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桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:00:28 ID:xUSElljL
目の前にとても高い壁があったとしよう。
男と女は、その先に進みたい。
壁には手を伸ばしても半分にも届かない。後戻りは不可能。
二人はそこでうんうんと頭を悩ませた。
ある時、男は閃いた。
―――そうだ、向こうから回り込んでいこう。
確かに回り込めば、遠回りにこそなるけれど目的地には到着できる。
上策か下策かは判断出来ないが、目的は達成されるはず。男はせかせかとその場所を後にしていった。
残った女はある時、気づいた。
―――そうだ、壁を越えようとするからいけないんだ。いっそのこと、壊してしまおう。
なるほど壁というもともとの障害を壊してしまえば、女を遮る物など何もありはしない。
女は気持ちよく前に進んでいけるだろう。
こちらは先ほどの男の判断とは違い、幾分過激ではあるが、これもまた目的地へと行く一つの方法だ。止める道理はない。
そして、時間は流れる。
先に目的地に着いた人間は、女だった。
女は喜ぶ。両手を挙げ、空に届くかのように嬉しさを表す。天は祝福し、誰も彼も、何もかもが、女の成功を祝っているようだった。
一人の人間が、女に声をかけた。
「おめでとう。この瞬間を、何よりも嬉しく思うよ。ところで、男がどこにもいないんだ。
君が帰ってきて、みんな嬉しさのあまり気がついていないみたいなのだけれど、やはりまだ男が帰ってくるには時間がかかりそうかい?」
「そうね。男が帰ってくるのには、まだまだ時間がかかりそうよ。だってあの人、私を置いてどこかにいってしまったんですもの」
「そうだね。君と一緒にいれば、いずれは君が壁を壊していたんだから男ももう到着していたかもしれないね」
「そうでしょう。でもね、私気づいたの」
「何にだい」
「気づかないのなら、わからせるべきなんだって。直接、教えてあげるべきなのよ」
そう言って、女は笑う。高々と笑う声は、どこか悲しそうで不思議と達観しているようだった。
―――女の手には誰かの血液が、赤々と付着していた。
240 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:02:18 ID:xUSElljL
居間と言うと、些か伝わりにくいかもしれない。
天井にはシャンデリアがいくつもあり、華々しさを彩っていて、距離も悠太の身長の軽く三倍はある。
ソファーは座っただけで人の体ごと吸い込んでしまいそうなほど座り心地がよく、テーブルはどこまでも長かった。
後ろには暖炉。今は夏だから使われてはいないけれど、手入れは素人にも行き届いているものだとわかる。埃など存在しないかのようだ。
どうでもいいことだが、この暖炉はまだしも、あの高い天井についているシャンデリアや窓ガラスはどうやって掃除しているのだろう。
そもそも、こんなに大きな部屋、自分なら絶えられそうにない。
いや、それは寂しいとかそういうのではなくて。
不意に、この豪華な部屋が存在する家は、いったい日本にどれぐらい存在しているのだろうと思った。
少なくとも幼少の頃から貧しく過ごしてきた悠太には無縁に思える。
全く慣れていないわけではない。
一日のほとんどはここにいるわけだ。
例え使用人に恐縮して執事に違和感を得ようと、そういうものなのだと思えば、少しは気持ちもやわらぐ。
もちろん無心になることは、できはしないが。
「怖いね」
居間、というよりもまだリビングといったほうがしっくりくるこの部屋にいるのは、悠太と桜。
二人はテーブルを挟んで対面するようにソファーに腰を落としている。
紅茶はすでにない。けれど、おかわりや、もしくは話が何時までも終わらないのは、桜がそれをよしとしないからだ。
使用人すらここに用なく入ってくることを許さない。
もし入ってくれば、この前と同じように解雇になるか、悠太は知らないが口では言えないような目に遭わされるだろう。
うんざりはする。が、悠太には
負い目がある。彼女をほうっておいたという、飛躍していうならば、業が。
ならば、長くても話程度に付き合うぐらい安いもの。気が済むまで相手になってやればいい。
それに、今話し始めた男と女の奇妙な逸話はなんだか興味を誘う。
考え方の違い。
悠太は一人思って、怖いという感想を抱いた。
口に出すと、予想していたかのように桜は嬉しそうに口を曲げた。
そこだけみると、小さな子供が悪戯をして、成功したように思えなくもない。
けれど怖いという感想は、実は的を射ているようでまるっきり見当違いだ。これは考え方について例を表しているものであり、物語ではない。
だが、桜にとってはそんなことはどうでもよかった。
兄が反応したということと自分の予想通りの返答をしたということが大事なのだ。よって、桜は言う。
「怖いですね。でも兄さん、私は、女は男を殺したのではないと思うのです」
先に目的地着いた女。そして手に赤々と点在する血。そこだけみれば、女が男を殺したように悠太には思えた。
「どうして?壁を壊すぐらいだから、先に目的地に到着するかもしれない男を殺したんじゃないの」
「でも、女は遠回りをしなかった。そのまま進んでいれば遠回りをした男よりも、少し早く目的地にいけたのではないでしょうか」
一理ある。というよりも、言われてみればそうだ。
遠回りをするよりも直進するほうが到着地点には早く行ける。
もし女が壁を壊すことを思いつくまでに時間をかけすぎていれば、男が先につくこともあるかもしれないが…。
「じゃあ、桜は何で女の手に男の血がついていたと思うの」
「おそらくですが、女の手についていた血は」
区切る。桜の唇がなぜだか艶かしい。
241 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:03:14 ID:xUSElljL
「―――女のものだと思うのです」
眉を顰め右手の親指と人差し指で顎をつまんでいる悠太を見て、桜は更に喜んだ。
どういうことだろう。
先に着いたのは女。でも女の手についていた血は女のもので、男のものではない。
もしかすると桜は、壁を壊した時についた血だというつもりだろうか。いや、桜はそんなに馬鹿じゃない。
クイズみたいなものなのに、不思議と後味が悪い。
「予想でしかないですけれどね。でも私は、女ですから」
悠太が悩んでいるのにはお構いなく、桜は続ける。この悠太が悩んでいる姿が彼女にとっては嬉しいのだ。
気づけば、悠太の目と鼻の先に桜の顔がある。
ねっとりとした甘い、とろけそうな笑顔。目が細まって、なんだか娼婦のようだった。
これを誘惑というのだろうか。悠太は目を逸らす。
やっぱり、桜は美人だ。
ずっと会っていなかったのと、妹と知らされたというのがわずか数ヶ月前ということが重なって、
こうして見られているとなんだかいけない気持ちになる。
呼ばれたのに、悠太は桜の顔が見られない。女の視線。ねっとりと悠太の体に絡みつく。
何か気恥ずかしくなって、乱暴に返事をした。
すると今度は、桜が体を悠太に押し付けてきた。
綺麗な肌。男の自分とは、出来ている素材が違うのではないかという女の体の柔らかさ。服越しであっても、それは敏感に伝わる。
ますます体を擦り寄らせてくる桜。
もうこうなると、桜のふくよかな胸は形を変え、完全に悠太に密着していた。
桜は気づいているのだろうか。否。気づいていないはずがない。
なぜならこんなにも桜の体温を感じることができたし、耳にすら息が吹きかかっているのがわかるのである。
それが何よりの証拠。
「ちょっと、桜。離れて」
たまらず声を出す悠太。
こういう、普通の男女間でするような行為を兄妹でするのはおかしい。
そう思って抗議したのだが、桜は全く異に反さない。むしろ更に近づいてきて、とうとう悠太の膝の上に桜が乗る形となった。
桜の腕が悠太の首の後ろに回される。
顔と顔が必要以上に近い。
「いいじゃないですか、ちょっとぐらい」
ちょっと。これが本当にそうなのか。そんなはずはないが、あまり意識したくはない。
それに、このまるで恋人同士がするような格好がちょっとだというのなら。
これ以上の行為も桜に言わせれば、少しだけ、ということになるのだろうか。
そんなこと、聞けるはずもなかったけれど。
「いい加減にしなさい、こういうことは他の男の人とやりなさい」
「こういうことって?」
242 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:04:12 ID:xUSElljL
先ほど、ちょっとといったのは桜のほうだろうに。
なんだか馬鹿にされているようではあったけれど、それ以上に甘い空気が桜の発言の承諾してしまう。
悠太は恥ずかしげに言葉を紡いだ。
「だから、それは…今みたいな行為のことだよ」
「今みたいな行為?何言っているんですか。少し近づいただけでしょう」
「いや、そうじゃなくって」
「じゃなくて?」
「その…だから……」
「こういうふうなこと?」
言うやいなや、桜は自分の胸の谷間に悠太の手を入れた。瞬間、悠太は焦って思わず手を腕ごとひいた。
「こら」
何て言ってみても、顔が赤くなるのが抑えられない。
叱ってやらなければならないはずなのに、声は小さかった。
桜の目が見られない。
見るだけなのに、目を合わせるだけなのに、なぜか今見詰め合ってしまうと、何かを誤ってしまう気がして。
悠太の視線の先に自分の手が映る。先ほど女性の象徴に触れた手。
一瞬だったから何か思うほどのことはないが、それでも十分に柔らかいというのはわかった。あの感触は男には決してない。
それに桜の胸は大きい。
同年代のクラスメイトや街を歩いている人の胸を意識してみたことはあまりないけれど、
何となくこれは女性全般の基準よりも豊かなのだろうということはわかった。
きっと桜のほうに目を向けると、今は嫌でも意識してしまうだろう。
あのドレスの中で強烈に自己主張しているふくらみに自然と目がいってしまう。
そして一番の恐怖は、桜がそれを歓迎してしまいそうなことだった。
こんなことを思う僕が異常なのだろうかと、悠太は思う。
もしかすると兄妹間ならこれぐらいスキンシップは普通の日常で、むしろ僕がこれほど身構えていることのほうがおかしいのだろうか。
いや、だが亜美とはこんなことしたこともないし、そもそも亜美をそういう風に見たことなど一度もない。
なぜ?亜美は桜と違って体の起伏に乏しいから?違う。
兄妹だからだ。考えるべくもない。
でもそうなると、悠太と桜も兄妹だ。こんなことおかしいのではないのか。
何よりおかしいのは、悠太ではなくて、この恋人同士がするような空気や行為を別段気にしていない桜のほうではないのだろうか。
けれどもし、
桜にそう言って今まで家族がいなかったからどういう風に接していいか、わからない、などといわれてしまうと何もいえなくなってしまう。
事実、悠太は兄妹間でするようなことではないと言う発言を何度かしていたが、
決まってそこで出てくるのは、家族を知らないからという、悠太からすれば逆に桜を拒んでいると受け取られてしまいそうなものだった。
それは悠太からしたら絶対にやってはいけないものだ。
だからついつい桜のすることの多少は許してしまう。まさに今もそうだ。
でもこれは明らかにスキンシップ以上のもの。
悠太はすばやく桜から離れた。離れることが出来た。
243 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:06:47 ID:xUSElljL
「純情ですね、兄さんは」
声を上げて笑う。悠太から引き離された桜は、そのままごろん、とソファーに横になった。
これぐらいの行為など別段たいしたことはないということか。
どう見ても、お嬢様な彼女のほうがこういうことに無縁のような気がするのだが。
それとも女というのは唐突にこんなことがしたくなるのだろうか。
そういえば亜美も桜ほどではないにしろ体を擦り寄らせてくることが偶にある。
とにかくも、悠太は自分がからかわれていると思って言い返した。
「冗談にしても、こういうことは兄妹ではやっちゃいけないよ」
すると――急に体を起こして悠太を見る。
にんまりとして桜は言った。
先ほどの悪戯をした子供のような笑顔だった。
「じゃあ、家族になりますか」
「え。桜は妹なんだから、家族だろう」
「違いますよ。本当の家族に、です」
本当の家族。
悠太はそこで、桜は自分が長い間兄妹として過ごせていなかったため、
まだ本当の兄妹というほどの絆がないのではないか、ということを指して言っているのだろうと思った。
「大丈夫だよ。もう僕は桜のこと、立派な家族だと思っている。大切な妹だと思っているよ」
「………」
悠太は満足げに言う。やはり桜からしたら、まだ家族というほどの関係に慣れていないのではないかというのは気になるのだろう。
だから悠太は、はっきりと言ってあげた。
でも、妹はなぜか不満そうに悠太を見つめる。
桜が何か言おうとしたとき、急にこんこんとノックの音が聞こえた。
「何。くだらない用だったら、承知しないわよ」
桜は明らかの怒気をぶつけて、ドアを見た。
入ってくるのは執事。黒のスーツに白のシャツ。ネクタイなど曲がっているはずもない。
立っている姿勢だけで、とても教育されているのがわかった。こちらが恐縮してしまいそうだとすら思ってしまう。
この執事を悠太は知っていた。
期間が限られているといっても、この屋敷に突然居座る形になった悠太は、やはりわからないことが多かった。
食事のマナー、礼儀作法、屋敷のルール。
今でこそよく桜が側にいてくれるから戸惑うことも少なくなったけれど、
始めは彼女の多忙さが原因で一緒にいることがあまりなく、むしろ部屋に一人でいることが多かった。
そんな時話しかけてくれ、助けてくれたのは長谷川だった。
白石とそこまで歳が離れていないということもあって、何よりの親しみやすい相手であった。
244 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:07:52 ID:xUSElljL
「長谷川さん。どうしたの」
「悠太様に白石様からお電話がかかっております」
長谷川の言葉を聞いた後の二人の反応は正反対のものだった。
悠太は喜色満面で立ち上がって電話を取りに行こうとしていたが、
桜はそれを悠太のジーパンのベルトをつかんで止め、とても機嫌が悪そうにしている。
悠太はいつもこういった桜に何かずれを感じていた。
この電話がかかってきたということだけを言っているのではない。
言葉は悪いが、最近の桜は異常だ。
四六時中悠太の側を離れず、こういった悠太との二人きりの時間を邪魔されると、とても気分を害していた。
最初こそ、西園寺に来て何かとよくしてくれるように配慮はされていたけれど、
桜は何かと忙しいから、あまり悠太ばかりを気にしているわけにもいかなかったので、
こうして一緒にいる時間は食事の時や僅かながらの桜の仕事の休憩時間だけだったのだ。
けれど今は、悠太が手伝えないような仕事をしている時でさえ側にいることを欲してきたりするほどで、
あまつさえ、悠太本人がどこかに出かけたり、女の人と話したりしているとヒステリーを起こすほどになっている。
そしてそれはだんだんと増徴して、今では悠太が出かけようとすると『お仕置き』と称しあの地下室に連れて行くようにすらなっているのだ。
これが異常といわずして何というのか。
しかし反面、二人きりにこそなると先ほどのような甘い空気になり、
よく言えば積極的に、悪く言えばあからさまに悠太に猫のように擦り寄ってくる。
悠太は、きっと
家族愛というものに飢えているのだろうと思っていたが、これ以上は危険性を感じていた。
これより先に進んだら狂ってしまいそうな嫌な感じ。
けれど…。
「どっちの」
唐突に思考が引き戻される。
見れば、桜が長谷川に詰め寄っていた。
どうやら電話の相手が白石老人か妹の亜美かどちらか聞いているのだろう。
桜は亜美のことをなぜか嫌っていたようだから、相手が亜美だとまた駄々をこねるか、ヒステリーを起こして悠太に何かしてくるかもしれなかったが、
「白石老人です」
相手は亜美ではなかった。
「すぐに行くよ」
幾分ほっとしてから長谷川に言うと、桜は何かいいたそうにしていたが、黙って悠太を見送った。
桜も悠太が白石老人のことを、どれほど大事にしているかということはわかっていた。
いくら桜といえども、それを止めることなどできはしなかったのだ。
悠太に嫌われたら元も子もない。
長谷川を視界に入れる。
以前の仲がよかったときはもう記憶の彼方のようで、もう必要事項以外は喋ることはなくなっていたが、嘘はつかないはずだ。
それぐらいの予想はまだつく。
ただもう、信用も信頼もしてはいなかったが。
245 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:08:40 ID:xUSElljL
それに、と桜は思う。白石老人との会話に限らず、悠太が電話する時はすべて録音している。
それほど警戒することもないのかもしれない。
桜は気づいているのだ。
家族というものに悠太が弱いということを。
さっきのようなことはもちろん、例え恋人同士がするような行為であっても、
家族ということに関連させてしまえば悠太は大抵のことを許してくれた。
それが兄妹間でするような行為でなくても、寂しさというつらさを免罪符にすれば、桜のしたいことが大抵はすることが出来る。
ただあまり行き過ぎたものであればさすがに悠太に断られるけれども、
兄妹でしてもスキンシップと言い張ることが出きりぎりぎりのラインであれば、渋々ではあるけれど承諾してくれる。
桜はそれに味を占めていた。
年上の兄を屈服させることが出来たような征服感。
もちろんこんなこと、おかしいことではあるのだけれど、何か悠太を支配できたような、
生殺与奪さえ握ったような感覚が感じられた時、桜はいつも背中にぞくぞくしたものが駆け上がるのを意識せざるを得なかった。
言葉に表せないような歓喜の走り。
とても気持ちのよい感覚。
快感。
もっと味わってみたい。もっと気持ちよくなりたい。
桜はこの状態をよくは理解していなかったが、これこそが桜の行動に歯止めがかかりにくい原因であった。
そして感覚を与えてくれるのは唯一の兄妹、悠太。
彼が、この気持ちのよさを桜に与え、酔わせていた。
皮肉ではある。家族という枠組みを意識するあまり、必要以上に敏感になっていることが、桜のこの感覚を刺激しているのだから。
そしてそうなると、桜が悠太に対する感情を一気に膨れ上がらせるのは当然の結果といえた。
悠太はわかっていないが、もはや兄妹などという感情をとうに超越してしまっていた。
もともと離れ離れだったため兄妹というのが意識しにくい環境だったというのもある。
仮に、突然自分の家に現れた異性が兄妹だなどといわれて、いきなり割り切れる人間など、どれほどいるというのだろうか。
少なくとも桜には出来ない。
家族。
もう、いいのだ。家族など。そんなもの。
桜はいつも考える。
家族というものを兄が本当に大切にしているのはわかっているけれど、それは変ではないかと思う。
私たち兄妹は、あの反吐が出るような父親のせいでこうして離れ離れになっていたし、知りもしない場所に全く面識のない兄妹がいたのだ。
怖いとすら思う。
初めは桜も違った。
長谷川の失言によって兄妹がいると知った時は純粋にうれしかったし、この環境にいる人に仲間意識すら感じられて、浮き足立ちもした。
けれど、よくよく冷静になって考えてみると、そのどこかにいる兄妹が私と同じように感じているわけではないと気づいた。
どこかで身を潜め私を憎憎しげに見つめているかもしれないし、恨んで殺意すら芽生えているかもしれない。
何しろこれほどの豪邸に住んでいるのだ。
貧しい環境の人からしたら、桜のいるところは憎悪の対象に十分になりえる。
昔は私もそうだったのだから。
だから、必死に兄妹の居場所を探していたのだ。
桜とて、一目ぼれをした男が偶々自分の兄だっただけで、もし自分の気に入らない人間が兄妹であったならどうなっていたかわからない。
実際、悠太のことは好きだが亜美のことは嫌いなのだ。
偶然。そう、偶々だ。
偶々好きになった異性が兄だっただけなのだ。
兄妹を好きになるのはいけないことだけれど、好きになった後で兄妹だったなどと明かされても、もう止まることなどできはしない。したくない。
あくまで兄が、兄妹という壁に固執するのなら壊してしまうまで。
女は、壁があれば遠回りするのではない、壊して邪魔なものを排除する。
物語を悠太にいって聞かせた意味、彼は理解しているのだろうか。
女の手についていた血が女のものというのは、他の女の血だという事だ。
他の女が、壁が、男を遠回りさせたから女は他の女を殺したのだ。
だから血がついていた。
たぶんそのことに、兄は何時までも気がつくことはないだろうけれど。
でももし、兄が壁を越えずに遠回りをするというのなら、私がきっと壁を壊してみんなから祝福されようと、桜は思う。
246 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:09:50 ID:xUSElljL
―――カチッ
「お久しぶりです」
開口一番、受話器から丁寧な白石の声が聞こえてくる。
この礼儀正しさはやめてほしいのだが、それよりも白石と久しぶりに話せたことが嬉しかった。
「やめてよ、他人行儀だな。少し会っていなかっただけじゃないか。それにもうすぐ帰るんだから。」
もうこうやって言葉を直してほしいということすらもうお互いの挨拶になっているみたいだなと思う。
それがわかっているのか、お互いで少し笑った。
何日ぶりだろう、こうやって白石と話すのは。いつも気にかけてはいた。
最近は桜がついてばかりで外出も簡単には出来なかったから心配だったのだ。
でもこうやって元気でいてくれるというのは、何よりの朗報。自然と元気もでる。
「ええ、そう言ってもらえると私としても嬉しいですよ。どうです、西園寺には慣れましたか」
「まだ窮屈だなって思うことはあるけど、だんだんと慣れてきたよ。ただ、やっぱり落ちつかないね」
それはこの屋敷の大きさゆえではない。
こうして受話器越しであっても聞こえてくる白石の震えるような息遣い。
体がどこか苦しいのではないのだろうか、何か不便があるのではないのだろうかと悠太を心配させる。
それで落ちつかないのだ。
高齢の老人というのは、突然何かの病に倒れることも少なくないと聞く。
悠太はそれが西園寺に来てからの一番の不安だった。
覚悟していたことではあったが、やはり白石のことは頭のどこかで心配してしまう。
亜美に任せているから、大丈夫なのだろうと思うけれど、やはり体のことが悠太には気がかりだった。
白石はこういった悠太の気遣いに遠慮しているが、今回は気がついていないようだった。
「私も始めはそうでした。といっても、もう昔話にはなりますが」
こんな風に昔の話を聞かせてくれる白石を悠太はいつも穏やかな気持ちで迎え入れてしまう。
これから長くなりそうだな、と思った。
この白石の長話の癖は、昔、悠太が白石に屋敷での話をせびったことによるものだった。
あれはまだ、亜美がいなく、白石が西園寺の執事としてここで働いていた時のこと。
一人だった悠太は、いつも電気のちかちかとする薄暗い部屋で本を読んでいた。
文字はとても読みにくかったが、それでも何もしていないよりはましで、唯一の遊ぶ手段だった。
このころは友達もいなかったので外に遊びに行くということは極端に少なかった悠太は、相も変わらず白石の帰りをひたすら待っていて、
こつこつという靴音が聞こえると喜び勇んで外に飛び出していったものだった。
そして決まってねだるのは今日にあった屋敷での出来事の話。
子供のときというのは、決まって異世界や不思議な物事に興味を持つもので、
西園寺のような大きな屋敷はまるで御伽噺に出てくるお城のようであったから、
悠太の好奇心を刺激するには十分だった。
毎日毎日、話をねだる悠太。気づけば白石が癖になるほどで、長話となればなるほど、悠太は喜んだ。
今となっては懐かしいが、今となっても白石の話を聞いていると子供のころのようにうれしさは心に漂う。
唐突に言葉が出た。
247 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:12:44 ID:xUSElljL
「ここにきて、強く思うよ。僕はね、やっぱりそっちの家のほうが性にあっている。もちろんここには、いい人もたくさんいるよ。
助けてくれる人もいる。でもね、なんだか寂しくて」
言ってから、こんなことじゃ桜のことを強くは言えないなと思った。
僕も必要以上に白石を心配している。桜がいきすぎた行為に走ることと自分が白石を必要以上に心配することは、
もしかしたら根元はあまり変わらないのではないのだろうか。
そうであるならば、桜のことは何とか出来そうな気がしてくる。
もともと頭のよい子だ。少し諭してあげればすべてがうまくいくはず。
ここに来た当初は今みたいな風ではなかったのだから。
丁度いい機会だから白石に相談してみるというのも一つの方法だろう。
「それに桜には悪いけれど、やっぱり白石さんと亜美が一緒じゃないとね。四人一緒に暮らしたり出来ると、言うことないんだけど」
家族の問題だ。家族で解決するのが道理。
悠太が桜のことを話そうとすると、白石が不思議そうに言ってきた。
「桜というのは、西園寺の使用人の方ですか」
どういうことだろう。
今になって悠太を驚かせようとでもしているのだろうか。
そんな趣味は白石にはなかったはずなのに。
「何言っているんだよ、桜は西園寺の当主で、僕の妹なのだろう?」
「―――は?」
白石の声が呆けたように呟く。
何かおかしなことを言っているだろうか。
「ああ、ごめん。西園寺財閥の当主じゃなくて、この屋敷の主ってこと。
まあ、西園寺財閥の当主も桜になるのかもしれないけれどね」
「ええ、それは、わかっていますが」
悠太は僕の言い方が悪かったのだろうと思って言い直したけれど、
白石はそうじゃないらしい。
なんだろう。
頭に濁流ができて、少しずつ焦燥感がたまる。
二人の沈黙。
そんなこと、確かめるはずもないことだろうに。
「おかしいですな。西園寺家の御当主様は、桜という名前ではなかったはずですが。
それに私の知る限り、悠太様の妹は亜美だけのはずですよ」
「―――え」
返してきた言葉で、今度は悠太が呆気に取られる番だった。
頭が混乱する。
白石は何を言っている。桜は、悠太の妹で西園寺の家の当主。
これは悠太が目の前で見ていることなのだから間違えようがない。
何しろ悠太自身が、すべてというわけではないけれど、
桜の当主としての仕事を手伝ったことすらあるのだから。
そもそも、これが間違いなら自分は今どこにいるというのだ。
白石だって西園寺だとわかって電話をしてきているのではないのか。
わけがわからない。
いや、それでも桜が西園寺の当主であるという決定的な証拠はある。
「いや、え、でも、話し合いのことで西園寺に電話して、亜美が受話器を横からとった時、
待ち合わせ場所にいたのは桜だったんだから、間違いないはずだよ」
248 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/08/23(木) 07:13:22 ID:xUSElljL
そう、もし白石の言うとおり、桜が桜でないなら、あの喫茶店にいたのが彼女だというのはおかしいはずだ。
西園寺の当主と電話をしていた白石、横から受話器を取った亜美、そして待ち合わせた場所にいた桜。
これは揺るがない事実のはずだ。
「ふむ。ですが、西園寺の当主の名前は―――愛美様といったはずですが」
誰だよ、思わず言いそうになったが抑える。
たぶん、白石が勘違いをしているのだろう。そうに決まっている。
それに、桜が西園寺の当主でないのであれば、使用人たちの反応はどうだ。
上でない者の命令をすんなりと聞けるはずがない。それも何ヶ月も。
第一、使用人や執事が桜のことを呼ぶ時『桜様』というのを何回も聞いている。
一瞬、桜が自分を謀っているのかと思ったけれど、そんなことをして何の得になるというのだ。
何日もドッキリをするような意味はない。
けれど――何かひっかかる。
「それに、西園寺の家の当主が悠太様の妹なら、私が知らないわけがないでしょう。
いくら執事を辞めたとはいっても、その当主と連絡を取っていたのは私なのですから」
何を隠そう、西園寺と連絡をとっていたのは白石。
喫茶店にいたのが揺るがない事実だというのなら、この白石が言っていることもまた、不動の事実。
そして白石がこんな嘘をつく可能性など皆無に等しい。
「悠太様。失礼ですが、何か勘違いをされておいででは?」
―――意味がわからない。
悠太の指先がかすかに震えはじめている。
動悸が嫌にうるさい。頭がスーッと冷えていく。
後ろに誰かがいるのを感じた。
急いで振り向いたけれど、ただ使用人が後ろを通り過ぎただけだった。
息をはき、自分に落ち着けと心に言い聞かせる。
なぜだろう。
この会話は、この話は、桜には聞かれてはいけない気がする。
もし聞かれてしまえば、何かが決定的にずれてしまいそうな、恐怖感に似たものがある。
理由はなかったが、悠太にはなぜだか確信があった。
―――カチッ
とにかく、白石にもう一度話を聞いてみるべきだ。まずはそれからだろう。案外、これほど驚くこともないのかもしれない。
言ってみれば、ただ名前が一致していないだけだ。それほどの大事でもないはず。
改名、というのは考えにくいが、可能性としてないわけでもない。
受話器にもう一度よく耳を当てる。
ひんやりと冷たい。
これから話す内容は一字一句聞き逃さないつもり。
次いで、あまり声が外に聞こえないように手で口を覆う。最後に周囲を確認した。
人は、いなかった。
―――カチッ
ただ、電話内容を録音するための音だけが、悠太を見つめているのを除いて。
奇妙に、静かだった。
最終更新:2007年10月21日 00:43