雨の綾

430 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:40:38 ID:zDOdh+fU
支倉陽一はぐうたらと言われる兄、支倉綾はしっかり者と言われる妹である。
幼くして母を亡くし、父は仕事で家を空けていて、小学校の中ごろから家の中では二人で過ごすことが多かった。
現在に至っては父の出張で完全な二人暮しだ。
普段の暮らしでは二人協力し、困ったことがあったらお互い支え合いなさいと言われてきたのだが、今も昔もとにかく喧嘩が多かった。
兄の陽一は、そこまで好戦的な性格ではない。
いつの時も、最初に噛み付くのは妹の綾だった。
「ちょっと! いいかげんにしてよね!」
その日も、朝食を作っていた綾は、居間に姿を現した陽一を見て、きりきりと眉を吊り上げた。
「え? 何がだよ?」
「寝癖! 寝癖よ! ちゃんと直してから来るようにって言ってるでしょ! 毎朝毎朝毎朝! 同じことを言わせないでよ!!」
「朝から元気なやつだなあ……」
ため息をついて陽一は椅子に座る。
その、いかにも適当な返事に、綾は切れ長の目で陽一を睨みつけ、持っていたおたまで、思い切り味噌汁の鍋を打った。
「うぉ! おい、やめろよ。頭に響く」
「なら寝癖を直してらっしゃい。今すぐに」
「後で直すよ」
「毎日毎日そう言って、遅刻間際になって、結局ぼさぼさの頭で出て行くんでしょうが!」
綾はつかつかと陽一に歩み寄ると、ワイシャツの襟に手を伸ばし、ぎゅっと締め上げた。
「ちょ……綾、苦しい……」
「お兄ちゃん、知ってる? 人間って、頚動脈を押さえると三秒間で気絶するんですって」
「は、初耳です」
「私はね、寝癖もそのまんまのだらしのない人と、並んで学校には行きたくないの。そうなるくらいなら、いっそ気絶させて家の中に放っておいて、一人で学校に行った方がマシよ」
「わ、わかった。直す。直すから……」
「よろしい」
にこやかに頷いて、綾は襟首から手を離した。
頭を振って、何度か咳き込みながら陽一は立ち上がった。
「……日に日に乱暴になっていくな、お前は……」
「ええ、ええ。誰かさんのおかげでね」
「まったく。黙ってればかわいいのに……」
ぶつぶつと言って、洗面所へと消える。
実際、綾の容姿は相当なものだった。
十人に聞けば十人が美人と答えるだろう。
真っ白な肌、艶やかな黒髪、強気な眼差し、繊細な体つき――
どれもこれもが見る者の胸を高鳴らせる美しさを持っている。
「ふん……!」
陽一が洗面所に姿を消すと、綾はどこか悔しそうな表情で首を振った。
頭の両側で結んで流した髪が、ゆらりと揺れる。
「そう思うんなら、私の前でもちょっとは気を遣いなさいよね……」
呟いて、しばらくの間綾はじっと床を見つめていた。




431 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:41:45 ID:zDOdh+fU
陽一と綾の通う高校へは、最寄の駅から電車一本で行くことができる。
いつものように駅のホームに陽一と並んで立ち、綾はこれまたいつものように毒を吐いていた。
「う~……もう! 何でこんなに人が多いのよ! 多すぎでしょ!」
朝のホームは学校に行く学生、会社に向かう社会人で埋め尽くされている。
電車の発着のたびに人が激しく行き来するが、一向に人の数は減らない。
綾は人の波に押されながら、腹立ち紛れに陽一のわき腹を肘で打った。
「うぐ! おい、何すんだよ」
「お兄ちゃんがもっと早く出てれば、もっと空いてる時間の電車に乗れたんだからね。責任とってストレス解消させてよ」
仏頂面で綾は陽一の腹を殴り、足を踏み、耳を引っ張った。
「イタイイタイ、痛いって!」
「あー、何か気が晴れてきたわ。いい感じ」
「お前どんだけ歪んだ性格してるんだよ。だいたい混むのが嫌なら、さっさと先に行けば良かっただろ」
綾はぎろりと陽一を睨んだ。
「へぇえ、そういうこと言うの。言っちゃうの」
さらに不機嫌さを増した声色に、陽一は思わず身を引く。
逃がさないとばかりに、綾は陽一の手を取り、爪を立てて握った。
「な、何だよ。今朝だって一人で行ったほうがマシだって……」
「へえー。お兄ちゃんは、可愛い妹が電車の中で知らない人たちにもみくちゃにされてもいいんだ。そうなんだあ」
「え?」
「若い女の子の体を漁るのが大好きな痴漢に、好き勝手に触られてもいいのね。そういう時はただ黙って身を縮こまらせて耐えてろって言うのね。助けてはくれないのね。ふーん……なら別にいいけどね」
「お前……痴漢に遭ったことあるのか?」
「ないけどね」
「何だ……驚かせるなよ」
安堵の表情を見せた陽一の足を、また綾は踏みつけた。
「何を安心してんのよ! 今日明日明後日が初めての痴漢遭遇日になるかもしれないのよ!? それでお兄ちゃんはいいっていうの!?」
陽一は慌てて言った。
「わかった。悪かった。それは良くない。絶対良くない」
「そう思うなら先に行けとか言うんじゃないわよ!」
再び勢いよく、綾は陽一のわき腹に肘鉄を食らわせた。
「け、結局殴るのかよ……」
「ふん……あー、ほら、電車がきたわよ良くないって思ってるんなら、ちゃんと守ってよね」
二人の立っていたホームに、電車が音を立てて入り込んできた。
車内には人がぎっちり詰まっているのが見て取れる。
陽一は綾に応じて言った。
「ああ。痴漢に何かされたりしたら、すぐに言えよ。兄ちゃんがとっつかまえてやるからな」
「そんなんじゃダメ。痴漢に手を出されないように、ちゃんと、ぎゅっと体を抱いててよ」
「え……えー? そこまでするのか?」
「今日はいつもより混んでるから、それくらいしなきゃダメなのよ!」
「わ、わかったから、怒鳴るなよ」




432 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:43:15 ID:zDOdh+fU
綾に押し切られ、陽一は綾を腕に抱くようにして電車の中になだれ込んだ。
正面から向き合い、綾の背中に手を回す。
綾も陽一の胸元に顔をつけ、身を寄せた。
車内は人に溢れ、電車が揺れるたびに右から左から押し付けられる。
いつしか綾も、陽一の背に手を回し、二人は抱き合うような姿勢になった。
「なあ、綾、これって意味あるのか? こんなに人がいると、抱いてようが何だろうが、思い切りもみくちゃにされるんだが」
「うるさい。黙ってそうしててよ」
「でも……ちょっと恥ずかしいんだが……」
「意味ならあるわよ。何も無いよりかは……まあ、安心するし」
綾は陽一の胸に顔をうずめているせいで、その表情は見えない。
しかし、背中に回された手に力がこもるのを、陽一は体で感じた。
抱きしめてみると、綾の体は本当に華奢だ。
こうしておとなしく身を寄せられると、陽一は兄としての庇護欲を大いに掻き立てられた。
「ま、いいか……」
結局二人は抱き合ったままで、満員電車の人ごみの中を過ごした。
いくつかの駅を通り過ぎ、下車する駅が近づくと、電車の速度が次第に落ちていった。
しばらくして、窓の外の光景が、立ち並ぶ家々から駅のホームに変わる。
「お兄ちゃん」
身を離しながら綾が小さく言った。
「ありがとね」
「ん? うん、気にするなよ」
綾は顔を上げて、陽一の首に手を伸ばした。
「おい、また首を絞めるのかよ」
「馬鹿、違うわよ! ネクタイ!」
満員電車の乗客にもまれて歪んだ陽一のネクタイを、綾は丁寧に直した。
「はい、これでよし」
「制服のネクタイなんて飾りのようなものなんだから、ちょっとずれてても誰も気にせんのに……」
「あたしが気にするのよ! ちゃんとしてよね、まったく……」
「お前ホントよく怒るよなあ……もう怒るために怒ってるとしか思えないぞ」
「ええ、ええ。どうせ私は怒らないと生きていけないわよ」
綾は再び足を踏みつける。
陽一が痛みに悶えていると、電車が止まって扉が開いた。
「ほら、お兄ちゃん! 早く!」
同じ高校の制服を着た男女が、次々と下りていき、陽一と綾も下りようと動き始めたその時――
「この人、痴漢です!」
一人の女子生徒が、大きな声をあげた。
陽一たちと同じ学校の生徒で、リボンの色から綾と同じ一年生だとわかった。
「え? お、俺ですか?」
高々と上げた少女のその手には、陽一の手が握られていた。




433 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:44:16 ID:zDOdh+fU
「この人痴漢です」
ということで、陽一は駅の事務室に連れてこられた。
「この人です! 間違いありません!」
騒ぎ立てる少女は、名前を高島美希といった。
「電車に乗ったときからずっと、お尻を触られてたんです!」
「いや、本当にやっていないんですけど」
陽一を痴漢だと決め付ける美希に、それを否定する陽一。
駅員も、駆けつけた警察も、どちらの言い分が正しいのかで迷ってしまったが、綾の言葉があっさりと決着をつけた。
「お兄ちゃんにそんなことができたわけないでしょう。ずーっと私と抱き合ってたんだから」
「ちょ……! お前、こんな人前でそんなこと……」
「何よ。痴漢に間違われたままの方がいいっていうの?」
綾は、陽一を見るときとは違った冷たい眼で、美希を睨みつけた。
「何をどう勘違いしたのか知らないけどね、お兄ちゃんは私の背中に手を回して、ずっと抱きしめてくれていたの。あなたのお尻なんて相手にしている時間はなかったわ」
それにね、と綾は続けた。
「うちの兄は、間違っても痴漢なんてする人じゃないのよ」
はっきりとした物言いに、駅員も警察も表情が和らいだ。
「なるほど、どうやら勘違いのようだね」
「でも……でも……」
納得のいかない様子の美希に、綾は追い討ちをかけた。
「自意識過剰なんじゃない?」
「な……!」
「お兄ちゃんがやっていないことを私はこうして証言できるけど、あなたが痴漢にあっていましたって言ってくれる人は誰かいるの?」
「何よそれ。そもそも痴漢になんて遭っていないっていうの?」
「さあね」
「だ、だいたい、あんたたちだって、ただ兄妹だからかばってるだけじゃないの? 兄妹で抱き合ってたなんて、そんなのありえないでしょ?」
「別に? 私はごく自然なことだと思うけど?」
「ま、まあまあ。君たちが喧嘩してもしょうがないだろう……」
不穏な雰囲気に、見かねた駅員と警官が仲裁に入り、二人は言葉を飲み込んだ。
結局陽一は無罪放免。
美希は恨みがましく二人を見て、歩いていった。
「ひどい目に遭った……」
がくりと肩を落とす陽一の背中を、綾はバシンと叩いた。
「こんなことで落ち込まない! 元気出しなさいよ!」
「だってなあ……俺ってそんなに痴漢っぽい顔してるのかと思うと……」
「痴漢っぽい顔ってどんなのよ、一体」
呆れたように言うと、綾は足取りの重い陽一の手をとって、引っ張っていった。
「ほら、急ぐ! 遅刻よ遅刻!」
もう完全に始業の時間は過ぎていた。




434 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:44:52 ID:zDOdh+fU
「綾、綾、あんたのお兄さん、痴漢で捕まったって噂が流れてるよ」
「はあ?」
級友の卯月小夜子がその話題を口にしたのは、お昼休みになってからのことだった。
「何よそれ。確かに捕まりそうになったけど、結局誤解だったわよ」
綾は朝のことを説明した。
「……とまあ、よくわからない女が勘違いしただけよ」
「あら、そうなの? 聞いた話とちょっと違うわね」
「聞いた話って?」
今度は小夜子の方が説明を始めた。
小夜子が言うには、どうも陽一が痴漢をしたという話は、もう既に学校全体に広まりつつあるらしい。
「まあ、あの子……高島さんだっけ? が、陽一さんを捕まえるところは、何人か見てる生徒がいたわけなんだけどさ」
「そこから噂が広まったの?」
「ううん。その高島さんが、あちこちで話してるのよ。痴漢に遭ったって」
綾が射抜くような視線で小夜子を見た。
「で?」
冷たい声で続きを促す。
その豹変振りに、小夜子は思わず身を引いた。
「あ、ちょ、ちょっと。私はただ聞いただけなんだから、怒らないでよね。落ち着いて聞いてよ」
「落ち着いてるわよ」
「……その高島さんいわく、何か色々あってごまかされたけど、陽一さんが犯人に違いないって……そういう風に言ってるのよ」
綾は、食べかけの弁当の蓋を閉じて席を立った。
「高島さんのところにいくの?」
「ううん。兄さんのところ。きっと、馬鹿みたいに落ち込んでると思うから」
綾にとって、優先順位は陽一の方が格段に上だった。




435 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:46:11 ID:zDOdh+fU
綾の予想通り、陽一はこの上なく落ち込んでいた。
すでに濡れ衣だったことを知っている級友たちは、噂について慰めてくれたが、時折廊下で感じる好奇の視線が何とも痛かった。
食欲も湧かず、昼休みはただぼんやりと机に寝そべって過ごしていた。
「ちょっと、お兄ちゃん。せっかく私が作ってあげたお弁当、生ゴミにするつもり?」
「何だ……綾か……」
「『何だ』じゃないわよ。せっかく心配して来てあげたのに」
いつものように背中を叩くが、陽一はぼんやりと寝そべったままで、体を起こそうともしない。
「あー、もう、情けない。たかが噂話一つで。もっとシャキっとしなさいよ。シャキっと!」
綾は時折陽一のクラスを訪れていたので、級友たちも慣れている。
そうだそうだと、周囲から声があがった。
「綾ちゃん、何とか言ってくれよ。こいつ授業中からずっとこの調子でさ」
「さっきの実験も、ガスバーナー倒すわビーカー割るわ、大変だったんだ」
すみません、と綾は陽一に代わって謝った。
「ほら、こうやってお友達も言ってくれてるんだから」
「お前なあ……廊下歩いて、見知らぬ下級生に『あの人が痴漢の人?』なんて言われてみろよ。半端なく落ち込むぞ」
「確かに、それはちょっときついかもしれないけどね……」
綾はごそごそと陽一の鞄をあさり、弁当箱を取り出すと、ドンと机の上に置いた。
「とにかく、私の作ったお弁当は食べなさい」
「食欲ないっての……」
「ん? 何? 私にアーンってしてもらわないと食べられない?」
にやりと笑って箸を取り出す綾に、しかし陽一は無反応だった。
「ちょっと、無視しないでよね」
「……」
「無視すんな!」
「悪い……今はお前の相手をする元気はないんだ……」
綾はため息をついて腕を組んだ。
「重傷みたいね」
「……」
「とにかく、お弁当は食べてよね。取るもの取らないと元気もでないわよ」
それだけ言って、綾は陽一の教室を後にした。




436 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:49:01 ID:zDOdh+fU
(イライラする……!)
綾は廊下を歩きながら、腹の底で煮えくり返る思いをひた隠しにしていた。
ちょっと気を抜くと、すぐ脇にある窓ガラスを殴りつけてしまいそうだった。
沸々と、沸きあがっては消えていくどす黒い感情。
原因はわかっていた。
(お兄ちゃん……私のこと無視した……)
先ほどのつれない態度が脳裏に蘇り、怒りと悔しさに握った手が震えた。
叩いても、冗談を言っても、怒鳴りつけても反応しない。
今はお前を相手にしている場合じゃないと言われた。
陽一が、自分の相手をしない。
自分以外のことに考えが偏る。
綾にとって、それはあってはならないことだった。
思い悩むなら自分のことであって欲しい。
気にするのは自分の言葉であって欲しい。
視界がどくんどくんと脈打つ。
自分が不安定になっているのがわかったが、どうにも抑えようがなかった。
(お兄ちゃん……)
おぼつかない足取りで歩きながら、窓の外を見る。
晴天だった空は、いつの間にか空は厚い雲に覆われていた。




437 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:49:50 ID:zDOdh+fU
午後になると霧雨が風に舞い、世界は灰色の情景となった。
学校が終わり、部活に行く生徒、家に帰る生徒が各々の場所へと散っていく。
綾はいつもは陽一と二人で帰るのだが、その日は用事があると言って陽一に先に帰ってもらった。
そして、傘を差して、校門近くの木の陰にじっと立って待っていた。
一時間、二時間と時間が過ぎ、やがて部活を終えた生徒たちが帰る時間になる。
もう日も落ちて、雨の滴る中に街灯がぼんやりと霞んで灯っていた。
七時を過ぎると、もう校舎から出てくる人影もなくなったが、それでも綾は立ち続けた。
雨はしとしとと降り続ける。
やがて、綾の待ち望んだ人物が昇降口から姿を現した。
教員に別れの挨拶をして、傘を差して歩き出すその少女は、他でもない、高島美希だった。
綾は気取られぬように後をつけた。
高島美希の青い傘と、綾の黒い傘が、暗闇の街路を静かに進んでいった。
駅のホームには、誰もいなかった。
元々高校の生徒や教員の乗り降りが大半の駅なので、登下校時のピークを過ぎてしまうと、何とも寂しいものだった。
傘をホームの縁に立ち、傘を閉じて携帯電話を取り出す高島美希の後ろに、綾はそっと近づいた。
「高島美希さん」
「え?」
突然の呼びかけに振り返り、そこに居た人物を見て、美希は顔をしかめた。
「何だ……あんたか」
「お久しぶり。今朝はどうも」
「……何か用?」
「お願いがあって、あなたに会いに来たのよ」
ぴちゃんぴちゃんと、古びたホームの庇から雨水の落ちる音が響いた。
「お兄ちゃんの噂を周囲の人に話したようだけど……明日にでも取り消してもらえる?」
「は?」
「自分の誤解だったって、言い直してもらえないかしら」
「何であたしがそんなことしなきゃならないの」
「だって、実際誤解だったでしょう?」
淡々と綾は言った。




438 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:50:24 ID:zDOdh+fU
「別に、あたしは自分が間違ってたとは思ってないし。わざわざ取り消す気も無いよ」
「どうしたら間違いだってわかってもらえる?」
「……しつこいね。本当にやってないんだったら、別にあたしが何を言っても堂々としてればいいじゃない。やっぱり後ろ暗いところがあるの?」
「私は……気にしてないし、放っておけばいいと思ったんだけどね。お兄ちゃんは……繊細な人だから」
「ふーん……」
美希は、鼻で笑った。
「またお兄ちゃんをかばいに来たんだ」
「……ええ」
「あんなぼんやりした男のために、よくやるね。あんた、どこかおかしいんじゃないの?」
「お兄ちゃんの悪口はやめてね」
どこか虚ろな目で、憑かれたように綾は言う。
その異様な雰囲気に、美希は思わず身を震わせた。
「……そ、それで、話はそれだけ? 終わったらとっととどっか行ってよ」
「取り消してはもらえない? 考えを改めてはもらえない?」
「無理。あたしはアイツが痴漢だって思ってるもん」
「取り消して」
無感情な声で、綾は反応した。
「取り消して」
「だから、その気は……」
「取り消して」
「取り消す気は無いって……」
「取り消して」
「……」
美希の返答などお構い無しに繰り返される、淡々とした呟き。
平坦で、どこか不調和な言葉。
「取り消して」
後ずさる美希を見つめて、綾は壊れたように同じ言葉を続けた。
「取り消してよ、取り消して、取り消して、取り消しなさいよ、取り消して取り消して……」
「な、何なの、一体……」
耐えかねて、美希は踵を返し、綾の前から立ち去ろうとする。
その瞬間、背後から白い手がすっと伸びた。
「え……」
二つの傘が、ホームに音を立てて転がる。
美希が背を向けたその瞬間に、綾は機敏な動きで後ろから美希の首に腕を回し、締め上げていた。
「な、何を……」
「高島さん、知ってる? 人間は、頚動脈を押さえると三秒間で気絶するんですって」
ぎゅっと、綾は腕に力を込める。
「お兄ちゃんは繊細だから……何かあると、私以外のことで頭が一杯になっちゃうのよね」
一瞬もがいた美希の体から力が抜け、がくんと腰が折れる。
「そうすると、私はすぐに嫌な気持ちが溜まって、何が何だかわからなくなっちゃうのよ」
美希に語りかけるように言うが、もう美希は何の反応も示さない。
綾は虚空を見つめ、嬉しそうに目を細めた。
「だから、何も無い方がいいの」
綾は鼻歌を歌いながら美希をホームの縁に寝かせた。
手に握られた携帯電話を引き剥がすと、無造作に線路に放り投げ、さらに傘もバッグもみんな、線路の上に投げ捨てた。
全部投げ捨ててから、綾はさらに念を入れて美希の首を締め、そのまま線路に落とした。
「これで、明日からまたしっかり者になれるわね」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに、綾は美希に別れを告げた。




439 :雨の綾  ◆5SPf/rHbiE :2007/05/11(金) 22:50:57 ID:zDOdh+fU
綾が家に着いたのは、八時半を回った頃だった。
「ただいまー……って、何やってるの?」
綾が家の戸を開けると、陽一が玄関に座って靴を履いているところだった。
「どこか出かけるの? こんな時間に」
「……こんな時間にって言ったな? 言ったな、おい」
「言ったけど、何よ」
ぺしりと、陽一は綾の頭をはたいた。
「こんな時間までどこをうろついてたんだお前は!」
「何よ、うるさいわねえ。用事があったんだから仕方ないでしょ」
「電話くらいでたらどうなんだ! 何のために携帯電話を持たせてると……」
玄関先で説教を始めた陽一に、綾は子供のように耳をふさいで反抗した。
「こら! ちゃんと聞きなさい!」
「あー、もう! どこからそんな元気が湧いてくるのよ。昼間はあんな陰気な顔してたのに。お説教はもういいから、布団の中で落ち込んでなさいよ」
「妹が夜遊びしてるかもしれんって時に、のんびり落ち込んでいられるか!」
「夜遊びなんてしてないって言ってるでしょう! そういうお兄ちゃんこそ、今からどこか行くんじゃないの!?」
陽一は履いていた靴をひょいっと脱いだ。
「……お前を探しに行こうと思ってただけだ」
「え?」
「……あっちの路線で人身事故があったって聞いて……まさかとは思ったけど……」
「なあに? 私が心配で、不安になっちゃったの?」
にやりと、綾は笑った。
「笑うなよ」
「まったく。どっかのお間抜けさんと違うんだから、そんな事故やら何やらで私が死ぬわけないでしょ?」
「間抜けで悪かったな」
「ふふ……誰もお兄ちゃんが間抜けだなんて言ってないじゃない」
綾が口元を押さえて笑うと、陽一は拗ねたように顔を背けた。
陽一に怒られて、心配されて、逆にからかって――イライラした気持ちが収まっていく。
綾は霧雨に濡れた髪を威勢良く揺らし、何度も頷いた。
「わかった。わかったわよ」
「何がだよ」
「今夜は何だか気が向いたから、豪華な夕食にしてあげる」
傘を置いて、綾は家に上がった。
すぐにエプロンを身につけ、鼻歌を歌い始める。
「そっかあ、心配しちゃったんだ」
「そりゃそうだろ。おまけに、人身事故、この辺の高校の生徒だっていうし……」
「そっか。それで心配してもらえるなんて、意外なおまけがついてきたわね」
「おまけ?」
身を乗り出して訊いてくる陽一を、綾はそっと居間へと押しやった。
「はいはい。いいから、テーブルについて待っててね」
くすりと笑って、綾は鍋に水を入れ、火を点ける。
そして、小さな小さな声で呟いた。
「やっぱり、殺して正解だったわね」
そうして綾は、心からの喜びに満ちた笑みを浮かべた。


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最終更新:2021年05月14日 08:50
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