634 名無しさん@ピンキー sage 2008/03/03(月) 00:44:20 ID:gEC4V6Bd
朝、ベッドの上で体を起こし、ぼんやりした意識のまま、僕は自分の腕を視界の真ん中に持ってく
る。パジャマの袖は今日も大幅に余っていた。
「……この年になっても、三年前に買ったパジャマがまだ着れるんだもんなあ」
ついつい溜息が出てしまう。僕の成長期は一体いつ訪れるんだろう?
そのとき部屋の入り口がノックされた。返事をする暇も与えずに、ドアが盛大に開け放たれる。
「おっはよーう、お兄ちゃん!」
二つ結いにした癖毛を軽やかに揺らしながら、妹の一穂が部屋に飛び込んでくる。
「おはよう、かず……って、ちょっと!?」
僕が止めるよりも早く、一穂は床を蹴った。ベッドの上、僕の目の前にダイブして、避ける間もな
く抱きついてくる。妹は僕と違って長身だ。兄としては情けないことに、力も僕よりずっと強い。だ
から、逃れようともがいてみても無駄なことで、結局は毎朝思う存分ほお擦りされてしまうわけで。
「ハァハァ……お兄ちゃん、今日もとっても可愛い……」
「こ、こら、離れなさい一穂。いつも言ってることだけど、兄さんに向かって可愛いは失礼でしょう」
「可愛いものは可愛いんだもの、仕方ないじゃん。ああもう、食べちゃいたいぐらい」
陶然と呟き、一穂はおもむろに僕の耳を甘噛みした。そのまま、高い水音を立てながら丹念に耳を
舐め回す。気持ち悪いほどのこそばゆさに、背筋が震えてきた。
「ちょ、だ、駄目だよ一穂……! 僕、み、耳は弱い……んぅ……!」
体の芯まで震えてきて、息が詰まる。と思ったら、一穂は僕の耳を舐め回すのをぴたりと止め、体
も離した。機敏な動きでベッドから飛び降る。制服のスカートの裾を翻しながら振り返った一穂は、
満足げに微笑みながらちろっと舌を出した。
「えへへ、今日もごちそうさま。おいしかったよ」
「もう……」
僕は唇を尖らせながら耳に手をやった。肌が唾液でふやけている。
「お兄ちゃんの体って、ホントにどこでも柔らかいよねー。女の子みたい」
最後の言葉に少し傷つきながら、僕は今日こそ一穂に一言言ってやるぞ、と決意を新たにする。兄
の威厳を見せつけてやるのだ。
(最近、二の腕ぷにぷにされたり頬にキスされたり耳たぶ舐められたり、やりたい放題だもんな。こ
こらで一つ、びしっと言ってやらないと)
僕は咳払いをした。
「一穂、いいかい?」
「なあに、お兄ちゃん」
「君は人の耳を舐めるのが好きみたいだけど、そういうのは非常識な行為なんだよ。僕は君のお兄さ
んで、そういう嗜好もある程度は理解してあげられるけど、他の人には絶対しちゃだめだからね、わ
かった?」
出来るだけ厳しい声でそう言うと、一穂は数秒ほど目を瞬いてから、腹を抱えて笑い出した。人が
真剣に話しているというのに、なんて無礼な態度だろう。
「一穂」
「ご、ごめん、お兄ちゃん……でも、だって、あんまりにも……あー、おかしい」
目尻にたまった涙を指で拭いながら、一穂は意地悪げににんまりと笑った。
「うん、でも、お兄ちゃんの言うことはよく分かったよ。仕方ないから、他の人の耳を舐め回すのは
止めておくことにしようかな」
「おお、分かってくれたんだね」
「た、だ、し」
一穂の目が細くなる。
「他の人には止める代わりに、お兄ちゃんの耳は、これからも思う存分舐めさせてもらうからね?」
「ええっ!?」
「だって、さっき自分で言ったじゃない。『僕は君のお兄さんで、そういう嗜好もある程度は理解し
てあげられる』って」
「そ、それはそうだけど」
「それとも、わたしが人の耳を舐めたいっていう欲望を抑えられなくなって、誰彼構わず耳を舐め回
す変態さんになってもいいのかな?」
「そ、それは駄目!」
僕はほとんど反射的に叫んでいた。そんなことになったら、一穂は周りの人みんなに白い目で見ら
れて、ずいぶん辛い人生を送ることになるだろう。
635 名無しさん@ピンキー sage 2008/03/03(月) 00:45:01 ID:gEC4V6Bd
(一穂は僕の妹なんだから、僕が守ってあげなくちゃ)
胸の奥で燃える使命感の命ずるまま、僕は力強く頷いた。
「分かった。じゃあ、僕の耳に関しては好きにしていいよ」
「やったー! あ、それじゃあさ、ついでに二の腕と、太股と、お腹と、あとそれから……」
「ちょ、何言ってるの!?」
「わたしが人の二の腕をぷにぷにしたいっていう欲望を抑えられなくなって、」
「分かった、好きにするといいよ」
僕は不承不承納得した。妹の悪戯を許すのは気が進まないけれど、これもこの子を守るためなんだ
から、我慢しないと。
「ありがとーお兄ちゃん、大好きっ! わたし、部活の朝練があるから、先に行くね!」
そう言い残すと、一穂はひらりと身を翻して部屋を出て行った。階段を駆け下りる音に続いて、
「行ってきまーす!」という元気な声が聞こえてくる。
「……なんだか、大変なことになっちゃったなあ」
明日以降の朝のことを想像して、僕は早くも少しだけ後悔しつつあった。
「あら、おはよう洋ちゃん」
階下に下りると、ダイニングで皿を片付けていた杏
姉さんが笑顔で挨拶してきた。長身に長い黒髪、
女の人らしい体つき。本当に僕の姉さんなんだろうかと疑いたくなるような人だ。
「おはよう姉さん」
「お顔洗ったら、一緒に朝ご飯食べましょうね」
姉さんの優しい声を聞きながら、僕は洗面所に向かう。顔を洗って戻ってくると、食卓の前には椅
子が一つしか置かれていなかった。そこに姉さんが座って、にっこり笑いながら僕の方を見ている。
(ああ、やっぱりか)
いつも通りの光景に、僕は少し肩を落としてしまう。それに気付いているのかいないのか、姉さん
がゆっくりと両腕を広げた。
「さ、いらっしゃい、洋ちゃん」
何故だか顔が赤く、少し呼吸が乱れているようだ。どうしてだろう。いつものことながらそれを不
思議に思いながら、僕はなんとか拒否できないものかと抵抗を試みる。
「あの、姉さん、僕の分の椅子も用意してほしいんだけど」
「椅子ならここにあるじゃない。お姉ちゃんの、お膝の上。さ、いらっしゃい」
「いやそうじゃなくてさ。僕も普通の椅子……姉さんとは別の椅子に座って、食べたいんだけど」
そう言うと、姉さんは顔を真っ青にして、両手で口を押さえた。これまたいつも通りだ。
「そんな……洋ちゃん、お姉ちゃんのことが嫌いになっちゃったの!?」
「いや、そんなことないよ!」
「だって、一緒にご飯食べたくないってことは、そういうことなんでしょう? ああ、もう終わりだ
わ。可愛い洋ちゃんに嫌われちゃったら、お姉ちゃん、もう生きていけない……」
姉さんはテーブルに突っ伏して泣き出してしまう。僕は焦った。
(仕事で海外に出張している父さんの代わりに、僕が姉ちゃんを守ってあげなくちゃならないのに!)
毎度のことながらそう思いなおし、僕は結局、今日も椅子の確保を諦めた。
「ごめん、姉さん。やっぱり椅子はいらないや」
「あらそう?」
姉さんはぱっと体を起こすと、再び大きく両腕を広げる。さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。
女の人って転換が早いんだなあ。
「それじゃ、失礼します」
「うん、いらっしゃい、洋ちゃん」
身長差が十分あるので、僕の体は姉さんの膝の上にすっぽり収まってしまう。その悔しさを噛み締
めていると、姉さんが後ろから腕を回してきた。そのまま腕ごと抱きしめられて、動けなくなる。
「姉さん?」
「ハァハァ……とっても可愛い洋ちゃん。柔らかい髪、ぷにぷにのほっぺた……」
姉さんは後ろから僕の顔に鼻を押し付け、くんくんと臭いと嗅いでいる。なんというか、非常にこ
そばゆい。
636 名無しさん@ピンキー sage 2008/03/03(月) 00:45:37 ID:gEC4V6Bd
「や、やめてよ姉さん、くすぐったいよ」
「ハァハァ……ごめんね洋ちゃん。でももうお姉ちゃん、ああ、洋ちゃんの臭いだけで、イッちゃい
そう……!」
「どこに行くの? っていうか、姉さんもなんだか息が荒いよ。一穂もだったけど……二人とも、風邪?」
「違うけど……うふふ、ある意味病気かもしれないわね。洋ちゃん病」
「なにそれ」
「なんでもない。さ、お姉ちゃんと一緒にご飯食べましょうね」
上機嫌に言いながら、姉さんがいつも通り僕の腕を取って、食事をリードしようとする。
「あの、姉さん、僕もう子供じゃないんだし、ここまでしてもらうのはさすがに」
「そんな……洋ちゃん、お姉ちゃんのことが嫌いに」
「うん、姉さんの好きにしてくれていいよ」
僕は早々に諦めることにした。僕は今や、この家にいる唯一の男なのだ。その僕が姉さんを悲しま
せるわけにはいかない。
「さー洋ちゃん、よく噛んで食べましょうねー?」
それにしても、たとえ外見のせいで小学生に間違われることすらあるにしても、もう高校一年生に
なる弟に対してこの態度はどうなんだろう。僕はそう思うのだが、多分口に出してもさっきみたいな
反応を返されるだけだろうと思ったので、黙っていた。
「どう、おいしい?」
「うん、いつも通り、すごくおいしいよ」
「そう。良かった。洋ちゃんは可愛いわねえ」
姉さんが再び僕をぎゅっと抱きしめ、後ろからほお擦りしてくる。くすぐったかったが、なんとか
我慢する。それにしても、
「女の人って、みんなこういう風にするのが好きなのかなあ」
「なんですって?」
背筋がぞくりと震えた。なんだか、今の姉さんの声が異常に怖かった気がする。なにか、まずいこ
とを言ってしまったんだろうか?
「洋ちゃん、お姉ちゃん以外の人にも、こんな風にされること、あるの?」
詰問口調だ。これは怒っているぞ、と僕は身を硬くする。ここは正直に答えておこう。
「うん、そうだよ」
「どこの雌ぶ……じゃなかった、誰が、こういう風にしたがるのかしら?」
「ええと、隣の席の井上さんと、美術部の秋葉先輩と、担任の真弓先生と、保健室の加奈子先生と……」
とりあえず、思い出せる限りの名前を挙げてみる。もっと多かったと思うけど、思い出せない分は
しょうがない。
「ふーん、そうなんだ」
「姉さん? どうかしたの?」
「ううん、なんでもないわ。ねえ洋ちゃん? お姉ちゃん、ちょっと電話しなくちゃならなくなった
から、一人でご飯食べててもらえる?」
僕としては願ったり叶ったりだったので、素直に承諾する。一人で気楽に朝食を食べていると、台
所の方から姉さんの声が聞こえてきた。
「……一穂? ……そう、豚……始末……」
なんだろう、一穂と晩御飯に使う豚肉のことでも話してるのかな?
ともかく、話を終えた姉さんが戻ってきて、また膝の上に逆戻りではたまらない。僕は急いで朝食
を食べ終えて、手早く身支度を済ませて玄関に向かう。
「……なんとかして……秘密裏に……樹海……埋める……東京湾……沈める……」
靴を履いている間にも、姉さんが電話に向かって何か話しているのが聞こえてきていた。何を話し
ているのかはさっぱり分からなかったけど。
「いってきまーす」
一声かけて、僕は玄関の扉を開ける。降り注ぐ日差しが目に眩しい。
世界は今日も平和なようだった。
最終更新:2008年03月09日 22:39