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姉ぎらい sage 2008/02/14(木) 06:11:56 ID:vjOmCsbE
サディックは旅立ちを決意しました。姉であるマジェーネの目に余る所業に耐え切れなくなったのです。サディックは小さな頃からマジェーネのことが大嫌いでした。
彼女は自分とたった二つしか違わないのに、お姉ちゃんなのだから、と言ってあれこれ世話を焼きます。それも服の選び方から鼻のかみ方一つまで、いちいちうるさく口を出すのです。
その上、四六時中弟のそばに居ようとしますから鬱陶しくてたまりません。先日、弟の顔を一目見るなり抱きついてきたマジェーネに向かってサディックはぷりぷり怒って言い放ちました。
「べたべたくっつくな。ウザい」
けれどもマジェーネは離れません。大好きな弟の酷い言葉にぐずぐず涙ぐんではいましたが、その小さく
真っ白な手でサディックの服の裾を強く掴んで一向に放そうとはしないのです。
お陰で、そんな二人の姿を見つけた下男下女らが慌てふためいて、てんやわんやの大騒ぎとなり、ついにはそのことが両親の耳に入ってサディックはこっぴどく叱られたのでした。
昔から両親は姉の肩ばかり持ちます。彼はそれを大層不服としていましたが、生来反抗的であった自分の気性を省みてそれも仕方ないと心のどこかで理解していました。
けれども、ああして搾られた後、張本人である姉に慰められるとやるせなくなり、自暴自棄でますますとげとげしくなってしまいます。
家を出ることを決めたサディックでしたが、彼のような世間知らずの坊ちゃんが決意を行動に移すとなると、まず、ものを言うのはお金です。しかしサディックにはお金がありません。
両親は子の教育には慎重なほうで、若い時分から遊蕩に耽って将来身を持ち崩すことが無いよう、彼には必要最低限より少し足りないくらいの小遣いしか与えていませんでした。今のサディックの手持ちでは、国境さえ越えられないでしょう。
ちびちび貯金を続けたとしても、纏まった金が手に入るのはいつになるやらわかりません。サディックは今すぐ旅立たねばならないのです。
触るものみな傷つけるサディックにもただ一人気の置けない親友が居ました。女中のネトリーナです。サディックは三日三晩悩みぬいた末、彼女に金を無心することを決めました。
幼い時から彼の教育係として、家族のように、それこそあの姉以上に姉弟のように育ってきた彼女ならばあるいは、と思って、家中の者が寝静まった夜更けに部屋へ来るようこっそり言いつけました。
159 姉ぎらい sage 2008/02/14(木) 06:14:43 ID:vjOmCsbE
約束の時間にネトリーナが訪れて、サディックは廊下に人のけはいが無いのを確認して、静かに扉を閉めて鍵をかけると早速本題に取り掛かりました。
「金を、貸してくれ」
「悪いお友達とお付き合いなされておいででしょうか」
「遊ぶ金が欲しいんじゃない。僕に友人の居ないことは知っているだろう?」
「それならば、旦那さまにお依頼なさればよろしいでしょう? わたくしのような下女に申し付けるなど言語道断です。サディック様はやんごとなき御身分のお方なのですから――」
ネトリーナはサディックを諭し始めました。彼女の化粧は、昼間のそれより心持ち念入りです。サディックには女心がわかりません。このままでは埒が明かぬと、サディックは真剣な表情をして、お説教を続けるネトリーナの肩を掴み言いました。
「僕は、この家から出ようと思っているのだ。そのための金を貸して欲しくて、君を呼び出した。僕には君しか頼れる人がいない。借りる金はここから遠く離れた土地で働いて稼いで返す。
そうでなくとも僕の居なくなった後、サディックがむりやり奪い取ったと言って親父に請求しても良い。色を付けたってかまわない。ともかく、今の僕にはまとまった金が必要だ。一刻も早く旅立たねばならないのだ」
ネトリーナは虚を突かれてしばし口をぽかんと開けていました。そうして見る見るうちに頬を赤くしてあたふた手を振ったかと思うと、今度はさっと顔中を青ざめさせてうつむき、震える指で女中服のスカートを掴み、弱弱しい調子で言葉を発しました。
「わたくしの奉仕に、何か至らぬ点がございましたのでしょうか。愚鈍なりにも精いっぱい尽くしておるつもりでしたけれども、サディック様がそうおっしゃられるのなら、やはり、どこかで粗相をしておりましたのでしょう」
サディックは慌てて弁解しました。
「違う、違うのだ。君の仕事に不満は全くない。ただ僕は、その……」
サディックは口ごもりました。
姉さんのことが耐えられなくなった、と彼女に話してしまえば、自分はともかく、姉の名誉まで穢すことになります。けれども幼なじみの悲痛な面持ちを見て、やはり正直に言わねばと決意しました。
「マジェーネ姉さんだ」
ネトリーナがはっと声を漏らして口元を覆いました。
160 姉ぎらい sage 2008/02/14(木) 06:16:15 ID:vjOmCsbE
サディックは続けます。
「この家に居るかぎり、姉さんが僕にべたべた纏わりついてくる。僕にはそれが我慢ならない。なぜかは解らないけれど、姉さんの振舞いは、どうしてか、とても気持ち悪く思えるのだ。姉弟愛ってやつだろうか。
姉さんは、昔から僕の世話を焼きたがって、隅から隅まで口を出す。衣食住のお世話、それはまあ許せる。僕は自分ひとりでは何ひとつ出来ないから誰かが手伝ってやらなければいけない。
そばを離れない、それも結構。僕みたいな人種はいちいち危なっかしくて監視がないと何をやらかすやら。しかし、世話を焼くといったって限度があるさ。
どこの世界に弟の便の世話までやりたがる姉がいる? しょっちゅう抱きついて離れないのはどういうことだ? お陰で僕の服から姉さんの臭いが消えない日はない。
僕は、もう十八だ。姉さんだって、二十歳になった。いつまでもじゃれ合う子供じゃいられない。
ましてや、姉さんは嫁入り前。肉親とはいえ他の男にそんなふるまいをしていたと知れば未来の連れ合いだって良い気分はしないだろう。僕は彼に不誠実な真似をしたくないのだ。だのに、姉さんは今だ僕と一緒に床に着きたがる。
何かがおかしい。姉さんは異常だ。いいや、僕のほうがおかしくなっているのかもしれん。姉さんの、僕への執着。
姉弟愛なんて上等甘美なものではなしに、もっと何か、歪な、おぞましい、肉親の愛情とはいえない……いけない、これ以上は、考えないほうがいいだろう。自意識過剰というやつだ。僕は姉さんの貞淑を疑いたくないし汚したくもない。
わかったろう、ネトリーナ。サディックはありもしないことを考えるほど追い詰められている。姉さんのそばから離れねば、気が違ってしまう。僕はこの家に居てはいけない。
今すぐにでも旅立たねば、姉さんはおろか、この家に関係するもの全ての名誉を汚してしまう。きちがいを出したとなれば家名に傷がつくのだ」
ここまで続けてサディックははたと気が付きました。頬が濡れているのです。
161 姉ぎらい sage 2008/02/14(木) 06:17:48 ID:vjOmCsbE
恥しいやら情けないやら、慌てて後ろを向いて顔を擦りました。湿った袖をズボンで拭い、サディックはネトリーナに向き直ります。
「すまない。今の僕はどうかしている。おそらく、酒に酔っているせいだ。それか疲れているのかもしれない。ネトリーナ、僕が言ったことは忘れておくれ。酔っ払いの戯言なんて、覚えていてほしくない。君に金をたかったことも。
僕のような無用人が家を出るなんて大層なこと出来るわけない。僕はずっと、ここで人の世話になってでしか生きていけない。僕はもう眠るとするよ。手間をかけさせて悪かったね。さ、もう行っておくれ」
サディックはこう言って硬く口を結びベッドに腰掛けてうなだれました。ネトリーナは目を伏せていましたが、やがて、なにやら決意したらしく、手早くスカートの皺を伸ばして、青白い顔でサディックをしっかりと見据えて話し始めました。
「わたくし、いくばくかの蓄えがあります。このお屋敷で奉公を始めて以来、いつか必要になるかもしれないと少しずつですが貯めて参りました。心もとないですけれども、サディック様がお必要なされるのでしたら、御存分にお役立てください」
サディックは顔を上げて、ネトリーナを見つめました。
「本当かい?」
「はい。ですが、一つだけ我侭をお許しください」
「僕に出来ることなら」
「わたくしもお伴させていただきたいのです」
162 姉ぎらい sage 2008/02/14(木) 06:19:11 ID:vjOmCsbE
サディックは故郷の村から十里以上離れたことは一度もありませんでした。今のように列車に揺られることは初めての体験です。慣れない揺れで眠れずにいるサディックは、隣で眠るネトリーナに目をやりました。
見慣れた女中服ではなく質素な平服を着た彼女は、サディックの肩に頭を預けてすうすうと胸を上下させています。屋敷では纏められていた髪は下ろされて、淡黄の河となってサディックの胸まで枝分かれして伸び、朝日に当たり所々金色に輝いています。
このあどけなく眠っていても真っ直ぐ整った顔立ちを崩さない娘がいなかったら、サディックは今こうして列車に乗ることさえ出来なかったでしょう。彼はネトリーナに教えられるまで切符の買い方さえ解らなかった筋金入りの箱入りです。
あの時は反対しましたが、こうして実際外の世界に出てみると、やはり自分一人では何もできないのだなとサディックは痛感しました。
サディックが窓の方を向くと、花盛りを過ぎた菜種畑がうぐいす色のナプキンとなって広がり、その上に明け方の空が続いていました。朝日は列車の進行方向から差し込んでいます。
故郷の方角の空は瑠璃色で、次第次第にそれが山吹色に染まって行くにつれ郷愁の念がこみ上げて、サディックはぐすっと鼻をすすりました。
(とうとう僕は姉さんから離れてしまったのだ)
肩が揺れて、ネトリーナの髪からふわりと甘い香りが漂います。しかしサディックは指で鼻を擦ったきり、これが見納めと薄れて行く瑠璃色の残りかすを眺め続けました。列車は東に進みます。
最終更新:2008年02月24日 18:43