監禁トイレ最終話

119 監禁トイレ最終話 sage 2008/05/23(金) 14:52:31 ID:gaKr2Xoy
呆気なかった。
リビングにていつもと同じ椅子で、いつものように、両親は向かい合って座っていた。
私達はその背後にそれぞれ回り込み、ロープを首にかける。体重をかけロープを一気に下へ引っ張る。
ひゅっ、と息を呑む音が聞こえた。ロープを通じて手に届く、大物の手応え。
暴れる義父の背が衝立になって私からは何も見えない。が、この男からは母が全く同じ構図で
苦しんでいる姿が見えるはずだ。彼はロープを掴み、必死に後ろを振り向こうとしていた。
ようやくこちらを向いた義父からは、困惑している様が面白いほどに読み取れる。
『何が起きてる!?』『どうして!?』『何故!?』
そんな言葉を今にも喋り出しそうな瞳を見つめ、私は心中で呟いた。

―――馬鹿ね、前を見ればすぐに分かるのに。すがたかたちは違えど同じ状態のお母さんが見えるわよ?
合わせ鏡みたいにね。罪状は……分かるでしょ?

瞳が激しく動き回り、眼球内をあちこち飛びまわる。
「かっ……」
青黒く肥大した舌が口からぬらりと現れる。
あはは、カメレオンだ。カメレオンがもがいてる。

しね。
しね。
くたばれ。
くたばれ。
私から彼を奪った罪を、思い知れ。

ロープを通して伝わってきていた力が消失した。念のため、無抵抗な肉にさらにロープを食い込ませる。
目の前の半身も仕事を終えたようだ。
二匹のカメレオンをそのままにキッチンにあったワインを開封し、中身をグラスに注ぐ。
それを差し出し、乾杯しよう、と声をかけた。彼女は礼も言わずにそれを受け取った。

―――乾杯の音頭は?互いの健闘を祈って?

―――己の勝利を祈ってで良いんじゃない?

―――じゃあ乾杯。

―――乾杯。

さぁ、一つ終わった。そしていよいよ始まる。

ワインを一気に流し込む目の前の私を見ながら、始まりの合図を待った。
グラスの砕ける、始まりの合図を。









120 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 14:53:58 ID:gaKr2Xoy
「そっか、薬、吸わなかったんですね」
彼女は気にした様子もなく僕に言った。
その間に僕の指はボタンを押していた。もうどうなろうと構わない。ただここから早く出たかった。
逃げ出したかった。
スピーカーに向かって叫ぶ。見つかってしまった時点で、無意味な事くらい理解していた。でも誰かに
伝えずには、叫ばずにはいられなかったのだ。
「助けてください!人が、死んで……!!」
「無駄ですよ。それ、壊れてますから、いえ、正確には壊しましたから」
スピーカーからは何の応答も無かった。たった一つの脱出経路は、本当に呆気なく消失した。
「何で、殺したんだよ」
もう動くことのない、義妹の体を支えて、僕は萌姉ちゃんを睨みつけた。
「そんなに悲しい?蕾が死んだのが、そんなに悲しい?」
彼女は嬉しそうに問い掛ける。
そして後ろ手でドアを閉め、回転式のロックをかけようとした。
だが、ドアにロックはかからなかった。
ドアが第三者の手によって開かれたからだ。ロックバーはむなしく一回転し、振り子運動を続ける。
それは番との別れを惜しんで、手を振っているようにも見えた。

「両手を上げろ」

姉さんが―――摩季姉さんが、萌姉ちゃんの背中に右手を突きつけて立っていた。
「ねえ……さん?」
思わず、口をついて出た。
摩季姉さんは僕の方を見て、少しだけ表情を緩めた。
「無事で良かった……達哉、早くその娘から離れて」
それだけ言って、また萌姉ちゃんの後頭部に視線を戻した。萌姉ちゃんはナイフを捨て、素直に
両手を上げる。
「違う、違うんだ。姉さん、蕾が、死んでるんだ。死んでるんだよ、コイツ……」
もうそこには蕾がいないのに、空っぽのはずの体はやたらと重かった。
「そう、殺したのね……お父さんやお義母さんと一緒に」
「親父も、花苗さん、も?」
信じないようにしていたのに。蕾の言葉は紛れもない真実だったのだ。
「二人は、リビングで首を絞められていた。飲みかけのワインが入ったグラスが二つ。片方は、
割れて床に落ちていた。三人が殺された時間はほぼ同時期のはず」
じゃあ…最初から…?この監禁が始まった時にはもう、蕾は死んでいた?
「薬か、それとも単純に不意をついて暴力を振るったか。とにかく、この人は、はじめから一人だった……」
皆、僕の知らない所で死んでいく。また吐き気が込み上げてきた。
僕からは見えないが、姉さんの右手の先には何か武器が握られているらしい。



121 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 14:55:41 ID:gaKr2Xoy
ねじこむように右手を押しつけられた萌姉ちゃんの体は少し震えはしたものの、彼女は相変わらず
平然としていた。緊迫したこの状況にも、妹の死にも、何も感じていないみたいに。
「ねえ、そんなに悲しいんですか?死んじゃったのがそんなに悲しかったですか?」
能面が僕に囁く。

何かがおかしい。
ここにきて僕はようやく違和感を覚えた。
「蕾が死んだ事が悲しいのなら、気にする必要はないですよ」

何かがおかしい。
萌姉ちゃんの口調じゃない。
「義兄さん、私は生きてますから」
「……嘘だ、あり得ない……。姉ちゃん、頼むから悪ふざけはやめてくれ」
彼女は、まだこのなりすましを続行させるつもりのようだった。よく見れば姉ちゃんの姿は……。
スニーカー。
ジーンズ。
厚手のパーカー。
そして髪を一つに束ねた、ポニーテール。蕾の格好だ。わざわざ着替えたのか。
彼女は笑みを零し、口を開く。
「それともたっくんは、私に生きていてほしい?」

「もう良い」

摩季姉さんの静かな声が、それでも圧倒的に響き渡る。
「あなたがどっちか、なんて興味は無いの。早く達哉を返して。手錠の鍵はどこ?」
「ああ……挨拶が遅れたわ、お久し振りです、摩季さん。鍵はパーカーの右ポケットに」
姉さんが右手の何かを左手に移しかえ、右手をパーカーのポケットに突っ込む。
「ねえ、摩季さん。私、本当はあなたも殺そうと思ってたの」
「……」
萌姉ちゃんがニヤニヤとどこか破綻した笑顔で話しかけている。
摩季姉さんは無言だ。
「だって、あなたも義兄さんのことが好きでしょう?彼の前ではずっと、“お姉さん”の顔でいようと
努力してたみたいだけど、私には分かってましたよ」
『違う』
僕も、摩季姉さんも同じ言葉を発した。
当然だ。僕達は家族で、間に流れる愛情は親愛しかありえない。
それなのに。
それなのに、どうしてそんな顔するんだよ。どうして僕に申し訳なさそうな顔するんだよ、姉さん。
姉さんは目当ての物を見つけたらしい。右手をポケットから抜くと、僕に小さな金属片を投げてよこした。
手錠の鍵だ。受け取るとすぐに鍵を差し込み、捻る。
散々僕を苦しめた銀色のブレスレットが、獲物を解放した。
「だってね……。あなたが達哉に近付く度に、臭うのよ、それはもうひどい悪臭が。腐った雌のにおい。
発情した女のにおい。私ね……」



122 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 14:57:16 ID:gaKr2Xoy
いつの間にか、僕の目に映る萌姉ちゃんの姿が少しだけ大きくなっていた。たった一歩分の、拡大化。
けれどその一歩が、彼女を脅かす凶器の威力を完璧に打ち消した。
彼女と摩季姉さんの間の空白が、そのまま僕の視界になる。だからようやく姉さんの持っていたモノの
正体が分かった。

摩季姉さんが握っていたのは、スタンガン。
触れれば絶大な効果をもたらすそれは、裏を返せばほんの少し距離を置くだけで、手を塞ぐだけの―――――

「姉さんッ!!」

お荷物と化す。
走り出す。間に合ってくれ。間に合えよ、頼むから!!
摩季姉さんが左手を突き出すも、萌姉ちゃんはとっくにその場から移動していた。
しかも移動した先は摩季姉さんの目の前。左手はがっちりと捕らえられ、無防備な姉さんには
最悪の結末しか残っていなかった。
「私、あなたのその臭い。大嫌いだったの」
張り詰めた布を切り裂く音。その背後に混じり入る、柔肉が歪み、裂ける音。
血が姉さんの足を伝って、床に色を添える。
受け身を取る事もなく、摩季姉さんの体は床に倒れた。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!
ずっと我慢してたから見逃してあげてたのに!!死ね!死ねッ!!さっさと死ね!!達哉と私の
邪魔する奴なんてみんな死ねッ!!」
僕に羽交締めにされて尚、萌姉ちゃんは暴れ回る。早く、姉さんを助けなくてはならない。こんな
イカれた奴に姉さんを殺させてたまるものか。
「義兄さん、邪魔、しないでください」
彼女はいとも簡単に僕を振り払った。壁際まで吹っ飛ばされ、蕾の隣に倒れ込む。
萌姉ちゃんが床に落ちたナイフを拾い、僕に突き付ける。
「さて、続きです。義兄さんは蕾と萌と、どっちに死んで欲しいんですか?」
「ふざけるなよ、もう、頼むからやめてくれよ……。そんなのどっちだって構わない!!姉さんを
助けなきゃ……」
血と呻き声が床を這う。まだ姉さんは生きている。例え虫の息だろうと、生きている。
「それは困ります。どっちか選んでください」
「萌姉ちゃん、本当にやめてくれ……蕾は死んでるんだよ、もう選ぶとか、そんな話はとっくに
終わってるんだよ!!」



123 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 14:58:43 ID:gaKr2Xoy
「だから死んでないって言ってるでしょう……?」
彼女の顔が、まるで、まるっきり蕾にしか見えない。
「そうですね……。これなら納得してもらえるでしょうか。昔、私が木登りをして降りられなくなった時、
義兄さんは私を助けてくれましたよね?アレは確か私が姉さんと喧嘩して家を飛び出した時でしたっけ。
誰にも分からない所にいたはずなのに、義兄さんだけが私を見つけて、助けてくれました。
義兄さんが受け止めてくれるって分かっていたから、私は迷いなく木から飛び下りる事が出来たんです」
それは誰にも語った事のない、義妹との思い出だ。

「じゃあ……死んだのは……萌姉ちゃ、ん?」
「私が帰り道で苛められてた時、たっくん、助けてくれたよね?嬉しかった……。そのあと、誰にも
言わないでくれた事も。あの時から私はたっくんさえいてくれれば何だって出来るって思えるように
なったんだよ?」
それは二人だけの秘密だった、義姉との思い出だ。

「義兄さんが風邪を引いた時、うなされながらも私の名前を呼んでくれた事。それを指摘した時の
恥ずかしそうな顔、今でも忘れられません」
義妹との。

「たっくんとテスト勉強した時、懐かしいな。あの時、私の教えた教科の成績だけが良かったんだよねぇ……」
義姉との。

互いの記憶が入り交じる。記憶と共に、表情も言動もその持ち主のものへと移り変わる。
「萌姉ちゃん……?」
「なぁに?」
「蕾……?」
「何ですか、義兄さん?」

「本物はどっち……?」

混乱につぐ混乱の中でようやく発せた疑問に、“彼女”は答えたのだ。

「どっちがいい?」

やっぱり、澄みきった瞳で。









124 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 15:00:33 ID:gaKr2Xoy
視界はひたすら一色の朱に、しかし流動的な赤に染められていた。下腹部に焼きゴテでも当てられたような、
灼熱の痛みが渦巻いている。股間を、自分の女としての象徴を蹴られたのだ。
あの女の履くスニーカー、その先端に付けられた小さなカッターの刃に「女性」を根こそぎ奪われた。

何故、スタンガンを選んだ。
躊躇すべきではなかった。相手は父も、母も、妹も殺した紛う事なき殺人犯だ。
刑事としての理念がそうさせたのかもしれない。
まだ家族と思い込んでいた妄念がそうさせたのかもしれない。
迷いなど捨て、打ち抜いておけば良かったのだ。今度こそ、自分が羽化する機会は永遠に失われた。
鎖は己より遥かに柔いロープに絞められ、千切れたのだ。気付かず、殻に篭り続けた結果が、これだ。
後悔が身体を冷まし、精神を覚ましていく。五感に纏わりついていた霧が晴れていく。
それで気付いた。
自分の血液とは別の、ある種の生臭さ。まぐわいの匂い。一方は心地よく、もう一方は嫌悪を交えて
鼻孔をつく。目の前には、朱と白が渦巻く粘液。達哉が犯され、侵され、冒された事の証。
(痛い……)
声にならない叫びが、体を動かす。全身をまさぐり、指が鉄塊に触れる時を待つ。
どうして私は駄目で、どうして彼女は良くて、どうして私は許されず、どうして彼女は赦されて―――
彼女の熱にあてられてか、ようやく触れた鉄塊はほの暖かかった。
彼女が達哉に近付いている。また犯そうとしている。達哉が食べられる。存在ごと食いつくされてしまう。
助けなきゃ。
食い尽くされる前に。
彼女に従属されてしまう前に。
目の前の達哉も、彼女の中の達哉も、解放してあげなければ。
(達哉から)
ホルダーから引き抜いた拳銃を掲げ、震える指で安全装置を外す。
トリガーを引いた。
「はなれて」
視界の隅で、あのマーブル模様の水溜まりが彼女の血に飲み込まれていった。









125 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 15:02:10 ID:gaKr2Xoy
―――ああ、意外と軽い音なんだな。
漠然とそう思った。薬莢の弾ける音を脳が認識した次の瞬間、僕の耳は何らかのフィルターでも
かかったように、聴力を失った。例え軽くても、強大で凶暴な音だったのだろう。
音量だけでなく、物理的な破壊力も。
もっとも、耳に襲いかかってきた突然の襲撃者が、発砲音だと分かったのは一発目のあと、姉さんの
手に握られた拳銃を見たあとのことだ。
僕へと手を伸ばしていた“彼女”が、ふらついた。
「あ……?」
多分、本人も自分の下腹部を見るまでは、分かっていなかったに違いない。銃弾が埋め込まれた点を
中心にして、Tシャツが黒ずんでいく。
「あ、あ、あ、だめ。待って。駄目。達哉が出ていっちゃう。せっかくもらった、のに、達哉が
出ていっちゃう。待って。行かないで」
多分、この監禁が始まって初めてだ。
こんなにも憔悴し、生半可なものではない苦悶を浮かべている彼女の姿は。彼女は命以外の何かを、
必死にとどめようとしていた。傷口を両手で押さえ、待って、行かないで、と叫ぶ。
しかし、その叫びすらも許されなかった。押さえつけた両手の上から、さらに何度も銃弾が撃ち込まれた。
指が千切れ、腹は抉られ、鮮血が散る。
「だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめだめ
いかないでいかないでいかないでいかないでいかないでおねがいだから、わ、たし、から、にげ、な、」
銃声の嵐の中で泣き叫ぶ彼女の声だけは、何故かはっきりと聞こえていた。
拳銃はやがて弾を全て吐き出し、彼女の下腹部は肉も骨も皮もぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、
床には真っ赤なスープが広がっていた。
「いかない、で……」
摩季姉さんの血も、彼女自身の血も混じり合った床に、倒れ込む。そして動かなくなった。
摩季姉さんはもう標的のいない、無人の空間に向けて、トリガーを引き続けている。
ぼんやりとだが、がちっ、がちっ、と撃鉄の音が耳に飛び込んできた。
「姉さん……もう、良い。終わったから」
僕が声をかけると、顔に感情が戻ってきた。ゆっくりと焦点を合わせ“彼女”を見つめた後、指を
一本ずつ拳銃から引き剥がし、床に捨てる。
そして摩季姉さんは思い出したように、
「いたい……」
と呟いた。
「いたい……いたい。いたいよ、たつやぁ……」
姉さんは泣いていた。涙が血溜まりの中に、吸い込まれていく。



126 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 15:03:52 ID:gaKr2Xoy
僕も泣いていた。
姉さんの姿が悲しかったのか、それとも結局なにも出来ず家族を失い、傷つけた自分が
憎らしかったのか、それともここまできても、身の安全を確保できたことに安堵したからなのか、
自分でも把握出来ない。
「今、行くから。姉さん」
立ち上がり、摩季姉さんへ足を踏み出す。

「いかないで」
足を掴まれた。
彼女が、身体を引きずって僕の足下まで移動していた。もう両の手合わせて、五本しかない指が、
僕の足にすがりつく。
―――まだ、生きて……
“彼女”の視線すらちぐはぐな顔が、僕を見上げていた。床を這い、僕の足にしがみついて、哀願する。
「いかないで、おねがいだからいかないで」体が、動かない。
「たつやぁ、痛いよ……お姉ちゃん、いたくてたまらないよ」
彼女の指が、食い込む。姉さんが泣いている。
「わたしのことだけみて」
音が、聞こえる。
「たつや、たつや、はやく」
サイレン音。
「ねえ、どっちにでもなってあげる。すきなほうになってあげるから、いかな、い、で」
徐々に近付くパトカーのサイレン音の中、彼女の瞳孔が広がって――――






事件から一週間が経った。僕は病室の天井を見てぼけっとしていた。事件の余波を考えての事だろう、
広い個室をあてがわれた。他人から根掘り葉掘り聞かれる事が無いのは確かにありがたい。
健康状態は良好。
精神状態も良好……だと思う。
医者にはしばらく様子を見た方が良い、と言われた。締め切られたカーテンを少しだけ捲る。
病院の外はカメラマンや記者でごった返している。
「退院時はあの中を通るのか……」
考えるだけでうんざりだ。

―――コンコン。

「どうぞ」
声をかけるとドアが音も無く横に滑る。
二人の刑事がそこにいた。
「角倉さん、その後具合は如何ですか?」
親しげに話しかけてくるのは、僕を保護してくれた初老の刑事。
「僕は平気ですよ。病院の方々には気を使わせすぎて恐縮してるくらいですから」
「まあゆっくりしてください。誰の目から見ても酷い事件でしたから、ね……」
こういう状況に慣れていないのか、その刑事が作る真面目な顔は、少しぎこちない感じがした。
普通、刑事って逆だろうに。
「正直な所あんまり実感無いんですよ。あそこで何があって、何を見て、何を聞いたか、全部
思い出せるんですけどね。それが今の僕と……その、結び付かない、というか……」



127 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 15:05:19 ID:gaKr2Xoy
「出来る事なら忘れた方が良いのかもしれませんな……。ただこんな会話をしてなんですがね、
一つはっきりした事があるんですよ」

「“彼女”は『角倉 萌』だったのか、『角倉 蕾』だったのか、なんですがね……」

―――ああ、やっぱり本題はその話か。

何となく予想はついていた。
あの二人は、世間一般の双子のイメージからご多分に漏れず、本当に良く似ていた。
しかしいくら双子でも全てが同じという訳ではない。分かりやすいところで指紋などがその例だ。
形こそ似通っていても、同一の指紋を持つ事は不可能だ。
トイレから出てしまえば、“彼女”の正体はあっという間に白日の下にさらされる。
刑事が僕に近付く。煙草の苦い匂いが鼻に纏わりつく。
「“彼女”の名前は―――――――」



「いぃやあ゛あ゛ああああぁぁぁぁッ!!」



もうとっくに慣れてしまった悲鳴が轟く。刑事二人は驚いていた。
「すいません、ちょっと失礼します」
僕はスリッパに足を差し入れると早足でドアへと向かう。
「あ、あの、今の」
「……姉さんなんです。ここで待っててもらえませんか?」
今の姉さんを見せるのは、お互いの為にも良くないだろう。返事を待たずに隣の病室へと向かう。

「い゛やぁああッ!!だづや゛ッ!!だづや゛ぁッ!!」
ドアの先では姉さんが吠えていた。
目は真っ赤で、焦点は揺らいでいて、鼻水と涎を垂らし、唾を飛ばし、喘ぐように吠えていた。
暴れる体を看護師が三人がかりで押さえ付けている。
「姉さん」
僕が呼び掛けると、姉さんはぴたりと動きを止め、母親を探す迷子のように僕へと手を伸ばす。
「たつや、たつやぁ……お姉ちゃんのところに来て」
姉さんに近付くと指を絡め合う。姉さんは僕の胸に頬を擦りつける。鼻骨と胸骨が擦れて少し痛い。
「どこに行ってたの……離れないで。たつやがいないからお姉ちゃん、恐い夢を見たわ」
「ごめんね、姉さん。……少し眠ろう?手を握っていれば恐い夢なんて見ないよ」
姉さんの頭を撫でながら、話しかける。姉さんは僕を見上げ、
「うん……。でももう少しこのまま」
そう言って胸に顔を埋めた。
看護師に目配せをして、錠剤を受け取る。
「姉さん、薬飲もうか。早く良くならないと」
姉さんは素直に従い、錠剤を飲む。看護師はそれを確認すると静かに部屋を出ていった。



128 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 15:07:11 ID:gaKr2Xoy
あの日を境に、姉さんは女としての部分を失い、家族を失い、姉としての自分も失った。
「もう達哉しか残っていないの」
目覚めてからの姉さんは、そればかり言う。

―――“彼女”は『角倉 萌』だったのか、『角倉 蕾』だったのか―――

壊れた姉さんを抱き締めながら、刑事の言葉を思いだす。
『すきなほうになってあげる』
萌姉ちゃんの記憶を持っていて、蕾の記憶も持っていた“彼女”はそう言った。
どっちにもなれるからどっちでもない“彼女”。
姉さんが寝たら、“彼女”の正体を聞く事になるはずだ。でも聞いても何も変わらない。
どこからどこまでが萌姉ちゃんとの思い出で、何から何までが蕾との記憶だったのか、今の僕には
分からないのだから。まるで、ピース一つ一つが純白の正方形のパズルでも相手にしているみたいだ。
どんなに組み上げても、正解は分からない。どんな風にも組み上げられるけれど、答えは分からない。
何故、“彼女”はあんな事件を起こしたのか。何故両親を殺し、自分の片割れを殺し、双子を演じたのか。
もしかしたら“彼女”は、「本当の自分」を僕に選んで……いや、見つけて欲しかったんじゃないだろうか。

ずっと騙し続けていたけれど、原初の自分の姿に気付いてほしくなってしまったんじゃないだろうか。
―――角倉達哉との思い出を作り上げてきたのは全部、自分なんだ―――
そんな自己主張のつもりだったのかもしれない。

結局答えは分からなかったし、答える義理も無かった。今でも責任感は感じていない。
ただ“彼女”を見つけてあげられなかった事に、少しだけ無力感は感じていた。
僕が“彼女”から逃げさえしなければ、こんな事は起きなかったのだろうか?
全てが狂言だったのか真実だったのか、“彼女”が死んでしまったので今となっては分からないけれど。

「誰もいない場所で、ずっと、ずっと二人でいれたらいいのに……」
囁き声が僕の思考を断ち切った。
「姉さん……?」
返事は返ってこなかった。規則正しい、深い呼吸が聞こえる。
「おやすみ、姉さん」
姉さんに布団をかけ、静かにドアを閉めた。
それじゃあそろそろ聞きにいこう、“彼女”の名前を。“彼女”の正体を。自分の病室へと足を運ぶ。



129 名無しさん@ピンキー sage 2008/05/23(金) 15:09:28 ID:gaKr2Xoy
いつもよりスリッパが重い。それでも、歩く。
あの日、姉さんは僕以外の全てを失った。
僕は、姉さんすらも失った。




あの日以前の、何も知らなかった頃の僕は、まだあのトイレに監禁されている。
そして、永遠に解放される事はない。



【エピローグ】
深夜。
飲み物を切らしたので、近くのコンビニに何か買いに行く事にした。
ダウンを羽織り、隣人を起こさぬよう静かにドアを閉める。前のアパートとあまり変わらない、
古臭いアパートだ。家賃もほとんど変わらない。
週刊誌の記者達が連日詰めかけるのに辟易して引っ越したのだが、正解だったようだ。
待っていたのは以前と変わらない、穏やかな焼き増しの日々。
変わったのは、未だ回復の見込みのない姉さんの見舞いという行為が、日常に付け加えられた事くらい。
回復した後には何らかの制裁が加えられる事を考えると、姉さんにとっては今のままの方が
良いんじゃないかとさえ思ってしまうのだけれど。

コンビニまでは以前より少し歩く。この時間でも大分暖かくなってきた。
このダウンももう少しすれば必要なくなるだろう。
突き当たりを右に曲がり、コンビニから伸びる、蛍光灯の光を確認した。

何かが、

僕の口を、

塞いだ。

振りほどけない。もがく端から力が抜けていく。

「ねぇ、達哉?二人っきりになれるとっても素敵な場所、見つけたの……。……行こう?」

薄れゆく意識の中、耳元で姉さんが囁いた。




《END》LESS……

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最終更新:2008年05月25日 20:41
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