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姉ぎらい 1/6 sage 2008/02/19(火) 17:16:46 ID:ik4fypTR
屋敷を抜け出した日の夜に旅の支度をしながらサディックは語りました。
「JAPANという国へ行こう。僕はそこのSAMURAIに会ってみたい」
「SAMURAI、ですか」
「子供の頃、ディエムお爺様がよく話してくださった。極東の島国にはSAMURAIという四千年の歴史を持つ民族が住むと。彼らにはNIN‐JUTUという名の技術があるらしい。
水の上を十五メートルも走ったり、こんなふうに両手首を合わせる構えをして手の平から眩い雷を放ったり、まさに奇跡としか言い様が無い技術だ。僕はSAMURAIからそのNIN‐JUTUを学びたいのだ」
「はぁ」
「それに、JAPANでは芸術も盛んだと聞く。OTAKUと呼ばれる芸術家たちが日夜切磋琢磨し、息つく暇なく新たな絵画や文学を生み出しているらしいのだ。どうだい? なかなか楽しそうな国だろう」
「はぁ」
何かが間違っている気がしないでもないネトリーナでしたが、サディックのたいへんなはしゃぎぶりを見て、何千キロも離れたJAPANへ旅するのはさすがに無謀ですとも言い出せず、ご主人様の熱弁に生返事するばかりでした。
鉄道の検問をやり過ごすのはそれほど難しくありませんでした。たいていの場合、検問前の町では密入国の手引きを生業とする闇屋が商売をしていましたので、その都度屋敷からくすねてきた腕時計と引き換えに闇の旅券と切符を手に入れられました。
けれども、気候の変化ばかりは如何ともし難く、それに加えて、山の寒さを甘く見て薄着のまま肩掛け一つしか持ってこなかったため、二人は山脈越えの列車の座席で凍え上がり、がくがくと震えました。
「寒く、ないのか」
「女というものは寒さに強く出来ておりますので、へっちゃらです」
「嘘を言っちゃいかんよ。こんなに冷たくなっているじゃないか。さ、言うことを聞いて肩掛けを使っておくれ。僕は充分温まったから、今度は君の番だ」
「申し訳ありません」
そうしているうちに、自然と二人は互いに寄り添う恰好になりました。肩をくっ付け合い、わずかなぬくもりを交換します。ネトリーナは目を瞑ってサディックの手に自分のそれをそっと重ねました。少しだけ寒さが薄れた気がしました。
337 姉ぎらい 2/6 sage 2008/02/19(火) 17:18:11 ID:ik4fypTR
次の駅で列車が停車したときに一時間ほど暇があったので二人はみすぼらしい物売りから二着の外套を買い求めました。どちらも粗末なかび臭い外套でしたが、すこしぶかぶかなのを気にしただけで、特に文句も言わずに羽織りました。
人心地ついて、これまで気に止めることが出来なかった車窓からの景色に二人は目を奪われました。野面は白く、荒涼とした雪の峰が切り立って、透き通る蒼穹は大気の膜を映し出し、世界最高峰の威容を見せ付けています。サディックが思わず叫びました。
「ちっぽけだ。ああ、なんてちっぽけなのだろう。この大山脈に比べ僕の煩悶のなんとみみっちいことか。貧乏臭い、つまんないことにウジウジしていた自分が情けなく思えるよ。無粋な饒舌を許しておくれネトリーナ。僕は虚栄心に強いられて黙っていられないのだ。
この光景を
姉さんにも見せてあげたい、自らあの人を捨てて逃げたというのに今はそんなことを考えている。大自然の眺望は偉大だ。驚嘆と同時に故郷を恋しく思わせる。だがその望郷の念は断じて軟弱な羨望ではない。
あのせせこましい屋敷で僕の考えていたことといったら、どうにかして姉さんの過ぎた愛情から逃れたい、それだけだった。今は違う。僕は世界というものを見た。初めて見た。知った。今は姉さんの無知を告発してやりたい。
魂の目を開け、この世界の広さを見せ付けてやりたい。サディックにあるのはそんな思い上がった義務感だ。ああ、姉さんがここにいればなあ。きっと外の世界に目を向けてくれるはずなのに。
もの狂わしいよネトリーナ。すぐさま屋敷に戻って姉さんを連れ出したい。けれどもこの先にあるであろう新たな感激も待ち遠しいのだ。畜生め、この優柔不断な卑しい性根が憎たらしい。
ネトリーナ、今は君だけが慰めだ。僕のもう一人の姉よ。血縁がなくとも君を愛している。この旅を共にしてくれてありがとう。君がいたから僕はここまで来ることが出来た。君がそばにいてくれるから僕は先へ進む勇気を持てる」
「いけませんサディック様。わたくしなどに頭を下げては」
「愛する者に礼を言うのは当たり前のことだ。言わせておくれ」
ありがとう、とサディックは言いました。ネトリーナは目を細め、「姉として、ですか」と口の中で呟くと、佇まいを正して、寒さが堪えるのでしょうか、やや震えた声で言いました。
「勿体無いお言葉をいただき、身に余る幸せに存じます」
338 姉ぎらい 3/6 sage 2008/02/19(火) 17:19:24 ID:ik4fypTR
主従の旅は順調に続きました。千里を結ぶ鉄道で標高五千メートルの山脈を越えて、世界で最も人口の多い国にたどり着きました。サディックの目指すJAPANはもうすぐです。二人は港方面へと向かう長距離バスに乗るために、大きな町へ足を向けました。
遠くからでも聳え立つ煙突が見えるほど大きな工場がある町です。煙突からはもくもくと煙が昇り、そのまま空に溶け入るかと思いきや、雲を灰色に染めて町全体を覆う巨大な傘を作り、ほの暗く陰を落としています。
サディックは列車の時とは別の意味で驚愕しました。
「今にも黒い雨が降りそうだ」
二人は町へと続く道路を歩きます。乱雑な舗装です。大型トラックが地響きを立てて絶え間無く走っています。所々が傷み、ひび割れています。二人は埃っぽい空気にむせて、たびたびハンカチで口元を覆いました。
行き交う車に用心しいしい進んでいますと、ある地点でサディックがおやと声を上げ、道を外れてあさっての方角に駆け出しました。ご主人様の突然の疾走に数秒遅れて、ネトリーナも息を切らせて追いかけます。
サディックが急に立ち止まり、追いついたネトリーナははしたなく見えない程度に静かに息を整えました。サディックはネトリーナに背を向けたまま語り始めました。
「僕には時々、マジェーネ姉さんがとてつもなく美しいと思えることがある。姉さんは確かに美人だよ。けれども、そういった見かけの美しさとはまた違ったそれだ。僕の下劣な本性がそう思わせているのかもしれん。
僕に虐げられた姉さんが悲しむ姿に、心臓を鷲掴まれそれの他何も目に入らなくなる、えたいの知れぬ艶かしさを伴う戦慄を覚えることがあるのだ。棄てばちの小児的惨忍だろうか。
すすり泣きの音色が甘美に聞こえ、頬から伝う涙に花を手折る瞬間のあの何とも言い表せぬ充足を感じてしまう。この河の美しさはそうした美と同じものだ。七色に輝く河。天変地異の前兆とでもいうのか」
二人の目の前に流れる川は、淀んだ日差しを反射して虹色に輝いていました。とってもきれいにきらきらと、シャボン玉などとはまた違った、自然界ではありえない、鮮明すぎる色で彩られています。
背筋がぞっとしたネトリーナは、両手で口元を押さえて息を呑みました。見れば見るほどくらくらする色合いです。
339 姉ぎらい 4/6 sage 2008/02/19(火) 17:20:32 ID:ik4fypTR
虹色の河をより詳しく観察するためにサディックが身を乗り出しました。
「血の錆色のほうがまだましだ。川底が全く見えんよ。それにしてもこいつはまるで安物の駄菓子――」
続けようとしたところで、やけにぬめった土手のふちの泥が足を捕らえ、あれ、と言ったときにはもう遅く、すってんころりん転がって、あちこち体をぶつけつつ、まっさかさまに落ちて行き、ざぶんと音立て虹色川にサディックは消えてしまいました。
空をつかんだ腕を伸ばしたまま、ネトリーナは絶叫します。サディックさまサディックさまと泣き叫ばんばかりに声を張り上げます。辺りを見渡します。人っ子一人居ません。
大切な人を助けるべくすぐさま川べりへ滑り降ります。手ごろな棒は見つかりません。左手で草を掴んで身体を固定し、右手をあらん限りに差し出します。
「サディックさま。つかまってくださいまし。サディックさま」
しかし、声はむなしく響くばかりです。ぬめったしぶきが指に当たります。思いのほか流れが速いことに気付いたネトリーナは、今度こそ泣きじゃくりながら四つん這いで川べりを進みます。そうしてまた同じ恰好で腕を伸ばし、サディックさまサディックさまと繰り返します。
つんとした異臭が目と鼻を刺激するだけです。五分ほど経ち、潤みすぎたせいで目が利かなくなり始めたときに、川下の方角から声が聞こえました。
「生きてる。サディックはまだ生きてるよ」
目元を拭って見てみれば、ずっと川下のところで川べりにしがみ付いたサディックが手を振っています。
「サディック様? サディック様なのですね?」
「そうとも。ああ、わざわざ来なくとも大丈夫だ。自力で登れるさ。上で待っていてくれ」
ネトリーナは土手を登ってサディックの登る先まで走りました。泥を払うことも忘れて大切な人を見守ります。
「こんなときこそNIN‐JUTUが使えたらなあ――やれやれ、臭いし汚いし重くてきついし、散々だ――こいつは一刻も早くSAMURAIに教えを乞わねば――ぺっ、その上不味い。
なんだろうな、この虹色の川は。水が恐ろしく重いぞ。ヘドロにしてはお上品すぎる。うん、骨か――きれいなお水にお魚さんたちも大喜び、とくらあな」
登り終えたサディックは襟に引っかかった魚の骨を指で弾き飛ばして立ち上がりました。
340 姉ぎらい 5/6 sage 2008/02/19(火) 17:21:38 ID:ik4fypTR
「ああ大丈夫。興奮してはいるが大したけがは無い。精々擦り剥いた程度さ。それにしてもお互い酷い有り様だ。おおっと、お召し物のお取替えは御自分でやるよ。
先ほど解ったのだがこの汚れは擦ってもなかなか落ちないみたいだ。君の肌に付くといけないから今は触らないでおくれ。ああ、臭い臭い。兎にも角にも風呂に入らねばいかんな。しかしこんな川が流れる土地に体を洗える水があるかどうか。
代わりの服も買わねばならんし――ところでどうしたのだネトリーナ。先ほどから黙っているガッ――」
乾いた音が辺りに響きました。ネトリーナは腕を振り切ったまま、険しい表情をしています。しばらくすると、サディックは頬を押さえて呆然とつぶやきました。
「ぶった」
その言葉にネトリーナは我に返り、自分の右腕がご主人様の頬を打ったことにようやく気が付きました。
「申し訳ありません」
サディックは充血した頬を撫で擦ります。
「ネトリーナが、僕をぶった」
体が勝手に動いてしまったとはいえ、このような不敬を致してしまっては暇を申し渡されても文句は言えません。ネトリーナは頭を下げたまま、サディックの、おそらく叱責でしょう、言葉を待ちました。
341 姉ぎらい 6/6 sage 2008/02/19(火) 17:23:01 ID:ik4fypTR
「ネトリーナが、この僕を打ったのだ。男子の顔を、女中如きが引っぱたいたのだ」
「もうしわけ、ありません」
「なぜ謝る必要があるネトリーナ。僕は怒ってはいない。むしろ、嬉しい。そうだ、姉さんみたく叱られて喜んでいるのだ」
サディックはからからと笑いました。
「あの屋敷では僕を打つ者が居なくなって久しい。使用人はもちろん、親父や母さんだってとっくにサディックを見捨てちまってる。姉さんはあのざまだ。どんな馬鹿をやってみせても、誰も僕を打ってくれやしない。
ありがとうネトリーナ。そしてすまない、君に心配をかけた。君は正しいことをしたのだ。だから顔を上げておくれ」
ネトリーナは感極まってサディックを見つめました。川の水が服を毒々しい色に染め、肌にまだらの染みを作っていましたが、無邪気に喜ぶ大切な人の姿はとてもいとおしく思えました。ネトリーナはこの旅に出てから初めて微笑みました。
サディックには子供っぽい、おばかなところもあるし、その上鈍感、さらには気取り屋で、やたら語りたがりでもありますけれど、ネトリーナはそんな彼のまっすぐなところが大好きなのでした。サディックは楽しげに続けます。
「君はやはりもう一人の姉さんだよ」
ネトリーナの表情が再び曇りました。異国の河は七色に輝いています。
最終更新:2008年02月24日 19:03