家の綾

537 名前: ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:49:33 ID:HEYMhfpl
ゴールデンウィークが終わった最初の土曜日。
温かい午後の日差しの中、綾は居間の窓際に寝そべっていた。
ぼんやりと頬杖をつき、片手は伸ばして指の先をちょいちょいと動かしている。
指の先には、一匹の白いウサギがいた。
「ほら、ほら。こっち来なさいよ」
指の動きにつられてか、ウサギは綾に近づき、擦り寄るようにしてくる。
にっこりと笑って、綾はウサギの背を撫でた。
「ふふ、シロはちゃんとなついてるわね。かわいがった甲斐があったわ」
真っ白な毛並みで、好奇心旺盛な赤い目をしたそのウサギは、数ヶ月前から支倉家に身を置く支倉家のペットである。
綾の友人の家で気付いたら増えていたウサギを、綾が貰い受けたものだった。
もともと飼いたいという意志があったわけではなく、名付けはそのまま「シロ」といいかげんなものだったが、数ヶ月もすると情が移り、こうしてそれなりに可愛がるようになっていた。
「それにしても大きくなったわね。あんまり家の中を噛んだらダメよ?」
そんなことを言いながら、また背を撫でる。
居間のテーブルについていた陽一は、その光景を見てため息をついた。
「何よ。ため息なんかついて」
「いや、落ち着いてるなあと」
「は?」
「来週から中間テストだってのに、どうしてそんなに落ち着いていられるんだ」
月の初めに生徒が事故で死んで、二人の通う高校は騒然となったが、それはともかく定期テストは予定通り行われることになっていた。
「逆に聞くけど、テストが近いからって何でそんなに焦るのよ?」
「それは……いい点数取らなきゃいけないしさ」
「普通に勉強してれば取れないわけないでしょ」
「それはそうなんだが……」
「ま、お兄ちゃんには無理か。いいかげんで計画性ないもんね」
「お前さ、仮にも俺は兄なんだから、もう少し柔らかい言い方してくれよ……」
「ん? 頭悪いからねって言った方が良かった?」
綾の遠慮ない物言いに、陽一はまたため息をついた。
「まったく……ウサギと戯れたりするあたりは、普通に女の子っぽくてかわいいのにな……」
「人のことどうこう言ってる暇があるなら、さっさと自分の部屋に行って勉強してなさいよ」
綾の険悪な雰囲気を察して、ウサギは小走りに逃げていく。
睨みつける妹の目をいつものこととばかりにやり過ごして、陽一は時計を見た。
「いや、ちょっと人が来るのを待ってるんだよ、そろそろ来ると思うんだけど……」
「人?」
時計がきっかり二時をさす。
と、玄関の方から呼び鈴の鳴る音がした。
「お、来たか」
出迎えに玄関に向かう陽一。
綾も頭の両脇に結んだ神を揺らして立ち上がり、それについていく。
玄関の戸を開けると、そこには一人の女の子が立っていた。
眼鏡をかけて、長い髪を三つ編みに編みこんだその少女を、綾は見たことがあった。
「あれ? えーと、お兄ちゃんのクラスの……」
記憶を探ろうとする綾を後ろに、陽一は少女を招きいれた。
「やー、ありがとう。来てくれて」
「まあまあ、級友のピンチとあったら来ないわけにはいかないよ」
ひらひらと手を振って、少女は笑った。
「これでも学級委員だしね」




538 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:50:13 ID:HEYMhfpl
支倉家を訪れた眼鏡少女は、名前を宇喜多縁といって、陽一のクラスの学級委員を務めていた。
面倒見のいい、さっぱりとした性格で、男女ともから人望がある。
陽一とは席が近いこともあって、特に仲の良い友人と言えた。
基本的に性能の高い彼女は、文武ともに秀でていて、級友から勉強を教えて欲しいと頼まれることもよくある。
この度支倉家を訪れたのは、追い詰められた陽一の頼みを快く受けた結果であった。
が――
「帰らせてよ」
そんな事情はお構い無しに、綾は縁が家に上がることを全力で拒否した。
「いや、もう部屋に通しちゃったし……そもそも俺が頼んで来てもらったんだし」
「じゃあ頼んで帰ってもらって」
縁を陽一の部屋に通し、二人は台所で向き合って話していた。
綾は半眼で陽一を睨みつけ、不快感を欠片も隠そうとはしなかった。
「私、あんな人が来るなんて一言も聞いてないわ。何で言わなかったのよ」
「だって……お前絶対に反対するじゃん」
「わかってるじゃないの」
綾は昔から、他人が家に上がるのを極度に嫌った。
兄の友人であれ、自分の友人であれ、家に来るのを歓迎することはまずなかった。
来たいと言う者は理由をつけて拒み、来たものは追い返す。
そんなことを、小さな頃からずっと繰り返してきた。
「……何でそんなに人が来るのを嫌がるんだよ。お前、もう子供じゃないんだぞ?」
「何でって、それは……」
一瞬綾は顔を赤らめて言葉に詰まったが、またすぐに陽一を怒鳴りつけた。
「あれよ……だ、誰がお客さんのもてなしをすると思ってんのよ! 私がお茶を淹れてお菓子を用意して、恥ずかしくないように家の中を綺麗にするのよ!? お兄ちゃんの勝手な都合でほいほい人を呼ばれたらたまったもんじゃないわよ!」
「ちょ、声が大きいって。宇喜多に聞こえるだろ」
陽一は慌てて綾の口を手でふさいだが、綾はその手にがぶりと噛み付いて振りほどいた。
「いて! お前、動物じゃないんだから、噛むなよ!」
「とにかく帰ってもらってよ」
「いや、今日は勉強教えてもらわなきゃまずいんだよ、本当に」
「お兄ちゃんならテストなんて軽くちょちょいのちょいよ。大丈夫。だから帰ってもらって」
「いや、さっきと言ってることが違うぞ、お前……」
「だいたいね、自分で考えずに教えてもらうなんて、それじゃ実にならないでしょ? 私はお兄ちゃんのためを思って言ってるのよ」
取り付くしまもない綾に、陽一はとにかく必死で頼み込んだが、やはり綾は首を縦に振らない。
やがて陽一はがくりと肩を落とした。
「……仕方ない……こうなったら宇喜多の家に行くか、喫茶店に行くかするしかないか……」
陽一の呟いた言葉に、綾は眉をひそめた。
「何? 外に行くの?」
「いや、だって、家がダメならどこか別のところに行くしかないし……」
「へえ……二人でお出かけ、ねえ……」
綾はますます鋭く陽一を睨みつけ、そしてこれ以上なく不愉快な表情のまま、
「……わかったわよ。そんなに勉強したいんだったらうちでしていいわ」
低い声で言った。
「え? いいのか?」
「そのかわり、安いお茶と不味いお菓子しかないからね」
綾は陽一に背を向けると、流し台に向かい、乱暴にやかんに水を注ぎ始めた。
「綾……ありがとう」
「あー、もういいからさっさと行って勉強してなさいよ」
しっしっと追い払うように手を振る。
陽一が去ってから、綾は、流し台に手をつき、やかんに溜まっていく水を見つめながら、気だるげに息を吐いた。
「あーあ……」
無造作に、視界に入ったコップを一つ掴む。
そのまま大きく振りかぶり、床に向かって勢いよくコップを投げつけた。
陶器のコップは割れて、台所に散る。
「……コップ、一つ無駄にしちゃったわね……」
淡い午後の光の中、綾はぼんやりと尖った破片を見つめていた。




539 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:51:56 ID:HEYMhfpl
陽一と縁は部屋の真ん中の小さなテーブルを挟んで向かい合い、顔をつき合わせて勉強していた。
とはいえ、教科書とノートを出しているのは陽一だけで、縁はただ教え役に徹している。
膝の上にはシロを乗せ、その背を撫でながら陽一にあれこれと教えていた。
「お茶をお持ちしました」
「あ、どうもありがとう」
盆の上に飲み物とお菓子を載せて部屋に入ってきた綾に、縁はぺこりと頭を下げた。
「あまりに突然だったので、たいした用意も出来ませんでしたが……」
「突然」の部分に特に力を込めて、綾は言った。
「や、そんな気を遣わずに。いきなり来ちゃってごめんね」
「綾、俺が伝えてなかっただけで、宇喜多は元々来ることになってたんだよ。さっきも言っただろ」
「あー、そうだったわね。ごめんなさい、宇喜多さん」
「いいのいいの。妹ちゃんにとっては、突然だったことに変わりはないんだから」
笑って言う縁は、綾の非難めいた言い方にも、あからさまに不機嫌な態度にも、動じた様子は無い。
鈍いのか強いのか。
綾は注意深く縁を見つめた。
「……どうですか、兄は」
「うん。頑張って勉強してるよ」
「すみませんね。お休みの日に、出来の悪い兄の面倒を見ていただいて」
「いやいや、いいのいいの。大事な友達のピンチだしね」
ぱたぱたと手を振って、縁はまた笑った。
なるほど、と綾は思った。
笑顔で隠しているのか、元々気にしない性質なのか、そもそも相手にされていないのか。
とにかく縁は、ちょっとやそっとで感情を揺さぶられる人間ではないらしい。
恥ずかしげもなく「友達のため」と言い切る姿は、見ていて清々しくもある。
いわゆる色っぽさや可愛さからは一歩退いた人間だが、見る人によってはそういった女の子らしさの部分を補って余りある魅力を有しているのではと、綾には思えた。
(お兄ちゃんは、どうなんだろう……)
兄を見ると、勉強の手を止めて、困ったように綾の方を見ていた。
「……何よ?」
「いや、勉強に集中できないからそろそろ……」
「出て行けっての?」
「別に、居てもいいけどさ。静かにしててくれよ」
綾は無言で部屋を出た。
そして、すぐに自分の勉強道具を持って戻ってくると、陽一の隣にちょこんと座った。
「えーと……綾?」
「ちょうどいいから私も勉強するわ」
戸惑う陽一を、綾はぎろりと睨んだ。
「何よ。私がいたら何か困ることでもあるの?」
「いや、そんなのは全然ないけどさ」
「ならいちいち変な顔すんじゃないわよ」
それから三人は黙々と勉強を進めた。
といっても、やはり縁は陽一に時折教えるだけで、自身の勉強をする様子はない。
実のところほとんど勉強することを残していなかった綾は、手を止めて縁に尋ねた。
「……縁さんは、テスト大丈夫なんですか?」
「ん? うん。私は昨日までで一通りおさらいしておいたよ」
「だったら、今日は本当に兄の都合だけで来たいただいたことになりますね。良かったんですか? 休日を潰してしまって」
「うーん……どうせほんの数時間だしさ」
「ごめん」
二人の会話に、陽一は気まずそうに謝った。
「あ、いいからいいから。そもそも嫌だったら断ってるしさ」
謝ったりしないでよ、と縁は手をぱたぱた振る。
そして膝の上に乗ったウサギを指差した。
「それに、私ウサギとか大好きだから。来て良かったと思ってるよ、うん」
「……そうですか」
「かわいいね、この子。名前、何ていうの?」
「シロです」
「へえ、ストレートでいい名前だね。よろしく、シロちゃん」
縁は嬉しそうにウサギの長い耳をくすぐりながら、陽一に解答の間違いを指摘した。
そうやって、日が沈むまで三人は勉強を続けた。




540 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:53:10 ID:HEYMhfpl
六時半を過ぎて、縁はそろそろ家に帰らなければと言った。
「ありがとうな。何とかなりそうだよ」
玄関で靴を出ようとする、陽一は感謝の気持ちを込めて礼をした。
「と言っても、明日の日曜日も頑張らなきゃいけないけどな」
「だね。このままじゃ半分取れるかってところだと思うよ」
「うっ……」
縁の素直な感想に陽一は軽く咳き込む。
くすくすと笑いながら、縁は、やはり玄関まで見送りにきていた綾に声をかけた。
「綾ちゃん、ありがとうね。お茶、おいしかったよ」
「いえ」
「ウサギちゃんも、ばいばい」
綾に抱かれたウサギは、耳をぴくりと動かしただけだったが、縁はそれが嬉しかったらしく、朗らかな笑みを浮かべた。
「ん、それじゃね。もしわからないところがあったら、明日電話くれればまた教えにくるよ」
ばいばい、と手を振って、縁は帰っていった。
「今日は何と言うか……迷惑かけたな」
戸の鍵を閉める綾の後姿に、陽一は声をかけた。
「……明日も呼ぶの?」
振り返らずに、綾が尋ねる。
「え?」
「縁さん、明日も呼ぶの?」
「いや、もしもわからないところがあったらってことで……多分大丈夫だと思うけど」
「わからないところがあったら呼ぶのね」
「あ……いや、まあ、明日は呼ぶにしても図書館とかその辺にするよ。あんまりお前に負担はかけられないしな」
表情が見えない分、かえって恐怖心を刺激され、陽一は言い訳するように言った。
「いいわ。別に家に呼んでも」
「え? いいのか?」
「……目の届くところに居た方が、まだマシだしね」
最後の呟きは陽一には聞こえなかった。




その夜綾は一人で本屋に出かけた。
目的はただ一つ、陽一が今日勉強していた数Ⅱの参考書を買うことだった。
それなりにふところに響くが、お金のことを気にしている場合ではなかった。
目の届くところに居た方がまだいいが、縁が来ない方が圧倒的にいいに決まっている。
その日の夕食はお惣菜で済ませ、綾は早々と机に向かった。
勉強するのは先ほど買った参考書である。
一年の綾がこの度のテストで数Ⅱを必要とするかというとそんなわけはないのだが、綾は寝る間も惜しんで、必死に勉強した。
「さすがに……間を抜いていきなり解くと難しいわね」
とにかく集中して、範囲を一通り終える頃には、明け方を迎えていた。




541 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:55:19 ID:HEYMhfpl
日曜日、綾がいつもより少し遅く起きると、陽一が廊下の電話の前で考え込むようにして立っていた。
「何やってんのよ」
「……察しはつくと思うが、電話をかけようかどうか迷ってる」
「縁さんに?」
陽一は頷く。
「……ちゃんと自分の頭で考えてみたんでしょうね」
「考えたけどさ。どうにも……」
「ほんっとに情けないわね! それで私の兄だなんて、よく言えたもんだわ」
綾は陽一の胸を拳でドンと叩いた。
「いいわ。私が教えてあげる」
「え? いや、無理だって。数Ⅱだし。お前習ってないから」
「お兄ちゃんが困ってるっていうから、どんなものなのかってちょっと勉強してみたのよ」
「『してみた』って……」
「私が教えれば縁さんを呼ぶ必要もないでしょ?」
「いや、でも……」
「何よ、そんなに縁さんを呼びたいの? 人に頼ってばっかりじゃこれから苦労し通しよ?」
「お前に教えてもらうのも、人に頼ってることに変わりないと思うけど」
「私はいいのよ! 家族なんだから! んな細かいこと気にしてる暇があったら、さっさと勉強の準備をしなさいよ!」
綾は陽一を蹴飛ばすようにして、居間に追いやった。
二人は居間のテーブルで勉強を始めた。
さすがに時折詰まりはしたが、綾は陽一にきちんと問題の解き方を教えていった。
陽一が同じ間違いをした時には容赦なく罵声を浴びせる。
陽一の困った表情、真剣な表情、落ち込んだ表情――
それらを皆自分が引き起こしているのだと思うと、何とも高揚した気持ちになれた。
「はい、それじゃ次の問題よ」
実に生き生きと綾は陽一と二人の時間を過ごしていた。
しかし――
「こんにちはー」
お昼を過ぎた頃、玄関の呼び鈴が鳴り、訪問者の声が聞こえると、綾の顔は一気に曇った。
その声は、宇喜多縁の声だった。




542 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:56:44 ID:HEYMhfpl
「お兄ちゃん……電話……したの?」
「いや、してないけど……」
「じゃあ何で来るのよ」
「わからんけどさ」
ともかくも、陽一は玄関に出て縁を出迎えた。
「やっほー。ちゃんとやってる?」
「まあ、それなりに。……えっと……俺、電話はしてないよな」
背後から疑いの目で見てくる綾を気にして、陽一は縁に尋ねた。
「うん。ちょっと近くに買い物に来たから、ちょっと見に来たの」
「そ、そりゃどうも」
「あ、ううん。違うの。支倉君の勉強はどっちかっていうとついでなのよ」
「え?」
縁はちらりと綾の方を――綾の足元を見た。
そこにはウサギが、いつものように耳をぴくぴく動かしながら擦り寄っている。
「シロちゃんに、もういっぺん会いたいなって思って」
にこにこと笑いながら、縁は言った。
「そうか……よっぽど気に入ったんだな」
「うん。かわいいの大好きだから、私。でも会えて満足。それじゃ勉強頑張ってね」
ばいばいと手を振る縁を、陽一は慌てて引き止めた。
「お、おい、もう帰るのか?」
「ん? だってシロちゃんにも会ったし、勉強は大丈夫って話だし……」
「いや、もう少しゆっくりしていってくれよ。せっかく来てくれたんだし。というか、勉強をみてくれ」
「え、でもちゃんとやってるって……」
「自信を持てるほどにはちゃんとやってないんだ」
ピシリと、背後の空気が張り詰めるのがわかったが、陽一は半ば強引に縁を家に上げた。
「じゃあちょっと待っててくれ。お茶とか持ってくるから」
「うん。まあおかまいなく」
台所では、当然のように陽一は綾に締め上げれられた。
「ちょ、綾、苦しい、苦しいって」
「な、ん、で! わざわざ家に上げるのよ! もう帰ろうとしてたのに!」
「お茶もお菓子も俺が用意するから……」
「そういう問題じゃない!」
「いや、勉強を……」
「私が見てあげてたでしょうが! ダメ兄貴のために私が昨晩どれだけ……!」
「え?」
「……いや、いいわ。私が勝手にやったことだしね。でも、何で私が教えるんじゃダメなの?」
陽一は気まずそうに目を逸らした。
「……俺の気持ちもわかってくれよ」
「どんな気持ちよ」
「あのな、学年が下の妹に勉強を教えてもらうとなるとな、さすがに情けないと言うか……俺にだって自尊心みたいなものはあるんだよ」
「本当に自尊心があるなら、縁さんに教わるのもやめればいいじゃない」
「そうだな。でも、あまり悪い点数とると、カッコがつかないんだよ。出来のいい妹に」
「……!」
綾は押し黙ってしまった。
陽一の首を締め付けていた手から、するすると力が抜けていった。
「……わかったわよ。そのかわり、ちゃんといい点とりなさいよね」
「ああ」
「じゃあさっさと行けば?」
「いや、あとお前に聞いておきたいことがあるんだけど」
「何よ」
「宇喜多のこと嫌いか?」
綾はぴくりと眉を動かした。




543 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:58:46 ID:HEYMhfpl
「そんなこと聞いてどうするのよ」
「いや、昨日も今日も、ちょっと態度がアレだったからさ」
打って変わって厳しい口調の陽一に、今度は綾がたじろいだ。
「別に……嫌ってなんかないわ。昨日はいきなり来たから……」
「お前に伝えてなかったのは俺だし、今日宇喜多を連れ込んだのは俺なんだから、その辺の手際に関しては宇喜多は悪くない。俺の責任だ。怒るなら俺だけにしてくれないか?」
「……」
「宇喜多のことが嫌いじゃないなら、あまり邪険にしないでくれよ。俺の大切な親友なんだ」
「ふーん……」
しばらく二人は見つめあい、やがて綾はやれやれと頭を振った。
「わかったわよ。出来る限りのおもてなしをするわよ。それでいいでしょ」
「いや、お茶とかは俺が……」
「お兄ちゃんの淹れた不味いお茶なんて飲ませたら大恥でしょうが。もういいから、さっさと行って勉強してなさいよ」
「いや、でも……」
「さっさと行けっての!!」
やかんを振り上げられて、陽一は慌てて縁の待つ自室へ戻った。
台所に一人残された綾は、ぼんやりと居間のテーブルを見た。
先ほどまで陽一と二人で勉強していたテーブルの上には、もうノートも教科書もない。
何とも言えない喪失感に襲われ、綾は思わず涙ぐんでしまった。
胸で渦巻く感情を抑えるために、綾はうずくまり、唇を噛む。
ふと見ると、今のカーペットの陽だまりの中に、ウサギが気持ちよさそうに身を丸めていた。
「……あなた、今日はあの女の膝の上じゃなかったの」
ウサギはぴくりと耳を動かす。
おいで、おいで、と綾が指を動かすと、ウサギは小走りでやってきた。
自分の手にすりすりと身を寄せる真っ白な体を見つめて、綾は小さく呟いていた。
「……縁さんは……いい人だよね」
ウサギはまた耳を動かすが、答えるわけもなく、ただひたすら身を擦り寄せている。
「ほんの少ししか話してない私でも、いい人だって思うもの。やっぱり……お兄ちゃんにとっては大切な人なんだろうね」
悲しげに、綾は目を臥せた。
「もっと嫌な人なら遠慮なく殺せたのに……ううん、そもそもあの人は頭よさそうだし、高島美希みたいに簡単にはいかないか……」
綾の真っ黒な瞳と、ウサギの赤い目が合う。
ウサギは突如体を震わせ、跳ねようとしたが、綾はそれを許さなかった。
背を撫でていた手で床にしっかりと押さえつけ、もう一方の手でウサギの頭を掴んだ。
「あなたは可愛いね……」
もがくウサギに爪を立てるようにして、ますます強く床に押さえつける。
「縁さんは、あなたに会いに来たんだって。あなたが好きだから、会いに来たんだって。あなたが居なかったら来なかったのよ」
綾は頭を掴んでいた手を、くるりと回した。
手の中で細かく骨の折れる感触があり、ウサギはそれまで暴れていた体をぐったりと弛緩させた。
「今まで可愛がったんだから、許してくれるわよね」
光を失った赤い目に、冷たく笑う綾が映っていた。




544 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 02:59:58 ID:HEYMhfpl
土曜日とは違い、綾の縁への態度は実に友好的なものだった。
明るく笑い、兄をよろしくと頼み、さらには縁を夕食に誘った。
「昨日は大したおもてなしもできませんでしたから」
「んー、でもさすがに夕飯まで御馳走になるわけには……」
「いえ、是非とも。もう三人分の支度もしてしまいましたし」
綾の軟化に陽一もすっかり安心し、
「食べていけよ。これくらいしかお礼もできないし」
と後押しした。
結局縁は、支倉家で夕食をとって帰ることになった。
夕食は実に豪勢なもので、いくつものおかずがテーブルの上に並べられた。
それぞれ味付けも細やかで、普段から綾の料理を食べている陽一には、綾が全力をもってこれらの料理を作ったことがわかった。
「綾ちゃんって料理上手なんだね」
「そうですか?」
「うん。私のお母さんより美味しいよ、これ」
「まあ……普段誰かさんが全然家事をしてくれませんからね。おかげさまで上達したんでしょう」
「う、す、すまん」
そんな会話をしながら、終始和やかな雰囲気で食事は進み、メインの料理を口にする段になった時、縁は感嘆の声を上げた。
「わあ……これ、すごく美味しい……!」
「本当ですか? そういってもらえると嬉しいです。特に力を入れて作ったんですよ」
「うん、確かに美味いな。俺もこれまで食べたことがなかったけど……何て料理だ?」
陽一からも褒められて、綾は胸を張って説明を始めた。
「ふふ……ウサギのもも肉のシチューですよ。野菜をたっぷり煮込んで、甘味のソースで合わせてみました」
「え……?」
「ウサギ?」
陽一も縁も、食事の手が止まる。
「本当は一皿にもも肉を一本入れたかったんですけど、あいにく二本しかなくて……切って分けさせてもらいました。あ、ちなみにさっき食べてもらったのは、ウサギのパンチェッタ巻きローストです。しっとりとして、いい香りでしょう?」
嬉しそうに説明を続ける綾。
一方で、陽一と縁は黙り込んでしまった。
「ふふ……あら? どうしたのよ、お兄ちゃん。私の顔に何かついてる?」
「い、いや、ウサギの肉なんて珍しいなあと」
「何言ってるの。フランス料理じゃ当たり前よ」
「それはわかるけど、どこで買ってきたんだ? あんまり売ってるものでもないだろうに」
「何馬鹿なこと言ってるの、買う必要なんてないでしょ? せっかくうちにいたんだから」
綾の言葉に、縁は思わず口を押さえていた。
その様子を見て、綾は目を細めて微笑んだ。
「縁さん、シロが好きって言ってたし、ちょうどいいかと思って。喜んでもらえてよかったわ」
縁の顔がみるみるうちに青ざめていく。
陽一は綾に怒りの目を向けた。
「お前……どういうつもりだ」
「どういうつもりって? 出来る限りのおもてなしに好物を用意したんだけど……?」
きょとんとする綾を、陽一は思わず怒鳴りつけた。
「ウサギが好きっていうのは、そんな意味じゃないだろう!」
「あ、いいのいいの。か、勘違いは誰にもあることだし」
縁が慌てて割って入る。
「それに、すごく美味しかったのは本当だし……」
あははと笑いながらも、縁の顔色は変わらずに真っ青だった。
「でも、残りの料理は、ちょっとお腹一杯で食べられないかな……」
結局、陽一も縁も、それ以上箸をすすめることはなかった。




545 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 03:02:22 ID:HEYMhfpl
縁を送って行った後で、陽一は洗い物をしている綾を居間に呼びつけた。
「何よ」
「そこに正座しなさい」
「何でよ?」
「さっきのことについて話があるから」
渋々といった様子で、綾は居間のカーペットの上に正座した。
「お前な、何考えてるんだよ」
「何って?」
「『ウサギが好き』と『ウサギが好物』はどう考えても違うものだろうが!」
「そんなこと言われても……私はただ一生懸命縁さんをもてなそうと思っただけなんだけど」
「どう考えても、単なる嫌がらせだろ、あれじゃ!」
「嫌がらせ、ですって?」
綾は立ち上がると、陽一を思い切り殴りつけた。
「いて!」
「黙って聞いてれば……好き勝手言ってるんじゃないわよ! 態度が悪いだの邪険にするなだの言われたから、ちょこっと反省して頑張っただけでしょう!? 
私にできるもてなしなんて料理くらいだから、だから精一杯やったのに……何でそこまで言われなきゃいけないのよ!! お兄ちゃんの大切な親友だって言うから、絶対満足してもらおうと思って頑張ったのに!!」
「う……」
「嫌がらせ? そんな気持ちで、どうして可愛いペットをさばけるのよ! お兄ちゃんのためだから殺せたんだから! 私がどんな気持ちであの料理を作ったと思ってるのよ!!」
綾は一気にまくし立てて、肩で息をしながら陽一を見つめた。
その真剣な眼差しに、陽一の胸の中に、妹を疑ったことへの罪悪感が湧き上がってきた。
「わかったよ。疑って悪かった」
「……」
「でも、宇喜多には一度謝ってもらえないか? 勘違いとはいえ、傷つけたことに違いはないんだからさ」
「……わかったわよ」




その夜、真っ暗な部屋の中に綾は立っていた。
目の前のベッドには、陽一が眠っている。
「お兄ちゃん……ごめんね」
安らかな寝顔を見つめて、綾はそっと呟いた。
「そうだよね。ウサギが好きって言ったからって、あんな勘違いするわけないよね。嘘ついてごめんなさい」
普段聞くことのない、素直な謝罪の言葉だった。
「でもね、嘘はそれしかついてないから。お兄ちゃんのためだから殺せたの。お兄ちゃんの傍に居るためなら、何でもできるから……」
言って、綾はそっと陽一に唇に口付けをした。
「でも、嘘をついたのは私が悪いから。だから、ちゃんと明日縁さんに謝るからね」




546 名前:家の綾  ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/05/15(火) 03:03:46 ID:HEYMhfpl
次の日、学校は中間テスト期間となり、午前中で終わった。
綾はテストを終えるとすぐに陽一の教室に向かい、縁に声をかけた。
「あの……昨日はすみませんでした。私とんでもない勘違いを……」
「あー、いいのいいの。そんなに気にしないでよ」
縁はあっけらかんと言う。
しかしその笑顔には、どこか活気が足りていない。
さすがに、可愛がっていたウサギを食べてしまったショックは尾を引いているようだった。
「……もし良かったら、またうちにいらしてください。今度こそ、美味しい料理をご馳走しますから」
「え……」
綾の言葉に縁は無意識に身を退いた。
「あ、うん。また機会があったら、遊びに行かせてもらうね」
あははと、いつもの笑いを浮かべる。
その笑顔に紛れもない恐怖の色を感じ取った綾は、
「来たくなったらいつでも来て下さい。楽しみにしていますからね」
どこか確信に満ちた声で、そう言った。




ちなみにテストの方は勉強した甲斐あってか、陽一はそれなりに良い成績が残せた。
縁はというと、月曜日の科目は軒並み点数を下げたが、それでも圧倒的な出来であった。
そして綾は、数Ⅰのテストで、何と平均点を割ってしまった。
「どうして数Ⅱができて数Ⅰができないんだよ」
という陽一の問いに、綾は拗ねたように顔を背けるのであった。


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最終更新:2011年10月27日 23:33
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