6 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:02:46 ID:xouxRRrb
ぴんぽんぱんぽーん。
『二年C組の来栖川 白兎(くるすがわ はくと)君、二年C組の来栖川 白兎君。
生徒会長がお呼びです。至急、生徒会長室に向かうように。
繰り返します。二年C組の来栖川 白兎君、二年C組の来栖川 白兎君。
お姉様がお呼びです。直ちに生徒会長室へ向かって下さい』
ぴんぽんぱん、
『・・・・・・はぁ』
ぽーーーーんん。
昼休み。
談笑と興奮、次の授業への僅かな憂鬱と倦怠の空気に包まれた、
私立加賀見(かがみ)高校の二年C組教室。
最後に謎の嘆息を残して終わった放送に、まさに来栖川 白兎その人である僕は伏せていた机から顔を上げる。
「・・・うわぁ」
と同時に周囲から穏やかではない視線が突き刺さるのを感じた。
放送で呼び出された当人をぐるりと取り囲む目、目、目。
クラス中の瞳という瞳が僕一点に集中している。
どれもこれも目蓋を半ばまで下げていて、持ち主の不機嫌なこと請け合いだ。
全員が早く行け、と促している。
流石にいたたまれなくなって無言で立ち上がると、一緒に移動した視線が背中や首筋を撫でるのが分かった。
「う」
蛇が這うみたいな気持ちの悪いぞくぞくが首筋から上がってくる。
進路上で必要最低限に僕を避けるクラスメイト達を背に廊下に出ると、
同じ目をした隣のクラスの生徒やたまたまここを通っていた先輩後輩に出迎えられた。
早足から駆け足へ。自然に速くなる足を意識して加速させ、僕は呼び出された場所へと急ぐ。
ことの原因、僕を呼び出した張本人である
姉さんの下へと。
7 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:03:41 ID:xouxRRrb
その部屋に入った時、初めに聞こえたのはカンッ、という甲高い音だった。
「あら。白兎、もう来てくれたのね。嬉しいわ。
山根も思ったより仕事が早いのね。あとで褒めておかなくちゃ」
赤いソファと精緻な彫刻が施された机と椅子に、何冊もの蔵書を飲み込んだ本棚。
加賀見高校に一つしかない生徒『会長』室で、僕を迎えた姉さんが柔らかく微笑む。
備え付けられた天窓から降り注ぐ光の中央に立つ姉さんを収めた視界の中、
その手首から先が霞んだかと思うと、もう一度カンッと音が鳴った。
「丁度この暇潰しにも飽きてきた頃だったの。
さっきから全然反応がなくてね。いい加減、物理的にクビにしてやろうか迷っていたところ」
言い終えてから、また音が響く。光を反射して輝く銀色の刃が視界を走った。
姉さんの投げたナイフで示された先、通常の教室に倍する広さを誇る生徒会長室の壁に、
ピンで縫い止められたみたいに磔になった人が見える。
死体の白線をなぞるように突き刺さった無数のナイフ。
そんな凶器の群に囲まれた、女性用の落ち着いた紫色のスーツに包まれた姿。
項垂れた状態で髪に隠された顔は見えないけど、どこか見覚えのある雰囲気の女性だ。
「三月(みつき)先生・・・?」
「そうね」
疑問の割合が多い声に、低く短く、姉さんが答える。
「正解よ白兎、見事にね。けれど感心しないわ。私の前に立って、まさか最初の言葉が他の女の名だなんて。
ましてやそれが、課題や罰を口実に貴方と二人きりになろうとしていた無能愚劣な担任の名前。
悲しいわね。たとえ騎士の剣(つるぎ)でも、きっとこうまで私の心を裂けはしない」
憂鬱そうに言いながらゆっくりと、指に刃を握った手が上がる。唸りに似た風切り音。
投擲されたナイフが銀光を引いて輝きながら宙を滑った。一瞬の後、これまでで一番高い音が鳴る。
「ほら見て頂戴。涙の海に揺られるあまり、自慢のナイフも外れてしまう」
僅かに刃先のブレた凶器は冷たい壁に拒絶され、三月先生の下に溜まった液体の中で水音に沈んだ。
「これは慰めが必要だわ」
その光景に気を取られて反応が遅れる。
近付いた声に振り向いた先、拗ねたような顔をした姉さんがいた。じっと僕を見上げる二つの瞳。
反射的に、硬くなった体が後ろへ下がろうとする。
それよりも早く回された両手が僕の背を撫で、抱き寄せられた胸を姉さんの額が擦った。
「ね、姉さん」
開いた口から、決して姉さんが名前を教えてくれない、だけど確かに匂う香水の香りが入って鼻腔を通る。
香水になって棘の抜けた上品な薔薇の香り。
漂ってくる姉さんのお気に入りの香気に包まれ、意識から遠のく抵抗を忘れかけたぎりぎりの所ではっとする。
慌てて視線を下に向けようと転じた視界は、だけど唇に添えられた細い指によって止められた。
「もう。白兎ったらいけない子。
何度も何度も私が注意をしているのに、いつも兎のような駆け足でそれを忘れてしまう」
背中に触れたままの姉さんの腕に込められる力が強くなり、
唇に別れを告げた指が五本に増えて首を撫で、僕の強張りを解きながら二人の高さを合わせる。
8 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:04:38 ID:xouxRRrb
「や・く・そ・く。
二人きりの時は、名前で呼んでくれなくてはイヤよ?」
薔薇にない甘さを含んだ吐息が耳に吹きかけられた。くすくすと笑う声が聞こえて、柔らかい拘束が解かれる。
離れた姿を追うと、大きくない歩幅で一歩だけ下がった姉さんが険のない目で僕を見詰めていた。
「さ、白兎。私の可愛く愛しい弟────────最初に私にかけるべき言葉はなあに?」
空間の中央に降る光を背にした姉さんが問う。
左右へと伸ばされた手に、肩にかかって背中まで流れる茶色の髪が揺れた。
童女のように無邪気な顔で僕を促す姉さんの声に怒りはない。
あくまでも無垢にこちらの返答を待つ姿が、僕の良心に似た何かを突いた。
「分かったよ・・・・・・有栖(ありす)」
「うふ」
最初から勝負にする気もなかった根競べがそれで終わり、軍配は姉さんの方に上がる。
何時だったか。もう何年も前に交わした、と言うよりも誓わされた約束。
決して忘れていたわけではないそれを口にした僕に、姉さんは花開く笑みで応えた。
「うふふふふ」
来栖川 有栖。僕より一つ年上の姉。私立加賀見高校三年生にして生徒会長。
僕の対となる、どこぞの作家好きの両親が付けた名前を持つ女性。
「ああ。幸せだわ、幸せだわ。何て甘美なのかしら。名前で呼び合う二人、まるで恋人のようよ。
どんなに上等な詩でもこうまで私の心は満たせない。白兎、貴方は本当に私を不思議の国に呼び込む案内人ね。
罪な子だわ。気が狂ってしまいそうよ。I am getting mad as a hatter!」
最後に高い鳥のような叫び。
気狂いを鳴き上げた姉さんが手を広げて踊り出し、喜びに合わせて動く体で薔薇の香りを撒いていく。
広くても閉ざされた生徒会長室。
振り撒かれる香気は密室の中で段々と濃く強く積み重なり、
僕には芳香の渦の中心で舞い踊る姉さんそのものが薔薇の花に感じられる。
背中までを覆う薄く色の抜けた茶色の長髪に、全体を赤くした加賀見高校の制服。
動作に合わせて揺れる胸の薔薇飾りと、舞に合わせてくるくるとスカートの上で曲線を描く茨を模した装飾。
レースでティアラの形を付けたヘッドドレスが左右に踊る。
その姿は、きっと一歩でも校舎の外に出れば奇異の目で見られるだろう。
薔薇に染めた衣装の奇抜と物言いの異様。下手をすれば官憲の世話になる可能性すらある。
なのに。狂気的でさえある姉さんのその姿は、何故だかひどく美しいものに見えた。
普通なら間違いなく指差される衣装に身を包んで、だけど姉さんは少しも物怖じしない。
畏れも遠慮も憚りもなく、ただ自分の思う様に振舞っている。
何も言えずに見守るだけの僕の前に存在する不思議な、不可侵の荘厳さ。
降り注ぐ光を浴びて、聳え立つ本棚の城壁を背にくるくると踊り狂う姉さん。
さながら女王のように誰も寄せ付けずステージを独占する姿に、ふと教室を出る時に浴びた視線を思い出す。
クラスメイトの目に光っていた嫉妬と羨望と、畏敬。
姉さんに呼ばれて行く僕へ向けた敵意に近い視線と、僕越しに姉さんを見る瞳に浮かぶ憧れと敬意。
姉さんが全生徒の頂点に立つ生徒会長、であると同時に生徒会長室なんて物を作れる権力を持った唯一の人物、
この私立加賀見高校の理事長を務める人物だからというだけでは絶対にないだろう。
学業、運動、芸術。姉さんの優秀さを示す功績は、校長室に無数のトロフィーや賞状として並んでいる。
形に残らない成果を上げた活動も数多い。
集団での行事や活動でも、リーダーとして多くの活躍を見せたと聞いている。
能力と人格と、容姿。人間の三要素を揃えた姉さんの影響力は必然に大きい。
僕と姉さんの周囲に限定しても、死んだ両親の保険金から始めて財産を築いたのもそうだし、
姉さんが中学生の時に買い上げたこの学校を数年で並以上の進学女子高にしたのも、
そこに特例として僕を入学させた上で周囲から反発を買わずに未だにお姉様と呼び慕われていることもそうだ。
通称『加賀見のアリス』、来栖川 有栖。
天才で、綺麗で、完璧で、欠点の無い────────なのに確かに何処かが壊れた、僕の姉さん。
9 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:06:25 ID:xouxRRrb
コンコン。
唐突に。
そんな姉さんのダンスが止められた。僕が閉めた扉にノックを二回。
二人目の誰かの訪れに、姉さんは彫像のように停止する。それで生徒会長室から音が消えた。
木製の隔たりを経た向こうにいる誰かが応答を待ちながら気配を探る沈黙の中、
姉さんの瞳だけがすっと僕の背後を向く。
「誰かしら?」
上げられていた手が下がる。同時に室内の気温が冷え込んだみたいに僕の肌が震えた。
頬の横を貫く姉さんの視線に阻まれて、振り向くことが出来ない。
「あ、あの・・・山根ですっ、お姉様」
返答に続いて、せめてもと凝らした耳がドアノブの回転音を捉えた。
姉さんの許可なく開かれた扉から来訪者の入る気配がして、内蔵を回されたような感覚が僕の中に広がっていく。
届かない背後へと向かわせていた瞳を前に戻すと、姉さんが薄く笑っているのが見えた。
まるでチェシャ猫のように。
「そ、そのぅ・・・・・・言いつけの通りにしましたので、ご報告に」
一度言葉が揺れて、視線が僕の背を這うのを感じた。
「弟さんを呼べばよろしかったんですよね・・・?」
暗くなった生徒会長室に自信のなさそうな質問が淡く木霊する。
溶け消えた声の後には、よく聞くと微かに乱れた息遣いが続いていた。
もしかするとあの放送を終えてから文字通りに駆けつけたのかもしれない。
機材の使用前後の手続きや、使い終わってからの礼もあったのだろう。
せめてもう少し早く、或いはゆっくりと片付けてから来てくれていれば。そう考えずにはいられなかった。
「そうね」
僕が三月先生の名前を呼んだ時と同じ、いやそれ以上に低くなった姉さんの声。
「その通りだわ。ご苦労だったわね、山根」
山根と呼ばれた人が労いの言葉に喜色ばむのが分かる。
「────────それで?」
「え?」
続く姉さんの言葉に強張るのも。
「それで、それがどうかしたのかしら?」
「え? お、お姉様・・・?」
彼女の困惑が伝わって来る。理由は理解出来た。おそらく、期待していたのだろう。
最初、僕がここに来た時に姉さんが口にした『ご褒美』とやらを。
姉さんも、それを期待した相手の働きを予想してそれらしいことを口にしたはずだ。
彼女の真剣さとは違う、きっと欠伸のような気軽さで。
10 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:07:37 ID:xouxRRrb
「分からないかしら。
それと貴女が今ここにいる、私と白兎との逢瀬を邪魔している理由に何の関連があるのかと訊ねているのよ」
「お、逢瀬・・・? いえあのっ、でもっ・・・・・・だって、お姉様が働き次第では褒めて下さるってさっき・・・!」
僕を挟んで言葉を交わす二人の雰囲気が変わっていく。
片方は意味の分からない状況に荒立ち、もう片方は全てを知っていながら凍りそうに冷たく。
深まった姉さんの笑みに、僕の周囲までが急速に熱を失うのを感じた。
「ああ。そう、そういうことね。なるほど」
頷いてから一歩、舞踏の間に開いた距離に姉さんが踏み出す。僕の方へと。
「これはとんだ期待外れだわ。
貴女はそこそこに優秀だからそれなりに私を理解していると思っていたけれど。どうやら買い被りだったようね」
足音はない。
床に敷かれた絨毯に受け止められる姉さんの重さは、血を吸ったような赤色の中に柔らかく沈んでいた。
耳が痛くなる沈黙を、音もなく姉さんは歩む。茨の飾りを揺らめかせ、薔薇の香りを引き連れて。
「なら教えて上げましょう」
その台詞と共に伸ばされた手を、今度は避けようとすることなく受け容れる。
擦れ合う制服の音が聞こえるくらいに静かだった。
頭一つ分以上も低い姉さんに抱き締められた僕は、下を向くべきか迷ってからそのまま抱き返す。
姉さんの顔は見えない。
「っ!?」
小さく、彼女が大きな驚きを呑む気配がした。
「ふふ。ちゃんと分かってくれているのね。有難う、白兎」
礼を言った姉さんが吐息と赤花の匂いを残して離れる。
「さ。これで理解出来たでしょう?」
恥じるでもなく、憚るでもなく。どころか誇らしげに弟と抱擁を交わして見せた姉さんが言った。
「私が何より優先する白兎と、白兎を誰より愛している私と。
それ以外に、私にとって重要な『何か誰か』がこの場にあると思って?」
多分、姿の見えない彼女と姉さんの身長にそれ程の差はないのだろうけど。
笑みを浮かべながら語り続ける姉さんは、何故か相手を見下ろしているように見えた。
「つまりは邪魔なの。貴女」
「そんっ・・・!?」
言いかけて、言い切れない言葉。叫ぼうとした彼女に、制服の内側に手を入れた姉さんがそれを取り出す。
木のグリップの中央を縦に走る溝。そこに鈍い金属の光を収めた、長方形に丸みを加えた物体。
「だからね? 早くここから出て行ってくれないかしら」
相手の言葉を断ち切った空間に響く鋭い音。
本来なら女子高生には似つかわしくない折り畳みナイフが、姉さんの腕の一振りでカチリと刃を噛み合せて固定した。
振り切られた腕が、見せ付けるような余韻を持ってゆっくりと上がる。
11 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:08:55 ID:xouxRRrb
「それとも」
姉さんが、笑った。
「 そ ん な に 私 に 殺 さ れ た い ? 」
銀光が走る。
「ひぃぃいいいいいいっっ!?」
顔の横を通った風と、硬質な音にドアノブの回転音。
その三つに遠ざかる悲鳴を足した四つが過ぎてから、また僕の周囲に静寂が戻った。
12 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:10:14 ID:xouxRRrb
「ごめんなさい、白兎。見苦しいモノを見せたわね」
山根、と呼ばれた彼女が去ってから。珍しく困ったみたいな顔をした姉さんが頭を下げた。
「別にいいよ、姉さ────────んぐ」
また、唇を押される。
「・・・・・・気にしないで、有栖」
「そうさせてもうらうわ」
要求に従って訂正すると、指と一緒に体も離れた。
「それにしても」
間合いを計るように姉さんが口を開く。
「あの娘があんなに使えなかったとは思わなかったわ。あとでしっかりと始末をしておかないと」
物理的にクビにすることではないだろう。おそらく。
「まあいいわ。この程度、私達の愛の前には障害になり得ない」
姉さんが軽く手を打ち鳴らす。
「さて。白兎、貴方を呼んだのは他でもないわ」
引き寄せられた視線が、そこだけ僕と同じ色をした瞳に絡め取られた。
「結局はあの山根もそうだったけれど、生徒会に思いの外使える人材が集まらなくてね。
朝から書類の整理に難儀してストレスが溜まってしまったわ。ストレスの解消には好きなことをするのが一番。
そう思って貴方を呼んだのよ」
細く、薔薇や茨の装飾に反して白い肌の腕が僕へと伸ばされる。
「おいで、白兎。貴方の大好きな赤く色付いた人参はここよ。
愛し合う二人が揃ってすることは、必然に当然にたった一つだわ」
誘われて巣穴から伸びた手が掴まれた。そのまま引っ張られ、危うく足を踏み外しそうになりながら歩み寄る。
「さあ、白兎。私の可愛らしく素敵な弟。
それでは十分に存分に────────私とイチャイチャしましょう?」
キーーーンコーーーーンカーーーーーンコーーーーーン。
キーーーンコーーーーンカーーーーーンコーーーーーンン。
予鈴が鳴った。午後の授業を控えた学び舎に鐘の音が隅々まで響き渡り、次の授業への準備を催促する。
教室移動を終えていない生徒の胸に早鐘を鳴らす警告は、生徒会長室にも容赦なく伝わる。
「・・・・・・残念だわ」
悔しげに姉さんが呟く。
「本当、いつだって神様は気が利かないものね。雑用を押し付ける意地悪な女達に、魔法の終わる十二時の鐘。
愛し合う運命にある二人の逢瀬には、いつも無粋な邪魔が入ってしまう」
興醒めだわ、と付け足してから僕を見上げた。
13 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:11:18 ID:xouxRRrb
「仕方がないわね。愛する弟の学業に支障をきたさせる訳にはいかないもの。
でも・・・・・・せめて口直しは欲しいわね」
つ、と唇が寄せられる。
「白兎。キスを、してくれないかしら?」
「ね・・・・・・有栖?」
流石にぎょっとする。そんな僕を見てくすくすと姉さんは声を立てた。
下を向いて、手で上品に口元を隠してから一頻り笑って顔を上げる。
「ごめんなさい。でも相変わらず恥ずかしがり屋なのね。ふふ。
可愛いけれど、男子たる者、女性の誘いは受けておくものよ?
女の方からこんなことを願うだなんて、本当は私も恥じているのだから」
言われて見ると、確かに姉さんの頬は薄く薔薇色に色付いていた。
姉さんの恥ずかしがっている姿なんて滅多に見ない。
「でも、やっぱり恥ずかしいよ、有栖」
とは言え、それとこれとは別の問題。
姉さんの頼みを断るのは気だけでなく血の気が引くが、姉さんと違ってすぐに応じられるほど僕は■■ていない。
「・・・・・・そう。うふふ、いいわ。今はその瞳だけで許して上げる。イケズな白兎も愛らしいもの」
幸い、姉さんは強くは求めずにいてくれた。
「でも」
そう思った僕の左胸。心臓の上に、手が当てられる。
「ねえ白兎。
あなたが胸に抱えたこの心臓(トケイ)は、一体いつになったら高鳴りを始めてくれるのかしら?」
「有栖・・・?」
どこか、これまでと響きの違う声。何かに突き動かされた、確かに絡め取られていた僕の視線が姉さんの瞳を通り抜けた。
「もう何年になるかしら。貴方が私をそう呼ぶように、私が貴方にそう呼ばせてから」
上げられた姉さんの手が、端から指を折っていく。
「一年? 二年? 三年・・・・・・? 思えば長いものね」
数えて五本。作った拳が解かれ、花開いた五指が僕の顔に添えられた。
「もうそれだけの間、私は白兎、貴方に焦がれていることになる。
いいえ。違うわね。本当はそれよりも、ずっとずっと昔から。
外を駆け回る貴方の姿を、窓辺から見詰めていたあの懐かしい過去から」
弱弱しい拘束に引かれて、誘われるままに姉さんの顔に近付いていく。
14 加賀見の校舎の有栖様 sage New! 2008/05/18(日) 19:12:25 ID:xouxRRrb
「いつになれば、貴方は私が貴方を想う程に私を想ってくれるのかしら?
そのために、私は何をすればいいのかしら?」
途中で片方の手が落とされた。軽快な金属音が響いて、姉さんの手にもう一度ナイフの輝きが握られる。
僕を覗き込む姉さんの首筋を、浅く刃が撫でた。
「私がここに赤い線を引けばいい? 或いは貴方の兵士となって、貴方に近付く者を皆殺しにすればいい?
それとも、あそこで寝ている女のトランプみたいに薄い胸を貫いて、
私の隅々までを林檎のように染めてしまえばいいのかしら?
そうすれば、貴方は私を、私と貴方だけで閉ざした鏡の国へ案内してくれる?」
カンッ、という甲高い音。虚空に幾筋かの傷を刻んだ刃が、いまだ磔になっている三月先生の頭上を刺し貫いた。
「ね、白兎。もしもそれが叶うのなら、私は本当に何だって出来てしまうのよ?
私が求めるのは女王を守る騎士ではなく、この身を貪ってくれる魔獣(ジャバウォック)なのだから。
焦らすのはいいけれど、あまり意地悪をして待たせ過ぎてはダメ。
熟れ過ぎた林檎は腐れるの。乙女の心はハンプティ・ダンプティのように繊細で脆いもの。
どうかそれだけは憶えていてね? たとえこの身が砕けようとも、私の愛は永遠だけど」
「有────────」
キーーーンコーーーーンカーーーーーンコーーーーーン。
鐘が鳴る。気付けば、五時限目の授業が始まる時間だった。
「・・・・・・戯言が過ぎたわね。
ごめんなさい、白兎。貴方を遅刻させてしまうことになったわ。私、駄目な姉ね」
呟くように零した姉さんが、僕に背を向ける。赤い色の絨毯の上。
しずしずと音もなく歩む制服の背が遠ざかった。微かな移り香だけが、僕の傍に漂う。
「もう行きなさい。時間にだらしのない教師が担当なら、授業の開始には間に合うこともあるでしょう。
私も後片付けを済ませたら行くとするわ」
「あ・・・・・・うん」
脳裏に、姉さんに憧れているクラスメイト達の目が浮かぶ。
確かに、姉さんに呼ばれただけでなく昼休みが終わっても一緒にいたとなったら問題かもしれない。
「それじゃあ姉さん・・・・・・また後で」
ちらりとこっちを見た姉さんに手を振ってから扉へ向かう。訂正を求める声はなかった。
ドアノブを回し、僕の身長より高い重厚な出入り口を開け放つ。
体の向きを入れ替えて閉める最中に中を見ると、姉さんは笑顔で手を振ってくれていた。
扉が閉まる。
「ふう」
隔てられた向こう側に一つ息を吐いて、早足で歩き出す。背にした生徒会長室が見えなくなった頃、聞きなれた担任の声が廊下に響いた気がした。
最終更新:2008年05月18日 19:16