__(仮)第3話

668 :__(仮) (1/11) :2008/01/06(日) 18:00:28 ID:wBRa9Z6S
 秋巳が水無都冬真に告白の件を相談してから。
なんとなくぼんやりと霞がかったような晴れない気持ちのまま秋巳は帰宅の途についた。
 水無都冬真の家も秋巳の近所であり、秋巳は一緒に帰ろうかと誘ったが、
例の件について早速心あたりを当たると水無都冬真は言い、そのまま屋上で別れた。
「あら。おかえりなさい。兄さん」
 秋巳が玄関の扉を潜ると、迎える妹の椿。
 ちょうど洗濯物でも取り込んでいたのだろうか、洗濯物を詰めこんだ籠を持って、
階段を上がろうとしているところだった。
「ああ。ただいま」
 そう返す秋巳の挨拶を背中で受けて、そのまま階段を上がっていく椿であったが、
途中で思い出したように立ち止まり秋巳のほうを振り返る。
「ああ。そうそう。兄さんの分の洗濯物は、分けて居間の籠に入れてありますので、
 自分でしまって下さいね」
 そういい残すと秋巳の返事も聞かずに、自分の部屋へと入っていく。
 その椿の部屋の閉まる音を聞きながら、秋巳は聞こえていることなどまったく期待しないで返事をする。
「ああ。判ったよ」
 それは、なにげない普段の、いつもどおりの兄妹ふたりのやり取りであった。
 兄に敬語を使う妹。
 昔からそうだったわけではない。
 いつからだったろうか。
 秋巳は思い出す。いや、思い出すまでもなかった。
 秋巳が中学にあがる直前。この家に住む人間が誰もいなくなったときからだった。
 そして、その約三年半後。椿と自分が兄妹ふたりで、再びこの家に戻ってきて。
以前の半分となった人数でこの家での生活を再開しても。椿の態度は、特に変わることはなかった。

 一言でいってしまえば、兄に対して無関心。一緒の家に住んでいる同居人程度の認識なんだろう。
 秋巳はそう考えていた。
 特に尊敬するわけでも、毛嫌いして疎ましく思っているわけでもない。
必要な会話は交わすし、不必要におしゃべりすることもない。
 秋巳にとって、それはありがたい距離感だった。妹の態度がよそよそしいことが、ではない。
その程度には接してくれていることが、である。
 過去に秋巳が椿に与えた仕打ちを考えれば、自分はこの家でまったく存在しないものとして
扱われても仕方がない。秋巳はそう思っていた。
 それでも、椿は兄である秋巳を一人の人間として扱い、他人の前では兄として立ててくれることも多い。
それは、多分に椿の体面も考えてのことだろうが、それでも秋巳にとってはありがたかった。嬉しかった。
 彼が唯一、関心を向ける『肉親』だったから。
 特になにもなくたって、思春期に差しかかった妹が、兄に対して冷たくあたるなんてことは、
秋巳の周りでざらに聞く話だった。あまり周囲と比較するという思考を持たない秋巳ではあったが、
妹との生活はそれを考慮すれば充分『幸せ』である。そう認識していた。
 『好意』の対極がなんであるか、なんて考えることなく。
 このままの生活が続いてくれればいいと思っていた。
 秋巳は椿のことを大事に想っていたし、椿が困っていれば迷わず自分のできうる限りの手助けはするであろう。
 それはいままでもこれからも。あの時期だけを除いて。秋巳にとってはあまり思い出したくない一年を除いて。
(まぁ、椿は困っても自分になんか助けは求めないだろうが――)
 心の中で苦笑して、妹が自身の望む幸せを求められることを願う。

669 :__(仮) (2/11) :2008/01/06(日) 18:04:09 ID:wBRa9Z6S
 椿は、望めば世間一般の幸せをいくらでも得られるであろう人間だった。
 学業。容姿。身体能力。すべてにおいて平均以上のスコアを叩き出せる彼女は、
なんでもそつなくこなす才能を有していた。
 特に秋巳が苦手とするフィールドにおいては、彼が母親のお腹に置いてきたその才能を
全部かき集めて生まれてきたんじゃないかと思うほど、抜けた能力を発揮した。
 そのことがまた、秋巳の『出来なさ具合』をより浮き彫りにし、
無意識に秋巳の劣等感を刺激する促進剤となっていたのだが、
秋巳は純粋に妹が才能溢れる人間であることを喜んでいた。
 また、容姿をとっても、秋巳にとっては『気持ち悪い』要素でしかない透きとおるような純白の肌、
肩甲骨の下あたりまで伸ばしたブラウンのストレートロングも周囲の女生徒からは
羨望の眼差しを向けられた。顔についても、時折物憂げな表情をするため、
華奢な体型と相まって線の細い印象をうけるが、目鼻立ちははっきりしており、
すっと通った輪郭も含めてあきらかに美人の部類に入るものだった。
 ただ、男に媚びたり、かわいらしい自分を演じてみせるということはまずしなかったので、
柊神奈のような男受けのいい『クラスのアイドル』とは、また違う評判を得ていた。
 どちらかというと、周囲の尊敬を集める人望のあつい人柄、また周囲に与える影響力も大きい人物、
というほうが相応しかった。
高嶺の華といった雰囲気がやや漂うので、表立って言いよる異性はあまりなかったが、
それでも密かに憧れている男子生徒は多いであろう。

 今現在、堂々と言い寄っているのは、水無都冬真ぐらいだろうか。
 秋巳は考える。
 学校では、自分は『如月椿の兄』ですらないだろう。
 よく出来た妹にとっては、出来の悪い兄など目障りでしかないはずだ。
引き立て役ぐらいにならなるかもしれないが、身内であることを考えれば自分の評判に影をおとす存在。
 だから、秋巳は学校では極力妹に接しないようにしていたし、
彼のクラスメイトのほとんども彼の妹のことなど知りもしないだろう。
如月椿の存在は知っていたとしても。
それがクラスで名前も覚えられているかどうかも怪しい影の薄い如月秋巳の妹だとは想像がつかないのだ。
 彼のクラスでの認識は、せいぜい『あの水無都冬真となぜか仲の良いヤツ』ぐらいのものであろう。
それも、分け隔てなく付き合う水無都冬真が秋巳にも構ってやっているのだろう、ぐらいの認識。

 もし、自分が柊神奈に関係した噂の対象になれば。
 もし、注目されるようなことになれば。
 『如月椿のダメ兄貴』の風評が、学校に流れるかもしれない。
 秋巳は、妹の学校での影響力を正確には知らなかったが、
水無都冬真から伝え聞く範囲で考慮すれば、椿にとってもいい迷惑になるに違いない。
 だから、それを考慮しても、柊神奈とのことは穏やかに済ませたかった。

670 :__(仮) (3/11) :2008/01/06(日) 18:05:38 ID:wBRa9Z6S
「兄さん、今日の夕食なんですが――」
 秋巳が居間で洗濯物を畳みながら、つらつらと昨日今日の出来事や椿のことについて、
考えを巡らせていると、背後から声がかかる。
 椿がいつのまにか部屋から出てきて、居間の入り口に立っていた。
「ん。ああ、今日の夕食か。えっと、当番は……僕だっけ。
 早い方が良い? もうすぐ用意するよ」
 夕食の支度は長期の休みの日を除いて、原則ふたりで交互にやる。
それがこの家での生活においての二人で取り決めたルールだった。
「いえ。ちょっと都合で明日の夕食がいらないので、
 今日と当番交代してもらえます?」
「あ。そうなの。別にいいよ。明日は僕ひとりで適当になんか買うし。
 いちいち交代しなくても」
「こちらの気分の問題なので。ダメなら、明日夕食だけ作りに戻ってきますけど?」
 そう言い切る椿。
 自分に貸し借りをつくりたくないのだろう。『同居人』ならではの線引き――。
 秋巳は内心自嘲する。
 ここで押し切れば、明日は本当に夕食をつくるためだけに戻ってくるのであろう。
「判ったよ。じゃあ、今日はお願いするよ」
「ええ。時間はいつもどおりでいいですか?」
 自分の提案が受け入れられたことに、わずかにほっとしたような表情をみせる椿。
 面倒なことにならなくて済んだからであろう。
「それでは、ちょっと夕食の買物に行ってきますので」
 そう言うと、椿は踵を返し玄関へと向かった。
「ああ」
 秋巳は頷いたものの、「今日買い物行く必要あったっけ?」と疑問を浮かべていた。

671 :__(仮) (4/11) :2008/01/06(日) 18:08:07 ID:wBRa9Z6S
 *  *  *  *  *  *  *


 秋巳に翌日の夕食が不要であることを伝えてから、椿が向かった先は駅前の喫茶店『ユートピア』。
 大層な名前が付けられている割には、店舗の構えはそれに相応しいものとはいえなかった。
デートに使われるような洒落た店というより、ビジネスマンがちょっとひと休みといった
用途で主に使われるこの場所。
その色気もなにもない自動ドアを潜ると、ひととおり店内を見渡す。
 いらっしゃいませと声をかけてきた店員に対して、待ち合わせの旨を椿が伝えるとほぼ同時に、
フロア奥の一角から声が上がる。
「おーい! 椿ちゃん! こっちこっち!」
 ホットコーヒーひとつを、と店員に注文すると、その呼ばれた窓際のボックス席へ向かう椿。
「ごめんなさい。水無都さん。お待たせしましたか?」
 特段済まなそうな顔を見せるでもなく、普段どおりの表情で待ち合わせの相手である水無都冬真に声をかける。
「いやいや。俺もいま来たところだよ。さ、座って、座って」
 と自分の座っていたところからウィンドウに近い奥に寄って、隣をバンバン叩いて座るよう促す。
 椿は、ええ、と返事しながら、ボックスの水無都冬真の向かいの席に腰を下ろす。
「…………」
 隣を空けたことに椿がなんの反応を見せることもなく完全に無視された形の水無都冬真は、
窓際に寄りかかったまま一瞬固まったが、
「はは。いや、ここなぜか埃っぽくてね……」
 と先ほど自分が座っていた場所に手を置いたまま、乾いた笑いで呟いた。
「さすがですね」
「え? なにが?」
「女性に恥を掻かせない術を心得ている、と。
 たとえ自分が恥を掻いても、相手は責めないんですね」
 と、水無都冬真のまえにおかれている空になったコーヒーカップを指差す。
「いやー。椿ちゃんの冷たいあしらいは慣れてるしね。
 そんなところに、また俺のハートはぞくぞくくるわけよ」
「それで、お話とは?」
「うわ。もうほんと、兄妹そろってクールなんだから。もっとさ、
 『お待たせしてすみません。これでも冬真さんに呼び出されて
 慌てて飛び出してきて、走ってきたんですけど』なんて、
 ハァハァ息を切らして、頬を染めながら囁いて欲しかったり
 するんだよねー。お兄さんとしては」
「お待たせしてすみません。これでも水無都さんに呼び出されて
 慌てて飛び出してきて、普通に歩いてきたんですけど。
 それでお話とは?」
 なんの感慨も含めないように、棒読み真顔でこたえる椿。
「はいはい。判ってましたよー。ええ。ええ。
 全然ショックなんて受けてませんよー。ふーんだ。
 意地の悪い椿ちゃんには教えてあげないもんねー」
「では。これ、コーヒー代ですから」
 そう言って五百円玉を置いて立ち上がろうとする椿。

672 :__(仮) (5/11) :2008/01/06(日) 18:10:32 ID:wBRa9Z6S
「ええ! 嘘ウソッ! 軽いジョークだってば!」
 水無都冬真が、引きとめようと慌てて椿の腕を掴む――その瞬間、
逆に手首を掴まれ腕を勢い良く捻り上げられる。如月椿によって。
「えぇ! ちょっ――!」
 驚いた水無都冬真がその痛みを感じる直前に、
ぱっと掴まれた手は離された。
「失礼しました。ちょっと驚いたもので。反射的に」
「あ、あの? 驚いたのはこっちのほうなんだけど? 
 腕をつかまれて反射的に相手の腕をひねり上げるって、
 どんだけ戦闘訓練を受けた照れ屋さん?」
 特に痛みはないが、掴まれた手首を擦りながら水無都冬真が問う。
「すみません。男の人に免疫がないもので」
「そこはもうちょっと照れながら言ってほしかったなぁ。
 と、まあいいや。ごめん。
 ちょっとこっちも悪ノリしちゃったしね」
「では、痛み分けということで」
 自分に多大なお釣りがきそうだけどね、と水無都冬真は思った。
「うん。まぁ、話ってのは、さっきメールで送ったことなんだけど」
「これのことですか?」
 そう言って、携帯を広げて見せる椿。そこには。

『FROM: 水無都冬真
 TO: 如月椿
 Subject: 【緊急事態】Emergency!!!【発生】
 Contents:
  あ 姉さん。事件です!
  い 秋巳の被害者が
  し 累計二名に達しました!!
  て 明日の晩しっぽり決め込む模様。
  る 詳細はヒトナナサンマル、
  ! 約束の場所で。ランデブー。』

「うん。それ」
 我が意を得たりとばかりに頷く水無都冬真。
「で、ここでこの暗号の解き方を教えてくれるわけですか?」
「いや、暗号もなにもそのままの意味だけど?」
「では。日本語に訳していただけると助かります」
「いや。日本語だけど」
「…………」
「あぁ。いいねぇ。その冷たい視線もゾクゾクするよ」
「で?」
 そもそもその後の『p.s. 約束の地。それすなわち、桃源郷』という追送されたメールがなければ、
この場所すら判るものではなかった。

673 :__(仮) (6/11) :2008/01/06(日) 18:13:49 ID:wBRa9Z6S
「しょうがないなぁ。ネタばらしをすると、
 メール本文の各行の最初の一文字だけ読むと、真実が浮かび上がってくるよ?」
「『ねあるあしや』……。意味不明ですけど?」
「ねぇわざと? わざとだよね。それ」
「申し訳ないんですが。私もそんなに暇じゃないのですけど……」
 いい加減本題に入らない水無都冬真に対して、痺れを切らしたように、しかしその口調は抑揚なく述べる椿。
「といいつつも、あのメールだけでここまで来ちゃうんだから、
 やっぱり愛されてるよねぇ。ボクって」
 はにかむように笑う水無都冬真に、椿は若干呆れたように溜息を吐く。
「おまたせしました」
 そこへ、店員が椿の頼んだホットコーヒーを持ってきて、さらに、水無都冬真にコーヒーのお代わりを勧めた。
 水無都冬真の空のカップにジャグから注ぐと、「ごゆっくり」とにこやかな笑みを浮かべて去っていった。
「さて。椿ちゃんの飲み物もきたし、今日呼んだわけを話そうか。
 といっても、椿ちゃんのことだから、
 大体察しはついてるかもしれないけどね」
 そう言ってカップに注がれたコーヒーを、なにも入れずにそのまま啜る水無都冬真。
「まぁ。手短に言うとね。俺のクラスのね、
 まぁ、秋巳のクラスでもあるんだけど、
 ある女の娘と付き合いたいなぁって思ってるわけよ」
「…………」
 椿は黙って軽く頷き、水無都冬真の話を先に進めるよう促す。
「ところがさぁ。厄介なことに、その娘なぜか知らないけど、
 あの秋巳に惚れちゃってるんだよなぁ。いや、これが。
 ほんとあの学校の七不思議に認定したいところだよ」
「その妹のまえで、随分な言い草ですね。
 まぁ、そう言われても仕方のない兄ですけど」
 いままでにこりともしなかった椿が、今日はじめて水無都冬真の前で笑みを漏らす。
若干苦笑いを含んだものではあったが。
「いや。そうなのよ。それでさ、俺としてもその娘の目を覚まさせてあげたいのよ」
「そうですか。それで、なぜ私にその話を?」
「え? そりゃあ、椿ちゃんがこれだけ慕ってくれてるんだからさ、
 いきなり椿ちゃんを蔑ろにしてほいほい別の女の娘のところに
 行くわけにもいかないかなぁって。椿ちゃんが『行かないでっ!』って
 言ってくれるなら、俺はもちろん椿ちゃんをとるよ」
「ふふ。大した自信家ですね。それだけ聞くと、
 私なんか扱いやすい取るに足らない人間って言っているように聞こえるのですけど」
「いやいや。黙ってその娘のとこ行っちゃうのは、フェアじゃないと思ってさ」
「余裕たっぷりですね。私は、試されているのかしら? 
 水無都さんはどちらでもいいけど、私の一存で動くって」
 そこで、はじめて出されたコーヒーを一口すする椿。フレッシュのみをわずかに垂らして。
「いや。俺としては椿ちゃんに引き止めて欲しいよ。
 でも、いままで押してばかりだったからね。
 たまには引いて反応を見たくなるのさ。恋愛の駆け引きってやつだね」
「それを口に出しては、駆け引きにならないのでは?」
「存外駆け引き下手で不器用なところを見せて、
 そこで椿ちゃんの気持ちをきゅんって揺り動かそうって作戦なわけだ」
 椿は、持ち上げていたカップを、ゆっくりと、音を立てないようにソーサーに戻す。
「そうですか。勘違いしないで受け取ってもらえるとありがたいのですけど。
 兄を好いてくださってるその方を――もし本当にそういう方がいらっしゃるなら、
 水無都さんに取られたくないって気持ちはあります」


674 :__(仮) (7/11) :2008/01/06(日) 18:16:14 ID:wBRa9Z6S
「へえ。じゃあ、椿ちゃんは、その娘と秋巳が付き合ったほうがいいと思うわけだ。
 俺じゃなくて」
「水無都さんなら選りどりみどりでしょう。
 でも、あの兄を好いてくれる人はそうはいない。
 でしたら、譲ってくれてもいいのでは?
 もしかしたら、それを機にあの兄も変わるかもしれませんし」
「俺の意志を無視しても? 俺にも自由恋愛はあるんだけどな」
「ええ。それは承知してます。水無都さんの意志を捻じ曲げてでも、
 というわけではありません。だから、あくまで私の希望です」
「それで、秋巳が変わる、と。確信があるんだ」
「いえ。確信なんてありませんよ。私は兄じゃないですから。
 兄の心は、兄にしか判りません」
「いやいや。案外自分の気持ちって判らないものだよ。
 それが、人から与えられたものなのか。自分で得たものなのか、ね」
「……。それもそうですね」
 椿は、つまらないものを聞いたかのように興味なさげに眼を伏せ、だがしかし言葉の上では水無都冬真に同調する。
まったく抑揚のない平坦な口調で。
「じゃあさ。俺がその娘に関わらない代わりに、
 椿ちゃんに付き合ってくれって言ったらどうする?」
「私にも自由恋愛はありますから」
「はは。こりゃ手厳しいね。あーあ。振られちったなぁ。
 もうこうなったら、その娘にアタックするしかないかな」
「それは、その娘に失礼なのでは?」
「ああ。そうかもね。でもね――」

 そこで一旦言葉を切った水無都冬真に、椿が続ける。
「それが兄の望みなのでしょう?」
 そう言って椿はその日一番の微笑を浮かべた。
「うーん……」
 水無都冬真は、そう唸るといままで組んでいた腕を解いて、
温くなったコーヒーを二口ほど音を立てるように飲んだ。
「話は、以上。で宜しいですか?」
「うん。そうだね」
「では。私はこれで。この後買い物をしないといけませんので」
 そう言って、半分以上残っているコーヒーを残して立ち上がり、先ほど渡しかけた五百円玉を再びテーブルの伝票の上に置く。
 去りかけた椿に対して、水無都冬真が呼びかける。
「あっ! そうだ。椿ちゃん。最後にひとつ」
「なんでしょうか?」
「携帯の着信拒否。解除しといてね」
 そう言って穏やかな笑みを浮かべた水無都冬真に、お返しとばかりに薄く笑みを返す椿。
 なにも応えずに。

675 :__(仮) (8/11) :2008/01/06(日) 18:20:32 ID:wBRa9Z6S
 *  *  *  *  *  *  *


 椿が買い物に出て行ってから約三十分後。
 そろそろ椿が帰ってきてもおかしくないと思われるため、
秋巳は居間で飲んでいたコーヒーを片付け、二階へあがろうとしていた。
 椿は、自分が料理をしているときに、秋巳に傍にいられることを快く思っていない。
 秋巳はそう感じていた。
 はっきりと口に出してどこかへ行けと言われることはなかったが、暗に言われることは多々あった。
 秋巳もそれを自覚するようになってからは、妹が料理をしている間は、
台所や居間には近づかず、なるべく自分の部屋か、外出をしているようにしていた。
 自身の使ったマグカップを流しで洗い、水を切ってから流し台に置かれている金属製の水切り用網籠のなかに入れたそのとき。
 リビングのテーブルの上に置いた携帯電話が振動している音に気づいた。
 電話かな、と思いながら歩みよりその携帯を手にしようとした瞬間に、バイブレーションは停止した。
 ああメールか、と着信の短さから判断して携帯を開くと、果たしてメールの着信が示されている。

 そのメールをあけようとすると、今度は玄関のチャイム音がなった。
(なんなんだ。今日は。タイミングの悪い――)
 メールを開くことなく、携帯を掴んだまま今度は玄関に向かい鍵を開ける。
「はい。どちらさま――」
 と、秋巳が玄関ノブを掴むより早く、その扉が開かれる。
「はい! 秋くん。お元気ー?」
 そう元気良く豪快に如月家の玄関を開けたのは、秋巳も良く知る人物――葉槻 透夏(はづき とうか)であった。
「と、透夏、さん?」
 いきなりの訪問に驚いたように、秋巳がノブを掴もうとした姿勢のまま固まる。
「秋くん。ご無沙汰ー。っていうか、もうやだ。
 おねえちゃんって呼んでって言ってるのに、いつまでたっても透夏さん、
 なんて他人行儀な呼び方するんだから。
 あ、なんだったら透夏姉、でもオッケーよ」
 そう向日葵のような笑顔でテンション高く秋巳に向かって挨拶する葉槻透夏。
彼女は、如月秋巳の父方の姉の娘――従姉弟であった。
 歳は秋巳より二歳年上。この春に大学生になったばかりである。

 真っ白いブラウスに桜色の薄手のカーディガンを羽織り、下は膝上までの鳶色のプリーツスカートに黒のパンスト、
足元は乳白色のカジュアルショートブーツといった春めいた装いの葉槻透夏。
「透夏さん、きょうは――」
 どうしたんですか。そう問おうとした秋巳の口を、葉槻透夏が右手の人差し指を軽く押し当てて止める。
「んー。定例のアレよ。アレ。突撃!お隣さんちの晩ごはーんってね。
 まぁまぁ、奥さん玄関で立ち話もなんだし、入りましょう入りましょう」
 そう言って、玄関に腰をかけて靴を脱ぎだす。
(あ。あれか。定例の様子見――)

 秋巳は、現在この家に妹である椿とふたり暮らしである。
ふたりとも高校生であり未成年であるということで、保護者が要る。
その保護者となっているのが、秋巳の伯父夫婦であった。
その伯父たちと、この家にふたりが住むにあたって約束したことがある。
 少なくとも月に一度は、伯父、あるいは、伯母が様子見に行くこと。
 未成年の子供がふたりだけで生活しているのだから、『保護者』として、それは最低限必要な行為である。
 如月兄妹が伯父夫婦の家を出て行くことを快く思わなかった夫婦ふたりの最低限の譲歩であった。
 秋巳たちがこの家に戻ってきてから暫くは、伯父か伯母が二週間に一回は訪れていたが、
葉槻透夏の受験が終わったぐらいから、伯父夫妻の代わりにその娘である葉槻透夏がよく訪問するようになっていた。

676 :__(仮) (9/11) :2008/01/06(日) 18:24:46 ID:wBRa9Z6S
 秋巳は、葉槻透夏をリビングに案内すると、ソファで寛ぐよう奨めて再び台所に立つ。
「それにしても、今日は急でしたね」
 ヤカンを火にかけながら彼女に話しかける秋巳。
 いつもならば、事前に行くからという連絡があるはずだった。
「んー? それはいきなりアポなしで押しかけやがって、ていう嫌味なのかなー? 
 でも、事前にちゃんと連絡したよ? メールで」
「え?」
 ふと先ほど来たメールが、思い当たる。
 先ほどポケットに突っ込んだ携帯を取り出して、件のメールを確認すると、秋巳の予想は違わなかった。
『やっほー。秋くん、椿ちゃん、元気? 
 きょうはねぇ、太陽が赤かったから、
 おねえちゃん、これから秋くんたちの様子を見に行こうかと思います。
 というわけで、秋くんは裸エプロンでおねえちゃんをお迎えの準備よろしく! 
 もし留守なんかにしてたら……』
 以上の内容が、きらびやかな絵文字を交えて送られてきていた。最後の『禁』の絵文字の意味は秋巳には判らなかったが。
 秋巳は軽く溜息を吐く。
「透夏さん、呼び鈴押す直前に、送信ボタン押したでしょう?」
「やだ。秋くん。おねえちゃんのこと監視してたの?
 もうダメだよ。おねえちゃんだからいいものの、
 他の女の娘にやったら犯罪なんだよ? ストーカーなんだよ?
 半径百メートル以内立ち入り禁止区域になっちゃうんだよ?」
「警察に訴えられる前に、是非透夏さんの『事前』の定義だけは
 教えてもらいたいんですけど?」
「なあに。国語のお勉強? 『事前』っていうのはね、
 『事』の起こるまえってことね。ゴムの準備とか、ムード作りとか、そういうことね」
「透夏さんの言っていることがさっぱり判らないんですが……」
 いや、むしろ彼女の思考が、だろう。そう思い直す秋巳。
「まぁ、秋くんもそのうち判るようになるわよ。
 それよりも、きょうは椿ちゃんいないの?」
「えぇ。椿はいま買い物に出てますよ。今日の夕飯の。
 もうそろそろ帰ってくると思いますけど」
「あー。そうなんだ。って、今日って秋くんの担当の日じゃなかったっけ?」
 自分ですら怪しいのに、なんでこの人は、人の家の当番の事なんか把握しているんだろう。
 秋巳はそう疑問に感じたが口には出さなかった。

「椿が明日用があるとかで、交代したんですよ」
「ふーん。そうなんだ。あ、じゃあさ。ねぇねぇ。
 今日はあたしが作ってあげよっか? 
 愛情たっぷり込めて、秋くんの意識が覚束なくなるくらいの!
 ねぇ、どう?」
「恩人を犯罪者にしたくないので、是非遠慮したいところですが。
 ま、椿が帰ってきたら交渉してください」
「まーた。恩人とかそういう他人行儀なこと言う!
 もっとおねえちゃんに甘えてくれないと、おねえちゃん寂しくて死んじゃうぞー!」
 整った顔立ちを崩し、眉根を寄せ口を尖らせて、駄々っ子みたいな文句を言う葉槻透夏。
ばたばたと暴れるのに合わせて、彼女の後頭部でまとめられた肩まで届く黒い髪が揺れる。
 葉槻透夏がこういう性格なのは以前からなので、秋巳にとって慣れていたが、
椿と比べるとどうにも妹よりも子供っぽいと感じざるを得ない。
椿も椿で歳不相応に落ち着き払いすぎているのだが。
 秋巳は自分のことを棚に上げてそんなことを思った。

677 :__(仮) (10/11) :2008/01/06(日) 18:28:08 ID:wBRa9Z6S
「すみません。気に障ったら謝ります」
「だーかーらー! そーいうよそよそしいのがやーなんだってばっ!」
 葉槻透夏は憤懣やるかたないといった様子で、左手で自分の膝を叩く。
 しかし、秋巳にとって、葉槻透夏は血はつながっている『親戚』であるが、
あくまでお世話になった恩人であり、『肉親』という認識ではなかった。
 秋巳の『肉親』は椿ただひとり。
 そして、秋巳がなんの損得も考えずに動くのは、椿と水無都冬真のためぐらいのみ。
 椿と同じように葉槻透夏が秋巳の助けや協力を必要とするのなら、秋巳はなんのためらいもなく動くであろう。
ただ、その根底にあるのは、お世話になった恩人に対する『義理』である。『肉親』に対する思いやりではない。
 そんな秋巳の言動からその内心を薄々感じ取っているのか、葉槻透夏は秋巳の態度に良く文句を言っていた。
 それでも秋巳の心内がそう簡単に変わるわけでもなく、かつ表面上だけ取りつくろって演技するという意志もなかったため、
だいたい葉槻透夏の悪役の去り際のような一言で、その文句は幕を閉じる。
「ふーんだ。いいもん。絶対いつかおねえちゃん魅力でめろめろにして、
 秋くんに『おねえたーん、だっこー!』って言わせてみせるんだから!
 覚えてなさいよ!」
 もしそんなこと言ったら二度と椿に口を利いてもらえなくなりそうだ。
 秋巳は、葉槻透夏の台詞を聞きながら考えた。

 秋巳と葉槻透夏がそんな取り留めのない会話を交わしていると、台所のヤカンがしゅしゅと音を立て、
お湯が沸いたことを知らせてくれる。
 それと前後して、玄関のドアが開かれる音がする。
 椿が帰ってきたのかな、とガスを切って玄関まで出迎えに行こうとした秋巳を、
葉槻透夏が立ち上がって左手を上げて押しとどめるような仕種をする。
「あ。いーから。いーから。あたしが行くよ。秋くんはお茶を三人分ね」
 そう言って玄関まで出迎えに行く葉槻透夏。
「あー。やっぱり。椿ちゃん、おかえりー」
「透夏さん。いらっしゃい。留守にしてて、ごめんなさい」
 葉槻透夏がそこにいるのがあたりまえのように、挨拶する椿。
 秋巳の受け取ったメールは、椿にも同時に行っていたため、椿は葉槻透夏が家に来ているであろうことは予想していたのだろう。
「ううん。いいんだよ。秋くんに遊んでもらってたから。おねえちゃんね、秋くんに弄ばれちゃった」
 そう言って、軽く椿を抱きしめ、その頭を撫でる葉槻透夏。
(それは逆だろう……)
 台所から玄関の会話を聞いていた秋巳。
「それはごめんなさい。私がついていないばっかりに」
「うん。椿ちゃんあとで慰めてね。ささ、こんなところで話もなんだし、
 狭いところだけど上がって上がって」
「透夏さん、右手。怪我でもされました?」
 椿を案内しようと、リビングのドアノブに左手で手をかけた葉槻透夏に、椿が訊ねる。
「え?」
「いえ。先ほど、私を抱き寄せて、頭を撫でたときも左手だけでしたし」
 そして、いまも廊下右手にあるリビングのドアをわざわざ左手で開けようとしている葉槻透夏を見て、椿が言う。
「ううん。別に怪我なんてしてないよ? 
 いつも右手ばっかり使ってると、左手さんが嫉妬しちゃうからね。
 それに女の娘だかね、右手ばっかり使って左右で腕の太さが
 違くなっても困るしね」
 巫山戯ているのか照れたように笑いながらありえないような理由を述べ、リビングのドアを開けて、椿を先に通す。

678 :__(仮) (11/11) :2008/01/06(日) 18:32:14 ID:wBRa9Z6S
「あ。そうだ。悪いけど、ちょっとお手洗いお借りするね。
 はい! そこー! いやらしい妄想禁止!」
 そう言って秋巳を指差す葉槻透夏。
「しませんから。ごゆっくりどうぞ」
 苦笑する秋巳。
「うわー。聞いた? いまの台詞。乙女に対して! 
 椿ちゃん。セクハラだよセクハラ!
 あたしもう秋くんに身も心も汚されちゃったよ」
「では、兄さんに責任とってもらうしかないですね」
 そう言いながら買ってきた荷物を一旦リビングのテーブルの上におき、ソファに腰をかける椿。
「そうだそうだー。責任とって、いやらしい妄想すること!」
「どっちなんですか?」
「特別にいまから三十秒だけ許可します。
 それ以上は肖像権が発生するからね。一秒あたり倍々課金だよ」
「じゃあ、初期料金はゼロ円にしてください」
「うん。いいよー。って、それって、一生あたしでいやらしい妄想するってこと?
 うわーどうしよ! 秋くんにプロポーズされちゃった」
「それより、透夏さん、お手洗い、行かなくていいんですか」
「あ。もう! しょうがない。ここは大人のおねーさんが引いてあげるけど。
 次は誤魔化されないんだからね」
 そう念を押して、廊下奥に消える葉槻透夏。

 それを眼で追いやりながら、椿が口を開く。
「ただいま戻りました。兄さん」
「ああ。おかえり」
「それで、夕食の準備をしようと思うのですけど。透夏さんの分も含めて三人分」
「あ、それなんだけど。さっき透夏さんが作ろうかって、申し出てくれたんだけど。
 ま、あの人のことだから、本気じゃないかもしれないけど。どうする?」
「そうですか。それでは、私はお手伝いということで一緒に作ることにします」
 椿の答えは、葉槻透夏が作ると確信しているものだった。

 秋巳は思う。
 椿は自分より、葉槻透夏のことを理解し、信頼しているのだろう――。
 それは二重の意味で。
 如月秋巳の葉槻透夏に対する理解より。
 そして。
 如月椿の如月秋巳に対する信頼より。
 現に、自分も椿も料理をするが、一緒にしたことなどないし、一緒にしようとしたことすらない。
 ましてや、椿は、自分が料理するときに、秋巳がそばにいることすら疎ましく思っているではないか。
 それに比べて、葉槻透夏が夕飯を作ると言っただけで、椿は一緒に料理すると言った。
 いままで、この家で葉槻透夏が如月家の台所に立とうとしたことはないから、これが初めてではあるが、
椿は葉槻透夏が料理をすると確信し、ふたりで一緒にしようとしている。
(まぁ、当然ともいえるかな……)
 秋巳はもうその程度の考えでは、憂鬱にならないほど擦れていた。少なくとも秋巳本人はそう思い込んでいた。
 そもそもその考えが浮かぶこと自体がどういうことであるか、から眼を背けて。
 秋巳は血のつながった姉妹というものを良く知っているわけではなかったが、
 おそらく、自分と椿の『兄妹』より、葉槻透夏と椿の『姉妹』のが相応しいんだろうな。
 椿と葉槻透夏を見ているとそう感じる。
「そう。じゃ、僕は、一旦二階に行って、宿題でも片付けるから。
 あ、さっき淹れかけてるお茶がそこに用意されてるから」
「あ、後は私がやっときます。夕飯は、出来上がったら呼びますから」
 ――それまで下りてくるな、かな。
 ふと頭に浮かび上がった考えを振り払うように、椿に「よろしく」と声をかけ、秋巳は階段を上がった。

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最終更新:2008年05月01日 10:11
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