桜の網 五話

616 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:15:29 ID:MHZZYyn6

     * * *

 初めて西園寺の屋敷に来たときのことを思い出していた。
 壮観。圧巻。絢爛。門にはおよそ十人以上の使用人と執事が待ち構えていて、桜と悠太が帰ってくると全員が一斉に頭を下げた。

「お帰りなさいませ」

 最初に言ったのは誰だかわからなかったが、後から続いてくる声は乱れるはずもなく流麗であると言え、それ故十分に悠太に居心地の悪さを与えた。
 敷地内に足を踏み入れる。
 すると今度は、門前で待っていた人数の倍が横一列に並んでいて、こちらを見つめてくる。
屋敷の入り口は、はるか向こうというには大げさだが意味もなく霞んで見える。おそらく、この嫌味な豪華さがそうした感覚を抱かせているのだろう。

「ごめんなさい、兄さん」

 丁度悠太の肩口から申し訳なさそうな声が聞こえてくる。

「どうしたの、突然謝ったりして」
「こんなにも大げさにしてしまって。屋敷を出る前に白石の家の人に会いに行ってくるといったのを使用人の誰かが兄さんが戻ってくると勘違いしたのでしょう」

 実際悠太が戻ってきたことに間違いはないが、言われてみれば桜は亜美に会いに喫茶店に行ったのであって、僕を迎えようとして出向いたわけではない。
この歓迎の仕方は不自然ではある。

「別に謝ることはないよ。歓迎されているみたいではあるみたいだし」
「ですが…兄さんはあまりこういった歓迎のされ方はお嫌でしょう?」
「正直に言えば、ね。でも、桜が気に病む必要はないよ」

 格差、といってしまえばそれまでだけれど、家柄のことではなくて悠太はこういった生活には慣れていない。よって、桜の言葉は正しい。
 明日の食費をどうやりくりしようかと考えるような人間に、いきなり優雅さを見せてもただの嫌がらせにしかならないし、率直に言ってしまえば不快だ。
 だが、悠太は驚きも感じた。なぜならば、桜のようなお嬢様にこのような気遣いが出来るとは考えてもいなかったからだ。
偏見といってしまえば悪意としか取られないかもしれないが、喫茶店での一件を見ても桜に思いやりがあるとは思えなかった。
もちろん、仕方がないことではあるし、妹という関係なのだから色目を使ってあげたくもあったが、亜美と白石のことを無視し自分のことを優先させたのは、
うれしかったが悲しいと言わざるを得なかったのだ。
 けれど今は、先ほどのような感じは微塵もなく、ただ好ましい。

「ありがとうございます。では、お入りくださいな」

 強く育ってきたのだな、と思う。
 環境が人生のすべてを左右するわけではないのは悠太自身が一番よくわかっているけれど、存外、言葉でいうほど簡単ではない。
幸福と裕福は同じものでは、決してないのだ。
 むしろ、金という欲がなくなった人間は変わりに様々な心を失うことのほうが多い。
にもかかわらず、こうした礼儀正しさや気遣いを見せるとは、悠太でも出来るかどうか自信はない。
 屋敷の中に入る。心持ち足取りが軽い。
ホールと言ったほうがわかりやすいような玄関だった。下地が大理石で出来ていて、鈍く靴の姿を照らしている。
悠太は桜に屋敷の中の部屋割りなどについて教えてもらっていた。到底覚えきれないような説明の中で、自分の部屋の場所だけは何とかわかることができた。
話によると桜が気を利かせてくれて、彼女の部屋の隣が悠太の部屋ということになるらしい。
何でも、そうした方がわからないことがあったら、すぐに桜に教えてもらうことが出来るからだということだ。
 もうすでに七時を回っていたので、すぐに夕飯になると桜が言っている。
悠太はその前に自分の部屋に行ってみようと思って玄関先の階段を上ろうとすると、桜から再度呼び止められた。

「兄さん、初めは戸惑うことも多いと思います。わからないこともあるでしょう。ですが、そういったときは必ず言って下さい。
私でなくてもかまいません。誰かに気軽に頼ってください」
「ありがとう、そうするよ」

 さすがにあまり気を使われすぎると恐縮してしまうな、と思わなくもなかったがこれが桜の本分なのだとしたらうれしいことだ。
 口には出すまい。
穏やかな気持ちになってその場を離れた。



617 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:17:37 ID:MHZZYyn6

 夕食での際は、先ほどとは違い憂鬱にならざるを得なかった。
 テーブルマナーや姿勢、果ては部屋に入る時の入り方まであって、肩がこるとかいういぜんにただ戸惑うばかりで、食欲はまるっきりなくなってしまった。
 別に、桜や使用人たちにこうしろと言われたわけではない。
だが、悠太が何か作法を間違うとやんわりと遠まわしに「気にしなくてもいいのですが、本当はこうするものなのですよ」と言われているかのような口ぶりを聞くと、
自分も真似でしかなかったが奮闘するしかなかった。もちろん空回りして、スープの入った皿すらカチャカチャと音を立ててしまったのだが。
 食べ終えた後、悠太は自身の体には大きすぎるベッドの隅にちょこんと腰掛けていた。
 部屋は大きすぎてどこか落ち着かない。自分の荷物などないといっても差し支えないのが余計に部屋を広く感じさせ、寂寥感が多分にあった。
これでは逆に何をしていいかわからない。
 白石の家ならば、夕飯のあとは洗い物をすませて亜美と雑談をしているか、
トランプなどのちょっとしたゲームでもしてゆっくりしているところだが、そんなことをする気力は毛頭ない。
 一息ついて、これからどうしようかと考えていると部屋にコンコンというノックの音が聞こえた。

「はい、どうぞ」

 失礼します、といって入ってきたのは桜だった。
部屋着はドレスではなく、少し落ち着いたフリルついたようなシャツとスカートで、こうしてみると前が前だけに僅かに野暮ったい印象を覚える。

「そんなところに立っていないで、こっちにおいでよ」
「あ、はい」

 恥ずかしそうに悠太の隣まで来ると、少し躊躇して座った。
ベッドが軋む。
二人は何もしゃべらない。
 悠太は喫茶店での時と桜の態度が随分と違うなと思った。
さっき思ったように思いやり云々のことではなくて、何か根本的に違っているような妙な感じ。
少なくとも、あの時はこのような可憐な少女のような印象は、全くなかったわけではないが薄かった。か弱いようでいて、でもどこか凛としている感じが強かったのだ。

「あの」

 向くと、桜が顔を下に向けて、右手と左手の親指で逆の手の爪の頭を擦っている。
こういった格好をもじもじしているというのか。

「どうしたの」

 いじらしい桜の姿も可愛いな、何て思っていたけれどすぐに何を考えているのだと思い直し、出来るだけやさしく声をかける。
すると、桜が顔を上げて、意を決したかのように言ってきた。

「ここは、兄さんの居場所ではないかもしれませんけど、今だけはこの家を我が家だと思ってくれませんか」
「―――」

 直感。呼吸が止まる。
悠太の気持ちはすべて悟られているということか。
桜は悠太から目線をずらさず、ただ切に見つめている。

「……」


618 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:18:53 ID:MHZZYyn6

 無理な相談、なのかもしれない。
それは、まだ来たばかりだから西園寺の家に慣れていないという時間的なことを指しているのではなく、悠太自身の心の中にある意識的なものを言っているのだ。
けれどだからこそ、頷くわけにはいかない。桜の願いを断るのは痛み入るが、こればかりはしょうがない。
でも。

「今だけで結構ですから、三ヶ月だけで」

 考えてみれば、いや考えるなどおこがましくもあるが、桜は家族だ。
だとするならば、ここも自分の家として認識してもいいのではないだろうか。
何より我が家が一つでなければならない根拠など、どこにもない。
むしろいいではないかと思う。
家族が増えるということは卑下したくなるようなことでないのだから

「だめ……ですか」

 それに桜も言っている。三ヶ月だけだ。期間中だけだ。その後に悠太自身がどう思うかはわからないが、それこそ後で決めればいい。何も悩むことはない。

「いいよ」

 桜の顔が綻ぶ。切れ長の目が秀逸に輝いて、美しい。意味もなくため息が出る。

「ありがとう、兄さん」

 そっと、桜の手が悠太の上に重ねられた。不思議と安心感があり、気持ちがよかった。違和感はなかった。



 それから一ヶ月後のこと。悠太が桜と買い物に行ってから少しして徐々に桜の態度が変わり始めた。

「兄さん、大好きです」
「あはは、何言っているんだよ」

 いや、態度が変わったというより悠太と親しくなったといったほうが適切か。無論、悪いことではなく、好ましい。
 昼食が終わった後、お茶を飲むことを桜に促されることが多くあるが、このときの雑談はひどく楽しい気持ちを悠太に与えている。
知的な内容から少し茶目っ気を入れた冗談まで、桜はどんな話にも豊かな反応を示し、新たに斬新な内容を悠太に話した。
 悠太の頭は悪くない。が、頭の良さとこういった話の類は全く別物だ。ただただ驚きと甘美な刺激が悠太を包む。
 欲を言えば、兄妹とはいえ好きや嫌いといった感情の話だけはあまりすべきではないとは思っていたが。嫌われるよりも好かれたほうがいい。

「そういえば、聞きましたよ」
「何を」
「夕べ、食事を作るのを調理場に行って拝見したのでしょう?」
「ん、ああ。やっぱりコックがいるくらいだからさ、参考にしておきたいなって思って」
「もうっ、あんまり変なことはしないでくださいね」
「桜は、料理とかは作れるの」
「そうですね。たしなむ程度なら」
「へえ。じゃあいつか桜の料理を食べてみたいな」
「それは、いい考えですね。桜を、食べてもらいしょうか」
「うん、楽しみにしているよ」

 こういうのも、いいな。
 自分は西園寺の家を無条件に嫌悪して、西園寺と名のつくものはすべて嫌いと思っていたが、桜を通してこの家に関わりを持つようになって認識も改まりつつある。
 今でも自分の父親は、それこそ殺してやりたいほどに嫌いだが、その感情を直接に西園寺に結びつけるのは、偏見だ。
 貧富の差や白石の家とかは別にして、この屋敷はいい場所だと思う。使用人は皆優しいし、執事の人たちもみんなよくしてくれている。
 例えそれが、桜の兄というレンズを除いたものだとしても、無体に扱われるよりは幾許かはましに思ったし、
何よりもみんなとは敬語こそ付きまとって入るが友人のように話せることがうれしい。
 何かと居心地がよくなっている。
ああ、ここに亜美と白石がいればどんなに幸せだろう。そうなる日がいつか来ればいいのに。


619 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:20:25 ID:MHZZYyn6

「亜美さんは」

 ティーカップを皿の上に置く音が静かに聞こえる。

「亜美さんは兄さんのことを彼女だと仰っていましたが」
「ああ、でも冗談だから気にしなくていいよ」

 亜美の冗談。
そういったはいいが実は亜美が嘘を言った理由は、悠太は何となく見当がつく。
それはおそらく、西園寺という亜美にとっても嫌悪の対象である実像に兄を奪われると思ってのことだろう。亜美の父親も悠太と同じなのだから。

「別に、気にしているわけではありません。彼女のことはあまり好きにはなれませんが」
「いきなりは無理かもしれないけれど、同じ妹なんだから仲良くしないといけないよ」
「いえ、それよりも」
「うん?」
「兄さんはお付き合いをしている女性はいないのですよね」
「残念なことにね」
「残念などではありませんよ。喜ばしいことです」
「ひどいなあ」

 何かと色恋沙汰に話を持っていくのは桜の癖。
今回もそうだが、実の兄に恋の話などしたくないのが世間一般での意見ではないのだろうか。女の子だからある程度は仕方ないのかもしれないのはわかっているけれど。
 加え、桜の話は悠太に関することが非常に多い。
根掘り葉掘り聞かれるのは嫌ではないが、恥ずかしいことはこの上なく、こんな場面を友人に見られたらしシスコンと謀れても仕方がない。

「告白、というものをしたことがありますか」
「愛の告白ってこと?」
「罪を告白しても仕方がありません」
「ないよ」
「じゃあ、言ってみてください」

 にっこりと悪魔の微笑。目が点になる。
 意味がわからなかった。

「何を」
「だから、好きだよって言ってみてください」

 聞き返したが、実は頭の隅では理解していた。
ただ、このお嬢様はいつも唐突に驚くべきことを平然と口から出すので、確認の意味をこめてもう一度聞いたのだった。
 顔が少し赤くなる。
妹相手に恥ずかしがっても意味がなく、恥ずかしがる行為自体が恥ずかしいことはわかっているのだが、
このような提案をする桜は悠太が実行するまでしつこく付きまとうので、自分が妹に告白するという奇怪な行動が浮かんでしまう。
 僕って頭の回転が速いかもしれないな、などと戯言を考えているうちに一応は反論をしておかなければならないと思って言ってみた。

「え、いや…なんで」
「いつかは言うことになるのでしょう?だったら練習相手になってあげます、私が」
「そんな、恥ずかしくていえないよ」

 今気づいたことだが、悠太がこの手の話を桜とするのが苦手なのは、こうやって桜が何かさせようとするのに関係があるような気がする。


620 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:20:58 ID:MHZZYyn6

「試しですよ。練習」

 練習だからといっても実際に言うのはかわりがないわけで。
 桜の目がきらきらと星のように輝く。なぜかこの子供のような瞳が恨めしい。
だったら強気に出て断ればとも思うのだが、このような雑談でむきになるほうがどうかしているように思えなくもない。

「いや、妹相手にそんなこと」
「もう練習なんですから、恥ずかしがってもしょうがないでしょう。早く」

 仕方がない。この子供の桜の目を鎮めるのはさっさといってしまったほうが言い訳するよりも効率的だ。
 言おう。ささっと、素早く。そして、なんでもないことのように平然と。

「好、…きだ、…よ?」

 しかし悠太の声はか細く、聞き取りづらかった。面と向かったとたん、桜の顔が笑顔ではなく何時になく真剣だったので、しり込みしたのだった。

「聞こえません」

 再び聞き返す桜。
 もうこうなっては仕方がない。まるで思い人のように桜のことを想い、愛の告白をしてみよう。案外、本当に練習になるかもしれない。
 少し息を吸って、桜の目を見る。
 綺麗な黒い瞳。なんだか吸い込まれそうだ。
 意味もなく、静寂が訪れた。

「だから――」

―――好きだよ

「―――」

 言った瞬間、顔から火が出るかと思うぐらい熱くなった。目線を逸らす。
何か言ってくれよ。悠太はそう思ったのだが、桜は何も言わない。
笑うなり、嘲るなり、蔑視するなりすればいいのに。静かになる。見ればなんだか顔が俯いていて、肩が震えていた。
 どうしたのだと思って、桜に近づくと急に顔を上げた桜が満面の笑みで言った。

「私も、兄さんのことが大好きです」

 見惚れてしまうような可憐で美しい表情。悠太は更に恥ずかしくなった。
 この瞬間を悠太は覚えているだろうか。
 きっかけは一緒に買い物に行き、そこで悠太の女の友人に会ってから。
 けれど、変化は。
 ここから。
 桜の網が悠太を縛る。
 絡まり、縛って、動けなくなるまで悠太は何が起こるのか予感さえすることができなかった。
 気づけば、網は全身に、絡まっていた。



621 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:21:29 ID:MHZZYyn6

     * * *


 チン、という音ともに受話器を置いた。
結局あの後、白石自身が悠太の発言に戸惑ってしまい同じ事を何度も繰り返すだけで、有益な情報は得られなかった。
 まずは、落ち着いて整理してみよう。
今わかっているのは、桜――彼女が桜と名乗っている以上そう呼ぼう――がこの館の当主だということ。
それは、西園寺財閥の当主というわけではないが、この屋敷の運営や維持するためには不可欠な人物という意味で間違いがない。
もし白石が言っていた愛美という人物がこの屋敷の当主だとしても、悠太がここに来てからもうすぐ三ヶ月。
ずっと留守にしていて何の音沙汰もなく、使用人たちからも一切彼女の関係の話を聞かないというのは不可解であるし、今は桜がここの屋敷を動かしているのだ。
仮の当主、だとしても現在のここにいる当主は桜、という意味では間違ってはいないだろう。
 次に、これは憶測も交えてはいるが、屋敷に悠太を呼び戻したのは桜本人だということ。
白石の話からすると、悠太を西園寺に呼び戻したのは西園寺財閥の当主である桜の父――もちろん悠太の父でもあるが――ということになっているが、
これもまた悠太がここに戻ってきて何の変化もないというのもおかしな話であったし、そもそも悠太は父親から忌み嫌われていたのだ。
今になって西園寺に呼び戻すなんて話は考えにくい。
 そして、桜にはこの屋敷の力と多少ながらも西園寺の力も使えるはずだ。
悠太をこの屋敷に呼び戻すことなど造作もない。加えて桜の悠太への接し方をみると、正解だろう。
 よって二つの事を合わせると、桜本人が実は西園寺の人間でないというのは考えられない。
 すると―――桜が悠太の妹というのは間違ってはいないのではないか。
 もちろん、桜が言っていたDNAを調べたというのは桜本人が口にしている以上、証拠足り得ないのはわかっているし、
二つの事から妹で間違いないというのを決め付けるのは些か心もとないのはわかっているのだが、白石が知らないから妹でない、
というのをイコールで結ぶには言葉が過ぎるのではないかと思う。
 信じていないわけではないが、白石は執事を辞めてからもうずいぶんたつ。
その間に何かあっても不思議ではないし、いくら家族構成についてのことでも悠太の父親はあっさりとその家計図を書き足してしまうような人物だ。
妹が実はもう一人いた、増えたなどと言うのも頷けてしまう。言うまでもなく、許せることではないのだが。
 しかしそうなると、悠太には一つ疑問ができる。
 僕と…兄妹であることのメリットって何だろう。
一緒にいられることだろうか。桜の懐きようから見ると納得出来そうだが、そのかわり結婚というのは出来ないし、
何よりお互いの意識はあくまで家族という枠にくくられたものになる。これは有益なものとしては薄い。
 むしろ、他人であったほうが簡単に悠太に近づけたし、他であったほうが出来ることも多い。あの懐き様から見て、恋人にもなれる。
 それに、桜の態度からしたら善意的なもの以外考えにくいことではあったけれども、例え悪意的な思考が桜に存在していたと考えても、
家族ではないという利点はその方が大いに発揮できるだろう。
 ならば―――逆。
 悠太本人を西園寺に縛り付けるためではないか。
 善意か悪意かは推測することすら難しいが、無理やりに西園寺に関わらせるためと考えれば、悠太を呼び戻したという点については、ひとまずの解決を得る。
そうすることの桜の真意については闇のままではあるが。
 更にわかることがある。
 少なくとも、白石が西園寺にいるときには桜という人物は存在しなくて代わりに愛美という人物がいたということ。
 そうなければ辻褄が合わない。


622 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:23:12 ID:MHZZYyn6

 しかしこのことから、矛盾した点が生まれる。
桜と白石の関係だ。桜の今の年齢は十六。
白石のこの屋敷に勤めていたのは十年以上前のことではあるが、桜の年齢よりも前――つまり、十六年以上前ではない。
とすると、桜は白石が屋敷にいる時にはすでに生まれているのだ。ならば、西園寺の人間である桜の存在を白石が知らないのはおかしい。
 悠太の妹かどうかというのは別にして、桜が西園寺の人間であるのは間違いがないのだから、桜の存在を白石が知らないのは考えられない。
それは、どこか別の場所に桜が預けられていたという線はないというのを前提の話ではあるが、他の所に住んでいたというのは、まずない。
 その証拠は悠太自身だ。
悠太や亜美のような西園寺でありながら生まれてきたことを疎まれている人や、
父親には望まれていないが西園寺としては望まれた者は必ず屋敷か悠太が住んでいた場所に行くのが決まりだったのだ。
もともと父親が子供を作ることを嫌っているというのもあるが、それは今関係がない。
 だとすれば、なぜ白石は桜のことを知らないのだろう。悠太の家に来ていない以上、ずっと屋敷に住んでいたとしか考えられないのだが。
 それに…桜は、白石さんのこと…知っていたんだよな
 これがまた悠太の理解できない原因である。
なぜ、桜が白石を知っているのに白石が桜の存在を知らないのか。
 もしもの話ではあるが、桜が白石を知らないのならば、ある程度の矛盾は消えるのだ。
というのも、桜も白石もお互いの面識はないのであれば、すなわちそれは白石がいなくなった後に桜が当主になったということを示しているということになる。
とすれば、桜が悠太の妹だというのを知らないというのも続いてくる結果である。
 そして話が少しずれるが、白石は桜のことを知らないのであれば誰と連絡を取っていたのだろうか。
 電話のこともそうだ。
亜美が横から受話器を取ったとき、白石は西園寺の当主と電話をしていたのだから、桜と電話していたのではないのか。
もしかすると白石の言う愛美という人物と連絡を取っていたのか、いや、だとすると喫茶店での待ち合わせ場所に来たのが桜だというのは辻褄が合わない。
 ―――わからない事だらけじゃないか。
 嘆息する。
肩を下げると、綺麗なペルシャ絨毯が目に入った。
あの模様のように思考が綺麗にまとまってくれればどんなにいいだろうか。
 初めこそ、名前が違うだけでたいしたことはない、などと考えていたが今になってみると、西園寺のことも桜のことも何もわかっていないと思い知らされる。
それが悪いことか、と聞かれると素直には頷くことはできないが、それでも悠太は釈然としない気持ちにさせられた。
 西園寺。
 関係ないと思っているし、持ちたくもないけれど、やはり僕は西園寺からは逃げられないのかもしれないと感じる。
 それはいい意味でも悪い意味でも。
ルーツから逃げられる人間など所詮は存在するはずもないのだ。
 機械の心をもって、すべての情報をシャットダウンし、無関心になる。
 悠太が子供の頃、そうありたいと願ったことだ。
もしそうなることが出来たのならば、どれほどに生きるという鎖の重さが軽くなったことだろう。
 物心つく前から着せられた、捨て子という泥布。
意識などしたくなかったのに、周囲はそれを許さなかった。
 黒い弓の口が何百回と悠太を笑い嘲る。
 鋼鉄の鎧で覆われた足が悠太を蹴りさらす。
 何百回と繰り返された漆黒の日常。何千回の赤い悪夢。紫の過去。
そして――無色の今。


623 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/11(火) 21:23:44 ID:MHZZYyn6

 昔、つらかったからどうだというつもりは毛頭ないのだ。
誰しも軋轢なんてものは背中に背負っていて荷物がない人間のほうが少ない。自分の荷物が重すぎるなんていうのは妄言だ。
 けれど――過去に区切りをつけられたとしても忘れられることなどできるわけがない。
 だから、なるべくならば、背負っているものを反面教師にして桜のこと知り、何か助けになるつもりだったのに。こ
れでは自分のことばかり考えて西園寺というライオンから逃げる羊と何も変わらない。やはり、覚悟を決めて西園寺というものをもう少し調べるしかないだろう。
 となれば。
「悠太様、少しよろしいでしょうか」
 唐突に、幾分声色の低いものが背中に投げかけられる。立っていたのは、長谷川だった。
 丁度いい。
 桜のことと西園寺のこと、十分に聞かせてもらおう。
 悠太は自分の言葉をもう一度咀嚼して長谷川に向き直った。
 ―――けれど、悠太が再び自分から長谷川に何か尋ねようとするのはもう少し後になる。
それは長谷川の話した内容が衝撃的だったから質問をすることができなかったのもあるが、
しかし何よりも、すでにもう一度尋ねようとするころには、彼はいなくなっていたからだった。
 このとき、気づくべきだったのだ。
 真実を話されるということの、重要性に。
 今、このときに。
 悠太は歩き出した。

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最終更新:2007年10月21日 01:33
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