186 ある朝の風景 sage 2008/01/21(月) 01:01:59 ID:SU+72IKd
「和也。朝よ、起きなさい」
優しい囁き声が吐息と共に耳をくすぐる。体が緩やかに揺すられるのを感じながら、和也は薄らと
目を開けた。
視界に映っているものは見慣れたものばかりだ。いつも通り綺麗に清掃された自分の部屋と、その
整然とした部屋を背景に柔らかい笑顔を浮かべて自分を見下ろす姉、円の姿。いつも通り、エプロン
を身につけている。和也がぼんやりと目を開けているのが分かっているはずだが、弟の体を軽く揺す
るのを止めなかった。和也が緩やかな揺れを感じるたび、円の長い黒髪がかすかに揺れてひそやかな
音を立てた。
「ほら、起きなさい、和也」
急かすでもない、のんびりとした口調だった。表情もさして慌ててはおらず、長い睫毛に縁取られ
た両目は微笑ましげに細められているし、形のいい唇も同じような笑みを作っている。
「もう起きてるよ」
何とか口から出た声はひどく掠れていた。起き抜けはいつもこうだ。円はさらに目を細める。和也
の体を揺するのは止めなかった。
「ダメよ。ちゃんと体を起こして部屋から出て、朝ごはんを食べて学校に行く支度を整えて……そこ
までやって、初めて『起きた』って言えるの。いつも言ってるから分かるでしょう、和也」
ほんの小さな子供に言い聞かせるような、ゆったりとした口調である。和也は唇を尖らせた。
(いつまで経っても子ども扱いだもんな)
「分かったよ」と答え、布団を除けながら体を起こす。すると、円が口元に手をやって、おかしそ
うにこちらを見た。
「なにさ?」
「ううん。元気だなーと思って」
嫌な予感を覚えて円の視線を辿ってみると、股のところで寝巻きがテントを立てていた。和也は悲
鳴を上げてベッドから飛び降りた――布団で隠そうとしても引っぺがされることが分かりきっていた
からだ。そんな和也の慌てぶりを見て、円は堪えきれずに吹きだした。
「そんなに慌てなくてもいいのに。可愛い象さんじゃない」
「そういう表現は止めてくれ!」
文句を言いながらドアノブに手をかける。焦っていたせいか、一回ノブを捻る方向を間違えた。ド
アを開いて部屋から出て行こうとしたところで、背後から呼び止められた。
「朝ごはん、テーブルの上に用意してあるから。ちゃんと食べるのよ」
「ありがと」
「どういたしまして。お姉ちゃんは、この部屋を軽く掃除してから行くから」
「分かった」
円が和也を起こしたあとで部屋の掃除をするのは、長く続けられている慣習のようなものだった。
と言っても、部屋の掃除は毎日他の機会にも行われるので、毎朝繰り返す必要がないぐらいには綺麗
なはずだ。
(それでも絶対毎朝掃除するんだよな、円姉ちゃんは。おかげで俺の部屋は埃一つ落ちてない。あ
りゃ綺麗好きってよりは清潔好きってレベルだよなあ)
そんなことを考えながら階段を下る。
和也としては、円の掃除を止めるつもりはさらさらなかった。部屋が片付いているのはいいことだ
し、円は弟のプライバシーを尊重して、机の中を覗いたりはしない。要するに健全な男子諸氏なら必
要不可欠なある種の雑誌等を隠しておくのは容易ということである。彼らの家は片親で、唯一の保護
者である父は海外出張中。家に残っているのは円と和也と、妹の茜だけだ。茜は今年で中学二年。意
図的に兄を避けるような年頃なので、勝手に部屋に入ってくることもない。
要するに、女衆に見られるのは少々恥ずかしいカラー書籍類を見られる心配はしなくてもいいということだ。
(
姉さんは真面目で、その辺きっちりしてるもんな。あれだけ信頼できる人も珍しいよ、ホント)
ダイニングのテーブルには既に茜が座っていた。ショートヘアーに伏目がちの瞳。いつも通りもう
通学する準備を済ませているようで、皺一つないセーラー服に身を包んでいる。左手に茶碗を持ち、
右手の箸を無駄なく動かして黙々と食事をしている。兄を待つ気はさらさらないらしい。「おはよ
う」と挨拶しても「ん」という返事が返ってくるだけで、実に淡白だ。
(ま、この年頃の女の子ってのはこういうもんだって言うし、別に気にすることでもないか)
和也は特に文句も言わず椅子に座り、円が腕を振るった朝食を、妹同様黙々と食べ始めた。