終の綾2

642 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:05:51 ID:mryNMq9n
夕里子が校舎の屋上から身を投げたことについて、警察の捜査はこれといった進展を見せなかった。
関係者から話を聞いたものの、事件なのか事故なのか自殺なのか、結局はっきりとしたことはわからず、本人の目覚めを待つほかないという流れになっていた。
夕里子の容態も落ち着き、命については別状無し、と医師からのお墨付きも出た。
ただ、意識が戻るかどうかについては、言葉を濁らせていた。
「明日目覚めるかもしれないし、ずっと先になるかもしれないし……わからないんだって」
「そう。でも、まずは命が助かったことだけでも喜びましょう」
小夜子から夕里子の容態についての連絡をもらった綾は、沈んだ声色の小夜子を二言三言励まして受話器を置いた。
「だそうよ、お兄ちゃん」
居間のソファに座った陽一を見る。
陽一は、夕里子の投身以来、目に見えて落ち込んでいた。
「夕里子さん、助かったのか」
「命はね」
陽一の表情に喜色が湧くのを見て、胸の奥で軽い嫉妬の感情を抱きながら、綾は陽一に絡みつくようにして隣に座った。
「お兄ちゃん、嬉しそうね」
「当たり前だろ。嬉しくないわけがない」
「元恋人でも心配なんだ」
綾の不機嫌な声に、陽一は押し黙る。
「他人の心配より、自分の心配をしてよね。またお兄ちゃんに悪評が立っちゃったんだから」
「……別にいいよ、そんなの」
基本的に、自分のことはそれほど顧みない人だということは知っている。
綾はやれやれと首を振った。
「まあ、いいけどね。少しでも元気が出たのならそれで。このところ、どっちが死人だかわからないような有り様だったものね」
ちらりと、上目遣いに兄を見上げる。
「ね、お兄ちゃん、安心したところで、久しぶりに……」
耳元で囁いて、唇を頬に寄せたが、陽一は顔を逸らして拒絶の意を表した。
「ごめん……そういう気分じゃないんだ」
「あ、そ。まあいいわ」
陽一が色々気にする性質なのは充分に知っているし、夕里子のことを振り切れていないこともわかっていた。
(ま、焦ることはないわね)
いまや綾と陽一の仲を邪魔するものはいないのだ。
夕里子は完全に退場した。
縁も、夕里子という媒介がいなくなった以上、しばらくは何もできない。
夕里子の周辺で起きた事件については、森山に罪を着せる工作はどうやらうまくいったようで、ここしばらくストーカー少年Aとして大々的に報道されていた。
校内での陽一の評判がすこぶる悪いという以外は、全てが順調だった。
(まあ、そのあたりについてはおいおい考えていきましょう)
うっすらと笑い、綾は立ち上がった。
「さて、お兄ちゃん、今日の夕食は何がいい?」
問いかける綾に、陽一はソファーに深く腰掛け、俯いたままで答えない。
「お兄ちゃん?」
「夕里子さん……本当に良かった」
「聞けよ、こら」
頭を小突かれてようやく陽一は綾に顔を向ける。
「あ、ごめん。なに?」
「まったくもう……」
陽一の心は夕里子に囚われている。
正直妬ましくはあったが、綾はあくまで寛容な姿を見せるべく努めた。
(お兄ちゃんは私だけを見るって約束してくれたんだもの。今全てを手に入れられなくても、いつかは……)
見苦しい嫉妬を全開にして兄を困らせることは本意ではない。
ここは本妻としての余裕を見せていこう。
そう思っていた。

が――


643 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:06:55 ID:mryNMq9n
「そういうわけで、付き合うことになった。小夜子ちゃんと」
最愛の兄にそう告げられた時、綾の頭からは、余裕もなにも全て吹き飛んでしまった。
「は?」
「付き合うことになったのよ……陽一さんと」
さらに追い討ちをかけるように続く、親友の言葉。
十一月の冷たい風に吹かれて、綾はふらふらとよろめいた。
「じょ……冗談でしょう?」
久しぶりに一緒に帰ろうと陽一から誘われた。
腕を組んで二人寄り添って歩いた。
「放課後デートの誘いだなんて、お兄ちゃんも言うようになったわね」
などと喜び勇んで行った先の公園に、居たのは親友の小夜子。
そして告げられた信じがたい言葉に、それまでの浮ついた気持ちはいっぺんに消し飛んだ。
綾が生涯で一番の衝撃を受けた瞬間と言っても過言ではなかった。
「あのね、二人とも、季節を勘違いしていない? エイプリルフールはまだまだ先よ」
「冗談でも嘘でもないんだ。本気で小夜子ちゃんと付き合うことにしたんだよ」
「ふぅん。本気で……へえー……」
何度か頷いて、綾は突然がくんと膝を折り、地面に崩れ落ちた。
「ちょ、ちょっと綾? そんな大げさな……」
慌てて駆け寄った小夜子が差し伸べた手を、綾は冷たく打ち払う。
ゆっくりと顔を上げて、小夜子を見た。
「綾……?」
病的なまでに青ざめた顔に、薄い笑いを浮かべる美しい少女。
前髪の隙間から覗く目には異様な眼光を宿し、視線で人を殺そうかというような、強い敵愾心を放っていた。
「……!」
今まで綾から決して向けられたことの無かった感情に、小夜子は動揺し、自然と身を引いてしまった。
「はは、冗談きついわね」
スカートについた土を払い、綾がゆらりと立ち上がる。
秋の彩りが失せ、冷たい冬の色に染まった公園を、木枯らしが通り過ぎた。
「どういうつもり?」
陽一を睨みつけて、綾は言った。
「不謹慎だと思わないの? 小夜子は夕里子さんの従妹なのよ? それまで付き合っていた女の子が意識不明で入院中に、その従妹に手を出すなんて、かなりよろしくないことだと思うけど」
さらに綾は小夜子を見た。
「あんたもあんたよ。夕里子さんがいなくなった途端に泥棒猫? 随分とお上品な真似をするのね」
「う……」
綾の言葉に、陽一も小夜子も押し黙ってしまう。
並んで立つ二人の肩に手を置き、綾は打って変わって穏やかな声で言った。
「ま、今なら気の迷いか冗談で済ましてあげるわよ。はい、二人とも、ごめんなさいは?」
微笑みながら促す綾に、二人は気まずげな表情のまま押し黙っている。
「やれやれ……寒さで脳みそが凍えちゃったのかしらね、二人とも」
仕方ないな、と笑う綾。
「ねえ、二人のしようとしていることは、夕里子さんへの義理を欠くことだとは思わないの?」
「……よくないことだとは思う」
陽一の呟きに、小夜子も小さく頷いた。
「そうよね、よくないわよねえ。じゃあ、私に対してはどうだと思う? 許されることだと思ってるの?」
小夜子が口を開こうとするのを、綾は手で制した。
「ああ、小夜子はいいのよ。黙ってて。友達の兄を好きになることくらい、あるものね」
「綾、私は……」
「黙ってろって言ってるのよ」
一言で小夜子を黙らせて、綾は陽一を見つめた。


644 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:07:36 ID:mryNMq9n
「お兄ちゃん……わかってるわよね。お兄ちゃんのせいで私がどんな目に遭ったか、忘れたわけじゃないわよね?」
苦しげに陽一は顔を歪ませ、言葉を詰まらせた。
忘れるわけがない。
大切な妹が泣きながら帰ってきた夜を、忘れるわけがないのだ。
「……色々考えて決めたことなんだ」
「色々、ねえ……」
陽一の辛そうな表情を見て、ふむと綾は頷く。
冷たい水に澱みが沈むように、胸の内の熱くたぎった感情が治まっていった。
(落ち着こう……私がお兄ちゃんを信じなくてどうするの)
綾の知る限り、陽一は他人に対して義理を欠く行為を進んでやる人間ではない。
たとえ己の不利に働こうと、正しいと思ったことを貫く人物だった。
(でも、お兄ちゃんは、ちゃんと自覚して言っている……私と夕里子さんに対して、不義理を犯していることをちゃんとわかってる……)
そして小夜子。
先ほどまで親友と思っていたこの娘に対する綾の人物評も、陽一に対するそれと近いものがあった。
(よりによってこの二人が、こんな最悪の裏切りをするなんて、おかしいわよ)
陽一が綾と夕里子を裏切るに足ると判断する動機、小夜子が夕里子を裏切るに足ると判断する動機。
そこには自らの信念を曲げてでも達成しなければならない、大きな目的があると思われた。
しかし、陽一と小夜子が付き合うことで、一体何が得られるというのか。
(わからない……)
目の前の二人が夕里子を裏切ってまで得ようとするものの正体が、まったく掴めなかった。
日が落ちて、夜の冷たい空気が舞い降りる中、陽一と綾は見つめあった。
「……お兄ちゃん、前に、私に隠し事はしないって約束したの、覚えてるわよね」
「ああ……」
「何か私に話すことは無い?」
「無いよ」
木枯らしが吹き、綾の長く伸びたツインテールが風に揺れた。
「ふふ……あっはは! ははは……! あはははははっ!」
「あ、綾?」
不意の哄笑に、陽一が心配して声をかける。
綾はしばらく腹を抱えて笑った後で、優しく二人に語りかけた。
「ま、いいわ。そうまで言うなら無理に止めないわ。勝手にしなさいよ。ただし、私があんたたちをどう思うかも好きにさせてもらうけどね」
言って踵を返す。
公園には、不安そうな面持ちで身を寄せる陽一と小夜子が残された。


645 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:08:17 ID:mryNMq9n
綾は家には帰らず、すぐに携帯で電話をかけた。
相手は他の誰でも無い、宇喜多縁その人だった。
会いたいという綾の頼みに、縁は快く応じた。
指定されたのは、夏に縁に呼び出された時と同じ喫茶店だった。
「で、何を吹き込んだの? お兄ちゃんと小夜子に」
顔を合わせるなり綾は、テーブルを叩いて縁を問い詰めた。
「いきなりだね。さすがに話が見えないよ」
「とぼけるんじゃないわよ。またあなたが何かくだらないことを言ったんでしょう」
「まあまあ、落ち着いて。あんまりテーブルを揺らすと、コーヒーがこぼれちゃうからさ」
立ち上る湯気で、縁の眼鏡が薄く曇る。
カップを叩き落して怒鳴りつけたくなる衝動を抑えながら、綾は経緯を話した。
「そっか。支倉君と小夜子ちゃん、付き合うことになったんだ」
「今初めて知ったかのような口ぶりね」
「今初めて知ったんだからそうなるよ」
いかにもおかしそうに縁は笑う。
「あの二人は夕里子さんを裏切るような真似ができる人間じゃないわ。あんたが何か言ったんでしょう」
「ご期待に添えなくて悪いけど、私は何も知らないよ」
「嘘ね」
「本当だよ」
縁は眼鏡の向こうから、綾の目を真っ直ぐに見据えた。
「どうかな? 私が嘘をついているように見えるかな?」
「見えるわね」
「あらら。せっかく格好良く決めたのに」
困ったねといつもの軽い調子で言う縁に、綾は内心で舌打ちした。
このままでは水掛け論であり、進展は望めない。
いっそ表に連れ出して爪を剥がしながらでも聞いてやりたかったが、縁が無用心にこちらの指示に従うとは思えなかった。
「たとえ不謹慎でも、好きになっちゃったら関係ないって人は結構居るし、普通に二人が好き合って付き合うことになったとは思わないのかな?」
「ありえないわね」
「なるほど。綾ちゃんは支倉君と小夜子ちゃんを本当に信頼してるんだね」
縁は小さく拍手をして、賞賛した。
「そのわりに、どうして二人が付き合うことにしたのかはわからない、と」
呆れたような縁の口調に、綾は苛立ちを募らせる。
「何が言いたいのよ」
「綾ちゃんて、意外に自分への評価は低いんだねえ」
縁は人差し指を綾に向けた。
「綾ちゃんのためを思ってのことしかないでしょ。あの二人が夕里子ちゃんを裏切ってまで何かするとしたら」
「は?」
「綾ちゃんの将来のために良くないと思ったんだよ。どんな理由であれ、必要以上に兄妹が仲良くするのは」
「……!」
なるほどと綾は思った。
陽一はもともと実妹である綾との肉体関係に罪悪感を感じているし、小夜子は育ちの良さもあって常識と良識が備わっている。
陽一は「綾の将来のため」という理由から、小夜子は「倫理に反する」という理由から、それぞれ行動を起こしてもおかしくはない。
(お兄ちゃんが別の女に興味を示しているところを見せて、私に諦めさせようってことかしら……)
お粗末な策だが、納得のいく解答だった。
「縁さん、いいの? 私にそんなことを言って」
「何が?」
「二人の意図を私に漏らしたらまずいんじゃないの? あなたも一枚かんでいるんでしょう?」
「いやいや、本当に私は知らないよ。せっかく綾ちゃんが相談に来てくれたからにはお役に立ちたいと思って、自分の考えを言っただけだから」
どうだか、と綾は思った。
(縁はお兄ちゃんと私の関係に確信を持っているわ。ただの推測で全部言っているのかもしれないけど……)
陽一が相談した可能性は大いにあった。
その相談に乗って縁が知恵を貸したのだとして、ここでそれを包み隠さず話す理由は何なのか。
「綾ちゃん、悩んじゃってるみたいだけど、私だったらもう少し効果的な手を使うからさ。それこそ、支倉君と綾ちゃんが仲睦まじく過ごす姿を撮って、あること無いこと付け加えて、匿名で綾ちゃんの家族か親戚に送るくらいはするよ」
「確かにそうね。今回のやり方は、あんたの底意地の悪さが見えないわ」
「褒めて……ないよね?」
力なく笑い、縁はコーヒーを口に含んだ。
「帰ります」
「あれ、もう? 何か飲んでいかないの?」
「ええ。あまり縁さんと顔を合わせていると気分が悪くなるので」
綾はテーブルの上に千円札を置き、しょんぼりとした様子の縁を残して喫茶店を出た。


646 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:09:22 ID:mryNMq9n
当然綾は縁の言を鵜呑みにしたわけではなかった。
気まずそうに家に帰ってきた陽一の上着を受け取り、携帯電話を即座に調べた。
「なるほど、ね……」
小夜子とのメールのやり取りの跡が、そこには残されていた。
『綾がわかってくれるまでだから。ごめんね』
『気にしないでください。私も望んでしていることですから』
思わず笑いを漏らしてしまう。
「まったくもう、お兄ちゃんも小夜子も可愛いものね」
あまりにお粗末だった。
ここまで穴だらけだと、確かに縁は関与していないのかもしれない。
「まあ、厳しく当たるほどのことでもないわね」
正直余計なお世話ではあるが、自分のためを思ってのことだというのなら、悪い気はしない。
さすがに小夜子に危害を加えるのは気が引けた。
そんなことをしなくても、要は二人の行為がまったくの無意味であることを示せばよいのだ。
二人の企みに関係なく普段通りにしていれば、いずれ陽一も小夜子も自分達のしていることが徒労であることに気付き、諦めるだろう。
「でも、お兄ちゃんにはちょっとお仕置きしておかなくちゃね」
とりあえず今夜は兄に夜這いをかけることにしよう。
密かに心に決めて、綾は小さく微笑んだ。
それから綾はいつも通り陽一への愛情を存分に示して過ごしたが、一週間経ったその日の晩、少し遅めに家に帰ってきた陽一の様子がおかしいことに気がついた。
何がおかしいかというと、雨でもないのに後頭部の髪の先が濡れていた。
通り過ぎた後に石鹸のかぐわしい香りがした。
それこそ、まるで風呂上がりであるかのような様子だった。
いつも通り平然とした顔で上着を受け取り、陽一が去った後で入念に匂いをかぐ。
微かだが、小夜子の匂いがした気がした。
(外でお風呂に入ってきた……?)
嫌な予感がして、いつも通り携帯電話を調べると、やはりメールのやりとりが残っていた。
『ごめん』
『私からお願いしたんですから、気にしないでください。初めてが陽一さんでよかったです』
簡潔だが、綾にとってはこれ以上無い破壊力を含んだ内容だった。
さらに、深夜陽一が寝入っている時に財布を改め、そして見つけたのがラブホテルの割引券と避妊具だった。
「えーと……」
綾は視界がぐにゃりと歪むのを感じた。
まず単純に推測できる事柄は、陽一と小夜子がラブホテルに行ったということだった。
付き合うふりの一環としてラブホテルに行ったというのなら、それは笑って済ませられる。
問題は、陽一と小夜子が性交渉を持った可能性があるということだった。
「お、落ち着け、私。そう、このメール自体が私に二人が本気で付き合っていることを示すための見せメールの可能性も……」
それはない。
自分の言葉を、綾はすぐに胸中で打ち消した。
財布の中の割引券や避妊具は、陽一と小夜子の仲が深いものになったことを綾に示す道具として用意された可能性はある。
しかし、メールは違う。
陽一と小夜子が付き合うことを宣言したその日、二人があくまで付き合うふりをしているのだということを、綾は陽一の携帯電話のメールで確認した。
付き合うふりをしていることがばれていてはその後どんな演技をしても意味が無い以上、携帯電話のメールは綾に見られることを想定されていないことになる。
「つまり……ここに書かれていることは……」
真実――
改めて兄の携帯電話を開いて、綾は手を小さく震わせた。
目の前のベッドで寝息を立てている兄を叩き起こしたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえた。
『私からお願いした』
メールにはそうあった。
(私は……とんでもない思い違いをしていたのかもしれない)
小夜子が本気で陽一のことを好きだったとしたら――
陽一は綾の将来のためを思って付き合うふりをしているつもりでも、小夜子はそうではないとしたら――


647 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:10:27 ID:mryNMq9n
一週間の遅れを取り戻すかのように、綾は迅速に動いた。
翌日は折り良く体育の授業があったので、隙を見て抜け出し、小夜子の携帯電話を確認した。
「あら……? この携帯電話……」
いつの間に替えたのか、小夜子の携帯電話は綾の記憶にあるものと違っていた。
「買い替えたのかしら」
そんな話はまったく聞いていない。引っ掛かりを感じたが、今はそんなことを気にしている場合でも無い。
小夜子が陽一と付き合っているふりをしている、その本当の意図の確認が先だった。
「これは……」
携帯電話には、陽一との連絡以外に、宇喜多縁とのメールのやり取りが残されていた。
『縁さんのアドバイスのおかげで、無事陽一さんと結ばれることができました。ありがとうございます』
『気にしないでいいよ~。綾ちゃんの様子はどう?』
『気付いていないみたいです。むしろ陽一さんが気にしてしまっているので、しばらくは付き合っているふりを続けることにします』
『告白が成功したらパフェおごってね!』
疑惑が確信に変わった。
不自然な笑いに顔を引きつらせ、怒りに体を振るわせながら綾は呟いた。
「小夜子……やってくれるじゃない……」
メールを見るに、やはり陽一はあくまで付き合っているふりをしているつもりなのだろう。
しかし小夜子は違う。
小夜子は本当に陽一を愛している。
綾の将来を思う陽一の気持ちを利用して、擬似的にでも彼女となり、陽一に近付こうとしているのだ。
そして、どんな手管を使ったのかわからないが、陽一と肉体関係を持ってしまった。
「縁は、だからあの時あっさり私に話をしたのね」
綾は見事に引っかかってしまったのだ。
用意されていた答えに納得し、途中で思考をやめてしまった。
縁の真の意図は、綾に付き合っているふりを容認させ、小夜子が陽一と親密になる時間を稼ぐことにあったのだ。
「これよね……あいつらしい、底意地の悪い手だわ」
縁と小夜子に対する憎しみの想いが綾の胸の内に生じ、燎原の火のごとく燃え広がった。
あくまで自分の邪魔をする縁が許せなかった。
陽一の気持ちを利用し、自分を裏切った小夜子が許せなかった。
こんな間抜けな失敗で陽一の体を穢させてしまった自分が許せなかった。
そして放課後、陽一と小夜子の提案が、さらに綾の心を追い詰めた。
「綾、今週末に、小夜子ちゃんが家に泊まりで遊びに来ることになったから」
「は? 何しに来るのよ」
「何しにって……遊びに行きたいなって。綾の家、私、一度も行ったことが無いじゃない」
綾の問いに答えたのは小夜子だった。
「遊びに、ねえ……ラブホテルの代わりに使われても困るんだけど」
小夜子が裏切り者とわかった今、自然目つきはこれまでに無く厳しいものになり、小夜子を威圧した。
「ラ、ラブ……そんなんじゃないわよ!」
「……そもそも、他人を家に呼ぶのは、あまり好きじゃないのよ」
やんわりと拒絶を口にするも、その言葉は、小夜子の隣を歩いていた陽一にすぐに打ち消されてしまった。
「何だ、いいじゃないか。小夜子ちゃんなら、綾も他人ってわけじゃないだろ。親友なんだから」
「お兄ちゃん……」
それは昨日までのことなのよ――
「両親も居ないし、無駄に部屋も余ってるから、是非とも遊びに来てくれよ」
そんなに嬉しそうに言わないで――
「あ、私、お夕食を作っていいですか? 陽一さんにも綾にも食べて欲しいんです」
私の居場所を奪わないで――
「おお、いいね。大歓迎だよ」
お願いだから、これ以上私に嫌なことをしないで――
二人のやり取りは、綾の憎悪の気持ちを最大限にまで高めることとなり、和気藹々と話す二人の傍らで、いつの間にか綾は無言となっていた。
そんな綾を横目でちらりと見ながら、さらに小夜子は陽一と仲睦まじく触れ合ってみせる。
その胸中には、漠然とした不安が広がっていた。
(全部縁さんの言う通りに進んでいる……)
小夜子は喫茶店での縁との会話を思い出した。


648 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:11:54 ID:mryNMq9n
普通に陽一と小夜子がただ付き合うふりをしても、綾はそれが演技だと見抜いてしまうだろうと縁は言った。
「演技だと気付かれた時点で、綾ちゃんを嫉妬させて反応を見ることができなくなることはわかるよね」
「まあ、そうですね」
「演技だと気付かれないように、支倉君と小夜子ちゃんに頑張ってもらえればいいんだけど、さすがに綾ちゃんの目は欺けないと思うんだ」
小夜子も、綾の鋭さについては同意するところで、深く頷いた。
演技だと気付かれては、内偵は意味を為さなくなる。
「それでどうするかというと、演技だと気付かれても問題が無いようにすればいいわけだね」
「簡単に言いますけど……どうやってですか?」
「支倉君と付き合うふりをすることそれ自体が目的なんだって、綾ちゃんに思わせればいいんだよ」
「よくわかりません」
縁はメモ帳を取り出して、綺麗な字で書き記した。

①支倉陽一が卯月小夜子と付き合う=支倉綾のブラコン脱却のために付き合うふりをしている
②卯月小夜子が支倉陽一と付き合うふりをしている=支倉陽一と親密になるために付き合うふりをすることを利用している
③卯月小夜子が支倉陽一と親密になる=支倉綾の内偵をのために嫉妬を煽っている

「こういうことだね。小夜子ちゃんには、支倉君が綾ちゃんを心配する気持ちを利用して近付こうとする女の子になってもらうよ。もともと支倉君が好きだったってことでいいかもね」
「なるほど……」
「初めは①の解答を綾ちゃんに用意する。それで、しばらくして②の解答を見せつける。
こうすることで、二人の付き合うふりが演技だとばれていても、小夜子ちゃんの心は本気なんだって綾ちゃんには映るから、ちゃんと嫉妬させることができるわけだね。二重に裏を用意しているから、③がばれることはまずないよ」
小夜子は黙り込んで縁を見た。
「気に入らないかな。確かに小夜子ちゃんには、かなり汚い役をやってもらうことになるけど」
「いえ……よく思いつくものだなあと感心していたんですよ。大した念の入りようですね」
「そりゃ、あの綾ちゃんを相手にするわけだからね。気合も入るよ。あ、支倉君には言わないでね。綾ちゃんにまず間違いなくばれちゃうと思うから」
「……入る獣の居ない檻をいくら頑丈に作っても、最後に虚しくなるだけだと思いますけどね」
小夜子の言葉に、縁はおかしそうに笑うだけだった。


649 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:22:25 ID:mryNMq9n
期限無しで親友の兄の恋人を演じるのはさすがに辛いものがあるので、小夜子は今回の件を引き受けるに当たって、『二週間経って自分に何も被害が無かったら、綾への疑いを捨てること』という条件を縁に出していた。
(今日で一週間……あと一週間だけど……)
綾の反応も、行動も、全て縁の言った通りにこの一週間進んでいた。
最初陽一と付き合うと宣言した時は過剰なまでの衝撃を受け、恐ろしい目で縁を見つめてきた。
しかし次の日には穏やかに、時折皮肉を言う程度になっていた。
そして先日、陽一と肉体関係を結んだかのような偽装をした後では、無表情の仮面の下に、溢れんばかりの敵意を抱えている。
(正直……怖い……)
小夜子はあくまで綾を信じている。
殺人鬼の話なんて、縁の妄言だと思っている。
それでも純粋に、綾の視線が、言葉が、仕草の一つ一つが怖かった。
何よりも恐ろしいのは、陽一と小夜子が何らかのアクションを起こすたびに、綾がその内実を一日とせずに掴んで、対応を変えてくることそのものだった。
(綾は……いつもどこかで見ているんだわ。私と陽一さんのことを……)
憧れという言葉には収まらない、妄執とも言うべき感情が綾の内にあることを、小夜子はこの一週間で察知していた。
縁の策通りに、今の綾は小夜子に強い憎しみを抱いている。
(今夜か……)
縁が予想した「最も危険な時」の一つが今夜だった。
綾は自宅に他人を招くことを極端に嫌う。
それを敢えて押し通せば、小夜子への嫉妬と合わせて、綾が行動を起こす強力な起爆剤になると縁は言った。
小夜子はスカートのポケットの中で携帯電話を握った。
一週間前に縁から手渡されたもので、これからはこの携帯電話を使うようにと言われていた。

「ワンタッチダイヤルの機能がついててね」
「ワンタッチダイヤル?」
「一から三の番号を長押しすると、それぞれの番号に対応して登録してある電話番号に電話をかけてくれる機能だよ」
「それが何か重要なんですか?」
「もう駄目だという場面になったら、これで私に電話して欲しいんだ。他に何もできなくても、ポケットの中で指を動かすことくらいはできると思うから。一から三まで、全部の番号に私の電話番号を登録しておいたからね」
首を傾げる小夜子に、縁は笑った。
「言ったでしょ、証拠を残さず死んだら意味が無いって。ちゃんと綾ちゃんが小夜子ちゃんを殺す瞬間を、記録に残しておかなくちゃね。それに、運が良かったら小夜子ちゃんを助けられるかもしれないし」

危険だと思ったら躊躇なくボタンを押すようにと、何度も念を押して言われたが、そんな場面が来ることは無いと小夜子は考えていた。
今までの綾との関係の変化が全て縁の言った通りのものだったとしても、その考えは変わらない。
しかし、綾との関係が今どうしようもないほどに悪化しているのもわかっていた。
(全部終わった後で謝れば綾は許してくれるよね)
そうなったら一緒に遊びに行って、思い切り仲良くしよう。
一週間後に思いを馳せて、小夜子は陽一と綾に挟まれて、夕暮れの道を歩いた。


650 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:25:36 ID:mryNMq9n
その週末、支倉家に泊まりに行った小夜子は、陽一と綾に手料理を振る舞った。
家できちんと教育を受けてきただけあって、料理は見事な出来で、陽一は何度も小夜子を称賛した。
綾は一言、「なかなかね」と澄ました顔で言ったきり、言葉を発することは無かった。
食後、小夜子が洗い物をしている最中、綾は陽一の顔を見て心配そうに声をかけた。
「お兄ちゃん、顔色が……」
「ん?」
「ちょっといい?」
陽一の額に手を当てて、熱を測る仕草をする。
「うーん……ちょっと熱があるかもしれないわね」
「そうか? 自分では何とも感じないけど……」
「一応お薬を飲んでおいた方がいいんじゃない?」
言って、救急箱をあさり、薬を一錠取ってきて陽一に手渡した。
「ちゃんと飲んでおいてよね。風邪をひかれたりしたら困るんだから」
「わかったわかった」
笑いながら、陽一は手渡された薬を綾の見ている前で飲み込んだ。
その夜、小夜子は綾の部屋で寝たいと申し出た。
「私の部屋で?」
「うん。お話しながら寝たいな……」
「いいわよ、無理しなくても。お兄ちゃんの部屋の方がいいんでしょ?」
「ううん。私、綾と色々話したい」
「……勝手にすれば」
綾のベッドの脇に客用の布団を敷き、小夜子が寝ることになった。
灯りを消して、二人とも布団に入る。
身を丸めるようにして、小夜子は綾の方を向いた。
「綾は豆電球つけないの?」
「悪い?」
「悪くはないけど……」
綾は全く会話をしようとしない。
冷たい反応にくじけそうになりながら、小夜子は思い切って聞いてみることにした。
「綾、怒ってる?」
「なんで?」
「陽一さんを取ったから」
「別に」
「ううん。怒ってるよ」
陽一と付き合って、綾の嫉妬をその身に受けてよくわかった。
綾は本当に陽一が好きで、何よりも大切に思っているということ。
その愛情の前では、親友と称していた自分との関係なんて、無に等しいということ。
「ホント、この一週間でよくわかった。綾にとって、陽一さんは本当に大事な人なんだよね……私とのこれまでの関係なんて、忘れちゃうくらいに」
「……」
「わかるよ。悲しいけど、わかる。綾と陽一さんには、私が綾と知り合うずっと前から築いてきた関係があるわけだし、私なんかが割り込む余地はないってこと、わかってる。綾にとって陽一さんが、無くてはならない支えになっているのもわかってる」
でも、と小夜子は声を振り絞った。
「でもさ……一本足で立つよりかは、二本足で立つ方が、きっと安心だと思うんだよね。うん、楽だと思うのよ。一本足だと前に進むのに歯を食いしばってケンケンしなきゃいけないけれど、二本足なら笑いながら歩いていけるでしょ。
だからね、陽一さん以外にも、支えがあってもいいんじゃないかって思うの。
陽一さんみたいにはなれなくても、綾と一緒に居たいって思っている人間なら、ここにいるから……綾にとってはちっぽけな私なんてちっぽけな存在なのかもしれないけど、私は綾のこと好きだから」
「うるさい」
「綾のこと大好きだから……いつでも、どこでも声をかけてね。綾は強い子だからケンケンでも歩き切っちゃうのかもしれないけど……私は、笑って歩いている綾が見たいから」
「うるさい!」
小夜子は口をつぐんだ。
それから二人は一言も発することなく、やがて小夜子は眠りに落ちていった。


651 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:27:07 ID:mryNMq9n
目が覚めたのは真夜中だった。
机の上に置かれている時計を見ると、午前二時を少し過ぎたところだった。
「……何でこんな時間に目が覚めたんだろう」
トイレに行きたいわけでも、喉が渇いたわけでもない。
本当に何となく、小夜子は静寂の夜に目を覚ました。
「枕が違うからかな……」
身を起こして、ふと綾のベッドを見る。
「あれ……?」
そこに眠っているはずの少女の姿は無く、布団だけが温かみを残して横たわっていた。
「寝顔見たかったのに……トイレかしら」
部屋をぐるりと見回す。
思えば、綾の部屋に入ってすぐに灯りを消してしまったので、綾の部屋をじっくりと見ることができなかった。
「綾の部屋……」
大好きな友人が普段過ごしている空間に、純粋に興味があった。
どんなものを置いているのか、どんな本を読んでいるのか。
そして、すぐに気がついた。
寝る前は机の前に置かれていた椅子が、不自然な位置に移動していることに。
「あれ……? ここじゃなかったわよね、確か」
何とは無しに椅子の置かれた周囲を見ていると、天井板が微かにずれて、暗闇の中にさらに真っ暗な空間が口を開けているのが見えた。
「何だろ……?」
綾は戻ってくる気配は無い。
ひょっとしたら、秘密の日記とか、宝箱でも隠してあるのかもしれない――
本当に何気ない興味だった。
「ん……よいしょと……」
椅子に乗り、天井板をさらにずらして、暗闇に手を入れる。
すぐに指先に何かが当たった。
「箱……?」
慎重に、落とさないように注意して、天井裏から箱を取り出す。
それなりに容積のある箱だった。
「本当に宝箱……?」
床において、そっと蓋を開く。
真っ先に目に入ってきたのは、幅広い刃のついた鉈だった。
「何……これ」
金槌、包丁に、異常な刃渡りのナイフが数本。
束ねられた細いワイヤーに、透明な液で満たされた小瓶も入っていた。
恐る恐る鉈を手に取ると、闇に慣れた瞳には、その刃に黒い斑点がついているのが見て取れた。
「何なの……?」
さらに、箱の隅からは、何枚かの写真が出てきた。
綾と小夜子が卒業した中学校の制服を着た、女子の写真だった。
小夜子には見覚えがあった。
「確か……一つ上の学年で、ご家族と一緒に火事で亡くなった……」
縁の声が頭に蘇る。
被害者のうち三人は綾の出身中学の生徒で、さらにその家族が十五人亡くなっていると言っていた。
自分も含め、綾以外にも同じ中学校から現在の高校に上がってきた者はいるし、被害者との出身中学の一致なんて何も特別なことでは無い。
しかし、なぜ綾がわざわざその被害者の写真を持っているのか。
(そんなわけはない……あれは縁さんの妄言であって、現実にそんなことがあるわけは……)
殺人鬼という言葉が思い起こされた。
何度も自分自身にそんなわけはないと言い聞かそうとするが、気付いたら鼓動は早くなり、体全体からじんわりと汗をかいていた。
「こんばんわ。何してるのかしら?」
背後からの声に、肩をびくりと震わせて振り向く。
部屋の入り口に寄りかかるようにして、綾が立っていた。


652 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:27:48 ID:mryNMq9n
「あ、綾……どこに行ってたの?」
「お風呂場よ」
答えて、綾が一歩近付く。
同時に小夜子が一歩部屋の奥へ退いた。
「お風呂場って……どうしてこんな時間に?」
「朝のお風呂に備えて、温めておこうと思って」
綾の手には、黒い棒状の物体が握られていた。
小夜子の知識ではそれが何かはわからなかったが、人に危害を加えるための道具であろうことは想像がついた。
「綾……それは、何に使うものなの?」
「これはね、スタンガンよ。強力なね。人を動けないようにするのに便利なのよ」
また綾が一歩近付く。
小夜子の後ろはもう壁だった。
「それで、小夜子、あなたは何をしていたの?」
「私は……その……」
「いけないわね。勝手に人の部屋を物色するなんて。泥棒猫の次は、本当の泥棒でもしようと思ったの?」
綾は小夜子が手に握った写真に目をやった。
「泥棒猫がどうなるか……その様子だと、わかっちゃったみたいね」
「……綾……あなた……」
また一歩、解いた黒髪を揺らして、綾が小夜子に近付いた。
「綾……あなた……本当に……人殺しだったの?」
小夜子の問いに答えることはなく、綾はただうっすらと笑い、切れ長の目を細めて小夜子を見た。
その目を見た瞬間、小夜子はわかってしまった。
縁の話は本当だったのだと、自分の親友は犯罪者だったのだと、わかってしまった。
「小夜子……あなたが悪いのよ。私からお兄ちゃんを奪おうとするから」
「綾……」
「騒いでも無駄よ。お兄ちゃんは、『風邪薬』のおかげでぐっすり眠ってるからね」
騒ぐつもりは毛頭無かった。
小夜子の心は恐怖よりも悲しみに満ちていた。
自分は綾のことを何も知らなかった――そう思うとあまりに悲しくて、気付いたらぽろぽろと涙を流していた。
「綾、警察に行こう」
泣きながら、しかし毅然とした声で小夜子は言った。
「警察に行って、全部話そう。綾がやってはいけないことをしたのだとしたら、罪を償わなきゃ駄目だよ。私も一緒に行くから……」
自然と言葉が流れ出てきた。
今この状況で、自分が綾のために最大限出来ることは何か――その想いから生み出される言葉だった。
しかし、返ってきた言葉は冷たいものだった。
「何を言っても無駄よ。私のお兄ちゃんを穢したあなたを、許すわけにはいかないわ」
それに、と綾は床に置かれた箱を見た。
「色々見られちゃったみたいだからね。あなたについては、殺すしか解決が無いみたいなのよ」
綾の犯罪の記録が詰まったあの箱を小夜子が見てしまったからには、脅しで済ませるわけにはいかない。
完全に口を封じる必要があった。
「本当にねえ……私のお兄ちゃんに興味を持たなければ、こんなことにならなかったのにね」
「興味を持つなっていうのは……無理な話だよ」
もう駄目かな――そう思いながら、小夜子は頬を染めて笑った。
涙をぽろぽろ零しながら、笑った。
「大好きな友達に興味を持たないなんて、絶対無理だよ」
次の瞬間、綾の一撃によって小夜子は昏倒した。


653 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:29:01 ID:mryNMq9n
陽一に飲ませた薬は、佐久間愛の母親に飲ませたものと同じで、効きは速いが効果が短い。
できるだけ手早く作業を済ませなければならなかった。
気を失わせた小夜子の体を引きずるようにして、風呂場に持って行き、寝巻きを脱がして脱衣場の床に横たえた。
「携帯電話……?」
寝る時にまで携帯電話を身につけているものだろうか。
疑問に思ったが、今は他にやるべきことがあるのだからと、ひとまず置いておくことにした。
一糸纏わぬ姿となった小夜子を抱きかかえ、湯気の立ち込める風呂場に入る。
温めておいた湯船に小夜子の体をゆっくりと浸からせるた。
「小夜子……」
入浴中の溺死による死亡は、日本においてはかなりの件数に上るうえ、剖検率は極めて低く、大抵は見たままの事故として処理される。
自宅で殺すには一番良い手だと、綾は考えていた。
「あなたが悪いのよ……小夜子……」
最愛の兄を奪おうとしたのみならず、偶然にも綾の殺人の証となりうる凶器の数々を見てしまった。
殺すしかない。
小夜子は、殺す以外の選択は無い。
「そう、殺すしかないわ。お兄ちゃんと私の幸せのために」
呟いて、目を閉じたままぐったりと湯船に浸かっている小夜子の頭に手を置く。
小夜子の肩までの黒髪が湯に触れて、微かに揺れた。
この手を押し下げて数分待てば、全ては終わる。
小夜子は正真正銘溺死し、陽一を奪おうとする存在はこの世から消える。
途中で目が覚めたとしても、感電のショックの直後では思うように抵抗もできないだろう。
本当に、今この手を下げて小夜子の顔を湯に入れるだけで、全ては終わるのだ。
「馬鹿よね。おとなしく私の友達のままでいれば良かったのに。そうすれば、死なずに済んだのに」
朝までに、自分が小夜子を殺した痕跡は完全に消しておかなければならない。
確実に警察を家に入れることにはなるから、あの箱を含め、自分の部屋は少し整理しておいた方がいいだろうと思われた。
だからさっさと殺さなければならない。
やることはたくさんあるのだから、すぐに殺さなければならない。
綾の白い手が動く。
が、小夜子の頭は湯の中に沈まなかった。
その手は、小夜子の髪を撫ぜるように、緩やかに動いただけだった。
「小夜子……」
二度三度と髪を撫で、手は動きを止める。
無表情だった口元が小さく震え、綾は声を詰まらせた。
「小夜子……!」
苦しげな吐息が風呂場に反響した。
「馬鹿……! 小夜子の馬鹿……! どうして……どうして私の友達で居てくれなかったのよ……! 親友だって言ったのに、どうしてよ……!」
殺さねばならない。
殺さなければ、陽一は小夜子に奪われてしまう。
自分が警察に捕まる可能性も高く、そうなれば陽一との幸せな生活が完全に失われてしまう。
小夜子は殺す以外に選択肢が無いのだ。
「そうよ……殺すしか……ないのに……」
綾の目から、ぽろりと涙が零れた。
一度落ちた涙は止まらず、次々と溢れ出て、ついに綾はどうしようもなく泣き出してしまった。


654 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:31:21 ID:mryNMq9n
自分のことを大好きだと言ってくれた級友。
それすらも兄に近付くための謀略だったのかもしれない。
「でも……でも……!」
小夜子を沈めようとしても、手が動かなかった。
一年以上に及ぶ小夜子との思い出が、綾の脳裏に次々と蘇る。
いい子だと思っていた。
自分なんかと一緒に居る人間ではないと思っていた。
母にすら疎まれた自分が、こんな子にとっての価値ある存在になれるわけはないと思っていた。
だから何度も邪険な態度を取ったのに、小夜子は綾を大好きだと言って、いつも傍に居ようとした。
「あなたがお兄ちゃんを取らなければ良かったのに……! あなたが余計なものを見なければ良かったのに……! そうしたら……そうしたら、私もあなたを大好きでいられたのに……!」
自分自身の言葉に、綾は愕然とした。
そう、自分は大好きだったのだ。
卯月小夜子という人間が、たった一人の親友が大好きだったのだ。
小夜子が纏わりついてきたから仕方なく一緒にいたのではなく、小夜子が大好きだったから一緒に居ることを望んだのだ。
「でも……今じゃ……お兄ちゃんを奪おうとしたから……大嫌い?」
そんなわけないじゃない。
すぐに心の中から否定の声が上がった。
今も大好きだった。
こんな曲がった自分にいつも笑って接してくれて、ずっと傍に居てくれた親友が大好きだった。
好きで、好きで、どうしようもなく大好きで、今でも変わらなく好きだった。
「お兄ちゃん……ごめん……私……お兄ちゃん以外に、好きな人がいたよ……」
絶望だった。
自分には陽一しか居ない。
陽一が居なければ自分は存在できない。
そう思っていたから、これまで何でもやってこられた。
陽一を奪おうとする者は消し、陽一を害する者も消し、陽一と二人で幸せになる道を純粋に目指してこられた。
なのに――
「私……お兄ちゃんだけじゃなかった。小夜子も好きだったよ……お兄ちゃん。ごめん……ごめんね……私……小夜子を殺せないよ……」
陽一と二人で幸せに暮らす、そんな思い描いていた未来が、音を立てて崩れ去った。
小夜子を浴槽から引き上げ、脱衣場の床に寝かせてタオルをかける。
そうして綾は、しばらく声をあげて泣いた。


655 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:32:38 ID:mryNMq9n
数分間、綾は子供のように泣いたが、泣いている場合では無いとすぐに気持ちを改めた。
小夜子を生かした以上自分は警察に捕まる。
小夜子はあの箱を見て、綾のやってきたことに気付いてしまった筈だった。
「今からでもあの箱を処理してしまえば……今まで殺してきたことの証拠は完全になくなる……?」
すぐに綾は首を左右に振った。
一度でも疑われてしまったら、もう敗北なのだ。
自分では完全にやってきたつもりでも、これまでやってきた全てのことにおいて証拠が残っていないとは考えにくい。
実際殺されかけた小夜子の被害届けがあれば、警察はある程度力を入れて調べてくるだろう。
「駄目よね……。小夜子を殺せなかった時点で、私の負けなのよね」
だとしたら、やることは決まっていた。
自分が殺人罪で捕まったら、後に残された陽一は、とんでもない被害を被ることになる。
どれだけの罪が明らかにされるかはわからないが、複数人を殺していることがわかってしまえば大々的な事件として扱われ、恐らくは全国に報道されることになるだろう。
人殺しの兄として、陽一が周囲から孤立することは大いに考えられる。
これから先の人生、常に人間関係には苦労し、進学や就職にも悪い影響が出るだろう。
「私がやるべきことは……お兄ちゃんへの被害を減らすこと」
やはり部屋の整理の必要はあるだろう。
今からでも日記をでっちあげ、ずっと前から深い悩みを抱えていたように偽装するか、あるいは精神を病んでいたように見せかけるかするのもいいかもしれない。
「そして……最後はちゃんと責任を取らなくちゃね」
例え人殺しとして捕まっても、陽一は自分の心配をするに違いない。
自分の存在が兄のこれからの人生を縛り付けることになるのは、間違いないと思われた。
「あまり汚い姿をお兄ちゃんに見せたくはないし、適当に目立つところで首を吊ることにしましょうか……」
兄を幸せにしてみせると言っておいて、結局とんでもない迷惑をかけることになってしまった。
本当にどうしようもない、最悪の女だと思った。
「でも、落ち込んでる場合じゃないわね……やることはたくさんあるし、急いで動かなきゃ……」
最後に小夜子の髪をもう一度撫でて、脱衣場を出ようとする。
その足に、先ほど小夜子の寝巻きのポケットから出した携帯電話が当たった。
「あら……」
今は今で新たにやることができた以上、気にしている余裕はない。
しかし、先ほど感じた疑問が綾の手を自然と携帯電話に向かわせた。
開いてみると、そこには通話の履歴が残されていた。
「四辻……夕里子?」
相手の名前がディスプレイに表示されていた。
通話の始まりは十五分ほど前。
恐らくは、綾に部屋で追い詰められた時に助けを求めて電話をかけていたのだろう。
問題は、相手が四辻夕里子であるということと、通話時間が十分近くにまで達しているということだった。
「どういうこと……?」
夕里子は今意識不明のはずであり、そうなると、助けを求める相手としては適切ではない。
しかし小夜子は夕里子に電話をかけ、しかも十分に渡って通話している。
「夕里子さんは……もう目覚めているの?」
夕里子が意識不明から脱したという話は聞いていなかった。
さらに携帯電話には、一件のメールの着信があった。
通話の直後に届いていたメールだった。


656 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:34:06 ID:mryNMq9n
「これも夕里子さんから……」

『小夜子ちゃん、大丈夫? 何があったの? 警察を呼ぶ? 今どこに居ますか?』

ああ、と綾は納得した。
やはり夕里子は既に目覚めていたのだろう。
そして、受話器越しに自分と小夜子のやり取りを全て聞いていたのだろう。
呼びかけても返事が無いため、通話を打ち切り、心配してこのメールを打ったというところか。
「つまり、小夜子を殺していても、やっぱり私は負けていたってことよね」
病室で突然の電話なら録音はされないだろうが、綾がどうやって小夜子を殺したかがわかってしまえば、後の捜査でどうとでもされてしまう。
夕里子と小夜子。
お人よしの従姉妹同士の二人に、完全に綾は敗れていたのだ。
小夜子を殺していたなら、小夜子に成りすましてメールに返信し、警察を呼ぶのをやめさせて、今晩のうちに夕里子を始末に行ったことだろう。
しかし、小夜子を殺せなかった今、何をどうやっても綾は捕まることになる。
夕里子のことは、もはやどうでもいいことだった。
「でも、すぐに警察に来られるのはやっぱり困るわね」
仕方なく、小夜子に成りすましてメールを送ることにした。

『大丈夫だよ、ユリ姉。ちょっと綾と喧嘩しちゃっただけ。ごめんね、夜遅くに』

またすぐに返信があった。

『そうなの? ならいいけど……』

「これで良し、と……」
小夜子もそろそろ目を覚ましそうなので、さっさと後始末をして終わりにしなければならなかった。
「でも、夕里子さん、いつ目を覚ましたのかしら……」
気になったが、純粋に良かったと思う。
自分が犯罪者として捕まることが確実になった今、夕里子の存在は貴重なものだった。
「あの人はお兄ちゃんのこと大好きだから……きっと味方になってくれるはずよね」
四辻家は金も力もあると縁が言っていた。
自分がぶち壊すことになった陽一の将来を、夕里子が修復してくれることだろう。
「小夜子には悪いけど、たぶんお兄ちゃんも、まだ夕里子さんのこと好きなのよね……」
夕里子に小夜子。
我が兄ながら、良い娘たちに惚れられたものだと、妙に誇らしく思ってしまう。
「宇喜多縁……あいつは……あの女はどうするのかしら」
縁も陽一のことが好きなのだと思っていたが、夕里子が居なくなった後小夜子に協力したということは、違ったのだろうか。
携帯電話が小さく震える。
また夕里子からのメールの着信だった。

『本当に大丈夫? ちょっと心配だから……病室に来てくれますか? お母様も帰ってしまって寂しいし……』

どうやら夕里子は病室に一人らしい。
心配なのはわかるが、身辺の整理が終わるまでは警察に通報されるわけにはいかない。
また無事を伝えるメールを打ち込もうとして、ふと綾は不思議に思った。
(安否を気にするなら、電話をかけて直に声を聞けばいいんじゃないの?)
メールは他人が打つこともできるし、いくらでもごまかしがきいてしまう。
綾もそれを利用して人を殺して自殺に見せかけたことはあったし、今も小夜子に成りすましてメールに返信していた。
しかし、声は完全に真似することはできない。
本当に安否を確認するなら、電話で話をした方が確実に決まっている。
「実際のところ、それをされたらすごく困るわけだしね……」
まだ気になる点があった。
十分間の通話から既に五分以上経っているのに、夕里子がいまだ警察に連絡をしていないという点だった。
具体的にどんな会話をしたのか覚えていないが、自分は小夜子に対してかなり危険な発言をしたはずだと、綾は思っていた。
殺す殺さないという会話がずっと聞こえていて、それで通話が終わったとしたら、メールで大丈夫かどうかを尋ねる前に警察に連絡するのではなかろうか。
夕里子は馬鹿のつくほどのお人よしだが、思考については馬鹿ではないことを、綾は承知していた。
(気にするようなことじゃないのかも知れないけど……)
綾は思い切って夕里子に電話をかけてみた。
呼び出し音がしばらく鳴り、やがて留守番電話サービスに繋がってしまった。


657 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:35:22 ID:mryNMq9n
(出ない……どうして?)
すぐにメールの着信があった。

『ごめんね。まだ寝たきりだから、声をだしたりするのは苦しいの。メールで許してください』

違和感――
綾の直感が、何かがおかしいと告げていた。
「別人……?」
そう、メールはなりすましができる。
夕里子の側だってそれは例外ではない。
「誰かが、夕里子さんになりすましている……?」
そもそも、夕里子が目覚めているのかという疑問はあった。
小夜子から、そんな話は一切聞いていないのだ。
陽一とのことで関係が気まずくなっていたとは言え、敬愛する従姉が目を覚ましたなら、嬉しさに押されて話してしまってもおかしくはない。
しかし、小夜子の様子はこの数日、特に変わったところは無かった。

『小夜子ちゃん、大丈夫ならいいけど……朝には病室に来てください。来なかった時には、一応警察に連絡することにします』

「このメールは……」
朝までのタイムリミットを告げるメール。
もし小夜子を殺し、証拠隠滅のために夕里子を殺す必要が生じていたら、このメールを見た時点で朝までに夕里子を殺すことを決意しただろう。
『小夜子を殺していたら』夕里子を殺しに行くであろう状況が、きれいに整えられていた。
そもそもにしてなぜ夕里子は入院したのか――十日ほど前のことを思い起こす。
陽一を守るために犠牲になると約束した後で、夕里子は屋上から身を投げた。
小夜子は信じられないと言った。
綾も、陽一に関する約束を交わした後で夕里子があんなことをするなんて、あまりに予想外だった。
(あの時私は……)
縁が殺そうとしたのかもしれないとも思った。
あまりに突飛過ぎると放棄した考えだった。
しかし、もし本当に縁が夕里子を殺そうとしたのだとしたら。
(縁は、夕里子さんが目を覚ます前に、夕里子さんを殺さなければならないことになる)
そうしなければ、殺人未遂で捕まることになるからだ。
綾の中で、いくつかの思考の破片がぴたりと重なり合った。
仮に縁が夕里子を殺そうとして失敗したのだとしたら、夕里子が目を覚ます前に殺さなければならない。
あるいは、夕里子が目を覚ます前に誰かに殺させればそれで良い。
「私……?」
そもそもにして、小夜子が陽一に近付いた陰には、縁の助言があった。
小夜子は縁の助言のまま行動し、危うく綾に殺されそうになった。
「もし私が小夜子を殺していたら、私は今頃夕里子さんを殺しに行っていた……」
それは縁にとって、実に都合のいい展開ではなかろうか。
しかも、綾が夕里子を殺す場所と時間がほぼ掴めている。
それはすなわち、夕里子を殺した際に綾を捕らえることが容易にできるということだ。
(小夜子が死んで、夕里子さんが死んで、その上私が捕まったら……)
残るのは縁一人だ。
陽一の周囲に残る女は、縁一人になるのだ。


658 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:37:40 ID:mryNMq9n
「そう……そうよ……やっぱり小夜子は私を裏切っていたわけじゃなかったんだわ」
自室で追い詰めた時、小夜子は言った。「本当に人殺しだったの?」と。
「本当に」という聞き方をしたということは、あの場でその判断に至ったのではなく、事前にその仮定を得ていたということになるのではないか。
それが自分で至った仮定ならば、「やっぱり」という言葉を使うだろう。
「本当に」から繋がる疑問の形は、伝聞で仮定を得ていた場合にこそ用いられるのではないか。
言葉遣いなんて個人の感覚によって違うし、全ては推論の上に推論を重ねているに過ぎない。
(それでも――)
縁とは夕里子を介して何度も刃を交えた。
森山浩史というスケープゴートを用意しての戦いだったが、縁が自分に何らかの疑いを抱いたとしてもおかしくはない。
仮に縁が自分に関して疑いを持っていたとして、そのことを小夜子に告げたら、小夜子は自分の無実を主張してくれるだろう。
「陽一に近付いたら殺される」と縁が言ったら、自分が試してみせると言ってもおかしくはない。
「ううん……このあたりは考える意味はないわね。小夜子がお兄ちゃんに近付いた動機はどちらでもいいのよ。重要なのは……縁がその指示をしていたということ」
それはすなわち、縁は小夜子と陽一を動かすことで、綾の感情と行動をある程度操作できたことになる。
小夜子を殺させ、夕里子を殺させ、最後に綾を捕まえるという一連の流れを用意することができたことになるのだ。
実際、もし小夜子を殺していたら、何も疑問に思うことなくその流れに乗っていた。
「全ては私の想像に過ぎない……証拠も一切無い……けど……もしも縁が本当にそのつもりだったのだとしたら……?」
ひょっとしたら、綾が夕里子を殺しに行くことを見込んで、既に夕里子は縁の手で殺されているかも知れない。
「いえ、このメールで時間制限を朝までにしている以上、すぐには殺すことはできないはずだわ。死亡時刻と私の行く時刻に差がありすぎると、私に罪を着せる縁の策は成り立たないはずだし……。
あくまで私が夕里子さんを殺すことを期待しているか、私が行ったその時に殺すか、どちらかよね」
つまり、自分が病室に行かなければ、夕里子の命は保障されるということだった。
「なんだ……何も問題無いじゃない」
ほっと胸を撫で下ろす。
でも、と思った。
放っておいて良いのだろうか。
このまま兄に迷惑をかけないよう自殺してしまって良いのだろうか。
(私が居なくなったら、縁は……夕里子さんが目を覚ます前に、別の手で殺そうとするはず)
その時、誰が夕里子を守れるのだろう。
陽一は人を疑うことを知らない。
小夜子は陰謀などという言葉からは程遠い。
それどころか、この話に関わりを持った以上、小夜子も縁に殺されてしまうかもしれない。
夕里子を殺させるわけにはいかない――愛する兄の将来を守るために。
小夜子を殺させるわけにはいかない――大好きな親友には生きてほしいから。
(そもそも全ては仮定を積み重ねただけの、私の頭の中のお話に過ぎないのかもしれない。ただの勘違いなのかもしれない……)
しかし、例え起こる確率が一パーセント以下だとしても、起こった時に致命的な結果が生じるのなら、その物事の発生は何としても防ぐのが正しい。
殺人を犯した際の証拠隠滅にせよ、人の命を守るための危険因子の排除にせよ、「多分起こらない」ではなく「絶対に起こらない」にしなければならないのだ。
「お兄ちゃんのために……一番お兄ちゃんのためになる行動は……?」
綾の気持ちは決まっていた。
陽一への愛を貫き通せなかった今、せめて最後に役に立つことを愛情の証明としたかった。
「行こう……」
よろめくように、綾は脱衣場を出た。
二階に上がり、ベッドに寝たままの陽一にキスをする。
「今までごめんね……お兄ちゃん……」
コートを着込み、スタンガンを懐に忍ばせて、綾は家を出た。


659 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:39:00 ID:mryNMq9n
病院へは、タクシーで二十分ほどだった。
夜間通用口の脇の詰め所に警備員が居るのが見えたが、タイミングを見計らい、身をかがめて入っていった。
縁に悟られることを恐れて、エレベーターは使わなかった。
「夕里子さんは……五〇一だったわね」
真っ白なドアが等間隔で続く薄暗い廊下を、足音を殺して歩く。
目当ての病室のドアが小さく開き、明かりが漏れているのが見えた。
(誰か居る……?)
ドアに寄って耳をそばだてると、小さく呻き声が聞こえてきた。
スタンガンを構えて素早くドアを開けて病室の中に滑り込む。
警戒した奇襲は無く、見ると、病室の床に、中年の女性が一人、縛られて転がされていた。
気絶しているらしい、ぐったりとして目を閉じたその女性は、どこか夕里子に雰囲気が似ていた。
「夕里子さんの……お母さん?」
娘の容態が心配で泊まり込んでいたのだろう。
ベッドには、いくつかの機器がつながれた夕里子が、以前見た時と変わらぬ様子で横たわっていた。
(やっぱり、あのメールは夕里子さんじゃなかったのね……)
事情を聞きたいが、簡単に起きてくれるだろうか。
ともかくも、縄を解いて起こしてやらねばならない。
しゃがみこんでスタンガンを床に置き、女性を縛る縄に手をかけた、その時――
微かな物音に、綾は反射的に身を捩らせた。
次の瞬間、綾の右腕に激痛が走った。
ぎらりと光る鉄の刃が、綾の上腕に深々と刺さっていた。
「……っ!」
「こんばんわ、綾ちゃん」
包丁を握っているのは、三つ編みの少女。
眼鏡の向こうの目をうっすらと細め、口元にはいつもの微笑を浮かべている。
「宇喜多……縁……!」
綾の口から、搾り出すような怨嗟の声が漏れた。
縁が腕に刺さった包丁を引き抜く。
間髪置かず、綾の首筋を狙って切りつけた。
「くっ……!」
避けられない――
瞬時に判断して、綾は縁の振るった刃を、左手で払って流した。
病室の床に血が飛び、綾の左手から薬指と小指の先が離れて落ちた。
「さすがだね、綾ちゃん」
激痛が走るが、声を上げる暇も無かった。
縁の追撃を床を転がるようにかわし、病室の壁に寄りかかるようにして立って、綾は何とか体勢を整えた。
「叫び声を上げても無駄だよ。綾ちゃんが病室に入ったのを見た時点で、ナースステーションの看護婦さんたちにはあっちの世界に行ってもらったから」
「あんた……」
「良かったよ、早いうちに来てくれて。驚いた? 夕里子ちゃんが起きてなくて」
「どういうつもり? 人殺しは犯罪よ?」
「綾ちゃんに言われたくないよ」
縁は包丁を構えて、綾にじりじりと近付く。
床に置いてあったスタンガンを蹴り飛ばし、部屋の隅に追いやってしまった。
(まずいわね、こりゃ……)
縁と自分の素の運動能力はほぼ互角だと、前のバドミントンの時にわかっている。
互角である以上、体の状態と持っている武器が重要になるが、すでに両方の腕をやられて武器も失った綾に対し、縁は無傷で包丁を持っていた。
(これは……死んだかしら)
綾の両の手から血が滴り落ちていく。
かなりの出血で、縁に止めをさされなくとも、放っておけば死に至るだろうと思われた。
「……とはいえ、簡単に死ぬわけにはいかないのよね……」
縁を睨みつけて、綾は荒く息をついた。


660 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:42:13 ID:mryNMq9n
「でも、まあ、死にそうな予感だから聞いておくわ。あんた、何考えてるの? 何でこんなことするのよ?」
「あれ? とっくにわかってると思ったけど。もちろん支倉君を手に入れるためだよ」
「お兄ちゃんを……」
「そうだよ。これで支倉君は私のものになる。夕里子ちゃんは死んで、小夜子ちゃんも死んで、支倉君の周りの女の子は私だけになる」
縁は目を輝かせて言った。
「当然綾ちゃんにも全部の罪を被って死んでもらうよ。私が『正当防衛』で殺してあげるからね」
「これのどの辺が正当防衛なのよ」
綾は自分の左手を見た。
切り落とされた薬指と小指の先から血が溢れ、白い骨が覗いていた。
「あはは。他の人から見て正当防衛ならいいんだよ。綾ちゃんと小夜子ちゃんのやり取りは、電話越しにちゃんと録音しておいたからね。襲われましたって言えばみんな信じてくれるよ」
うまくいったよ、と縁は頷いた。
「綾ちゃんの何が凄いって、死体の処理が上手なんだよね。殺しても、ちゃんと自殺か事故に見えるようにしちゃうから、だから捕まえられない。だからもう、殺された後に証拠を探すんじゃなくて、殺される時に証拠を作らなきゃならないんだよね」
「そのために小夜子を使ったのね……」
「うん。完璧。完璧にうまくいったよ。これで支倉君は私のものになる。夕里子ちゃんは死んで、小夜子ちゃんも死んで、綾ちゃんも死んで、私は生き残る。支倉君は最悪の殺人者、支倉綾の実兄として、世間で徹底的に弾圧を受けるんだよ」
頬を染め、恍惚の表情で縁は語った。
綾が初めて見る、縁の感情らしい感情だった。
「最悪の人殺しの家族として軽蔑されて、友達も恋人もできなくて、ずっと一人で生きることになる支倉君に、私だけが優しく微笑みかけるんだよ。
もうこの世に私以外、支倉君が頼れる人は居ない。支倉君は私無しでは生きられなくなるんだ。支倉君にとっての世界は私だけになって、私だけの支倉君になるんだよ」
この女――
綾の胸の奥に、沸々と怒りがわいてきた。
失血で朦朧とする意識を奮い立たせるため頭を振る。
着込んだコートの肩に、長い黒髪が解れてかかった。
「夕里子さんを突き落としたのはあなたなのね?」
「そうだよ。夕里子ちゃん、私の言うこと聞いてくれなくなっちゃったから、いらないなって思って。でも、初めての人殺しだから失敗しちゃったよ。おかげで、こんな面倒なことをしなくちゃいけなくなったわけだけど、うまくいったから良しとしようかな」
「なるほど……うまくいったと思ってるのね」
綾は嘲るように笑った。
「調子に乗ってるみたいだけど、全部が全部、あなたの考えたように進むわけないでしょう? 小夜子は生きてるわよ。小夜子の死が私が殺人犯であることを示す証拠になるなんてことはないわ」
「え……?」
「でもね、小夜子はあんたなんかよりよっぽど優秀だったわよ。妙な好奇心のおかげで、私がこれまでやってきた殺人の証拠を見つけちゃったんだから」
縁は一瞬きょとんとして目を瞬かせた。
「どういうことかな?」
「どうもこうも、小夜子はあんたの見つけられなかった証拠を見つけて、私は小夜子を殺せなかったってことよ。私は警察に捕まるけど、それはあんたのくだらない策略なんかのせいじゃないわ。小夜子が私の友達でいてくれたから……だから私は負けたのよ」
「くだらない……? 私が……?」
縁は口をつぐみ、憎しみに満ちた目で綾を睨んだ。
「小夜子が殺せなかったから、私に夕里子さんを殺す意味なんて無いわ。そうでしょ? 小夜子が生きている以上、あんたの言う小夜子が殺される時の証拠なんて、存在しないことになるんだから」
「……ちょっと予想外だけど、別に大丈夫だよ。綾ちゃんがここに来てくれたならそれで。
夕里子ちゃんを殺して、小夜子ちゃんもこれから殺しに行って、小夜子ちゃんが見つけたっていう証拠を私も見つけて、全部殺人鬼の綾ちゃんがやったことにすれば、結局同じことだから。
でも……ちょっと急がなきゃいけなくなったみたいだね」
縁が包丁を構えて近付いてきた。


661 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:43:33 ID:mryNMq9n
「馬鹿だね、綾ちゃん。ここに来なければ、警察には捕まっても死ぬことはなかったのに。何しに来たの?」
「決まってるじゃない。あんたをぶっ殺して、夕里子さんを守るために来たのよ」
そう、この女は殺さなければいけない。
絶対に殺さなければ、兄にとって大きな不幸となる。
そして夕里子は生かさなければならない。
これからの兄の人生を守るため、そして、兄の心の癒しのためにも。
「宇喜多縁……あんたには……あんたみたいな糞女には、お兄ちゃんを渡すわけにはいかないわ。絶対に……絶対に渡さない!」
「ひどいなあ。同類なんだから、認めてくれてもいいと思うけど。私だったら一途に支倉君を愛すること間違いなしだし、支倉君のためなら綾ちゃんに負けないくらい何だってできちゃうよ」
「同類? ふざけないで。あんたが大好きなのはお兄ちゃんじゃない。あんた自身でしょうが」
吐き捨てるように綾は言った。
「私もあんたに負けず劣らずゴミみたいな人間だけどね、私が愛したのはお兄ちゃんなのよ。あんたは自分のためにお兄ちゃんを不幸にして飼い殺そうとしているだけでしょう。私は違う……私は、お兄ちゃんが不幸になることなんて望まないわ」
「……綾ちゃんのしてきたことを思うと、似たり寄ったりだと思うけどな」
縁の目つきが変わった。
いつ切りつけられてもおかしくないと、綾は感じた。
(どうする……? この女を殺すどころか、このままじゃ確実に殺される……絶体絶命だわ……)
右腕はもう動かない。
左手は、物を掴むことも難しいだろう。
(駄目よ……諦めちゃ駄目。私が死んだら、夕里子さんは殺される。夕里子さんのお母さんも殺される。それに小夜子も……)
縁は綾にそれ以上の思考を許さなかった。
包丁の切っ先のゆらめきに、綾はとっさに喉を守ったが、鋭い刃は深々と綾の腹に突き刺さっていた。
「あぐっ……っ!」
喉に血がせりあがってくるのを感じる。
これは死んだなと思った。
(でも……即死じゃない。まだ意識がある……!)
縁が包丁を引き抜くまでの数瞬で、綾は動いた。
指の失われた左手で、縁の気道を狙って思い切り突きを繰り出した。
しかし、それはあっけなくかわされてしまう。
「だよね。私は眼鏡をかけてるから、指で狙うとしたら喉しかないよね」
「くっ……」
綾はがくりと膝を折った。
体全体から力が抜けていくのを感じた。
(お兄ちゃん……ごめん……私……)
その時、病室のドアが勢い良く開いた。
「綾!!」
縁は即座に振り向いて、そのまま凍りついた。
綾も声の主を見て、遠のいていた意識が呼び戻された。
(お兄ちゃん……? どうしてここに……?)
病室に駆け込んで来た人物は、陽一だった。
陽一は綾と縁の有様を見て、叫び声を上げた。
「綾!? 何で……!」
悲痛な叫び――それだけで綾は温かな気持ちになってしまった。
兄は、自分をあんなにも心配してくれているのだと、嬉しさに涙をこぼしそうになってしまった。
「は、支倉君……こ、これはね、正当防衛なんだよ」
縁は珍しくうろたえた様子で、陽一の方を向いて説明を始めた。
その手は包丁の柄を離れ、包丁は膝をつく綾の腹に残された。


662 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:44:25 ID:mryNMq9n
(お兄ちゃん……)
自分の腹に深々と刺さった包丁を、綾は左手の三本の指でしっかりと握った。
(お兄ちゃんは私が……守るから……!)
肉を引きずる音と共に、包丁を引き抜く。
振り返りかけた縁の首に刃元をあて、一気に引いた。
「あ……」
縁の首から、血しぶきが上がる。
立ったままで体を小さく痙攣させ、縁は床に倒れ伏した。
倒れた拍子に眼鏡のレンズがはずれ、ころりと床に転がる。
そのレンズもやがて、赤い血の海に沈んだ。
「おに……いちゃん」
へたり込んで、綾は呻き声をあげる。
もう限界だった。
腹からはどんどん血が流れ、意識は朦朧としていた。
「綾……!」
顔面を蒼白にして走り寄る陽一に、綾は嬉しそうに笑いかけた。
「お兄ちゃん……助かったわ……」
「綾! しっかりしろ! 綾!! 誰か……!!」
気管に流れ込む血に咳き込みながら、綾は陽一にすがりついた。
「どうしてここに……?」
問いかけて、首をゆるゆると左右に振る。
「ううん……お兄ちゃん……私が辛い時は……いつだって来てくれたもんね。昔からそうだったもんね……」
「綾……! いいから、喋るな!」
「お、おにいちゃん、ごめんね、わたしのせいで……これからお兄ちゃん、大変なことになると思うけど……でも……好きだった……本気で好きでした。他の誰にも渡したくなかった」
でも、と息をつく。
口の端から血が溢れ出た。
「わたし……夕里子さんならいいよ。他の人は許さないけど、夕里子さんなら、お兄ちゃんのお嫁さんになるの、許してあげる。
大事にしてあげなさいよね……夕里子さんのこと。小夜子は、私の親友だから……手を出したりしないでね」
陽一の目に涙が滲むのを見て、綾は無理矢理笑顔を作った。
「ねえ、お兄ちゃん、キスしてくれる……?」
「え……」
「お兄ちゃんから、私にキスしてほしいな……今までずっと私からで……お兄ちゃんからしてくれたこと、無かったから」
綾は目は虚ろで、息も絶え絶えだった。
その血に濡れた唇に、陽一がそっと口付けをする。
綾は目を閉じて、一筋の涙を流した。
数秒後、陽一が唇を離した時には、綾は事切れてしまっていた。
「綾……! 綾……!!」
それが、支倉綾の最期だった。


663 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:45:06 ID:mryNMq9n
三ヶ月後、二月二十四日――
陽一は、市街地を少し離れた高台にある墓所に来ていた。
目の前の墓には綾の骨が収められている。
あれから毎月、綾の月命日には必ず、陽一は綾の墓参りに来ていた。
「小夜子さんも、後からくるそうですよ」
陽一の隣に立った栗色の髪の少女が、寒風にその髪をなびかせて言う。
夕里子はあの事件の三日後に目を覚まし、体が回復して以来、ずっと陽一について行動していた。
あれから色々なことがあった。
綾のこれまでの所業は、小夜子の見つけた箱の中に入っていた凶器や、いくつかの記録が手がかりとなって、着々と捜査が進んでいた。
どれだけの人間が死んだのか、はっきりとしたことはわからない。
立件できるものも、片手の指で数える程度になりそうだと、警察関係者から聞いていた。
一夜に四人の看護婦の命を奪った事件から、少女による連続殺傷事件へと発展したこの事件は、この三ヶ月間、いつもニュースのトップを独占し続けていた。
陽一は心身ともに疲弊したが、夕里子と小夜子がそれを支えた。
夕里子は父親から何度も陽一と別れるように言われ、無理矢理引き離されそうにもなったが、親族と常に議論を戦わせ続け、ついに先日、父親以外の主だった親族を説得してしまったという。
陽一が花を供える傍らで、かじかんだ手で線香に火をつけようとする夕里子を見て、陽一は言った。
「夕里子さんには、本当に迷惑かけるな……」
「え? お線香に火をつけるくらい、大した手間じゃありませんけど……」
きょとんとする夕里子。
「あ、いえ、確かにうまくつけられていませんけど、これは寒さのせいで、私が不器用と言うわけでは……」
「いや、そうじゃなくてさ。俺と綾に振り回されて、大変だろ、色々」
「そんなことはありませんよ」
陽一の見たものと小夜子の話、病室の様子などから、あの夜のことは警察がほぼ状況を断定していた。
縁に縛り上げられていた夕里子の母親が、綾の乱入のおかげで命を救われ、縁のそれまでの行動について証言したことも、大きかった。
「あの夜綾さんが来てくれなかったら、私も母も、いずれ殺されていたでしょうからね」
「うん、まあ、そうなのかもしれないけど……それまで夕里子さんの周りに危害を加えていたのは綾なわけで……」
「それはそうなんですけど……」
困ったように夕里子は笑った。
「難しいものですね。そもそも私、人を恨んでも長くもたないんですよ」
それが良いことだとは、一概には言えない。
夕里子の周囲に居て被害に遭った者の家族は、ふざけた態度だと言うだろう。
しかし、あくまで善意で人を解釈しようとする夕里子の思考は天性のものであり、縁に裏切られても、綾の攻撃を受けても、世間から何を言われても、変わることは無かった。
「少し前に小夜子さんとも話したのですが……人は支え無しには生きられないと思うんですよ」
ようやく線香に火をつけて、夕里子は言った。
「それで、お互いを恨むよりも、お互いを好きになったほうが、その支えは増えると思うんです。その方が、みんな強く、幸せに生きられると思うんですよ」
「夕里子さんらしい考えだね」
綾はあんなことになってしまったが、それでもぎりぎりで縁の策を潜り抜けた。
それはひとえに、陽一と小夜子の二人を綾が好きだったからではないかと、夕里子は考えていた。
そもそもにして、陽一があの病室に駆け込んできた時点で、縁の策は終わっていた。
陽一の目の前で夕里子の母を殺すことができなくなる以上、看護婦を殺したことについては罪を逃れ得ないからだ。
だからといって、全てを陽一を手に入れるために行っている以上、陽一を殺すわけにもいかない。
あの時点で、縁は完全に詰んでいた。
縁が詰む状況にどうして至ったのか――
陽一は事前に小夜子から綾が縁に疑いをかけられていることを聞いていて、小夜子が行っている内偵の内容も全て知っていた。
綾は小夜子が好きで、小夜子も綾が好きで、だから縁の言葉を守るよりも綾を守ることを重視し、完全に縁の言う通りには動かなかったのだ。
そこが縁の計略の綻びの始まりだった。
結果、陽一はあの晩目覚めてすぐ、綾と小夜子を探し、最終的にあの病室に駆けつけるに至った。
綾は稀代の殺人鬼ではあったが、陽一と小夜子という二人の人間を確かに愛し、その二人は綾を信じようとした。
縁は、残念ながら愛する人が少なすぎた。
この差こそが、明暗を分けたのではなかろうか。


664 終の綾2 ◆5SPf/rHbiE sage 2007/11/27(火) 05:47:12 ID:mryNMq9n
夕里子はずっとそう考えていたが、わざわざ口に出すことは無かった。
ただ、ふと思ってしまう。
「もし綾さんが、もっと多くの人を好きになれていれば……私と陽一さんと綾さんと小夜子さん、四人で笑っている今もあったのかもしれませんね……」
「ああ……」
この三ヶ月間、陽一は何度も自分を責めた。
どうして気付いてやれなかったのか。
気付いていれば、何か変えることができたのではないか。
「本当に……駄目な兄貴だったな、俺は」
「……陽一さんが悪いわけではありません……とは言いませんけれど、陽一さんが自分を責めたところで、何か解決するわけでもありませんよ。そんなに思い悩まないで下さい」
「悩むだけ無駄ってこと?」
夕里子は微笑んで頷いた。
「こう……気のせいかもしれないけど、夕里子さん、厳しくなったって言うか……言い方が少し綾に似てきたよ」
「そりゃもう。綾さんに陽一さんを任されたんですから、これからは綾さんの分まで頑張らせていただきますよ」
空は好天で、雲ひとつ無い。
陽一はその空に、最愛の妹の名前を呟いた。
「綾……」
皮肉屋で、乱暴者で、それでも面倒見が良く優しかった、大切な妹。
もう二度と、怒られることも、笑いかけられることもない。
「綾……俺は……」
本当に、何もできなかった自分が恨めしかった。
涙を流す陽一の手を、夕里子が無言で握った。
綾―― 
一見してわからないが、たどると見えてくる入り組んだ裏と表の交差模様。
ねじれてもつれた人生の糸の束。
「……その中を、私たちは生きているんですよね」
それぞれの複雑な運命を懸命にたどり、時に自らの糸を断ってでも、何かを守ろうとする者もいる。
陽一の手を、夕里子はさらに強く握った。
「今は泣いてもいいですけれど……いつか笑顔でここに来られるようにしましょう。綾さんが望んだのは、陽一さんの幸せなんですから」
陽一は小さく頷いた。
冬の終わりの空はどこまでも青く、美しかった。

―了―


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最終更新:2011年10月28日 00:01
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