帰郷の夜

353 帰郷の夜 sage 2008/06/03(火) 02:15:33 ID:l/Qm1Ihy
父が死んだ。

その報せを聞いたのは、私が定刻に起床し、身支度を整え、いざ会社へ、と安アパートのドアを
開けたときのことだった。
「お父さん、亡くなったわ」
電話で報せてきたのは、会話するのも、実に八年ぶりとなる妹の与利子(よりこ)である。
細かいことはそちらに着いてから聞く、と言い置き、旅行鞄に喪服一式、着替えと思い付く限りの
必要品を詰め込み、会社に休暇願いの電話を入れた。
そして今、私は車窓から風景を眺めながら、故郷へと向かっている途中なのだ。
私の田舎は、関東にありながら交通の便が悪く、非常に時間がかかる。何せ、一時間に一本、
電車が通るか通らないかの過疎路線である、アパートを出てきたのは朝方であったのに、現在、
時刻は既に正午を回っていた。
窓の外で緩やかに流れる風景が、私に上京時の記憶を思い起こさせる。
上京して八年。
帰郷するのは今回が初めての事だ。
よりによって、最初の帰郷が父の死によるものになるとは、思いも寄らなかった。
そもそも、何故、私が八年もの間、故郷の土を踏まなかったのかといえば、それは父の言葉が
端を発するものであったからなのだが。
電車が目的地に到着した。線路は一本、改札口も駅員の人影もない。八年前と何も変わっていない。

「お前は、俺が帰って良いと言うまで、絶対に帰ってきちゃあならねぇ」
当時、このプラットホームで父が私に言った言葉だ。
「いいか、絶対にだ。電話も俺からする。勝手に帰ってくるんじゃねえぞ」
そう言って、父は私の手を掴み、数秒、握り締めたあと、急かすようにして電車に私を押し込んだ。

駅を出ると、古ぼけた見慣れぬ車が一台止まっている。
すぐそばに一人の女性が、ひっそりと佇んでいた。
八年の年を経ても、この顔立ちは忘れない。だが八年前とは、全身から滲み出る“女性の香り”の
濃度が圧倒的に違っていた。確か、今年で二十三だったか、三十路目前の私ですら、目が眩むほどの
妖艶さは、とても二十年そこらで蓄積できるものではないように思えた。
「お久し振りですね、兄さん」
妹の与利子が、私を迎えにきていた。

 ※  ※  ※  ※  ※  

あれは上京して二年ほど経った頃であったか。
電話がかかってきた。出てみれば、父であった。
『お前、女はできたか』
上京して以来、父とは定期的に連絡を取っていたのだが、彼の第一声は必ずそれだった。



354 帰郷の夜 sage 2008/06/03(火) 02:17:03 ID:l/Qm1Ihy
当時、私も交際していた女性がおり、「いる」と告げると、殊の外、喜び、「結婚はどうするんだ」
「相手のご両親に挨拶はしたのか」などと、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
そこまで考えていないよ、と私が答えると、
『早く結婚してしまえ。お前が良いと思ったなら、俺は何も言わん』
と父は言った。
それから数か月のちに、父との電話で、その女性とは縁無く別れた事を報告すると、父はとても落胆していた。
『そうか。そうか』
あの瞬間、父は急激に老いた。私の言葉が、彼の活力を奪ってしまったのだ。
『良いと思ったら手放すなよ』
縋るような声を私に伝えて、電話は切れた。

「今朝方、私がお父さんを起こしにいったら、亡くなっていたの」
私の故郷は、駅から少し遠い。三年前に買ったらしい中古車を運転し、妹が話し始める。
いつから具合が悪かったのだ、と私が聞くと、
「さあ。頑固者でしたから、お父さん。ずっと具合が悪いのを隠してきたんじゃないかしら」
苦笑気味に妹が答える。
確かに、父は頑固な人間だった。それは、これまで私に言い続けてきた言葉からも、良く分かる。
「喪主は兄さんですから。疲れているところ申し訳ないのですけれど、よろしくお願いしますね」
もしかしたら、妹は父の死に、ある種の解放感を感じているのかもしれない。私と妹を切り離し、
ずっと閉じ込め続けてきた父を、憎悪しているのか。妹の口は、今にも「ああ、せいせいした」
と喋りだしそうで、私は何も言えなかった。
私とて、本人の言いつけではあるものの、父を八年間、放っておいたのだ。妹に、悲しむことを
強制するような立場ではない。
木々に囲まれた細い道路を走り続けること、二十分。地面は、舗装された平らな道から、砂利道へと
移り変わる。急な坂を下ると、広大な田畑の中に、ちらほらと建ち並ぶ家々が見える。
私の故郷だ。
帰ってきたんだな、と私が呟くと、
「そうですね、おかえりなさい、兄さん」
と妹が答えた。
我が家に着くと、真っ先に父の顔を見にいった。桐の箱の中で、眠る父にただいま帰りました、と声をかける。
「通夜まで一時間程、時間もありますし、何かお作りしましょうか」
妹が尋ねてくる。言われてみれば、私は朝から何も食べていなかったので、何か簡単なものを、と頼んだ。
背後で妹が台所へと向かう足音を聞きながら、私は父の顔を見つめ続けていた。



355 帰郷の夜 sage 2008/06/03(火) 02:18:33 ID:l/Qm1Ihy
父の死に顔は、あまり安らかなものではなかった。少なくとも、私にはそう見えた。
『なんで帰ってきたんだ』
そんな言葉を今にも口にしそうな、苦々しい表情だった。
母は、私が五歳の頃に病で伏せた。逝ってしまう直前までは、あんなにもやつれた顔であったのに、
死に顔は綺麗だった。きっと母は後悔や未練を残しつつも、納得して、己で区切りをつけて逝ったのだ。
だが、父は違うのかもしれない。息を引き取る瞬間まで、一切の妥協を許さなかったのかもしれない。
ならば、彼をそこまで縛り付けた未練とは、何であったのか。
おそらく、私、そして妹の与利子のことであったのだろう。

「お前は、俺みたいになっちゃいけねえ。俺は逃げられなかった。今だって幸せだが、選ぶことを
許されなかった」
父は、私によくそう言った。
「もっと外を見てこい。ここにとどまっちゃいけねえ。自分の考えた通りに動け」
幼い頃から、ずっと言われ続けてきた。
私自身は、この村に対してそれなりに愛着も持っていたし、ここに根付く風習にも、納得はしていた。
けれど、自分も風習に則って動くとなると 、話は別だ。いくら世間と隔絶された村でも、
情報源は父だけ、という訳ではない。あらゆる手段を以て、外を調べ、知った。
だから、納得すると同時に、疑問も投げかけ続けた。
そして都内の大学へ進学することを決意した。計らずとも、この事は父の狙い通りだったらしく、
彼は、すんなりと私の決意を後押ししてくれた。
「与利子に言うんじゃねえぞ、村の奴らにもな。与利子には、俺から言ってきかせるからな」
父は、きっとその時、私に自分の願いも託したのだ。

「兄さん、出来ましたよ」
妹の声に、回想を打ち切り、私は居間へと向かう。改めて眺め回すと、我が家は私が出ていった頃と
何も変わっていなかった。私達は向かい合って座り、八年ぶりの食卓を囲む。
妹の手料理はなかなかのものだった。
腕を上げたな、と私が褒めると、妹はくすぐったそうに笑って、
「ただの天ぷらそばじゃないですか」
自分もそばを啜った。
蕎麦を食べ終えると、妹は、喪服に着替えてきます、と言って席を立った。
私も少し休んだら、喪服に着替えなくてはならない。
父の亡骸にちら、と目をやる。その表情は、相変わらず苦々しげに歪んでいた。

 ※  ※  ※  ※  ※  

通夜は滞りなく進み、親族だけの内輪の会食が始まった。



356 帰郷の夜 sage 2008/06/03(火) 02:20:04 ID:l/Qm1Ihy
「しかし、伸浩(のぶひろ)も立派になったもんだ、ええ? すっかり男前になっちまって。
弟も鼻が高いだろうよ。なあ、与利子ちゃん」
伸浩、とは私の名前である。目の前で話しているこの男は、父の兄、つまり私の伯父だ。
私は適当に相槌を打ちながら、彼に酌をする。
「あいつはなぁ、正直なところ、変な奴ではあったけども。根は良い奴だったよ。
とにかく、優しかったんだなぁ。亜左美(あさみ)姉さんもそこに惹かれたんだろうよ」
酒も入り、伯父は上機嫌だ。伯父から母の話を聞くのは珍しい。
伯父の前で母の話はタブーである、というのが私達の中では暗黙の了解だった。そもそも、この伯父が、
亡骸であっても父に会いにくること自体、異例のことと言っていい。
父と伯父は、愛する女性を取り合って、激突して以来、ずっと疎遠であったからだ。
その女性こそが私達の母であり、さらに、仲違いした兄弟の実姉でもあった。
「それに、ほれ、伸浩。お前を外へ出したろ? それのせいで、俺だけじゃなく、他の連中も敵に
回しちまったからなあ。でも、やっぱり根は良い奴なんだよ。こうやってみんな集まるんだから……なあ?」
伯父の呼び掛けに、他の親戚も「うん、うん」と首肯する。
妹の与利子はといえば、新しい酒瓶を持ってきては親族に酌をし、空になった盆を片付けて、
と慌ただしく動き回っている。
ふと、妹と目が合った。私は声に出さず、「大丈夫か」と口を動かすと、一つ頷き、目で笑いかけてきた。
黒一色の喪服に包まれた与利子は、昼間、再会した時よりもますます妖艶さを増していた。
「でも、伸浩、よく帰ってきてくれたよ。与利子ちゃんもな、ずっと一人で寂しかったと思うんだ。
これからは、兄妹仲良く、二人で生きていってくれよ、な?」
この言葉には一つも含みなど無かったにちがいない。村の人間が、こういった内容の話をするのなら、
それは言葉通りのものなのだ。
曰く、「兄妹で契れ」と。
そういうことなのだ。
この村では、代々、近親による結婚を当たり前のものとしてきている。
前述の通り、父もその例外ではなく、姉と交わった。二人の間に生まれたのが、私と与利子である。
父は、この村の習慣がどうにも我慢ならなかったのだ。原因の一つに、父が若い頃にある女性と
駆け落ちしかけた事が挙げられる。まだ若かった父が、上京した時に出会った女性。村の外の女性だ。



357 帰郷の夜 sage 2008/06/03(火) 02:22:19 ID:l/Qm1Ihy
私も詳しくは知らない。だが、父は紛れも無くその女性を愛していたし、女性も父を愛していたらしい。
それを許さなかったのが、母であったのだ。結局、父は村に戻り、姉と生きることを決めた。
女性の結末は分からない。
父に一度だけ問うてみたが、返ってくるのは無言ばかりだった。
父は、私に理解を求めたのだ。私を外の世界に放り込むことで。
私が外の女性と交際する事にもろ手を上げて喜び、結婚を執拗に勧めたのは、自分の叶わなかった願いを
私に託したかったからだろう。
「ほら、見てみろ。俺にも孫が出来てな。ほら、ウチのとこの勝(まさる)と陽菜(はな)、あいつらの子だよ」
伯父が誇らしげに見せた写真には、父が嫌悪した世界の在り方が、まざまざと写っていた。

 ※  ※  ※  ※  ※  

線香を絶やさぬように、と告げて親族達は皆、帰っていった。
静寂に包まれた居間で、線香をあげる。父は、やはり私が帰ってきたことに怒りを感じているのだろうか。
答えが返ってくる筈もないと分かっていても、口に出すのは憚られた。
「兄さん、ようやく静かになりましたね」
妹が私の隣に座る。緩やかな動作で線香をあげ、手を合わせた。
お前は父さんが嫌いだったのか、と聞くと、
「ええ」
妹は迷いなく、答えた。
「だってお父さんは、兄さんを追いやったんですもの」
私は自分の意思で上京したのだ、と何度話しても、彼女の考えは変わらなかった。
「私の幸せはどうなるんですか? 私はあなたがこんなに好きなのに」
それは村の風習に則っているだけだ、お前も外の世界に出てみれば分かる、私は辛抱強く、説得を続けた。
父もこんな苦労を味わったのか。
味方が一人もいない中、正しいことを叫び続け、それでも受け入れてもらえない。
一歩踏み出せば、すぐに理解出来る、この村の歪みを理解してもらえない。
「ソトと、ウチと、どちらが正しいのかなんて、誰が証明できますか?私が唯一、正しいと言えるのは、
あなたへのこの想いだけですよ」
首を傾げて、微笑みながら話しかけてくる妹からは、少しだけ汗の匂いがした。
私達の周りでゆっくりと舞う線香と混じり合い、それは背徳的でありながらも、官能的に匂い立つ。



358 帰郷の夜 sage 2008/06/03(火) 02:23:49 ID:l/Qm1Ihy
一度、姿勢を正して、唐突に湧きあがった欲求を腹の底へ流し込むと、ここには一週間くらいいれる、
だからまたいずれ、この話をしよう、と締めくくった。
「どうやってお帰りに?」
妹の問いに、勿論、電車で、と答えると、
「それは無理ですよ」
妹が答えた。何がおかしいのか、肩まで震わせて、くつくつと笑っている。
「あの路線は、今日で廃線になるんですよ?」
そんな馬鹿な、私が笑って答えると、妹は喪服の胸元から小さな紙切れを取り出し、私に差し出した。
紙切れの正体は、新聞のある記事を切り取ったもので、内容は、私が乗ってきた電車の路線廃止が決まった、
というものだった。
「たしか……三か月前くらいの新聞かしら? それを見て思いついたんですよ、今日、この日に、
兄さんに帰ってきてもらおうと……」
与利子の艶やかな黒髪が、私の胸元に降りかかる。私の首に腕を回して、唇を耳に寄せると、妹は囁いた。

「改めて、おかえりなさい、兄さん」


 ※  ※  ※  ※  ※  

私は父に謝らなければならない。
父の願いを果たせなかったこと。
父を、助けてやれなかったこと。
帰ってくるなという、父の言いつけすら、守れなかったこと。
その、全てを。

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最終更新:2008年06月08日 20:19
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