Favor 第1話

88 Favor sage 2007/08/18(土) 00:27:22 ID:rNI5pbt6
「本当、私の弟とは思えないほどの馬鹿ね。その頭の中に詰まってるのは何なのかしら?」

 冷たい、言葉という名前のナイフが胸に突き刺ささる。
ゆったりと、柔らかなソファーに身を沈めた姉のその後姿からは、感情が一切読み取れないが
きっとその心中は不出来な僕という弟に対する怒りで占められてるんだと思う。
普段は、子供の頃からずっと続けてきたというピアノを奏でている、そのすらりとした綺麗な指には
僕が今さっき渡した、姉の用意した問題の答案用紙――これみよがしに×が乱舞し、右上には赤くでかでかと数字の0と書かれている――が、掴まれていた

「こんな簡単な問題さえ解けないなんて、正直、期待はずれもいいところだわ」

 そう言って、徐に姉さんはそれを両手で細かく引きちぎり、空中にばら撒いた。
掃除を欠かさない赤色の絨毯に舞い落ちる白い紙の山は、僕には何処か雪を想起させた。

「何その酷い顔。まるで痴呆のようね」

 気づけば、目の前に姉さんが立っていて、僕を見下ろしていた。
意思の強さを思わせるその瞳は、呆けたように口をぽかんと開けて紙吹雪を眺めていた僕を蔑んでいるように見えた。
僕がその視線に耐え切れずに目を逸らすと姉さんは、ふん、と落胆したように息を吐いて、僕を押しのけて歩いていった。

「掃除、しておきなさい」

 廊下の暗闇に消えていく姉さんの背中を僕は、ただ見ていることしかできなかった。


89 Favor sage 2007/08/18(土) 00:29:01 ID:rNI5pbt6


「お前のねーちゃん。ひでーやつだな」

 昼放課。一日の折り返し地点。学校生活における清涼剤。
大量生産物らしきおにぎりを口に頬張りながら、数年来の友人――各務 ハルは、言う。

「ハル。口の中に物を入れたまま喋るのは良くない」

 呆れた様に僕がたしなめると、おお、すまんすまん、と言って校内の自販機で買った牛乳で、口の中の物を一気に流し込んだ。

「ぷはー。やっぱり牛乳はいいもんだよな!」

「ハル、その動作は親父くさい。それに、それ以上背を伸ばしてどうするの」

「いいじゃん。身長は高くて困ることは・・・・・・あるけれど、まぁ、細かいことは気にするなって」

 はっはっは、と豪快に笑いながらハルは、その大きな手で僕の背中をばしばしと叩いた。
一応、僕の体格は一般の男子中学生のソレと同じ程度だ。
それに対して、ハルは何処かの工事現場で働いてるような人達と同じくらいにでかい。
風切り音さえ聞こえそうなほどに振り回した大きな手のひらが、僕の背を打つたびに、鈍い、微妙な痛みが全身に走る。

「痛い、ハル。痛いって!」

 耐えかねて抗議の声を上げると、まるで悪びれた様子もなく爽やかにすまん、すまんと繰り返してから
食べかけのおにぎり(まだ半分くらい残っている)を片手でつまんで、ハルはぽいっと口に投げこんだ。

「さて、まぁ真面目な話、だ」

「うん?」

 しかめっ面をしながら痣になってないかな、と背筋をさすっている僕に、えらく改まった風にハルは向きを合わせてきた。

「今までの話を聞くに、俺から見れば、お前ねーちゃんにかなーり嫌われてるようだが、なんか心当たりはあるのか?」

「そんなことないよ。僕が馬鹿なのは本当のことだし」

「ばっか。いや、俺の馬鹿は意味が違うぞ? てか、お前が馬鹿だったなら俺はどーなるんだよ? 学年1位さんよ。
それに、だ。今回のことだけじゃねえ。俺は今までお前からお前のねーちゃんについて色々と聞いてきたが、どれもこれも理不尽で
酷い内容の仕打ちだと思うぜ? 実際、お前が今回やらされたって問題。あれ、大学受験レベルだったんだろ?」

 確かに、あの後記憶の片隅に残っていた幾つかの数式を調べてみれば、僕の今のレベルでは到底解けないような、そんな問題ばかりだった。

「でも、姉さんは確か、僕の年にはもうあの問題を解いてたんだよ。父さんと母さんが凄く姉さんのことを褒めていたから、覚えている」

「お前とお前のねーちゃんは違うんだよ。俺に言わせてもらえれば、俺らの年でその、なんだ? この国のトップクラスの大学の受験問題を解ける
お前のねーちゃんが異常なだけだと思うわ」

「それは・・・・・・」

「何か思い当たる節はないのか? そうでもなきゃ、お前がそんな仕打ちを受ける理由が俺には皆目検討が――」


90 Favor sage 2007/08/18(土) 00:29:49 ID:rNI5pbt6


「おーい。さっさと片付けろー! 授業を始めるぞ」

 ハルの言葉が終わらない内に、昼放課の終わりを告げるチャイムが鳴り、それと同時に次の時間の担当教諭が教室に怒鳴りながら入ってくる。
今さっきまで他愛無い話で沸いていた級友たちは一斉に口をつぐみ、がたがたと机を動かす音が教室内に響き渡る。
勢いをそがれた形になったハルは、小さく舌打ちし、皆と同じように机を持ち上げて、廊下側の扉に向かって歩いていった。
途中振り向いたハルの口が、『また、後でな』と、小さく動いた。


 結局その日、ハルと話す機会はなかった。

 何故かと言えば、国語委員だった僕は、授業が終わるや否やタイミングを計ったように入ってきた
現代国語担当の教諭に、荷物運びという有り難い用事を申し付けられ。
一方ハルも、中学最後となるバスケの大会を控えていて(ハルは小学1年生の頃からバスケ一筋だった)
部員全員によるミーティングが有るとかで、落ち着く暇もないまま教室を出て行った。


手早く用事を終えた頃には、帰宅部の僕には一人で家に帰るという選択肢しか残されていなかった。





91 Favor sage 2007/08/18(土) 00:30:51 ID:rNI5pbt6
――今までの話を聞くに、俺から見れば、お前ねーちゃんにかなーり嫌われてるようだが、なんか心当たりはあるのか?


 あると言えば、あった。


 思い出すのは、3年前。僕が中学に入った日。
いつも姉さんの事を褒めている記憶しかなかった、仕事で家を空けがちな両親が、珍しく僕を褒めた日。
交通事故で、父さんと母さんが、めちゃくちゃな肉片になって、亡くなった日。
今思えば、あの日から、姉さんは僕に厳しく当たるようになった気がする。

 あの頃の姉さんにとっての生きがいはきっと、父さんと母さんに凄いね、と褒められることだったんだと思う。
そういえば、昔から姉さんはあらゆる点において僕より優れていようとしていた気がする。
勉強においても、運動においても、身長においても、家事においても、他のどんな事においても
考えてみれば、あの頃の姉さんの努力の基点は全て、僕という存在だった気がする。

姉さんが勉強に打ち込み始めたのも、僕が塾に通い始めて学校でいい成績をとり始めた頃だった。
姉さんが運動をするようになったのも、僕が丁度地元のサッカークラブに入団して、試合に出始めた頃だった。
身長についても、運動をするようになって背の丈を気にし始めた僕が毎日牛乳を飲み始めた頃だった。
家事についても、毎晩夜遅くまで働いて、くたくたになって帰ってくる両親を助けようと僕が家事を手伝い始めた頃だった。



 姉さんは、両親にとっての僕という存在を常に、自分より下に置きたがっていたのかも知れない。
だから、あの日両親が僕を褒めたこと、そしてそれが姉さんにとっての最後の言葉となったことが、とても許せなくて
その怒りが、僕に対して辛く当たるようにさせているのかもしれない。


 そこまで思って――
それでも、僕は姉さんを嫌いになれなかった。
例えば、今日僕が昼放課に食べていた弁当、成長期である僕に対して栄養バランスを良く考えられたあれは姉さんが作ってくれたものだ。
学校の授業で判らないことがあれば、姉さんに頼れば僕を罵りながらもちゃんと教えてくれた。
落ち込むことがあって、一人家で沈んでいたときも、酷く遠まわしだったけれど姉さんは僕を励ましくれた。
僕にとっての姉さんとの思い出は悪いことばかりじゃない。そう、暖かい思い出も確かにこの胸の中にある。
そして何よりも、姉さんは僕にとっての、誇りなんだ。
 きっと家に帰れば、また何か適当な理由をつけて僕は姉さんに怒られるに違いない。
でも、そんな生活も、悪くない。

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最終更新:2007年10月21日 02:32
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