234 :
永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:03:45 ID:77mkWa3K
『trahison』
それが先輩と遣って来た店の名前。仏蘭西料理のお店だ。
大通りには飲食店が立ち並ぶ激戦区があるが、ここはその中でも売り上げ上位にランクされるレストラ
ンである。
飲食で軒を争うのであれば、味か値段に特化するしかない。
ここは前者を選んだようで、味は良いがかなり値が張る。
だが普通の高級レストランと違い、ラフな格好でも入店が可能だ。
大通りにも繁華街にも街のはずれにも、そしてタワーの上層階にも高級な店はある。差別化と集客の手
段として、服装に堅苦しいことは云わない方針のようだ。
ただし携帯は電源を切ることを要求される。
僕らが通されたのは予約席。
売り上げ上位のこの店はキャンセル待ちを除けば当日予約は難しい。
つまり、前日以前にキープしたということになるのだが――
「僕が来なかったら、どうするつもりだったんですか?」
「来てくれますよ」
席に着いた甘粕櫻子は“笑顔で笑って”云い切った。
「クロくんはお姉ちゃん想いの良い子ですから」
「いや、姉想いだから身動きできない訳ですが」
鳴尾しろは夜間の外出を許さない。
男友達でもそうなのだ。況や女性との外食をや。
「でも、クロくんはここにいます。それだけが事実です」
それでも。と、甘粕櫻子は首を振る。
「すんなり来てくれるとは思わなかったですけどね」
「すんなり往かなかったら、どうするつもりだったんですか?」
溜息混じりに問うと、ニコ目の年長者は答えずにふふふと笑った。
――好んで甘言をもって人にくらわし、而して陰かにこれを中傷して、辞色に露わさず
およそ上の厚くする者、初めは則ちこれに親結し、威勢やや逼るに及んで、
すなわち計をもってこれを去る
老姦巨猾といえども、よくその術を逃るるものなし――
甘粕櫻子を評した姉の言葉である。
散散な言種だが、事実の一端でもある。
いずれにせよ、僕にとっては端倪すべからざる人物であるのは間違いなかった。
「でも、ホント、今日はどうしたんですか?私、クロくんを誘うとき、電話の向こうから金切り声が響
いて来ると思っていたんですけどね」
「・・・・・」
僕は黙る。
話すべきだろうか。それとも、胸に秘めるべきだろうか。
「話して下さい。私も“貴方のお姉ちゃん”なんですから」
耳に届く空気の振動は柔らかい。
もともと『間を置く』ために先輩の誘いに乗ったのだ。
それも良いかもしれない。
僕は一呼吸置き、それから口を開いた。
僕が『今日を語っている』間に、彼女についても説明しておく。
甘粕櫻子。
大学生。
口に蜜あり、腹に剣ありと云われる外連たっぷりの性格。
厳しさとは裏腹に本質は甘い僕の姉とは逆で、甘さとは裏腹な厳しさを持つ人物。
愛読書は『羅織経』。また古流柔術・新衛(しんえい)流の大目録所持者でもある。
容貌は極上で、緩やかなウエーブの掛かった髪と、温和なニコ目が特徴。
背はやや高く、出るところは出ている。今日のように防寒重視の厚着をしていても、身体のラインがわ
かる程に。
子供のころから抜群のプロポーションをしていて、成長の早い人間は、若年から発育しているものだと
知った相手でもある。
成績は極めて優秀。
頂点に立つことは無いが、なんでもそつ無くこなし、どの分野でも先頭集団にいるタイプ。
235 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:06:17 ID:77mkWa3K
人当たりは良いが根は辛辣で、かつ悪戯大好きと云う困った人でもある。
そんな性格のためだろう。
僕の姉――鳴尾しろとは、あまり仲がよくない。
正確には、しろ
姉さんが彼女を嫌っているだけなのだが。
そして、どういうわけか僕を気に入っている。
それどころか、僕を弟だと云い張る。
「何で僕に目を掛けるんですか?」
以前、直裁的にそう尋ねた。
返って来たのは底の知れぬ笑顔と。
「理屈じゃないんですよ、そう云うの」
なんて言葉。
「そう感じたから、心のままに振舞った。唯、それだけのことです。クロくんのこと、一目見て弟にし
たい、そう思ったんです」
だから、貴方は私の弟です。
破顔が常態の年長者はその時、そう云って僕を抱きしめた。
はぐらかされたのか、それとも本当にそんな理由なのか?
それを知ることは終に無かったけれど、そのままの状態は今も続いている。
『今日』の説明を聞き終えた先輩は、悪戯っぽく「ふふふ」と笑った。
「鳴尾さんは相変わらず可愛らしい方ですね」
「可愛らしいって・・・、そういう云い方すると、姉さん怒りますよ?」
「構いませんよ?それはそれで面白いですし」
それよりも、と、にこやかな双眸がこちらを捉える。
「クロくんは、本当に鳴尾さんの機嫌を損ねた理由がわからないんですか?」
小首を傾げるように。
幼子を諭すように彼女は尋ねる。
「はい」と僕は頷いた。
ある程度の予測はつく。けれど、断定は出来ない。
「駄目ですよ?クロくんのそういう所は嫌いじゃありませんけど、美徳ではないです。ニブチンは他人
を傷つけますから」
「ニブチンですか」
「ニブチンですよ」
先輩の眉毛は笑顔のままハの字だ。
「まあ、鳴尾さんが怒ろうが悲しもうが私には関係ありませんけど、櫻子お姉ちゃんが相手のときも鈍
いのは一寸駄目です」
「はあ」
そうか。
僕は鈍いのか。
いや、うすうす知ってはいたけれど。
「なんにせよ、謝っておけばそれで解決するでしょう。鳴尾さんはそういう人ですから」
確かにそれが一番確実ではあるのだろうが、状況を把握せずに謝罪というのはどうかと思う。
「あの、結局、何でしろ姉さんは怒ったんでしょうか?」
「発端はクロくんの絵ですよ」
「僕の絵・・・ですか?」
「はい。クロくんの絵です」
彼女は笑顔で頷く。
そして唐突に、
「鳴尾さんは歴史家として成功しません。いえ、成功できません」
そう云った。
虚を突かれたのは僕だ。
姉さんの夢。
絵も。
武も。
書も。
総てを捨てて目指している夢。
それを否定された。
根拠を聞いたわけでもないのに。
それだけで、僕の心に波風が立った。
236 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:08:57 ID:77mkWa3K
「そんなに怖い顔をしないで下さい」
僕はハッとする。
気が付くと眉間に皺が寄っていた。
彼女を睨みつけていたのだ。
「あ、その・・・すみません」
無駄に威嚇してしまったか。
僕はうろたえる。
そんな後輩を見た甘粕櫻子は、口元に手を当ててくすくすと笑う。
「クロくんは本当に鳴尾さんが好きなんですね」
「――」
再びの沈黙。
血液が顔に集まる。
確かに僕は姉さんを・・・。
「否定しませんか。少し妬けますね。気に入りません」
笑顔のままほっぺたを引っ張られた。少し痛い。
「そ、そんなことより、何でしろ姉さんは成功しないと思うんですか?」
この際、怒らせた理由はどうでもいい。けれど、これだけは是が非でも聞いておかねばならない。
「・・・・」
先輩は手を離さず、じっと僕を見ている。
破顔のせいで瞳は見えないが、これはどういう表情なのだろう?
「誤魔化されてあげます」
手はほっぺたに残ったままに彼女はそう云った。
目の前には笑顔。
だけど多分、真顔。
「鳴尾さんは潔癖故に黒い部分が書けません。彼女の書いた本は読んだことがありますが、どこかもの
足りないのです。机上の空論を読むの感がありました。彼女の本には、思想的に偏りはありませんが、
明らかに深みが無い。それは考察が無いのでは無く、彼女の世界が欠如しているために起きた現象だと
判断しました」
彼女の指す姉の本とは『南面策方』と云う。
創業篇・守成篇の2部からなる手書きの一書。
発表するための論文ではなく、今自分の中にあるものを纏める為に記したもの。それをこの人は読んだ
ということか。
「歴史は人類の生の結晶です。人の生き様を知るだけでは書けません。地理、風土、宗教、その他諸諸
の知識を持ち、その上でそれらを高次元に纏め上げる訳ですから、優れたバランス感覚が必要です。勿
論、どかが欠けた“出来損ない”な歴史書ならば、そこいらに幾らでも溢れていますけど、鳴尾さんが
目指しているのはそんなものでは無いのでしょう?けれど、このままでは“紛い物”は書けても、“本
物”は無理だと思います」
「黒い部分、ですか?けど姉は韓非子と君主論を熟読していますよ?」
「知ってます。でもそれは、“足りないモノ”を無意識に判っているからでは無いでしょうか?彼女が
王者でなく、覇者であった人を尊崇するのも、自らに無いものを持った人人だったからでしょう?けれ
ど知識で補おうと、欠損は欠損。それが無い以上、物足りなさは消えません。だから鳴尾さんは、歴史
家としては2流、ないし3流で終わると思います」
僕は云い返さなかった。
その材料がなかった。
鳴尾しろは『白』故に。
その世界に『黒』が無い。
世界の欠損。
甘粕櫻子はそう評す。
それは真実を穿つ言葉の剣。
姉の描いた夢に突き刺さる言葉の棘だった。
ですが、と甘粕櫻子は続ける。
「鳴尾さんはある意味自分を弁えていますからね。その分、クロくんに期待してるんですよ?」
勿論、私も、と可愛らしく小首を傾げられて、僕は目を点にする。
どういう飛躍だろうか。
「期待って、何ですか?」
「だから、絵ですよ」
「え?」
「絵」
甘粕櫻子は頷く。
237 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:11:25 ID:77mkWa3K
「鳴尾さんや美大の先生の娘さんが褒めたもの――クロくんの絵です」
「そこに戻るんですか」
「はじめからその話ですよ?」
彼女はくすくすと笑う。
どうにもこの人には敵わない。
「Silurian Periodってお店、知ってますか?」
そして唐突に話を切り替える。
僕は訝しがりながらも、
「大通りからちょい離れたとこにある、水槽張りの喫茶店でしょう?店員が全員魔女だとか云う」
「ええ。そこです。その傍に、Ikonographieって云う画材屋さんがあるんですよ。知る人ぞ知るお店で
すが、それ故に良品揃いです。絵を描く気があるのなら往ってみて下さい。私の紹介と云えば、格安で
買える筈ですから」
「・・・・」
確かに、もう一度絵は描くつもりだ。
五代絵里。
あの娘に約束をしたから。
前回のように見せて終わりではなく、譲渡と評価を前提とした絵を描かねばならない。
ならばそれ相応の道具は必要だろう。
「ありがとうございます、甘粕先輩」
「先輩じゃなくて、お姉ちゃんです」
彼女は首を左右させ、それから“笑顔で笑って”頷いてみせた。
「情けは人の為ならず。弟事なら、尚更です」
店を出ると、外気は一層冷え込んでいた。
今冬は例年よりも寒い。こんな中で立ち尽くしていたら、一時間と立たずに風邪を引きそうだ。
「うわー、寒いですね~。今日は特に酷いです」
甘粕櫻子はピッタリと僕に張り付く。腕を身体に廻し、密着される。
押し付けられる体の総てが、凄く柔らかい。
「先輩、今日はご馳走様でした」
「誘ったのは私ですからね、気にしないで良いですよ?」
「でも、高かったでしょう?」
「はい。高かったです」
臆面もなく笑顔で云う。こういうところは彼女らしいと云えばらしい。
「クロくん」
「はい」
「お願いがみっつあります。良いですか?」
「内容によります。先輩は平気で無茶云う時がありますから」
僕の言葉が聞こえているのかいないのか。
先輩は「はい」と自分の携帯を僕に渡した。
「なんですか?」
「写真撮りましょう?クロくん、それで私たちを撮って下さい」
これが1つ目だろうか。
僕は手を伸ばして自分達を捉える。
瞬間。
彼女は殊更僕に抱きついた。仲の良い姉弟か、恋人同士がするように。
僕は引きつったような照れたような表情でシャッターを切っていた。
対する先輩は上機嫌に蕩けている。
「えへへ。待ち受けにします」
「やめて下さい」
本当に。
「で、2つ目はなんですか?」
携帯を返しながら問う。
彼女はピッピと器用に片手で操作しながら僕を見上げた。
「“櫻子お姉ちゃん大好き♪”って云って下さい」
「・・・・・」
「“櫻子お姉ちゃん大好き♪”って云って下さい」
「・・・・・」
「“櫻子お姉ちゃん大好き♪”って云って下さい」
「聞こえてますよ」
238 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:14:14 ID:77mkWa3K
「じゃあ、サンハイ」
「勘弁してください。しろ姉さん、自分以外を“お姉ちゃん”て呼ぶと、凄く怒るんです」
僕が彼女に弟宣言された日、姉さんは甘粕家へ怒鳴り込みに往った程に。
「でも私は嬉しいですよ?」
「いや、あの、」
「高かったなぁ、仏蘭西料理」
「・・・・・・」
この人の愛読書は羅織経。
それは『無実の人間を咎人に仕立て上げる為の手順』が記された本。
ちなみにこの人の座右の銘は、
『薄情・不人情の道、忘るることなかれ。これをかえって人の喜ぶように行うを智と云う』
で、ある。
逆らえるはずも無い。
「サンハイ♪」
笑顔で促された僕は、搾り出すように、
「さ、櫻子お姉ちゃん、大、好き・・・・」
「はい。よく云えました。良いコ良いコ」
上機嫌で僕の頭を撫でる自称・姉。
余程嬉しかったのだろう。
笑顔がより笑顔になり、頬も真っ赤に染まっている。
他方の僕は肩を落として続きを振った。
「・・・で、みっつめは何ですか?」
「元気ないですねぇ、クロくん」
「・・・・」
僕は頭を抱える。鬼だ、この人。
しかし不意に甘粕櫻子は僕から距離をとる。
腰に自身の両手を廻して後輩を見上げる。
それは、今日見たどの笑顔とも違う、不思議な表情だった。
彼女はその顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
「今度また、お姉ちゃんとデートして下さい」
※※※
家の前まで来ると、更に寒く、そして夜は濃い。
すぐに家に入らないと身体を壊すかと思われた程だ。
その中に、人影がある。
橋の袂に立つ幽鬼のように。
その気配は儚く、酷く寂しげで。
「しろ姉さん」
「・・・・・」
玄関の前に立っていたのは、実姉。
「しろ姉さん、どうしたのさ、こんなところで」
僕は近づく。
すると。
パンッ!
高い音が響く。
それは僕の頬から。
そして姉の掌から鳴らされたものだった。
驚いた。
驚いたのは叩かれたからではない。
その表情と、手の冷たさに。
「姉さん・・・」
「莫迦」
怒っている。
それは判った。でもそれだけではない。
「こんな時間まで、私に無断で外出するなんて」
「ごめん」
間を置く。
239 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:17:10 ID:77mkWa3K
そのために甘粕先輩と外にあったけれど。
それは姉の怒りを買い、かえって不要な心配をさせたようだ。
姉の表情。
そこにあるのは傷悲。
そして。
「ごめん。姉さん」
僕は改めて頭を下げ、そんな弟を姉は抱きしめる。
「――しろ姉さん・・・!」
この感覚は。
「いつからここにいた!?」
肉親の身体は、氷のように冷たくなっている。
恐らく表面だけではない。芯から冷え切っているはずだ。
「・・・クロが出て往ってから、すぐ」
僕がのうのうと暖かいレストランで食事をしていた時から。
この人は何時間もこうしていたのか。
「クロが、私に断りも無しに外に出るなんてありえないと思ってた。すぐに戻ってくると思ってた。だ
から待っていた」
「ごめん」
それしか云うべき言葉が無い。
「・・・・・・」
姉は抱擁を強めた。
伝わってくるものは何だろう。
怒り。
安堵。
憔悴。
そのどれでもあったろう。
「それで・・・何処へ往っていたの?」
姉は身体を離しながら云う。
抱擁は解いたが、僕の両肩には姉さんの手が乗っている。
「外でご飯を食べてきた」
「そう・・・」
弟の行動がわかり、取り敢えずホッとしたような表情。
肩に置かれた手は、心が緩むに合わせてそこから離れようとして。
離れようとして――
「一人で、よね?」
ピタリと止まった。
「・・・・・」
どう答えるべきか。
嘘か。
真か。
『甘粕櫻子』
姉の嫌っている自称の義姉。
あれと共に在ったと云って、納得してくれるだろうか。許してくれるだろうか。
「どうなの、クロ?」
しろ姉さんの手が肩の上を滑る。
外側にではなく、内側に。
両手が間隔を狭めて、僕の首にそっと触れた。
左右から、幽霊のように冷たい掌が首に宛がわれた。
すぐには言葉がでなかった。
出来るならば嘘は吐きたくない。
けれど――
「答えて?」
親指が。
両の親指が、僕の喉の中央に触れる。
否。
『押し込まれ』た。
「ね、姉さん。苦しいんだけど」
「答えなさい。一人だったの?誰かといたの?」
痛い。
240 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:19:48 ID:77mkWa3K
それに、苦しい。
気道が制限され、酸素の供給が滞る。
「姉さん、息、息が出来ない・・・!」
「どっちなの?一人だったの?一人よね?一人に決まってるわよね?クロは私を置いて誰かと遊びに往
くなんてことはしないわよね?」
ぎりぎりと。
親指が喉に食い込む。口の奥に血の味が滲んだ。
姉さんの目。
寂しさに押し潰されたみたいに、暗くて冷たい。
多分、この人には“絞めている”という自覚は無いはずだ。
唯、力が籠もっているだけ。
でも、それが総て。
「ご・・・ッ・・・フ・・・」
咳まじりの空気が漏れて往く。
「一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?
一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?一人よね?」
駄目だ。
云えない。
云える訳が無い。
僕は姉の問う「一人」と云う言葉に頷いていた。
「――そう・・・」
冷たい手は喉元を離れ、新鮮な酸素が肺に届く。
「そう、よね。クロが私よりも誰かといる時間を選ぶなんてありえないものね」
目はどこかを彷徨いながら、独り言のように呟く。
凛とした姿ではなく、揺らぎを伴なうあやかしのように。
「でもクロ。勝手に出歩くなんて、もう駄目よ?」
「う、うん。ごめん、しろ姉さん」
姉は「仕方ないわね」と云って、僕を抱きしめる。
『一人』
その嘘に安心したのか。
鳴尾しろの瞳はいつものそれに戻って往く。
「しろ姉さん、家に入ろうよ。風邪ひくよ?」
「ええ。そうね。でも、もう少しこのままで」
抱擁を続ける姉は鼻声でそう云った。
本当はすぐにでも家の中に入れるべきなのだろうけど、身体が動かなかったのだ。
僕は姉さんに嘘を吐いた。
その酬いで、罰が当たらなければ良いのだけれど。
結論から云えば――
姉は結局風邪を引いた。
微熱を出し、蒲団の住人となった。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
本気でそう思っているのかは甚だ疑問だが、体調不良の原因を「弛んでいるから」と判断したようで、
その意味で彼女は落ち込んでいる。
僕のせいで身体を壊したのに、弟を責める素振りはまるで無い。
「しろ姉さん、本当に大丈夫?」
「ええ。問題ないわ」
蒲団に横たわる肉親は、赤い顔でそんな風に返すが、ちっとも大丈夫そうには見えない。
付きっ切りの看病は「クロにうつるから駄目」と断られた。
だけど顔を見せないと拗ねるので、何度も何度も部屋へ来た。自室にいてもひっきりなしにメールが届
くので、傍にいる様な感覚も抜けない。が、そのくらいは手間ではないのだから、勿論不満は無い。
「じゃあ僕は往って来るけど、しろ姉さんはちゃんと寝てるんだよ?」
「子ども扱いしなくて良いわ。クロこそ気をつけて往きなさい」
「なんか買ってくる?」
「平気。それより、本当に一人で出掛けるのよね?」
僕は頷く。
昨日と違って、それは本当の事。
これから、もう一人の姉を自称する人から教えられた画材店に買い物に往くのだ。
241 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:22:33 ID:77mkWa3K
基本的に姉さんは『往き先を告げ』かつ『単独ないし男友達と出掛ける』ならば、遅くならない限り怒
ることはない。
昨日は絵里ちゃんの件で機嫌を損ねていた上に無断で門限を破ったので、“あんなこと”になったけれ
ど。
僕は首をさする。
朝見た鏡には、鬱血した痕がうっすらと残っていた。
これは、僕自身の為した咎だ。姉さんは悪くない。
「どうしたの?クロ」
僕がいつもとは違う表情をしたせいだろう。
蒲団から顔を出す姉は、心配そうに弟を見上げた。
「いや、何でもないよ。しろ姉さん、早く良くなってね」
僕はそう云って立ち上がった。
復調して貰いたい。
それはまぎれもない事実。
その原因を招いたのは、僕なのに。
「ごめんね、しろ姉さん」
その呟きは届いていなかった。
赤い顔の肉親はそれでも、
「いってらっしゃい」
なんて微笑んでいて。
※※※
画材屋はすぐに見つかった。
僕が件の喫茶店を見知っていたから、それほど迷うことはなかったが、教えられていなかったらこうす
んなりこれたかどうか。
そう考えさせるほど、地理的には不利でマイナーだ。
だけど広い店内にはまばらにお客が入っている。“知る人ぞ知る”だけあって、判る人は来るらしい。
適当に見て廻ると、なるほど、確かに良品揃いの様だ。高価で、高品質な画材が多い。
僕は早速財布と相談する。
家の小遣いは同年代のそれと比べて多い方ではない。少ないとは云わないが、無計画に使える訳ではな
いのだ。
父親等は月月の小遣いが5千円しか与えられていないので、真剣(賭け将棋)で10倍に増やして遊行
費に充てている。それに比べれば遥かにマシだけど、姉はアルバイトを許してくれないので、矢張り楽
とは云い難い。
だけど、と僕は思う。
今度の絵は本気で描かねばならない。
涙まで流して認めてくれたあの娘に、報いる絵を描かねばならないのだ。その為には道具の妥協は出来
ない。
僕は懐具合の寂しさを振り切って、予算が許すであろう限りの良品を選び、会計へ持って往く。
個人経営の店だろうから、レジのおじさんが店主なのだろう。
彼は鋭い眼光でじろりとこちらを見つめた。
「ほんとにこれでいいのか?」
「はい。良い物を使いたいので」
「ふーん。まあ良いけどな、こっちも商売だし」
値段を提示される。
(むぅ・・・)
予想していたとはいえ、矢張り高い。
銀行からなけなしの貯金も降ろしてきたのだけれど、表示された値段は僕の予算を吹き飛ばすには充分
過ぎる。
(まずいなあ、財布の中、2円くらいしか残らないや)
このままでは次の小遣いまで身動きが出来なくなる。
それは困る。しろ姉さんに、果物を買って帰ろうと思っていたのに。
金が無いと分かったのだろう。
おじさんは勝ち誇ったような顔で、
「おやおや?どうしたい?」
なんて笑った。
高いところから人を見下すような瞳だ。
別にこの人にどう思われようと構わないが、画材以外手ぶらで帰るつもりはない。
242 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:27:41 ID:77mkWa3K
どうにかならないものか?
僕は手を拱き――
(そうだ)
笑顔の美人を想起する。
「あの」
「んー?やっぱり止めるのか?困るんだよねぇ、レジ打ってからだとさぁ」
おじさんは「ホレ見ろ」といわんばかりの表情。
「いえ。そうじゃなくて。ここへは、甘粕先輩の紹介できたんですけど」
「ぁ、ぁまかす?」
小莫迦にする様な笑みを浮かべていたおじさんの顔が引きつった。
「ど、どちらの甘粕さんで?」
「どちらのって、いつもニコニコしてる綺麗なお姉さんなんですけど、ご存知ありませんか?」
「や、やっぱりあの悪魔か!」
ひぃ!と、甲高い声が店に響き、幾人かのお客さんが驚いてレジを見つめた。
(悪魔・・・)
「それって甘粕先輩がですか?」
「あ、いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ!!!!!!悪魔なんてとんでもない!!
悪魔も羨む美人って云ったんですよ」
おじさんは気味の悪い笑顔で揉み手するが、表情とは裏腹に大量の汗が噴出している。
「それでお会計ですけど」
「も、勿論ただで差し上げます!!甘粕様のお知り合いからお金を取るなんて、とんでもない!!」
「た、ただ?」
この値段が?
(凄い変わり様だ)
僕は目を丸くする。
サービスで済むような価格ではないのだが。
「いや、でも無料ってのはいくらなんでも・・・」
「で、では95%OFFで!ね!それで勘弁して下さい!あの方の知己からお金を取ったなんて知れた
ら、私は、私は・・・・!!!」
「いや、でも」
ロハっていうのは・・・。
「お、お願いです!お願いです!引き下がってください!鉛筆もサービスで付けますから!」
笑顔なのに泣き声みたいな口調で、デッサン用の高価な鉛筆を袋詰めにしていくおじさん。
「・・・でも、本当に良いんですか?」
「も、勿論です。どうか甘粕様には宜しくお伝えください。え、えへへへへ・・・・」
彼はガクガクと震えている。
甘粕先輩、貴女一体、この人に何をしたんですか?
「じゃあ、それで買います」
僕は9割5分引きになった画材を購入して外に出る。
扉を閉めると背後からから、
「畜生っ!畜生ォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!!!!!!!」
とかいう叫び声が響いて来たけど。
それは聞かないことにした。
※※※
僕の目の前。
そこには何も無い。
何の変哲も無い見慣れた部屋だけが視界の総て。
そしてその中に、四角く白い世界の果てがある。
ここは僕が自分を表現する場所。
弱さをぶつける場所だ。
あの娘。
五代絵里は“目の前にあるもの”を、あるがままに認められた。
だから、きっと彼女の描く絵は風景画か静物画だろうと思う。
目の前のものを“絵”として完成させるには、在るがままに描くか、ありもしないものでアレンジする
しかない。
多分、僕にその能力は無い。
あるのは唯、“無きものを表現する”能力だけ。
243 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:30:32 ID:77mkWa3K
ここに無い。
ここに無いから、それが描ける。
幻想を。
夢を。
或は絶望を。
心の世界を形に変える。
無から有へと。
唯、混沌を整理することだけ。
それだけが、鳴尾クロの表現だと思う。
僕は決して優秀に属する人間ではない。
表現や体現には、本来向かない人間だ。
弱さを。
脆さを。
前回はそれを“ここ”に具現化した。
今度は、そこに別のものを乗せる。
想いを。
強さを目指す過程を。
それを混ぜるのだ。
前回はそんな事を考えなかった。
それを顕すだけの道具がなかった。
でも今は、その意志と画材がある。
だから、迷いは無い。
白。
黒。
赤。
青。
心の赴くままに四角い世界を塗りつぶす。
ここには無い世界。
だから、調和は自分で決めて良い。
暖かさも寒さも。
矛盾も撞着も。
ここでは総てが許される。
唯それを、可視に還元するだけだ。
外は寒い。
もう夜中なのだろう。
だけど僕の手は止まらない。
思いは淡雪のように。
今この時を逃したら、儚く消えて戻らない。
回顧し、追憶に淡雪を追う力が僕には無い。
生命を削り、今、この瞬間だけに世界を作れるのだ。
それも弱さ。
それも欠点。
時間が流れ、より寒くなった頃。
世界の果てに、不可視だった心が体現される。
それは――1枚の絵の、完成だった。
「・・・・出来た」
性も根も尽き果てたとはこのことか。
僕はしりもちをつく。
だけど、それに見合う作品は描けたと思う。
前回の絵とは違う。
真剣な作品。
満ち足りた作品だ。
「ご苦労様」
凛。
そう評すべき振動の空気が届き。
同時に柔らかい何かが僕を覆う。
人の感触。
あの人の感触だ。
「しろ姉さん来てたんだ?」
244 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:32:47 ID:77mkWa3K
また、気が付かなかった。
「私はいつでも貴方の傍にいる。そう云ったでしょう?」
病床についていた筈の肉親がそこに在る。
背後から肩に顎を乗せる姉の顔色は当然良くないが、笑顔は澄み、活力を感じさせる。
「身体は平気なの?」
「今は無粋なことは云わない」
コホコホと咽ながら、姉は抱擁を強めた。
暖かい。
それに、安心する。
「良い絵ね」
「そうかな?」
「うん、クロは絵が上手い」
偽りの世界を視界に、姉さんは微笑む。
「満足往くものは描けた?」
「うん。全部出せたと思う」
「そう」
僕の頭を撫でる。
本当に実弟を誇りにしているのだろう。
彼女の表情もまた、穏やかに満たされている。
「題名は何て?」
「いや。特には無いよ。そう云うの、苦手なんだ」
だからつけるつもりは無い。
僕は元元表現には向かないのだから。
そう、と姉は頷いた。
「ねえ、クロ」
「うん?」
姉さんは抱擁を強める。
245 :永遠のしろ ◆UHh3YBA8aM :2007/12/15(土) 16:35:34 ID:77mkWa3K
背後から弟の身体を締め付けていた両の腕は、マフラーみたいに首に巻きついた。
「クロは」
僕は一瞬身を竦める。
この前の夜の感触を思い出したから。
「クロはこの絵、あの娘に渡すの?」
いつもの凛とした声。
だけど、何かが少し違う声。
僕は少し戸惑ったけれど。
「その為に描いたんだ」
「・・・・・」
きゅ。
首に巻かれた腕が、幽かに強張る。
「姉さん?」
「・・・・」
『絞まる』のか。
そう思った刹那――
するりと。
腕が解かれる。
温もりが離れて往く。
僕は自由になった身体を肉親に向けた。
姉は微笑んでいる。
でも、どこか寂しそうに。
「クロ」
「ん?」
「喜んで貰えると良いわね」
「うん」
僕は頷く。
姉さんは僕の頭を撫でて、
「もう寝なさい。少しでも身体を休めておかないと」
振り返らずに、暗い廊下に溶け込んで往く。
(しろ姉さんの背中、こんなに小さかったっけ?)
少し不安になった。
僕は姉が見えなくなるまで見送り、それから窓を開けた。
「寒・・・」
吹き込んでくる外気の冷たさ。
吐き出される息の白。
冬の日の出は遅い。
いまだ外は闇の中。
冷気はいずれ、雪を呼ぶ。
この不滅の黒の中に、永遠の白は降り注ぐ。
すぐに至るその時に。
(姉さん)
僕は一体、何を見るのだろう。
最終更新:2007年12月27日 13:42