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ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:09:03 ID:HOgyoFkP
某県秋日市。
南は太平洋に接し、周囲を低い山々に囲まれたこの街は、海風に吹かれる穏やかな気候にある。
春は温和、夏は炎天、秋風は涼しく、冬は冷えても雪はめったに降らない。
周囲の山々の色の移り変わりに四季の変化を強く感じさせられるが、その変化はあくまで人に優しいものである。
その優しい自然に包まれて暮らしてきたためか、街に住む人々の気性はどこか落ち着いた印象があった。
人々にはその自覚がほのかにあって、自分達の集まるところはそうにぎやかになることはないとわかっている。
市内にある唯一の県立高校、県立秋日高校は、秋日市民が生徒の七割を占めているだけあって、やはりその住民性の雰囲気に浸った学校だった。
黄金週間も明けた週半ば、午前中の授業を終えて、秋日高校の生徒達は各々昼休みを過ごしていた。
教室の窓も廊下の窓も開け放たれ、通り過ぎる海風がカーテンを揺らしている。
時折校庭から聞こえてくる球技を楽しむ生徒達の声を聞きながら、澄川文雄はもくもくと昼食をとっていた。
「お前の弁当、日に日に豪華になっていくな」
机を挟んだ向かいから声をかけたのは、夏江統治郎。
高校入学以来の友人で、文雄にとって最も親しい人物と言えた。
彼が感想を述べた文雄の弁当は、白いご飯がきっちり半分詰められて、おかずは煮物に焼き魚、色とりどりの野菜と、なるほどなかなかに手の込んだものである。
「それにどんどん美味くなっていく」
おかずを一つつまんで、夏江がまた感想を言った。
「まあ……凝り性だからな」
困ったように笑う文雄に、夏江は深々と頷いた。
「ああ、凝り性だな。尋常じゃない凝り性だ。何しろ弁当箱まで日を追って豪華になっていくからな」
「そうだな。気付いたらこうなっていたな」
「初めはただのプラスチックの箱だったのに、今じゃこの通り漆塗りの綺麗な木箱だ。おまけにこの味となると、料亭の仕出し弁当顔負けだぜ。たった一ヶ月で大したもんだ
よ」
「ああ、本当、心から思うよ。大したものだ」
そう言ったところで、教室の入り口の方からまた別の級友の声がした。
「おーい、澄川。いつものお客さんだぞ」
文雄が振り返る。
教室の入り口に、少女が一人立っていた。
長く艶のある黒髪と、雪のように白い肌。
端正な顔立ちに、少し鋭い形の目を光らせている、凛とした雰囲気の美少女だった。
少女は無表情に入り口近くの生徒に礼をすると、一直線に文雄のもとへとやってきた。
「文雄さん、今日のお弁当はどうだった?」
小さな口から流れでた言葉に、夏江がにやりと笑う。
文雄はまいったというふうに頭をかいた。
「あのな、その文雄さんというのはやめてくれと言ってるだろ」
「どうして?」
「違和感があるんだよ」
「私はこの呼び方が一番違和感がないのよ、文雄さん。それで、今日のお弁当の味はどうだった?」
無表情に質問を繰り返す少女に、文雄は渋い顔で沈黙してしまう。
夏江が大きく笑いながらその肩を叩いた。
「いいじゃないか。答えてやれよ、文雄さん。いくら頑張ってもこの子はお前が答えるまでここにいるぜ。前に一度やって懲りただろう」
「統治郎、お前はなんでいつもこいつに甘いんだよ」
「甘くもなるさ。あんな美味い弁当作ってもらっておいて呼び方一つにこだわってどうするよ。感謝の気持ちってやつはお前の中に無いのか?」
夏江の言葉に文雄は小さく唸り声をあげた。
二人がそんなやり取りをしている最中も、少女はじっと文雄を見つめて机の傍らに立っている。
相変わらずその表情に動きは無かった。
661 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:09:26 ID:HOgyoFkP
「ほれ、いつまでも待たせると気の毒だぞ」
夏江の再度の促しに、文雄はため息をつき、少女を見つめ返して小さく笑った。
「……美味いよ。また上手になったと思う」
「そう」
「毎日ありがとうな」
「いえいえそんな」
文雄の礼に抑揚の無い声で答えて、少女は頷いた。
しばしの沈黙。
結局それ以上何も言わないまま、少女は踵を返し、すたすたと入り口に向かって歩き出す。
が、教室の中ほどでふと思い出したように文雄の方を振り返った。
「そうそう、文雄さん」
「だからその文雄さんというのは、みんなの前では……」
「もし本当に感謝してくれているのなら、今日の放課後少し付き合ってくれないかしら」
文雄の言葉など聞こえなかったかのように、用件を伝える。
文雄はまた渋い顔をして頭をかいた。
「……わかった」
「じゃあ放課後、校門で待ってるわね」
今度こそ少女が教室から出て行くのを見送ると、文雄はがくりと机に肘を突いてうなだれた。
「何だ文雄、弁当を食わんのなら俺が食ってしまうぞ」
「食べるよ。食べるがね」
「やたらと疲れているなあ、おい」
「疲れもするよ。どうしてあいつはああなんだろうな」
文雄は何度目かのため息をついた。
「名前で呼ぶのはやめてくれってずっと言ってるのに、いつまでたってもやめてくれない」
「いいじゃないか、親しみの証だろう。あんな可愛い子に名前で呼ばれるなんて、俺だったら喜びに震えてしまうぜ」
「そうは言うけどな。俺はれっきとしたあいつの兄なんだ。あの呼び方はおかしいだろう。それに、年上としての威厳ってものもある」
「威厳……威厳か、なるほど!」
夏江が文雄の肩を二度三度と叩いて笑った。
「わからんでもないがな、文雄よ。威厳てのは呼び名なんかじゃなくて、日頃の行いで決まるもんだ。お前が千鶴子ちゃんに対して威厳を身につけるのは、少し無理があると
思うぜ」
「お前、普通にひどいこと言ってるぞ、それ」
「はは、嫉妬だよ。出来の良い妹を持った己が身を呪うんだな」
「やれやれ……」
呟いて時計を見ると、昼休みは既に半分ほど過ぎていた。
再び箸を手に取り、弁当を口に入れる。
「ん……美味いな、やっぱり」
作り主に色々と言いたいことはあったが、弁当は文句無しに美味しかった。
毎日文雄の弁当を作り、昼休みに教室にやってきて無表情に感想を求め、去っていく少女。
彼女の名は澄川千鶴子。
紛れも無い、澄川文雄の実の妹であった。
662 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:10:46 ID:HOgyoFkP
千鶴子は昔から少し変わった妹だった。
まず泣かないし、笑わない。怒りもしない。
とにかく感情の起伏に乏しく、十数年をともに過ごした兄弟の文雄ですら、いまだ何を考えているのかまったく読めない人物だった。
文雄が千鶴子についてはっきりと言えることは、知的好奇心に人並み以上に溢れた娘であるということくらいだった。
本が好きで、その時々で色々なことに興味を持つ。
一度興味を持つと飽きるまで徹底的にその分野を追求し、知識や技術を蓄え、別のものに興味を移す頃にはかなり高度なところまで身につけてしまう。
毎日文雄の弁当を作っているのも、一月ほど前から料理に興味を持ち始めたからで、初めはお世辞にも上手といえなかった料理の腕も、持ち前の学習力を発揮して短期間で信じがたい成長を遂げてしまった。
(本当、大した妹だよな)
文雄は隣を歩く妹を見た。
放課後、二人は約束どおり校門で待ち合わせ、図書館へと向かっていた。
傾きかけた日の光が、街路樹の緑を淡く照らしている。
千鶴子はというと、文雄の視線には気付かぬようで、歩道の先をただじっと見つめて歩いていた。
何を見ているのかと、釣られて文雄も道の先に目を向ける。
少し先で、老婆が一人、荷を乗せた台車に身を預けるようにして立っていた。
千鶴子の視線は、どうやらその老婆に向けられているようだった。
「……あのお婆さんがどうかしたのか?」
文雄は何の気なしに聞いた。
「どうするのかと思って」
「ん?」
「あのお婆さん、道を渡りたいみたいだけど、車が多くて渡れないのよ。すぐ近くに歩道橋があるけれど、あの荷物があるせいでそれも渡れない。信号のある横断歩道はまだずっと先になる」
「なるほど」
「危険を冒してここで道を渡るのか、少し体に無理をさせてでも信号のあるところまで歩くのか、何とかして歩道橋を渡る方法を考えるのか。あの年頃の人間がどんな手をとるのか。楽しみだわ」
「楽しみも何も無いだろう」
言って文雄は小走りに老婆に近付いた。
話を聞いてみると、なるほど、千鶴子の言うとおり、老婆は道路を渡ろうにも渡れないという状況にあるようだった。
文雄は老婆の荷物を持ち、台車をたたみ、歩道橋を一緒に渡った。
老婆の足は遅かったが、五分近くかかってなんとか歩道橋を渡り終え、文雄に何度も礼を言って去って行った。
全てを終えて文雄がふと道を挟んだ向こう側を見ると、千鶴子が長い髪を風になびかせて、じっと文雄を見つめていた。
やれやれとため息をついて、文雄はまた歩道橋を渡り、千鶴子のもとへと戻った。
「お前な、見ているくらいなら手伝ったらどうなんだ」
「手伝う?」
「ああやって荷物を運んであげるとか、手を引いてあげるとかすれば、お婆さんが困ることもなくなるんだから」
「私はあの人が独力でどう解決するのかを見たかったのよ。だから手伝う理由なんてないわ」
「そうだな……お前はそういう奴だよ」
663 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:11:05 ID:HOgyoFkP
千鶴子は物静かながら好奇心旺盛で、優秀な娘である。
本をよく読み、身の回りの色々なものを観察しているということもよくあった。
しかし、その好奇心の陰に、人間らしい温かみが欠落してしまっているのではないかと、文雄は思っていた。
先ほどの老婆のように、人間や生き物に興味を示すこともそれなりにあるが、その対象に対する人間としての心遣いが何も感じられない。
化学反応や、あるいは虫や動物を観察するのと同じように、人間を見ているのではと感じさせられる節があった。
「千鶴子、前にも言ったかもしれないけど、俺はそういうのはどうかと思うぞ」
「そういうのって?」
「困っている人がいてもただ見て楽しむような、そんな態度だよ」
「文雄さんがしたように、お手伝いしなさいということ?」
「その方がいいと思うね。人間は助け合って生きるものだからね」
「文雄さんはいい人ね」
千鶴子は平坦に言って、歩き出した。
文雄はまだ言い足りなかったが、言ったところでどうにかなるものでもないとわかっていた。
何しろ、ずっと昔からこうだったのだ。
両親は二人とも健在で、千鶴子の出来の良さを昔から喜んだものだったが、文雄の胸の内にはいつも不安な気持ちがあった。
自分や両親も、千鶴子にとってはただの観察対象に過ぎないのではないか。
自分が千鶴子に家族としての愛情を抱いていても、千鶴子は何の感情も抱いていないのではないか。
そんな不安だった。
家族なのだから愛情に見返りを求めるつもりはないし、千鶴子の他人に対する淡白な振る舞いもいつものことなので今更腹を立てることもない。
しかし、もし千鶴子が自分や両親のことを何とも思っていないのだとしたら、やはり悲しいことだと思えた。
自分のことを兄と呼ばず、名前で呼ぶ。
文雄がそれを嫌がるのも、本当のところは、千鶴子との関係の希薄さが際立つように感じるからだった。
「文雄さん、早く。日が暮れるわよ」
「ああ……」
文雄と千鶴子は、そんな兄妹だった。
664 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:11:30 ID:HOgyoFkP
事件はその数日後に起こった。
その日澄川家は両親が不在で、千鶴子が夕飯を作ることになっていた。
千鶴子に愛想が無いのはどこであろうと変わりない。
誰も居ない家の中、無言でただてきぱきと夕飯の準備を進めていた。
日も沈み、あとは文雄が帰るのを待つのみというくらいになって、居間の電話が鳴った。
「もしもし」
「あ、もしもし。澄川さんのお宅ですか? こちら秋日警察署生活安全課の者ですが」
「はい」
突然の電話にも、千鶴子は声を震わすことはなかった。
「お宅の息子さん……澄川文雄君が、ちょっと暴力事件に巻き込まれまして」
「はい」
「色々話を聞いてはいるのですが、ともかく親御さんに来ていただけたらと思いまして――」
「わかりました。とはいえ今は両親が不在なので、家族の者が行くことになります」
千鶴子は受話器を置くと、すぐに警察署に向かった。
紫色の空の下自転車を飛ばし、息を切らせて警察署に駆け込むと、苦笑いをする文雄の姿があった。
「お前が来たのか」
「父さんも母さんも居ないんだから、当然でしょう」
「……迷惑をかけたな」
「そう思うなら、事情を話してもらうわよ、文雄さん」
文雄の話す内容はこうだった。
午後六時過ぎ、文雄は学校から自宅への帰り道の途中、公園から女性の悲鳴が聞こえてくるのに気が付いた。
ただ事ではないと公園の中に駆け込むと、隅の茂みの方で文雄と同年代の少年達数人が、会社帰りと思しき女性を囲んでどこかに連れて行こうとしていた。
文雄はその輪の中に乱入し、女性の手を引いて逃げようとしたが、文雄は少年達に囲まれてしまい、逃げることはできなかった。
「で、袋叩きにあったのね」
文雄の顔は一目でそれとわかる、殴られた痕があった。
千鶴子は部屋の警官たちに向けていった。
「今の話を聞くに、文雄さんは悪くないのでしょう? もう帰らせていただいてよろしいですか?」
傍に控えていた警官の一人が申し訳ないと言った。
「もう少しここに居てもらわなければならないんだ」
「何故です? 傷の手当てもきちんとしたいのですが」
「その……少年たちの言っていることが澄川君の言っていることとは違っていてね。まだ私たちにはどちらが悪かったのか判断がつかないんだよ」
「と言いますと?」
「少年たちは、女性を襲ってなどいない、自分たちが話をしていたところに文雄君が突然殴りかかってきたんだ、と言っていてね」
「当の女性に話を聞けばよろしいのでは?」
「実は、文雄君は少年たちに囲まれて乱闘騒ぎをするに至ってしまったけれど、襲われていたという女性は逃げることができたんだよ」
警官は千鶴子の冷たい視線を避けるように目を逸らしながら言った。
「それで、その逃げた女性がまだ見つからなくてね。澄川君の言っていることが本当なのか、少年たちの言っていることが本当なのか、わからないんだ」
「なるほど。公園にたむろしている方々については私も知っています。あのいかにも野蛮で低俗な言動の方々でしょう? それの発言が文雄さんと同等に信じるに足るとは到底思えませんが」
「おい、千鶴子。そんな言い方はやめろよ」
諌めながら、おやと文雄は思った。
千鶴子は相変わらずの無表情で、声もごく落ち着いたものだったが、その言葉の中にあからさまな棘のようなものを感じたのだ。
「……とりあえず、手当てをする道具を貸していただけますか? もっと丁寧にしておきたいので」
言って、千鶴子は用意された椅子に座り、文雄の手当てを始めた。
どこか厳しい目つきで文雄を見ていたが、治療をするその手は優しく繊細なものだった。
665 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:13:07 ID:HOgyoFkP
文雄が解放されたのはそれから三時間後のことだった。
結局件の女性は見つからず、少年たちの言うことも綻びなかったため、双方が悪かったという形で決着となった。
「馬鹿ね、文雄さん」
「面目ない……」
警察署からの帰り道、春の夜空を見上げて千鶴子が言った。
「見ず知らずの他人を助けて、その当人は文雄さんを見捨てて一人で逃げたわけでしょう?」
「そうなるけど、それだけ怖かったんだろう。仕方ないよ」
「それで文雄さん一人袋叩きに遭って、やり返したら警察沙汰。おまけに妙な言いがかりのせいで、自分まで悪いことにされちゃって。何一ついいことないじゃない」
「まあ、そうだね……」
「これに懲りたら、もう赤の他人を助けるなんてことはやめることね。損しかないわよ」
「……」
千鶴子の言葉に、文雄は返事をしなかった。
文雄の前を歩いていた千鶴子は振り向いて文雄を見つめた。
「と言っても、文雄さんはやめないのよね、きっと」
「うん……損得の問題じゃないからなあ。目の前で女性が襲われているのを無視することもできないだろ」
「理解を超えるわね」
二人は並んで歩き出した。
闇の中、歩道のタイルの合わせ目を見ながら、文雄はぼんやりと考えていた。
千鶴子の言うとおり、自分は馬鹿なのだろうか。
自分はもっと他人のことに首を突っ込むのを控えるべきなのだろうか。
(でも、せいぜい人並み程度の倫理観しか持ち合わせてないつもりなんだけどな……)
だとしたら、やはり千鶴子が人よりも冷たいということなのだろうか。
「どうしたの、文雄さん。ぼーっとして」
不意に千鶴子が声をかけてきた。
「いや、別に……」
「何か考えてたんでしょう」
「いや、えーと……」
さすがに、「俺が馬鹿なのかお前が冷たいのか考えていた」と馬鹿正直に話すのは気が引けた。
666 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:13:31 ID:HOgyoFkP
「あれだ。あの公園について考えてたんだよ」
「公園?」
「あの不良たち、今日に限らずいつもあそこにたむろしてるだろ」
「まあ、そうね」
「どうにかした方がいいかなと思って。他に被害に遭う人がいたらいけないし」
千鶴子は小さく息を吐いた。
「言ってるそばからまた……そんなのは警察に任せておきなさいよ」
「うん。そうなんだけどな。でも、お前だってあそこの近くを通るわけだしさ。兄としては心配になるんだよ」
「あらそう」
実際、本気で公園の不良たちをどうにかしようと考えていたわけではない。
ただその場繋ぎに口から出た言葉だった。
しかし、後半の心配については本当だった。
ひょっとしたら性格に問題はあるのかもしれないが、千鶴子は兄としての贔屓目抜きで美人と言えるだろうと文雄は考えていた。
もしもああいった連中の目に入れば、それこそ身に危険が迫るのではないかと思われた。
「文雄さんに心配されるなんて、私も落ちたものね」
「酷いこと言うね、お前も……」
「……ねえ、文雄さん。私があの公園の不良たちを追い払うから、一つ無茶を聞いて欲しいって言ったら、聞いてくれる?」
「へ……?」
突然の発言に、文雄は間抜けな声をあげてしまった。
「追い払う? お前が?」
「ええ、できないかも知れないけど」
千鶴子が立ち止まり、つられて文雄も立ち止まった。
街灯の光が二人を包むように照らした。
「あのな、俺は兄としてお前に危険なことをさせるわけには……」
「まさか。私はどこかのお馬鹿さんと違って他人のために損を受け入れることなんてしないわよ。自分が危険に晒されることなんて絶対にしないわ」
「じゃあどうやって……」
「それは秘密。それよりどうなの? 無茶を聞いてくれる気はあるのかしら」
街灯の灯に千鶴子の黒髪が妖しく光る。
その視線がいつにも増して鋭く感じられた。
「まあ……いいけど。よほどのものじゃなければ」
「ええ、大したものじゃないわ」
千鶴子は確認するように頷き、文雄の手を引いた。
「じゃあ帰りましょうか。夕飯はもう出来ているから」
そうして二人は、何年ぶりかで手を繋いで家に帰った。
667 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:18:38 ID:HOgyoFkP
また数日後、新聞の地方欄に一つの記事が載った。
『秋日市東町公園狂犬騒ぎ 少年一人死亡、三人重傷』
朝食の席で朝刊を読んでいた澄川武雄はふむ、と声を出した。
「なんだ、うちの近くじゃないか。危ないこともあったものだな」
「? 何かあったの?」
テーブルの向かいに座った文雄が尋ねると、武雄は新聞をたたんで寄こした。
「そこの公園で、人が亡くなったらしい。犬だとさ」
「犬?」
「そう言えば、昨日の夜サイレンの音が聞こえたわね。救急車だったのかしら」
武雄の左隣の席についた千鶴子が言った。
その千鶴子の向かいの椅子に座っていた澄川八重子が、こら、と声をあげた。
「千鶴子。だめよ、ものを食べながら喋るなんて」
「ごめんなさい、お母さん」
素直に謝る千鶴子を横目に、文雄は新聞を広げた。
『秋日市東町公園狂犬騒ぎ 少年一人死亡、三人重傷
5月10日深夜、秋日市東町公園で少年数人が犬に襲われるという事件が発生した。
少年たちのうち一人は死亡、三人が重傷を負った。
警察は無事だった一人から話を聞いている。
少年たちを襲った犬は近隣の家で飼われていたものであり、事件のあった夜に姿を消していたという。
警察によって捕らえられたが、ひどく興奮した状態にあり、調べによると薬物などを投与された可能性が高いという。
警察は事件当夜に周辺で不審な人物を見なかったか、聞き込みを続けていく方針である。』
「なるほど……これは怖いな……」
呟く文雄を、また八重子がこら、と叱り付けた。
「ご飯を食べるときにするような話題じゃないでしょ。もう新聞はたたみなさい」
「あ、うん。ごめん」
澄川家は、平日は両親と子供で家を出る時刻が違うため、家族揃って食事をとることはほとんど無い。
自然と、日曜日の朝食は必ず家族全員でとることになっていた。
もう何年もずっと続いている習慣だった。
文雄と千鶴子の母である澄川八重子は、礼儀作法に厳しい母親で、とりわけ女である千鶴子には厳しく指導することもある。
毎週の日曜の朝食では、母の指導とそれに素直に従う千鶴子の姿が見られて、文雄は何とも微笑ましい気持ちになれた。
いつも抱いている不安。
千鶴子にとっては家族すらもどうでも良い存在なのではないかという不安を、この時は忘れることができた。
「文雄、にやにやしていないで、しっかり食べなさい」
「おいおい、八重子。笑うくらいはいいだろう。厳しすぎるぞ」
「でも、武雄さん……」
そんな会話がなされる朝食の席。
窓から差し込む朝の日差しが、眩しく、温かかった。
668 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:19:54 ID:HOgyoFkP
その日特に予定の無かった文雄は自分の部屋で過ごしていたが、昼前についうとうととしてしまい、目を覚ますと部屋の中は午後の柔らかな光りに満ちていた。
「ん……」
ベッドの上で身を起こし、伸びをする。
何時になったのかと時計を見ようとすると、視界の隅に千鶴子の姿が映った。
「千鶴子? 何してるんだ、そんなところで……」
千鶴子は開け放たれた窓の枠に腰をかけ、文雄をじっと見つめていた。
風にカーテンが舞い、千鶴子の髪や服の裾を揺らした。
「文雄さんがいつ目を覚ますのかと思って。よく寝てたわね」
「ああ……まいった……母さんに怒られるな、こりゃ」
「大丈夫、母さんは居ないわよ。父さんと一緒に出掛けたわ」
「あれ? そうなの? そんなこと言ってたっけ」
「私が外出させたのよ。文雄さんと二人きりになりたかったから」
何を言っているのか、文雄には理解できなかった。
「ええと……俺起きたばかりだから、頭がぼけててよくわからないんだけど……」
「母の日だからって、映画のチケットとレストランの予約チケットを渡して二人に出掛けてもらったのよ。夜まで帰らないわ」
「あ、そうか。今日母の日か。偉いな、お前」
「別に。私にとって都合がいいからしただけよ」
窓枠から離れ、千鶴子はベッドに腰掛けた。
「文雄さん、覚えているわよね。約束」
「約束?」
「公園から不良を追い払ったら、無茶を一つ聞いてくれるって」
「え……」
「ちゃんと追い払ったわよ。あの不良たちを。仲間が死んだのだから、もう二度とあの公園には来ないでしょう」
文雄は頭を振った。
まだ自分は寝ぼけているのだろうかと思った。
「え、と……何を……」
「新聞に出ていたでしょう。一人死亡、三人重傷」
「あれは犬が……」
「私が近所の犬を慣らして、ドラッグを飲ませて公園に放ったのよ」
「……!」
「というわけで、一つ言うことを聞いてちょうだいね」
文雄は絶句してしまった。
千鶴子が、自分の妹が、間接的とはいえ人を殺したと言っているのだ。
気付けば千鶴子は、文雄に擦り寄るように近付いていた。
669 ノスタルジア ◆7d8WMfyWTA sage 2008/05/13(火) 05:20:57 ID:HOgyoFkP
「私ね、最近あることに興味を持ったのよ。だから、兄さんに協力してもらって、それを確かめてみたいの」
「あること……?」
「ええ、そのために頑張ったんだもの。いいわよね」
千鶴子がベッドの上に身を起こす文雄の肩に手を置いた。
端正な顔は表情を変えず、口から流れる言葉も淡白ではあったが、その手には思いのほか強い力がこもっていた。
「な、何を……」
「文雄さん、私とセックスして」
「え」
「男女の情愛というものに興味を持ったのよ。だから文雄さんとセックスをしたいの。いいわよね」
妹が犬をけしかけて不良を殺したと言っている。
妹が自分とセックスをしたいと言っている。
あの妹が、いつもと変わらない様子で、自分に迫っている。
「あ……あー……えーと……」
文雄は混乱していた。
考えがまとまらず、何を言えばいいのかわからなかった。
ただ眼前に迫った千鶴子の顔を見ることしかできず、千鶴子もそんな文雄の目を見つめ返した。
どうしよう。
どうすればいい。
いや、どうこもうもない。
本当に人を殺したのなら、まずは自首を勧めなければならない。
「ち、千鶴子……! 俺は……」
「冗談よ」
「俺はお前の味方だから……て、え……?」
文雄は思わず目をぱちくりさせてしまった。
意を決して口を開いたところに、思わぬ肩透かしをくらったからだ。
千鶴子は文雄の肩に置いていた手を離し、ベッドの端に座りなおすと、繰り返し言った。
「冗談、嘘よ。驚いた?」
「え……」
「遅くなったけど、お昼ご飯作ってあるから。食べるわよね」
立ち上がり、部屋の入り口に向かう千鶴子を、文雄は呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待て、千鶴子」
「何よ」
「冗談……なんだな? 不良たちを追い払ったっていうのも、俺とその……したいっていうのも」
「当たり前でしょ。何慌ててるのよ」
さも当然とばかりに言う千鶴子に、文雄は安堵の息をついた。
「そ、そうか……良かった……俺はまたてっきり……」
「本当だと思った?」
「だって……お前、真顔で言うから……」
「あら、私がこんな顔なのはいつものことでしょう」
言って、千鶴子はクスリと笑った。
「ああ、おもしろかった。やっぱり文雄さん、おもしろい」
そうして、千鶴子は鼻歌を歌いながら階下に降りていった。
残された文雄は、ベッドの上で動けずにいた。
性質の悪い冗談だけに、怒ってもいいところなのだろうが、安堵の思いが強くて怒りが湧いてこなかった。
「だめだ……やっぱりあいつのことはよくわからない」
何を考えているのか、何をしたいのか、本当にわからなかった。
ただ、この日わかったことがあった。
それは、澄川千鶴子が、兄と一緒に過ごすことを意外と楽しんでいるらしいということ。
彼女も笑うことがあり、その笑顔はとても可愛らしく温かなものであるということだった。
最終更新:2011年10月28日 00:24