桜の網 六話

98 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:03:29 ID:mp8fEZHO

     * * *


 決定的なことは予想を確信へと変えてくれた。
もともと疑念が強かったのも理由の一つではあるが、背中を押してくれたのは力強く、このままではいけないと思わせるのには十分だった。
 少し早足で、屋敷の中を歩く。
カーペットが敷かれているため音はなかったが、もしここで悠太の心がこの敷物によって表されるのだとしたら、とても快活な音を騒音のように生み出しているはずだ。
 憎いわけではない。
憎しみなどない。むしろ驚きと切なさが強い。

 故に―――救いたい。

 説教ではなく諭しだということを完全に理解して、過ちに気づき反省して、道を正す。
これがすんなりといけば、なにも危惧することなどありはしなくて、加えて何も不安はない。
だが、説教も諭しも、他人に伝えるという点は同じで、傲慢さがまったくないといえば嘘になる。
 しかし迷っているわけにもいかない。
 行動したのは桜だが、原因の一端を担っているのは、悠太自身だ。
責任などという言い方は愚かではあるけれど、義務という家族に関しているものを考えると、些か気持ちも安らぐ。
「兄さん、どこへ行くのですか」
 声は明瞭。誰であるかは背中越しでもすぐにわかる。
悠太は足を止め、ゆっくりと振り返った。
「桜を、探していたんだ」
 刹那、先ほどのどこか怒っていそうな顔に花が咲いた。大輪の華。
 桜はそのまま悠太の側までやってくる、そうして豊かな胸を悠太の背中に押し付け、後ろから包み込むように掻き抱いた。
柔らかそうな胸が形を変える。そして女性特有の甘いにおい。
これがもし妹でなかったら、悠太とてまんざらではなかった。しかしもう、その理由も霞のように儚い。
「私の部屋に行きましょう」
 手をとり軽やかに自室へと向かう桜。
その姿はなんだか可愛らしくて思わず頬を緩めてしまいそうではある。顔もなぜか赤い。
 気分のよさそうな桜に対し苦言を言うのは本意ではないが、それも致し方ない。
「どうしたのですか」
 豪華という言葉以外の形容が陳腐に思えるような部屋の下、天蓋つきのベッドにまず桜が腰掛ける。
続いてぽんぽんとベッドを叩く。手招きの元、悠太もすぐ横に腰を落ち着けた。


99 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:04:21 ID:mp8fEZHO
 丁度、真正面にヨーロッパなどで使われるサーベルが壁にかけられているのが目に映る。相変わらず。あまりいいとはいえない趣味だ。
「こういうの、よくないと思うんだ」
「何がでしょう」
 悠太の言葉とは裏腹に、桜の表情は嬉しさ以外の感情が見えない。
この顔が狂気を孕んだものであるとは今まで気が付かなかったけれど、もう知ってしまった以上は止めるしか道はない。
「いくらなんでも屋敷から出られないなんて変だよ。桜、長い間会えなかったからさびしいのはわかる。でもさ、もっと兄妹らしくしよう」
 まだ本題に入るのは早い。
そう判断したから回り込んだ言い方をしたけれど、瞬間に桜の表情が固まり、そして次第に薄目になっていった。ただ能面のように見つめてくる。
「私が嫌いなのですか」
 詰問というよりは糾弾。
 だがしかし、怯む理由は毛頭ない。
むしろ救済という盾が悠太を後押しする。
「そうじゃない。考えてもみてよ。四六時中一緒で、食事の時も寝る時も側にべったり。
 僕が注意しなかったらトイレにまでついてこようとしたりして、おかしいよ。外に出られた時だって、GPSや盗聴器をつけるそんなのおかしいだろう」
「掟ですから、仕方がありません」
 その免罪符はもう、意味がない。
 本来ならば、ここで引き下がり妥協するところだが、今はもう違う。そんなに簡単に諦めることは出来ない。
 躊躇いはある。が、後悔はないし、したくもない。
 初めて悠太の視線が僅かばかり鋭くなり、桜を妹としてではなく一人の人間として射抜いた。
「本当のこと、長谷川さんに聞いたよ」
 桜の眉が僅かにゆがむ。察したのだろう、今どんな状況で自分がどんなことで責められようとしているか。
 いつの間にか悠太のひざに手を伸ばしていた手が自身の膝の上に戻り、指が拳を作る。結ばれた手が僅かに震えている。
「本当は、別に外に出るくらい構わないんだよね。発信機も盗聴器も、何もつけなくていい。ガードマンだっていらない。しかも」
 そして、一気に声を荒げた。
「地下室でのお仕置きなんて、あんなもの、僕以外誰も知らなかったじゃないか」
 室内にこそ音が反響することはなかったが、悠太の頭は威圧の目的こそ持つ。まとまらない息がもどかしい。
 しかし桜はそんな悠太を見ると、予想に反して笑った。
それは残酷な笑みでも相手を嘲笑するためのものでもなく、ただただ、本当に嬉しそうに。


100 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:05:29 ID:mp8fEZHO

 長谷川の話は、端的に言うと桜のついた嘘のことで、内容は先ほど悠太がぶつけた激情の内容を見れば察せるものである。
 ただ、話を聞いたとき悠太は少し怖くなり、僅かばかり後に奇妙な正義感が身を包んだ。
 自分の持っている義など、愚かしくもあるのかもしれないが、悠太の信念とさえいえる家族に対する思いは、それほどだ。
 自分の妹をこの間違った道から正さねばならない。
悠太の頭にあるのはそれだけ。だから、桜が何を言おうと、いざとなれば必要悪さえいとわないつもり。
「教えてよ、桜。何でこんなことをするのか」
「なぜ、ですか。兄さん、貴方は本当にわかっていないのですか」
 わかってはいない。が、懸念はある。多少の疑念はあるが。
「もしかしてだけど、僕のことが心配なのか。僕が西園寺に出入りしているのに何の警戒もしていないし無防備だから。それは確かにそうかもしれない」
 そしてそれは、正解ではなかった。
もちろん間違いでも。

 悠太の言ったことは純粋に―――失敗だった。

「貴方は本当に」
 突如として声を出す歓喜。その姿は今度こそ侮蔑すら微かに含んでいる。
「可愛い人ですね」
 気づけば桜は悠太の胸へと妖しく手を添える。
「違うって言うの」
 ここまでの好意を一身に受け気づかない悠太と、これほどに愛情を向ける相手が兄だという桜は、果たしてどちらが―――愚かしいのか。
「兄さんが、好きなんですよ」
 どこか清清しく、憮然と言い放つ。
 しかし、もう家族という名の鎖が全身に雁字搦めになっている悠太にとって、この場面で好意を口にするということがどんな意味を持っているのか判断がつかない。
 むしろ格好の勘違いの的で、それが親愛の情の枠をはみ出たものだとわかるはずもなかった。
「もちろん僕も、桜のことは好きだよ。最初はいきなり妹って言われて戸惑ったけど、今はもう立派な僕の家族だと思っている」
 けれど、そんなことは桜が許しはしない。
 家族?
 いい加減にして。
 鎖が全身に絡まっているというのならば、今すぐに私がそれを引き千切ってあげる。粉々に。
もう二度とそんなことが頭に入らないように、しっかりと。


101 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:06:34 ID:mp8fEZHO
「じゃあ、抱いて」
 悠太の耳に桜の言葉が木霊する。
 何回も言うようだが桜はすでに家族で、過去に一緒にいなかった時間が辛辣なものとして悔恨にあったとしても、
もうそんなことは気にもしていないし、しようとも思わない。
 悠太は家族の一員として、かけがえのない家族として、桜が好きだ。
嘘など露ほどにもない。
 なのに。

 ―――抱く?

 抱くとはそれは。
いったいどういう意味で。
「何を言っているんだよ」
 あまりにも馬鹿馬鹿しかったので、笑いすらこぼれた。
もちろんここが笑うところではないとわかってはいたのだけれど、背中に流れる汗はそうでもしないとこの状況が虚偽だといってはくれない。
いや、でも本当は。
「好きなんでしょう?私のことが。だったら抱いてください。」
 頭の隅に残るいつもの日常。桜がいて悠太がいる。この西園寺に来た当初の頃。
あの頃にはなかったものが、ここにあることに今の今まで、悠太は、僕は気づかなかったというのか。
馬鹿なのはむしろ―――僕か。
「ち、違うだろう。好きって言うのはそういうことじゃない」
「違わないんですよ。私にとっては」
「冗談はよしてよ」
「冗談なんかじゃ、ないの」
 桜がドレスに手をかける。
脱ぐつもりか。
 でも脱いだら。それこそ帰って来られなくなる。
道徳が牙をむき、背徳が体を覆う。そして快感が。
 息を吸う。ここが、正念場。


102 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:07:22 ID:mp8fEZHO

「僕たちは家族なんだよ」
「…家族、ね」
 何と言われようが、とっておきの手はこれだ。
 家族。
悠太には偽悪的にも偽善的にも、これしかない。
 これしかないから、桜が悠太の言葉をあっさりと切り落とす。
「兄さん、貴方は家族というものがどんなに残酷か知らないのですよ」
 桜の顔にうっすらと朱が差す。言葉と状況がかみ合わない。
「白石に聞いたのに、まだわからないのですか」

 ―――聞いた?

 それはさっきの電話のことか。だがしかし、なぜそれを桜が。微かな抵抗で悠太がベッドの隅にまで逃げる。
「聞いたって、何で桜が内容を――まさか、」
 問いただしているのに、逃げているという滑稽。もう、どちらが兄なのかわからない。
「今更でしょう、盗聴ぐらい。それよりも、兄さん。聞きたいことがあるのではないですか」
 もう盗聴程度の、何かしらの悪事がばれようとも、もう桜を縛る網はない。そう初めからこうすればよかったと思うほど。
もはや遠慮も許容も、いらない。
 兄が自分から身を離したのを見て、ゆっくりと立ち上がった。手をドレスの裾に持っていく。こうしないと脱げないからだ。
 すでに下着は少しずつ濡れてきている。
 だが悠太からすれば、いい機会と言えなくもない。話を逸らす意味でも状況を変える意味でも今問いたださねば、何もかもが黒幕に閉ざされる。
本当の意味での懐疑があるのだから。

「桜、君は本当に桜なの」

 ぴたりと、桜の手が、止まる。
刹那、憎しみのこもった目が悠太を矢のように射抜いた。
 これが妹の顔か。普段と、先ほどと、今とどれが真実なのか。いや人間誰しも素顔なんてものはない。すべてが自身ですべてが断面だ。
そして、桜の憤怒がすぐに元に戻る。
「ええ、間違いないですよ。私は桜です。…愛美ではありません」
「どういうことなのか説明してほしい」
 口の中にたまった唾を、ごくりと飲んだ。
相手に聞こえないか不安になる。


103 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:08:51 ID:mp8fEZHO
 しかして桜は簡単に答えをつむいだ。
「愛美という人物が他にいて、私が愛美だったということですよ。それですべての辻褄が合います」
「………」
 つまりそれは、愛美が二人いるということか。
同じ人物が二人。
ならばここにいるのは誰だ。
つい先ほど桜であるということは肯定されたはず。そもそも、私が愛美だというのはどういうことだろう。
 桜はそれ以上答えない。見るとすでに格好はドレスが床に落ち、下着――コルセットというのだろう――姿になっている。
これ以上悠長に考えることは出来ない。もう余裕はない。
「もう、いいじゃない。貴方が私の兄であることは間違いないですが、私が貴方を愛しているのも間違いないのですから」
 距離はもういかほどもなく、顔は近い。桜の少しばかり開かれた妖艶な唇が迫る。ベッドに乗せられた体重は音を室内に響かせ、悠太を更に圧迫させる。
 蛇に睨まれた蛙いうよりは、虎に睨まれた鼠のようで、もう逃げることはかなわない。
 二人はただただ近く。桜の両腕は愛しい人の肩に。姿勢はすでに抱き合っているといっても過言ではない。
「やめてくれ。桜は大切な妹だけど、女としてみたことは一度もないんだ」
 そう振り払おうとして、いっそ突き飛ばす覚悟になる。このような常軌を逸した状況。狂気。間違っている。
 そして言い聞かせるために、真摯に桜を見た。

 ―――すると、妹は。

 今度は狂っているなどとは程遠い顔で。
 ただ切なそうな、泣きそうな表情で、悠太を見つめている。
 妹は、彼女は。
 それ以上迫ってこようとはしない。
 今度はうっすらと瞳に涙が浮かび、ついに頬に流れた。
「――――――」
 彼女は、本当に、狂っているのだろうか。

「―――兄さん、一生一緒にいてください」

 こんなにも。これほどにも素敵な顔を見せる、彼女が。
わからない。
 わからないわからないわからない。



104 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:09:44 ID:mp8fEZHO
 それに、正直、僕だって。
本当に桜を一人の女としてみてはいないといえるか?
こんなにも美人を前にして、最初から妹であることに区切りをつけられていたか?
この豊かな胸に目が一回たりともいかなかったと、はっきりと宣言できるか?

 ―――できないのなら、それはすなわち。

 僕だって、狂っているのではないのか。
 桜の好意を知らなかった?すでに愛と呼べる域に達しているのに?

 キヅイテイナカッタ?―――ホントウニ?
 オンナトシテミルノガコワカッタダケジャナイノカ?

「ほら、兄さんだって」
 気づくともう目の前に桜の顔がある。手は股間にあり、指の先で男の膨らみをなでた。
 ゆっくりと甘美に。そしてこれ以上ないほどに、優しく。
 悠太は桜を離そうと、しようとする、フリをする。
刹那、爪の先でひっかくように肉棒のかさの部分――カリを上に弾き、驚くような快感を与えてきた。
 ビクッ
 男の部分は見る見るうちに大きさが増し、硬くなる。さながら熱膨張にでもあったようで、響きはただただ気持ちがいい。
「あはっ」
 今度は先ほどのような顔ではなく少し淫らで、自分以外知らない素顔。蕩けるような笑みと見たこともないほどの妖艶。いやらしいというよりは興奮が高まる。
 いつの間にか悠太はベッドの上に押し倒されて、無抵抗。
 桜の左手が胸の上にあり、撫でた。右手はまだ股間にあり、上から下へ下から上へと刺激を与える。
ジーパンの上からでもしっかりと男の印であるものは膨れ上がり、形すら見るだけでわかるほどになっていた。
それだけに撫でられると気持ちがいい。
 顔が熱く頭に靄がかかる。
霞む。
何も考えられない。


105 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:10:30 ID:mp8fEZHO
 そんな悠太を見て桜は一層笑みを深くした。次いで、左手が乳首の辺りをこりこりと指でこね回してきた。
履いていたジーパンは、桜によって膝まで下げられた。外気にいつもは隠している部分がさらされる。開放感。気持ちがいい。
 もしこれがズボンではなくて、その下を覆っているトランクスだとしたらどれぐらい気持ちがいいだろう。どれほどに快感があるのだろう。
 桜の手は――パンツを下げるために手がかかる。
 これ以上はまずい、と思う。
呆けていた思考が戻る。
 しかしそれを許さないのが目の前の妹ではなく、女。
「じっとしてて」
 じっとなんて、できる訳がないのに。
なぜか体が動かない。
命令を聞いてしまう。自制心が消える。
 ―――ギシッ
 ベッドがいやらしく二人を包む。シーツは絶妙の愛のしわをつける。この屋敷に用意された自室で何回も聞いた音であるはずなのに、淫乱に木霊する。
「兄さん」
 お互いの顔はもう目と鼻の先にあり、ついに唇が触れ合う。優しくそして濃厚に。
 柔らかい肉。
 舌が口内へ侵入。
ぐちゅぐちゅと悠太を犯してきた。でも、正直、嫌じゃない。
 これ以上進めばどんなに、快感が待っているのだろうか。思考は重い。頭が染まる。染まっている。
 そしてついに、男根が室内にさらされた。
 桜はまず、愛おしそうに陰嚢を手のひら全体でさわさわと揉み解した。肉棒の硬度は増す。指は更に下へ。
俗に、蟻の門渡りと呼ばれるところまでくると、人差し指で再び袋のあるところまでつーっと撫で上げた。
 思わず悠太の体が浮く。
すると今度は、桜の手が悠太のシャツにかかる。慣れた手つきで服を脱がし、上半身を裸に。
 さらされるのは彫刻のような男の裸身。
 桜は息を呑んだ。


106 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:11:23 ID:mp8fEZHO
 美しい。
 欲しい。
 でもそのようなことを考える以前に、悠太の体に刻まれた赤々とした斑点。
それはお仕置きと称してつけた桜だけのマーキング。桜だけの、桜による傷。ということは。
「貴方はもう、私のもの」
 悠太の赤い跡に舌を這わせる。ちろちろと、舐める。ちゅうちゅうと、吸う。
 今度は傷による印じゃない。キスで。自分のものである証をつける。赤ではなく、朱。
棒をしっかりと握りこんだ。指にかかる肉厚。熱い。硬さはどんどん増す。
それを確認すると桜は親指で、棒の先端をくりくりと刺激した。
「――あっ」
 悠太の体がはねる。刺激の流れが一気に襲い掛かってきたからだ。
「気持ちがいいのですね」
 慈しみをこめた顔。目は細く、優しい。再び近づく顔。触れ合う唇。
今度はついに、応えてしまった。
絡み合う舌と息。混ざり合う唾液。荒い空気。
 桜は考えた。
ここまで来たのなら、もう一段階進むべきだ。
行動のことではない。意識に区切りをつけるために、呼称を変えなければ。
そうすれば私は、ついに妹ではなくて女になれる。体ももうすぐ女にしてもらうけれど、その前に気持ちで女になりたい。
女として抱いてもらいたい。
 僅かに息を染め、呟くようにして声に出した。

「悠太」

 ―――悠太の目が開かれる。
そして、桜の手が男の手を自らの胸へと導いた。
 これで、一つになれる。
本当の意味で、私のものに兄さんがなって、兄さんのものに私がなる。

 ―――兄さんが、悠太が手に入る!

 どんっ
 しかし。
 桜は、少女はよろめき、―――突き飛ばされた。

「僕はコンビニに行ってくる。しばらくしたら戻るから、それまでに頭を冷やしておくんだ」
 悠太は素早く服を着なおし扉へと向かう。見えるのは背中。蜃気楼。
 何が起きたか理解できない。
唖然としているのは女になりきれなかった、少女。
「待ってください、兄さん!」
 しかし、男はとまることはなく、扉は重く閉ざされる。
 残されたのは、愚かな綺麗な。乙女。
 体はもう、いかほどに暖かさがあるのか。
 部屋が圧縮された空間のようだ。
何も感じることが出来ない。今自分は何に触れているのか、どこにいるのか。


107 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:12:50 ID:mp8fEZHO
 考える。
なぜ最後までいけなかったのか。
最後に悠太が拒んだのか。
こんなにも私は彼を愛しているのに。拒む?でも兄は答えてくれた。あのキスが嘘だったとは、それこそ嘘でも考えたくない。
 ではなぜ。
 何が。誰が。いけなかった。
 ―――そもそも。
 なぜ、こうなった。
 ああ、暗い。暗い。黒い。このもだえるような感情。激情。
 片方が露になった乳房が寒い。体が、寒い。サムイ。
 妹。妹、妹。妹妹妹。
そう、妹。いつもそれだ。
 これが、家族か。
忌々しい鉄の檻。まだ『妹』が、彼の体を縛っているのだろうか。
本当に、小さい頃、何度も思ったことだが、これほどまでに家族は私を苦しめる。家族という名の黒が私を嗤う。
初めは、家族ならば一生離れることがないと思ってうれしがっていたが、やはりどこまでも呪いは消えない。消えようとしない。腹が煮えくり返るほどに。

 ―――だった、ら。

 もういい。家族は、いらない。もう一人の女に、妹はあげる。邪魔なものは必要ない。
 コンコンッ。
 部屋の扉が叩かれる。
「桜様。長谷川です。少しよろしいでしょうか」
 桜はゆらりと顔を上げる。
 そうだ。誰が悪いかなど。可笑しくて笑いすら、ない。だって、もうそんなことはわかりきっている。
 誰が、なんて。何が、なんて。
そんなものは、もう。
 必要なのはただ二つ。愛の悪魔たる激情と。
 愛しい兄。
 邪魔するものは他の誰でもない私がすべて駆逐して―――葬ってやる。
「どうぞ、入ってかまわないわよ」
 優しく声をかける。
立ち上がって、部屋にあった護身用のサーベルを、
しっかりと血が滲むほどに強い力で、
握った。


108 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:13:47 ID:mp8fEZHO



                    * * *



 どうしてこんなにも悲しいのか。
その理由がわからない。彼女を拒んだからか。傷つけたからか。
 ならば、どうしてこんなにも悔しい。
 本当は、悲しいもの悔しいのも、自分が原因だからじゃないのか。
 自分が引き起こした事実。だとすればそれは、自身が理由ということで。すべては自分がいたことによってできた結果ということ。
 いつまでも僕は、愚かだ。
 あの時、桜が悠太の名を呼ばなかったらどうなっていただろうか。
おかげで自分はあくまでも兄で、それ以上ではないと再認識することが出来たけれど。もしあのまま、何も言わずに求められていたら、かなりの確率で僕は。
 濃厚なキス。
 まだ唇がかすかに熱い。
 一度は受け入れて、拒む。
良心で人は死なないというが、自分がしたことはある意味、桜にとって、もっとも残酷なことだったのかもしれない。 
「お兄ちゃん」
 びくりと背中が震えた。けれどこれは、慣れ親しんだ心地よい声。
唐突にかけられた声に反してゆっくりと顔を上げる。
 やはり亜美だ。
夏休みだというのに制服を私服代わりに着ているのは彼女ぐらいしかいない。
事情が事情だけに仕方がないが、なんだか申し訳なくなってくる。妹にこんなにも負担をかけてしまっている自分。
 僕は、何をしても情けない。
「亜美、久しぶりだね」
 しかし悲しみを悟らせるなど、これ以上の愚は冒せない。むしろ機嫌よく装う。
何年も会っていなかったみたいだ、なんてどこかのドラマのような台詞が頭に劈くが、言うことはしなかった。
「泣いているの」
 見れば亜美の目に涙がいっぱいに浮かんでいる。
悠太に指摘されて、慌てて後ろを向き、袖で目をごしごしと拭いているようだったが、後から後から涙が出てきて、悠太に泣いている姿を隠しきれていない。
 なぜ泣いているのか。などということはしなかった。おそらくではあるが、何となく察しはつく。
「……なんで……来てくれなかったの」


109 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:14:35 ID:mp8fEZHO
 悠太は西園寺に行ってからというもの、白石とは何回か連絡を取っていたが亜美には一回たりとも電話が出来なかった。
言うまでもなく、桜が悠太と亜美が話すのを嫌ったからだったが、亜美は知らない。
 そして喫茶店での際、何度か白石の家を訪ねるといっておいて自宅に戻ることは遂には一度もなかったのだ。
いきなり兄に放任され、思うことは多くあるはず。泣くほどとはさすがに思わなかったが。
「ごめん」
 そっと亜美を慰めるため、頭を撫でた。
 何か悲しいことがあったときにこうするのは、亜美が悠太の側にきたときからずっとやってきたことだったが、兄が覚えていてくれて亜美はもっと悲しくなる。
 だから、なかなか泣きやめなかった。
悠太はまだ、頭を撫でてくれている。
 顔を上げると目が合った。
 この人が、私の兄。
 やっと、会えた。
「もう、大丈夫かな」
 名残惜しいが体が離れた。手が僅かに空中を掴む。

 ―――もっと泣いていれば、兄はもっともっとかまってくれるだろうか。

けれど、悠太を縛るような網にはなりたくない。懸命に涙をこらえ、泣き止んだ。
 一方悠太は、ほっとしてここがどこか確認することにした。
 無我夢中だったため、よく場所がわからない。
 周囲を見回すと、考えながら歩いていたために気づかなかったが、いつの間にか西園寺の家から少し離れたところにある公園に来ていた。
ここには昼ごろになると子供や主婦などの憩いの場となる所で賑やかさもある。
ただ、中にある遊具の数は侘しいもので、ブランコと砂場、あとはジャングルジムしかない。
 しかし、ここを訪れる人数は馬鹿にしたものではなく、それなりに多い。通りすがる、という程度のものかもしれないが。
 理由は近くにあるコンビニで、事実亜美もここで買い物をしに来ていたみたいだ。左手に握られた茶色い弁当の袋が揺れている。
 公園内に入る。人もそれなりにいるようだ。
 丁度、ベンチが一つ空いた。
亜美と二人で腰掛ける。座り心地は正直あまりいいとは言いがたいが、側にある樹がそれを帳消しにしてくれている。
 亜美はもうすっかりいつもどおりに戻ったようだ。黙って、ぼんやり。弁当はまだ食べるつもりがないらしい。
 目を瞑る。
 いい機会だ。


110 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:15:18 ID:mp8fEZHO
 西園寺のことについて、熟考したい。
 桜は言っていた。愛美が二人いて、私が愛美だと。
 それはつまり、愛美という名前の人間が二人いて、そのうちの一人が桜ということか。しかしそうするとなぜ桜は、桜という呼称なのだ。
 いやそれ以前に、すべて信じても、悠太自身が持っている疑問は何一つ解決されない。
 白石が電話していた相手。
 喫茶店にいた人物。
 桜が知っていて、白石が知らないお互いの認識。
 愛美。
 喫茶店の一件に関しては、そこにいたのが桜だったということから、白石が電話していた相手がわかれば、自ずとわかることだろうが、何か腑に落ちない。
それほど気にすることもないのかもしれないが…。
 あの、桜が見せた目。あれは間違いなく憎悪のこもったもので、軽く流せる問題ではない。

 ―――それに本当は。

 全く何もわからないというわけではない。
 推測は立つ。
もちろん証拠も保障も根拠ですらありはしないが。よくよく考えてみれば見えてくるものはある。
 加えてソレが正解であるならば、すべての矛盾は消える。
けれども、推論が線になるには、桜がある事実を行ったということが前提になる。それはあまり、考えたくは、ない。
 だが―――。
「お兄ちゃん」
 澄んだ声が耳に響く。とても無機質に。
 見れば亜美が石のようにじっと立っている。何か見つめているようでその視線の先を追うとベンチの横に生えている草が目に入った。
 なぜ草などを見ているのだろうか。少し気になったので、立ち上がり草の近くまで移動してみた。
すると、今度は亜美の視線がずれていた。ということは別に草に注視していたわけではないということか。
 そしてよくよく見ると、視線の先は明らかに悠太に向いている。
「どうしたの」
 声をかけるが、返事はない。
 呆けているようにただ一点を見つめている。自分に向けられたものであるから、こそばゆい。
目の道順をじっくりと追うと、悠太は自身のはだけられた胸が眼に入った。
きちんと着られていないのは、桜との一件があったときに急いでいたからだったが、亜美はそんなこと知りもしないはず。
「何それ」


111 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:16:00 ID:mp8fEZHO
 やっと亜美が口を開いたが、悠太は理解できない。きちんとシャツを着こなしていないことを怒っているのだろうか。
でもその程度のことでわざわざ亜美が気を取られるとは、珍しい。
「僕にだらしない格好は、似合わないかな」
 少しおどけて言ってボタンの二番目までしっかりと留めようとする。
 すると、急に、亜美に手をつかまれた。
「何それ」
 かなりの力で握られたので、悠太はこれが真剣さを含んだものだと推測する。
けれど、理由がわからない。再び亜美の視線を追う。
 そこにはだらしなく着こなされた白いシャツと。自分の赤い胸しかないはず。

 ―――赤い、胸?

 そうだ。胸には桜に、掟を破った時にお仕置きと称してつけられた痛々しい鞭の後がある。亜美と一緒にいた頃にはなかった傷が。
 でも、こんなことで自分の妹を心配させるわけにはいかない。
心が痛むが、嘘をつかなければ。
「何でもないよ」
「嘘」
 すぐに見破られた。が、黙っていれば亜美とて追求まではしてこないはず。
この大人しく優しい妹は、そういう人物だ。
 亜美と目が合う。咎めの視線。
時間が流れる。
 風が凪いだ。樹が揺れ木葉が僅かに擦れる音が耳を優しく撫でる。
辺りは少しずつオレンジの絹がかかり、夕刻が迫ってきたことをひっそりと知らせ始めていた。影が傾く。
砂場で遊んでいた子供たちもいつの間にかいなくなっていた。遠くから声が聞こえる。きっと、誰かが誰かを呼ぶ声だ。
なんだか、それは一層もうすぐ夜がちかいことを知らせているようで寂しい。
 今この公園にいるのは、悠太と亜美の二人だけだ。
 お互いの瞳を覗きあっている兄妹。
 唐突に、亜美が悠太の手を取った。歩き出す。向かう先は、どうやら手洗い場のようだ。
こんな小さな公園であるから手洗い場なんて大袈裟な表現よりも、ただの少し囲まれた水が出る場所といった方が、通りがいいかもしれない。
 蛇口と囲い、それ以外には何もない。
 亜美はまず蛇口をひねり、盛大に水を出した。
水がしばらくで続けると今度は、ポケットからハンカチを取り出した。
 これは随分前に悠太が誕生日プレゼントとして買ってあげたものだ。もうかなり綻びがある。
 亜美はハンカチを一気に水につけた。そして傷つけないようにするためか、優しく、でもしっかりと絞る。


112 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:17:11 ID:mp8fEZHO
 何をするためか聞こうとすると、悠太はいきなりシャツをめくり上げられた。
「手当て」
 言うや否や、右手で赤くついた斑点の上にハンカチを載せる。
水が湿って気持ちがいい。
まだ夏ということもあるのだろう。それが肌に当たると、なんだか清清しさもあって、自然と気が緩む。
「ありがとう」
 お礼を言うと、亜美は優しく微笑んだ。
 手当てしにくいということで、悠太はもう少しシャツのボタンを空けようとすると、やんわりと遮られた。でも、このままだとやりにくいだろうに。
思ったが、亜美は問題をものともせずに、右手で傷にハンカチを押し、左手でシャツのボタンをてきぱきとはずしていった。
 全く器用なものだ。
 安心して、亜美の頭を撫でた。
 すると目を細めて、心持ち身を預けてくる妹。
 もう夕闇。
早く帰らなければならないのに、なんだか気が重い。
 これから、どうすればいいのだろう。桜とはもう顔を合わせにくい。
もちろん、今日の昼の出来事が最大の要因だ。だがしかし、西園寺はどうも悠太にはわかっていないことが多い。
それが悠太を不安にさせる。
 何より、桜と愛美という少女のこと。もう大体予想はつくが、悠太の推論が正しければ、桜は―――。
 いやそんなわけはない。いくらなんでも、それは。
とにかく、桜とこのまま別れたくはない。
兄妹という枠は超えてはならないけれど、それでも、しこりを残したまま三ヶ月が過ぎてさようならというのはあまりにも。
 まだ西園寺にいる期間は僅かだが確かにあるのだ。
その間に説得するしかない。大丈夫だ。二人はお互いが嫌悪感によって、気まずい空気を作り出したのではないのだから。


113 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:18:09 ID:mp8fEZHO
 むしろ逆。簡単にはいかないだろうけれど、諦めるわけにはいかない。
 家族、家族と言ってきた自分だ。少しぐらいのことで、怯むことはしたくない。
「お兄ちゃん」
 亜美が下から悠太を伺っている。
 どうやら終わったのではなく、長い間湿らせていたので、瘡蓋になっていた部分が剥がれ僅かではあるが血が出たようだ。
「血」
「これぐらい、何でもないよ」
 とは言ったものの、亜美は気にしているのか、申し訳なさそうに謝ってくる。
しかし、手当てしてくれていた医者が謝る道理などない。
悠太は幾分力強く、大丈夫といったが亜美は困ったまま動かない。
 これがこの子のいいところだ。これほどまでに人をいたわれる心。美徳とすら言ってもかまわない。
「………舐めてもいい?」
「え?」
「小さい頃……お兄ちゃんが……やってくれたでしょ?」
 確かにやったけれど、でもそれは。本当に小さな頃で。
亜美が白石の家にやってきたときに見様見真似で料理をしようとして、包丁で手を切ったときのことだ。
「だめ………?」
 瞳を潤ませるしぐさは可愛らしいが。許していいものだろうか。
 傷口を見る。僅かに滲んだ血。
 この程度ならば、舐めるという行為もすぐに終わるはず。ならばせっかく悠太を気遣ってくれたのだ。断るのもなんだか悪い。
「少しだけだよ」
 自分で言ってから、亜美には見られないように顔を顰めた。
 少しなんて、どういう許可の仕方だ。普通に、いいよと言えばいいのに。
 でもそれは、桜のことが頭をよぎって敏感に反応してしまうからか。亜美からすれば舐めるという行為は治療の一種であるというのに。
 ぺろり。
 亜美が赤く染まった液体を舌ですくう。
 ほんのりと赤に染まった唇。
ぺろりぺろりと傷を舐めてくる。なんだか、いやらしい。
次第に舐めるという行為は吸うことへと変化していく。ちゅうちゅうと、妖しく。


114 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:18:43 ID:mp8fEZHO
 今度は、べっとりと唾液を乗せ、舌の腹全体で傷口を舐めた。
 これが治療か、とも思ったがそれ以上は考えることをやめた。
もし考えてしまえば、先にあるのは破滅しかない。これが治療であろうとなかろうと、亜美は治療だといっているのだから、その通りにさせてやろう。
 べとりと舐められた肌は、亜美の舌と唾液の橋を作る。今度はもう少し左へ。

 けれどそこには、傷はない。

「お兄ちゃん」
 はっとして、亜美を見るとそこには淫らに舌で肌を舐める女が一人。
「この傷、誰につけられたの」
 これは質問か、厳命か。それとも――確認か。
「誰って、ただ机にぶつけちゃったんだよ」
「そう」
 明らかに嘘とわかるのに、亜美は追及しない。ただただ、奉仕する。
もはや、愛撫といった方が適切か。
一歩近づいて、今度は悠太の背中に両手を回す。
「お兄ちゃん」
「な、何」
「この傷、誰につけられたの」
「だから、机に」
 さっきも言ったはずなのに。
これは信用していないとか、嘘を見破っているとかいうことじゃない。
もう嘘だと、わかっているのか。
 嫌な雰囲気が悠太を圧する。右足が下がる。
そんなわけないのに、亜美の力が悠太を絞めつけているようにすら感じる。
そして、背中に回された両手のうち、左手が悠太の股に入る。膨らみを、触る。愛しそうに、しっかりと。
 これ以上は。まずい。
 桜に続いて亜美とまで。するわけにはいかない、のに。
 亜美の力は万力のようだ。
「お兄ちゃん」
「な…何」
「この、傷。誰に、つけられたの」


115 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:20:18 ID:mp8fEZHO
 答えられない。でも何も言えないということは。
 ―――亜美が悠太の男根を服の上から掴む。
 亜美の顔が悠太を放さない。

 こっちを舐めたほうがいいかな。

 漆黒の瞳が告げる。もちろん亜美が直接言ったわけではないが、悠太の頭にはそう理解された。
そして、それを防ぐ方法は。答えろということ。
「……西園寺の人に」
「あの女に、でしょう」
「あの女って」
「桜」
 正解ではある。だがこの少女は、女は誰だ。何て淫靡な駆け引きを。駆け引き?いや、もうそんな言葉じゃ陳腐にすらなってしまうか。
 最後に傷口を舌先で舐めてから、離れた。
 もう夜の帳は落ちてきている。
 亜美の顔が見えない。
こんな時だからこそ、亜美の顔をしっかりと見ておきたかったのに。すでに凪いでいて風は跡形すらない。
 不穏な静寂。
「もう、帰ったほうがいい」
 堪えきれず、せき止められた濁流のように声を出した。
亜美は、動かない。
「お兄ちゃん」
 まだ何かあるのか。
「私が…ハンカチで、手当てしている間……何考えていたの」
 手当てしている間?
確か桜とのことをどうしようか考えていた時だ。でも、それを話して西園寺のことで亜美を不安にさせるわけにはいかない。
「別に、何も」
「…何考えていたの?」
「だから、何も―――」
「何、考えて、いた、の」
 いきなり亜美の顔が目の前に、在る。


116 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:21:16 ID:mp8fEZHO
離れたはずなのに、いつの間にか幽鬼のように。
なぜか瞳が、仄暗い。
まるで何かに憑かれているようだ。
 悠太は、怖くなった。
桜のことも、西園寺のことも、亜美のことも、自分の考えていたものとはまるで違う。
頭の中にあったイメージは虚像。すべてではないけれど、自分にあった像の何と脆いものか。
わかってはいる。この自分の中にある他人というものほど不確かなものはないのだということは。
 でも。でも。これはあまりに突然で。亜美ですら、長年一緒に過ごしてきたこの妹ですら自分の知らない一面があるのは。怖い。
蝉の鳴き声が聞こえる。
 いや―――しかし、よく考えてみれば。当たり前、か。
悠太だって亜美にすべてを曝け出しているわけではない。こんなことぐらいで過敏に反応するのは、今は仕方ないけれど、するものではない。
だって、僕らは家族、なのだから。

「―――殺してやる」

「―――え」
 亜美が僕を見る。穏やかな顔。寡黙だが優しい、いつもの少女。妹。
 でも先ほどの声は。幻聴か。
 二人以外、誰もいないのに。
 いないのに?
「行こう」
「どこに」
「いいから」
 亜美が悠太の手を引いていく。どこに行くつもりだろう。
 公園の出口に向かう。出口までは一直線だ。
遮るものは本来ならば何もない。いつもならば。
しかしなぜかそこには人影が一人。
街灯に照らされた場所よりも一歩下がった位置にある。だから誰がいるかはわからない。
 人影が照らされた円の部分へと入る。
姿がわかる。


117 桜の網 ◆nHQGfxNiTM sage 2007/09/28(金) 19:24:23 ID:mp8fEZHO
 亜美が止まった。次いで悠太も。二人と一人の距離は五メートル前後。間には何も。
 睨み付ける亜美の瞳はどれほどの想いが乗せられているか、悠太は知らない。知ってはいけない。
まず見えるのは、夜なのに持ち歩いているトレードマークの日傘。
ただにこりと優しく微笑んでいる。いつものようにドレスを身に纏って。ただもう少し、凛としていたほうが彼女らしくあるか。毅然としているのは彼女らしさ。
 だからあまりに可愛らしい顔で微笑む顔は、正直不気味といってしまってもいい。
「こんばんは」

 桜の口がにんまりと弧を描いた。

 ―――悠太は、思う。
 僕は間違っていたのだろうかと。
そんなはずはないのだ。
僕は、結果として家族を守った。妹を汚さないですんだ。
 ―――けれど、桜は。
 汚れないことを、望んでいただろうか。
 そんなこと。



 ―――考えることなんて、できなかった。

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最終更新:2007年10月21日 01:50
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