き足らず、そんな事に使うなんて」
 梓は吐き捨てるかのように言った。
 「兄さん。その女を離して」
 僕は首を横に振った。
 梓が拳を握り締めたのが分かった。その手は血まみれだった。
 次の瞬間、頭に衝撃が走った。
 スカートがはためき梓の細く白い素足が見えた。
 梓に蹴られたと、蹴られた後に気がついた。
 「どいて」
 無表情に梓はそう言った。
 春子は震えて僕にしがみつく。その表情は恐怖に歪んでいた。
 僕は首を横に振った。
 「どかないなら、夏美を殺すわ」
 なんでもないかのように梓はそう告げた。
 「夏美がどうなってもいいの?」
 心臓の鼓動がでたらめに聞こえる。


267 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:53:35.28 ID:jYjLVp+X
 梓は本気なのか。
 本気でそう言っているのか。
 「兄さんは婚約者を見捨てるの?」
 笑いながらそう言う梓。信じられないほど嬉しそうな笑顔。
 「分かっているでしょ?私なら簡単にできるわ。父と子、二人水入らずにしてあげるのもいいかもしれないわよ」
 梓の言葉に体が震える。
 禍々しい言葉。そしてその言葉を平然と話す梓。
 「でも一人だけこの世に残すのは可哀想ね。やっぱり両親といたいだろうし」
 梓は僕を見下ろして笑った。
 僕は春子を抱きしめたまま震えるしかなかった。春子のぬくもりが遠く感じる。
 「ねえ。どうなの?」
 梓が一歩僕に近づく。逃げ場所は無い。逃げる事もできない。
 僕は歯を食いしばって梓を見上げた。
 「断る」
 脅しに屈してはいけない。
 梓の瞳が奇妙な光を放つ。
 「そう言うと思った。兄さんはお人よしだもの」
 微笑む梓。その笑顔に鳥肌が立つ。
 「別にいいわよ。先に夏美を殺して、その後に春子を殺せばいいだけだもの」
 僕の腕の中の春子の震えが、少し大きくなった気がした。
 梓は僕たちを見下ろしながら笑った。
 「ねえ兄さん。このままだと春子も夏美も死ぬのよ?だったら夏美ぐらい助けたいと思わないの?」
 梓は屈んで僕の頬を撫でた。以前、梓が噛み千切った頬。傷は治ったはずなのに、鈍い痛みが走った。
 「ねえ。どうなの?」
 梓の顔が近い。
 嬉しそうに微笑む梓。
 僕を掴む春子の手に力がこもった気がした。
 「断る」
 「なんで?」
 不思議そうに梓は尋ねた。
 本当に不思議そうに。心底理解できていないかの様子。
 「ここで春子を渡しても、後で夏美ちゃんを殺せる」
 ここで春子を渡せば、少なくとも今は夏美ちゃんの命は助かるかもしれない。でも、どうなるかは梓次第。
 逆も同じ。春子を渡さなければ、少なくとも今は春子の命は助かるかもしれない。でも、それもどこまで続くかは梓次第。
 結局、脅しに耐えても屈服しても同じ。二人の命が危険にさらされる事に違いは無い。
 どちらでも同じなら、今この瞬間を守る。
 梓は僕を見下ろし続けた。僕は視線をそらさなかった。
 沈黙を破ったのは梓だった。
 「結局、兄さんは私のことをそう思っているんだ」
 その声は悲しげだった。
 梓は無表情に僕たちを見下ろしている。無表情そうに見えて、僅かに悲しみが混ざっている。どこかで見た事のある表情。それなのに、どこで見たのか思い出せない。
 胸が痛い。理由も分からないのに。
 「いいよ。私が兄さんを手に入れるには、まともな方法じゃ無理なのね」
 そう言って梓は笑った。笑っているのに、泣いているように見えた。
 「兄さん。私、夏美を殺すわ」
 梓は笑顔のまま告げた。
 「春子も殺す。兄さんに近づく女は、全員殺す」
 梓は一歩下がった。
 僕と梓に距離ができる。起き上がり、手を伸ばせば届く距離。
 その距離で、梓は僕を見下ろした。
 「そうすれば、兄さんに他の女は近づかない。兄さんも、他の女に近づかない。そうすれば、兄さんのそばにいる女は私だけになる。兄さんは私だけを見てくれる」
 梓は笑っていた。とても悲しそうに笑っていた。
 きっと梓も理解している。そんな事をしても、梓と僕が男女の仲になる事は無い。
 僕と梓は、永遠に兄と妹なのを。
 「梓。馬鹿なことはやめるんだ。そんな事をしても、僕は梓のものにならない」
 「いいよ。兄さんが私のものにならなくても。少なくとも、兄さんは他の女のところに行ったりしないわ。兄さんは優しいもの。私が他の女に危害を加える可能性があるなら、兄さんは他の女に近づいたりしない」
 「いずれ警察に捕まる」
 「そうかもしれない。でも、それまでは兄さんのそばにいられる」
そう言って梓は僕を見下ろした。
 真剣な瞳に強い感情を宿して、僕を見つめる。


268 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:54:15.88 ID:jYjLVp+X
 「兄さん。これが最後よ」
 梓の求めていることは、大体想像がついた。
 「他の女に近づかないで。私のものにならなくてもいい。そばにいて。そばにいさせて」
 拒否すれば、僕と梓は敵対するしかないことも理解していた。
 それでも、僕の応えは決まっていた。
 「断る」
 梓は無表情に僕を見下ろした。
 無表情なのに、泣いているように見えた。
 「そう」
 それだけ口にして、梓は部屋を出て行った。
 夏美ちゃんを殺しに行くのだろう。
 「春子。行ってくる」
 僕は春子をそっと離して立ち上がろうとしたけど、春子は僕を離さなかった。
 「春子?」
 春子は泣いていた。涙をぽろぽろこぼしていた。
 「こ、幸一くん。わ、わたし、わたし・・・」
 泣きながら何かを言おうとする春子。恐怖に怯える春子を見ていると、胸が痛む。
 でも、行かなくちゃ。僕は春子の手をそっとほどいた。
 「ごめん。行かなくちゃ。戸締りをしっかりして」
 梓が夏美ちゃんを殺してしまう前に。
 僕は春子に背を向けて走った。
 「幸一くん!!」
 後ろから春子の呼び声が聞こえたけど、僕は振り向かなかった。
 階段を降り靴を履き家を飛び出す。
 シロのほえる声が後ろから聞こえた。
 走りながら携帯電話を取り出し、夏美ちゃんに電話をかける。
 電話はすぐにつながった。
 『お兄さんですか?こんばんは』
 のんびりとした夏美ちゃんの声。
 「夏美ちゃん。よく聞いて欲しい」
 『はい』
 僕の声に緊迫した状況を感じたのか、夏美ちゃんの返事は真剣だった。
 「今すぐに戸締りをしっかり閉めて。梓が訪ねて来るかもしれないけど、絶対に家に入れちゃだめ」
 『・・・お兄さん』
 「理由はまた今度話す。突然変なこと言われて戸惑うかもしれないけど、今は言うとおりにして欲しい」
 『いえ。実はついさっき梓から電話がありました』
 夏美ちゃんの言葉に心臓が止まるかと思った。
 「梓は今そこにいる?」
 『いえ。いないです』
 僕は立ち止まって吸い込みすぎた息を吐いた。良かった。
 「それで、梓は何て?」
 『もしお兄さんから連絡があれば、待っているって伝えて欲しいと言っていました』
 梓からの伝言。待っている。
 どこで?
 『梓と何かあったのですか?』
 心配そうな夏美ちゃんの声。
 「・・・ごめん。今は話せない」
 今は、なのか?
 いつなら話せる?
 『分かりました』
 夏美ちゃんの凛とした声が突き刺さる。
 『気にしないでください。私、お兄さんを信じています』
 僕は夏美ちゃんの信頼に値する男ではない。
 いずれ夏美ちゃんを不幸にするかもしれない。
 それでも離れられない。
 春子のいうとおり。僕は、夏美ちゃんを大切にするより、自分自身の願望を優先させている。
 『・・・お兄さん?』
 気遣わしげな夏美ちゃんの声。
 僕は夏美ちゃんといる事を選んだ。
 ならば、もう迷ってはいけない。


269 名前:三つの鎖 32 前編 ◆tgTIsAaCTij7 [sage] 投稿日:2011/03/12(土) 12:55:33.02 ID:jYjLVp+X
 「なんでもない。ありがとう」
 『いえ。もし何か困った事があれば、遠慮しないでください』
 「ありがとう。おやすみ」
 『おやすみなさい』
 電話は切れた。僕はそのままの姿勢で動けなかった。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2011年05月27日 20:37
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。