762 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:11:03 ID:8Trdw0tZ
「なるほど、たしかにひどいわね、これは……」
思わず弥生は呟いた。
彼女が見ていたのは「芹沢家強制売春事件」のネット記事である。
それによると、芹沢夫妻が正式に養子の手続きを取っていた21人の少年少女のうち、死亡届が提出されていた“子供”は6人。無論、彼らの死因が何であるかは、今となっては調べようがない。
慈善活動家の仮面を被っていた夫妻は、当然のように彼ら一人一人の死のたびに葬儀を挙げ、“子供を無くした遺族”として涙を流しつつ、司法の手が回る前に死体を荼毘に付してしまっていたからだ。
だが、事後に保護された子供たちの大半が、精神的・肉体的に外傷を負っていたことから、彼らがどういう経過で死に至ったのかは、想像に難くない。
(冬馬くんでさえ、あのザマなんだものね……)
いまのところ弥生の知る限りでは、冬馬にPTSD(心的外傷後ストレス障害)の兆候は見られない。可能性として、彼が自宅でまったく自慰をしようとしないという一事実を挙げることが出来るが、まあ、そんな程度だ。
だが、公衆便所の落書きのようなデタラメな傷を、子供の身体に刻む環境である。冬馬と千夏の二人が、どれほどの辛酸を舐めながら日々を過ごしたのかは予想がつこうというものだ。
当然ながら、彼ら二人の名前は記事にはない。
保護された子供たちの実名が表記されたレベルのデータは、ネットで検索したところで簡単には出てこない。だが、冬馬が芹沢事件の関係者である事実など、千夏から話を聞いた晩に、すでに警察関係の機密情報をハッキングして確認済みだ。慌てる必要はない。
弥生はマウスをクリックした。
画面が切り替わり、冬馬の部屋が大写しになり、途端に彼女の頬が緩む。
学習机に座り、パソコンに向かって、一心不乱にキーボードを叩いている弟の姿。
彼が何をしているのかは分かっている。チャットに勤しんでいるわけでもなく、バイト先のシフトを組んでいるわけでもない。
再び弥生がクリックをすると、画面が冬馬のパソコンの画面に切り替わった。そこに展開されるのは、一つのストーリーを所有した文字の羅列。
彼が今ハマっているのは、創作小説の投稿だ。
いま書き綴っている小説も、一通りの目処がつけば、いつものように創作系の掲示板に投稿するつもりなのだろう。無論、前回の投稿分も、その前の投稿分も、弥生はぬかりなく、それら全てに目を通している。
柊木冬馬という男の特徴を列挙する場合、その身体能力や陽気な性格以外に挙げられる項目があるとすれは、それは、彼が非常に多趣味だということであろう。
彼はおそろしく好奇心が旺盛で、自分が関心をもったものは、貪欲なまでのしつこさで、それを学習・吸収しようとする。結果、彼の器用さもあいまって、その面白味を弥生がまったく理解できないような分野にまで、彼の知識や技能は及んでいるというわけだ。
バイト先の友達からギターを譲られるや、子供のような熱心さでかじりつき、今ではちょっとした作曲ぐらいならこなせる程度の演奏技術があるし、漫研に乗り込んで、ひたすらにコミケ原稿のアシスタントをしていた時期もある。
朝から晩まで、連日オイルまみれになりながらバイクのパーツをいじっていたかと思えば、母に志願して、レシピを睨みながら家族の食事を調理していた頃もある。ネットの囲碁教室に夢中になっていたかと思えば、いきなりボクシングジムに通いだしたりもする。
(そういえば、ピアノを教えてくれと言われたときもあったわよね)
思い出して弥生は苦笑する。
家のリビングにあるエレクトーンは、何年も前に壊れて置き物と化しているので、弥生は泣く泣く彼の申し出を断ったが、その三日後には、弟はけろりとして、リサイクルショップで購入したというハーモニカに、テキスト片手に熱中していた。
――で、今度は投稿SSというわけなのだ。
763 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:12:51 ID:8Trdw0tZ
(今度は、いつまで続くかしらね……)
彼は三日坊主ではない。
結局教えてあげられなかったピアノの件はともかく、本格的に対象への興味にハマってしまえば、冬馬は一通りのレベルに達するまでは飽きる事を知らない。
だが、文章表現というのは、楽器やスポーツとは違い、身体能力や器用さがものを言う分野ではない。勘やひらめきに任せて、感じたものを感じたままに書き連ねるだけでは、それはただのポエムにしかならない。
なぜなら、緻密に計算されたストーリーを組み上げるという行為は、むしろ数学的な作業だとも言えるからだ。
ことに、彼がいま取り組んでいるミステリーという分野では、世界観やキャラ設定、台詞回し、犯行動機、そして肝心のトリック等々、それらを考え抜いた上でプロットを組まねば、到底ストーリーを完成させることなど出来はしない。
現に、いま冬馬が没頭している作品世界は、まだ三話であるにもかかわらず、すでにして設定的・キャラ的・時間的、さらには物理的な矛盾に満ち溢れている。
(このままだと、犯人は宇宙人でしたってことにでもしなきゃ、収拾つかないじゃないの)
弥生は、弟の書く微笑ましい文章に目尻を下げながら、――スカートを持ち上げ、その端を口に咥えると、右手をそっと股間に伸ばした。
「んっっ!!」
心地良い電流が、弥生の脊髄を襲う。
スカートの下のショーツは、すでにじっとりと潤っていた。
(ほんと……かわいい子よねえ……)
弥生の意識は、すでに画面上の破綻しつつある推理ドラマを追ってはいない。
いや、たとえ破綻していようがいまいが、そんなことは彼女には、もはやどうでもいい。
何故なら、この文字情報が冬馬の手によって生み出されたものだと考えるだけで、弥生は充分に愛する弟を感じる事が出来るからだ。――いや、それだけではない。
一心不乱にキーボードに向かっている冬馬は、この自分の文章がいま、姉の眼前に晒されているとは夢にも思うまい。そして、この小説を姉に覗かれていると知ったなら、それこそ真っ赤になって羞恥に身悶えするだろう。
弟の、そんな姿を想像した瞬間、弥生の嗜虐心は、股間から伝わる電圧を更に増幅させる。
「――んっ!! ……んんんっっ……!」
ショーツ越しに踊る指先はますます加速し、弥生の潤んだ谷間はくちゅりと音を立てた。
真っ青になって震える、二人の幼い子供たち。
その眼前で、血まみれの包丁をぶら下げた、一人の主婦。
そして、その光景を眺めながら、腹を抱えて哄笑を続ける青年。
やがて瞑目していた主婦の瞼が開き、その瞳に妖しい光が灯る。
それは絶望。諦観。妥協。そして――希望。
いまなら、まだ引き返せる。罪悪感と背徳に満ちた未来から、まだ一個の人間としてやり直せる。
だが、その暗黒の未来に、たまらないほどの魅力を覚えるのは何故だろう。
分かっている。問うまでもない。
己の心身を支配する男と、胎内にいる彼の子供との、喜悦と快楽に満ちた親子三人での暮らし。それは夫と我が子を手にかける大罪を犯しても、なお余りある光芒を放つ生活だと、自分の肉体は理解しているからだ。
たとえ咎人に身を堕としたとしても、自分を骨の髄まで支配した御主人様の隣に並び、伴侶として彼の子を育てながら、24時間フルタイムで調教してもらうことさえ可能な、夢のような暮らし。
その輝かしい希望に比べれば、たかが子供を殺す絶望感など、どれほどの事だと言うのだ? それに我が子といったところで、お腹を痛めた実子は娘だけ。息子は、元をただせば夫に強引に説得されて引き取った、施設のみなしごに過ぎない。
――すでに夫を殺した身だ……!!
そう思った瞬間、それを感じ取ったかのように息子がびくりと反応する。
いや、それだけではない。この血の繋がらぬ少年(そう呼ぶには、彼は幼すぎるが)は、怯えながらも健気に妹をかばい、その小さい身体をぎゅっと抱き締めた。
764 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:14:35 ID:8Trdw0tZ
「…………」
考えてみれば、この子も不憫な子だ。夫のワガママでこの家に引き取られなければ、こんな理不尽な死に方をする事も無かったものを。
(でも……もう仕方がない、よね……?)
返り血に染まった出刃包丁。その紅く輝く刃を握る右手に、薄く力がこもる。
だが、その瞬間、笑いを含んだ主の声が無情にも響きわたった。
「ブッブゥ~~~ッッ!! はい、奥さん残念ながら時間切れぇ~~~」
愕然と振り返った彼女の目に飛び込んできたのは、居間に据えつけられた黒電話に手を伸ばす、青年のにやけ顔。
「御主人様の命令を聞けないような奴隷は、ハッキリ言って要らないんだよなぁ~~」
違う!
私はいま、あなたの命令通り、この子供たちを――!
そう叫ぼうとした瞬間、ダイヤルを回した男の指の動きに、彼女は思わず身が凍った。
「――あ、もしもし警察ですか? ええっとこちら、東難波町三丁目の景浦と言いますが――そうそう、その刑事課の景浦です。――実はですね、その景浦巡査部長が、奥さんに包丁で刺されてしまいましてね。パトカーを何台か廻して頂きたいんですよ」
声一つ立てられずに立ち竦む彼女を差し置き、青年は笑って、この電話は悪戯ではないと伝え、
「ほら、奥さんも何か言って下さいよ。旦那さんを殺しちゃったんですけど、自首したいから、お巡りさんを呼んで下さいって」
そう言って、彼は受話器をこちらに差し出した。
「――ほら? いつまでもボッとしていないで、は~や~く」
「御主人様! 私は――」
「あれ、また逆らうの? 僕は『自首しろ』って命令してるんだよ?」
……分かっていた。
この男は、初めからこうするつもりだったのだ。
この男は、初めから私に付き合うつもりなどなかったのだ。
この男はただ、自分の施した洗脳の威力を試すためだけに……まさに子供のような好奇心のためだけに、私に夫を殺させ、子供を殺させようとしたのだ。
分かっていた。
本当は分かっていた。――この男が、私のような女と一緒になって、自分の将来を棒に振ることなど、在り得るはずがないのだということが。――この男にとっては、私のお腹にいる自分の赤ん坊さえも、取るに足りない存在でしかないのだということが。
にもかかわらず、私は……夢を……見てしまった……!! 希望を抱いてしまった……!! そして、そんな私を御主人様は当然のように、
う ら ぎ っ た ッッッ!!!
何を考えたわけでもない。
身体は反射的に動いてくれた。
夫を刺した時と同じだ。
絶望こそが人に力を与える。――ああ、夫の言うことは、やっぱり正しかった。
己の腹部に突き刺さった出刃包丁を呆然と眺めながら男は、まるで雄鶏が卵を産んだかのような、信じられないものを見る目つきで、彼女を見た。
ごりっ。
彼女がおもむろにえぐった刃が、肋骨に当たり、彼にしか感知できない嫌な音を立てる。
「~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッ!!!」
その獣のような悲鳴は、男が床に落とした受話器を通して、通話先の警官の鼓膜を刺激するには充分な声量を持っていたのだろう。もしもし!? もしもし!? という声が小さく居間に響く。
彼女は、受話器を拾い上げると、
「はい、景浦です。……この人の言う通り、夫を殺しました。逃げも隠れもしませんから、早く私を逮捕しに来て下さいませんか……?」
と、言った。
765 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:16:44 ID:8Trdw0tZ
気が付くと葉月は、瞼が痛くなるほど目を見開き、虚空を見つめていた。
世界はまだ真っ暗だ。窓からも、一筋の朝日も部屋に差し込んではいない。
ぐっすり眠っていたはずなのに、いつ自分は目を覚ましたのだろう。いつからこうして、暗闇とにらみ合いを続けていたのだろうか? まったく思い出せない。
傍らの目覚し時計に目をやる。この時計は文字盤が夜光塗料で塗られているため、真夜中の暗い部屋でも時刻が読み取れる。
「……まだ4時」
葉月は思わず呟いた。
真夏ならばともかく、部屋が明るくなるような時間ではない。そして本来、彼女が起床せねばならない時刻には、まだまだたっぷり余裕がある。
(冗談じゃない)
葉月はふたたび布団にもぐりこむと、瞼を閉じ、眠気の襲来に身を任せた。
兄から、その幼少期のエピソードを聞いてから二週間ほど経つが、葉月は何故かさっきの夢を、何度も何度も繰り返し見るようになった。
(この夢見るの……何回目だろう)
ぼんやり思うが、半分睡魔に支配された彼女の脳ではよく分からない。よく分からないが、多分そろそろ10回目に達するのではないだろうか。
まったく、わけが分からない。
事件の当事者である兄ならば知らず、何故まったく関係ないはずの自分が、こんな夢に夜ごと悩まされなければならないのだろう。
悪夢の構図は毎回同じだ。
最初はドラマのように、第三者的視点で眺めていたはずの犯行現場。
鮮血したたる凶刃をぶら下げて、茫然自失と夫の骸を見下ろす女性――おそらくは景浦美也子であろう――と、壁際にへたりこんで震え続ける二人の幼児――設定的に冬馬と千夏であろうか――の俯瞰から、唐突に夢は始まる。
そして、気が付けば葉月は、美也子に同化している。彼女の視点で思考し、発言し、行動している。そんな自分を彼女は一分の余地も無く疑わない。
“御主人様”の命令どおり、子供の眼前で夫を殺し、いままた子供を殺せと命じられている自分。気安く従える命令でないのは言うまでもない。己の中の常識や理性を葛藤のすえ黙らせ、女としての自分の欲望に身を任せる事を決意した瞬間、突きつけられる最後通告。
彼女の内のあったのは、夫を殺し、我が子に殺意を抱いた罪悪感ではない。
ただひたすらに、自分を裏切った男への、悲しい怒りと絶望。
そして、子供たちの前で展開される、再度の惨劇。
湯気立ち上る男の血潮の熱さすら、葉月の脳裡には明確に刻まれている。
(本当のところは、どういう人だったんだろう)
葉月は、そう思わずにはいられない。
彼女が夢見る「景浦美也子像」は、そのキャラクター造型に、明確に他者の偏見的イメージが混入している。すなわち語り部である兄・柊木冬馬の言葉が。まあ、景浦美也子本人の顔すら知らない葉月からすれば、兄の言葉に「美也子」のキャラが影響を受けるのは当然なのだが。
だが、当然の事ながら、そんなエピソードだけで一人の人間を語り切れるはずがない。
その浮気相手と関わってからはともかく、彼女とて母として、そして妻としての顔を持つ一人の女であったはずなのだ。
「兄さんは、まだ……そのお義母さんを許せませんか……?」
あのとき――寺の練塀にもたれながら、二杯目のワンカップをちびちびやっていた冬馬に向けて、葉月がその質問をした瞬間、彼の瞳に、先程以上の闇が灯ったような気がした。
「兄さん……」
思わずぞっとした葉月だったが、しかし冬馬の声は、逆に落ち着いていた。
「……わかんねえよ、そんなこと……」
葉月は聡い少女だ。
兄が、言葉とは裏腹に、心中では義母をまったく許していない事を、その瞳と声音の雰囲気だけで、彼女は瞬時に見抜いた。
「何故、許す気になれないのですか? 兄さんともあろう人が、らしくもない」
766 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:18:15 ID:8Trdw0tZ
だが、聡明なようでも所詮は中学生だというべきだろうか。
弥生であれば、こんな迂闊なことは決して言わなかったに違いない。人間には、たとえ誰であろうが踏み込む事を許さない領域が、その心の裡にあるということを、葉月はそこまで認識していなかった。
おそらくクラスメートか、バイト先の友人たちから同じ言葉を投げつけられたら、冬馬は今この瞬間にでも飛び掛かり、その不幸な発言者を、顔の形が変わるまで殴り続けたに違いない。
現にその瞬間、葉月に向けられた彼の視線は、先程までの、己の闇の深淵を覗き込んだような眼光とはうって変わった、殺意と呼ぶに充分な量の凶暴な意思が込められていた。
「許せ、って言うのかよ……てめえ本気で言ってんのか、それ……!?」
その瞬間、葉月は息をすることさえ忘れていた。
だが、さすがに冬馬も自分の本音を無雑作に晒し過ぎたことを知ったのだろう。そう言った次の瞬間には妹に背を向け、ワンカップをあおって間を取った。
「くそっ、ちっとも酔えねえや、この安酒が」
そしてごりごりと頭を掻き、こっちに向き直ったとき、冬馬の表情はいつもの――とまでは言わないが、少なくとも、さっきの憤怒は綺麗サッパリ抜け落ちていた。
「怖がらせちまったか、葉月?」
「……いえ」
「ワンカップ、飲むか?」
「……いえ」
「そっか」
そのまま最後の一口を飲み干すと、ワンカップを自販機の横にあるゴミ入れに投げ入れ、彼は無言でスラックスのポケットに両手をぶち込んで、ぶらぶらと歩き出す。
「待って下さい兄さん」
とも言えず、慌てて葉月は兄を追った。
ベッドの布団に潜り込んで眠っていたはずなのに、いつの間にか葉月はふたたび虚空を眺めていた。
あのときの冬馬は、本気で怒っていた、と思う。
思う――というのは、彼が家に引き取られてから、葉月は彼が本気で怒り狂っている場面に遭遇した事がないからだ。もともと兄は滅多な事で他者に怒りを向けるような性格ではない。
淡白なわけではない。
兄はただ、慎重なだけなのだ。
孤児として育った彼は、迂闊に感情や本音を他人に晒すことが、どれほど危険な行為であるか充分すぎるほど知り抜いているのだろう。かといって、日常で見せる陽気さやおおらかさが、完全に演技というわけでもないだろうが。
葉月は、……そんな兄が、気の毒でならなかった。
心の赴くままに怒ることも、叫ぶことも出来ない。
常に他者への配慮を考え、周囲の空気を読み、場の雰囲気に責任を持ち、皆のテンションを盛り上げ、ウザがられないギリギリの範囲で状況を仕切り、集団の意見を誘導し、少数意見へのフォローを忘れず、あくまでも陽気なムードメーカーである自分を忘れない。
しかし、ムードメーカーという存在は、しばしリーダーの役割を担うことが多い。
場の雰囲気を盛り上げられる者は、往々にして周囲の信頼を集めすぎる場合があるからだ。そして姉の話では、冬馬は、いまや誰もが認める、クラスやバイト先での中心人物であるという。
――できる者にとっては、それこそ何でもない事なのだろう。
たとえば、弥生がそうだ。
彼女は、まるで呼吸するような自然さでリーダーシップを発揮し、他者をまとめる事が出来る。完璧超人と言われる彼女の一番の長所は、持ち前の学力や身体能力ではなく、その指導力にあるということを、葉月は誰よりもよく知っていた。
だが、冬馬は弥生とは違う。
兄の本質は自分と同じだ。
他人との共存よりも、孤独を好む人間だ。
天才と謳われ、在野の研究機関レベルの知識と理解力を持ちながら、それでもなお義務教育に縛られ、いまだに中学校への登校を強制されている彼女なればこそ、それが分かる。
767 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:20:13 ID:8Trdw0tZ
だから葉月には、冬馬がクラスやバイトのメンバーたちの中心者として在り続けていることが、気の毒でならなかった。本心では孤独を望むはずの兄が、周囲の結束の軸としての役割を果たすべく尽力するストレスは、葉月には正直、想像もつかない。
しかし、深読みすれば、あるいはそれも兄自身が望んだ結果なのかも知れない。
リーダーという役割は、ある意味、集団の中で最も個人としての本音を晒さずに済む――むしろ晒してはならない――立場であるからだ。
まあ、普段のほほんとしている、楽天家の兄がそこまで考えて行動しているのかどうかは、葉月にも分からない。だが、それでも彼女は、家族の中で冬馬を一番理解しているのは、両親はもちろん姉の弥生でもなく、この自分であると密かに自負していた。
それは、彼女にとって、かすかな誇りであった。
時計を見る。
そろそろ6時だ。
結局、あれから眠れなかった。
いつもそうだ。
兄のことを考え始めたら、いつも時間が経つのを忘れてしまう。
あれだけ執拗であった睡魔も、気付けば跡形もない。いまから羊の数を数えても、おそらく一睡も出来ないに違いない。
(仕方ないわね)
葉月は、むくりと身体を起こした。
窓の外から小鳥の鳴く声が聞こえる。
すこし、肌寒い。
ベッドから降り、おもむろにタンスから新しい下着とバスタオルを取り出し、風呂場へ向かう。
朝の空気に冷え切った廊下から、スリッパ越しに冷気が伝わってくる。
とっととシャワーを浴びてあったまろう。
そう思ったのも束の間、いつの間にか葉月は、またも考えるともなく冬馬の事を考えていた。
あれから、冬馬は駅までの道をぶらぶら歩きながらこう言った。
人が一番やってはいけないことは、人を裏切ることだ、と。
お袋が、例の男を刺し殺したのは、子供を殺せと命令されて自暴自棄になったからじゃない。男がお袋を見捨て、警察に売ろうとしたからだ。命令に従って人道を踏み外したお袋を、奴は笑って裏切った。だからこそ、奴は殺されたのだ、と。
おゆきがおれを許さないのは、母を慕うおゆきの心根を――その気持ちを知っていながらもなお、おれが裏切ったからだ。人並みの家庭のぬくもりをようやく知ることができる。そう思ったあいつの気持ちを、おれが裏切ったからだ、と。
そして、お袋は親父を……おれたちを裏切った、と。
「あのとき、間男野郎がお袋に声をかけるのが一秒でも遅かったら、おれと千夏は確実に殺されていたはずだ。あのときお袋は、妻としてだけじゃなく母としても、おれたちを見捨てた……裏切ったんだ」
――おまえも、彼氏が出来たら迂闊に浮気するんじゃねえぞ。裏切り女はぶっ殺されても文句は言えねえんだからな。
そう言って葉月の頭を撫でる兄の手は暖かかった。
だが、その体温と相反するように、冬馬の微笑は、にじみ出る疲労を隠し切れてはいなかったのを、葉月は覚えている。
(おそらく兄さんは、憎み続ける以外に、彼女への想いを封じるすべを思いつかないに違いない。自分を拾い育ててくれた母親への愛情も、その母親を拒絶し自殺に追い込んだという罪悪感も、“憎悪”というストレスでしか制御する事ができないのだろう)
そこまで回想して、葉月は廊下の寒さに震えつつ、あらためて思った。
――なんと、可哀想な人なのだろう、と。
「……?」
何か聞こえた。
そう思った瞬間、彼女は反射的に足を止めていた。
眼前には兄の部屋。洩れ聞こえて来るのは、兄の声。だがこれは……寝言じゃない。
「だから……いい加減に……先輩……」
768 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:21:17 ID:8Trdw0tZ
気が付けば、葉月は、兄の部屋のドアにぴたりとくっついて、室内からの微かな音声情報に神経を集中していた。
(電話? 誰? こんな早朝から一体……?)
「……ですから……何度も言ってるじゃ……なんで分かって……」
ドアに遮られて、兄の声がハッキリ聞こえない。
だが、まったく何も分からないわけではない。
冬馬は辛抱強く相手を説得しているようだが、しかし彼が非常に苛立っている事は分かる。むしろ兄は、自分の苛立ちを相手に悟られないよう必死になっているようにも聞こえる。
(どうしたんだろう、兄さんが焦ってる……?)
いや、そもそも相手は誰だ? こんな時間にかけてくる電話となれば、クラスメートよりもむしろバイト先か? 確か、彼が勤める牛丼屋は24時間年中無休のチェーン店のはずだから、そっちの業務連絡の方が可能性は大きい。
(こんなときに……盗聴器とかあったらなぁ)
息を殺して扉にくっつき、兄の声を聞こうとしている葉月は、さっきまで自分が、廊下の寒さに震えていた事実を、もはや完全に忘れていた。
「――だからぁ、納得できないって言ってるのよっ! あたしの何が気に入らないってのよっ!!」
「何がって……ですから何度も言ったでしょう? おれは誰とも付き合うつもりはないんですって。理由もちゃんと言ったはずですよ?」
「『好きな女がいるから』ってやつ? そんなウソ信じられるはずがないでしょうが!?」
「いや、ウソって……なんでそこから否定なんですか?」
(朝っぱらからテンションの高い子ね)
失笑と共に、弥生はあくびを噛み殺す。
葉月が冬馬の部屋のドアにしがみ付いて、必死に会話を拾おうとしていた同じ時間、弥生は、すでにハッキング済みの電話回線から、悠々と弟の電話を傍受していた。
盗聴されているとも知らず、冬馬の携帯で、延々と痴話喧嘩未満の言い争いを吹っかけているのは、長瀬透子。弥生の後を継いで、桜ケ丘学園高等部史上二人目の女性生徒会長となった少女であり、弥生の直接の後輩として当然ながら冬馬とも面識があった。
彼女は、眉目秀麗・成績優秀・スポーツ万能という三拍子揃った、外見的には、まさに弥生の後継者として相応しい少女であった。弥生が現役の生徒会長だった頃は、弥生と副会長だった長瀬をカップルにした百合小説を、文芸部がヤミで売りさばいていたほどだ。
もっとも彼女は弥生とは違い、周囲が危ぶむほどの強引な性格で知られており、人望と呼ばれる程のものは弥生の半分もない。長瀬が選挙に勝てたのは、弥生が充分に根回しをした結果であり、長瀬の人格や選挙公約が一般に支持されたからでは決してない。
さらに会長に就任してからも、周囲から『長瀬で大丈夫なのか?』と囁く声が後を絶たない。
(でも、とーこのやつもこんな時間から、自分がフラれたクレーム電話なんか掛けてくるなんて……ほんと、いつもながらムチャクチャな子よね……)
「朝っぱらもクソも関係ないでしょう!? 大体あたしは、あんたにフラれてむかついて、一睡も出来なかったんだからねっ!! 眠たいのはお互い様なのよっ!!」
「いや……そんなこと言われても困るんですけど……」
なるほど、フラれたからこその早朝攻撃なのか。
生徒会で面倒を見ていたときは、その猪突猛進な思考回路を、むしろ弥生は気に入っていたが、こんな形で弟が迷惑をかけられていると思えば、そう笑ってばかりはいられない。
弥生としては昨日のうちに、長瀬が冬馬にアタックをかけて撃沈したという情報は耳にしていたが、プライドの高い彼女ならば、再度の接触があるとしても、むしろ冬馬の口を封じる形でのコンタクトだと思っていたのだが……。
(冬馬くんにフられたのが、よほどくやしかったのね。一睡もできなかったとか言っていたし)
769 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:23:29 ID:8Trdw0tZ
「だいたい、あんたが好きな女って一体誰なのよ!?」
「それは……ほら、プライバシーの個人情報ってやつで……」
「ふざけてんの? あたしはあんたにフラれたのよ!? 人の告白断る以上は、あたしはその名前を聞く権利があるわ。そうでしょう!?」
「う……」
「少なくとも、あたしの告白を断るダシに使おうってんなら、それなりの女を挙げなさいよ。クラスの地味な女の名前なんか出すつもりだったなら、覚悟をしておくのね……!」
「そんなムチャクチャな……だいたいそんな名前、聞いてどうするんですか?」
「名前聞いて身元確認させてもらうわ。そいつが、あたしの告白を断るほどの女なのかどうかをね! それとも、やっぱりただの言い逃れなの!? どうせ架空の人物なんじゃないのっ!?」
(あ、やっぱり、とーこ鋭いわ)
弥生としては、そう思わざるを得なかった。
「告白を断るいい口実はないスか?」
そう冬馬に訊かれて、他に好きになった娘が別にいるって言われたら、オンナノコはたいてい諦めがつくわ。少なくとも自分の魅力が足らないからフラれたわけじゃないって分かっただけで、ダメージも半減するしね。――と、入れ知恵したのは他ならぬ弥生なのだ。
そして弟は、この数年間、ずっとその口実で女生徒からの告白を断ってきたのだが、しかし、彼がなぜ、そこまで頑なに男女交際を拒むのか、当時の弥生にはまったく窺い知ることが出来なかった。
だが、今なら分かる。
芹沢家で、変態ども相手に春を売らされていた冬馬からすれば、いまさら同世代相手の甘酸っぱい“不純異性交遊”など、幼少期に食い散らかした駄菓子ほどの価値も見出せないのだろう。
しかし、今となっては、その真相を話すわけにも行かない。
少なくとも、長瀬のような大雑把な女に気安く話せる過去ではないはずだ。
(さあ、どうするの冬馬くん? 生半可なウソは、とーこには通用しないわよ)
弥生はむしろ、期待に胸躍らせながら冬馬の言葉を待った。
「……さんです」
「あ!? 聞こえないわよ!」
「おれが好きなのは、……弥生
姉さんです」
その瞬間、三人の少女の心臓が凍りついた。
自室で弟の電話を傍受する柊木弥生と、兄の部屋のドアにへばりついていた柊木葉月。そして、電話口の向こう側にいる長瀬透子。
「マジ……なの……?」
「――はい」
「……そっか……そういうこと、だったのね……確かにそれって、やばいよね……」
「誰にも言わないで下さいよ。先輩だから話したんですからね」
「言える分けないでしょうっっ!! そんな非常識な――」
そこまで言って、さすがに自分の失言を恥じたのだろう。長瀬は「ごめんなさい、そういう意味じゃないの」とフォローを入れ、そしてふたたび「そっか、そうだったんだ」と独り納得するように呟いた。
「そういうわけなんで……先輩、その……先輩の気持ちは非常にありがたいんですけど……」
「柊木」
「はい」
「応援、してもいい? こんなあたしで良かったらサ」
「…………」
「弥生さんにはさんざん世話になっちゃってるからアレなんだけど、あたしは応援するよ、あんたをさ」
「……すみません」
「いいっていいって。あたしとしても、その名前出されちまっちゃあ、何も言えないしね。あんたがひたすらオンナ寄せ付けないのも、なんか納得しちゃったよ。……はっ、なんか納得したらようやく眠気が襲ってきたわ」
「先輩、生徒会長が学校サボっちゃだめっスよ?」
「男がくだらないこと言うんじゃないよ! じゃあ、またねっっ!!」
770 傷 (その6) sage 2008/11/27(木) 23:29:38 ID:8Trdw0tZ
弥生は、凝然と動くことが出来なかった。
冬馬が言ったことが本心だとは限らない。
この場合、電話先の長瀬透子を黙らせるには、弥生ほどふさわしい名前はないだろう。
早朝からヒステリックに叫び続ける長瀬に、いかにもうんざりしていた冬馬なら、そのくらいは簡単に思いつくだろうし、苦し紛れにその名前を出すことも普通に在り得る話だ。
だが……そう思ってもなお、弥生の全身を襲ったのは、震えるほどの喜悦であった。
(あの子が……私を……好きだと、言った……ッッッ!!?)
(私を……わたしを……この、わたしを……ッッッ!!!)
(好きだと……好き、だと……言ってくれたッッッ!!!)
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッッ!!!!!」
弥生の肉体は、オナニーなど及びもつかない程の絶頂を、何度も何度も迎えていた。
いつもよりも熱いはずのシャワーが、まったく気にならない。
いや、葉月はもう何も見ていなかった。何も聞いてはいなかった。
ここは風呂場の形をした暗黒。
身体に降りかかるのはシャワー状の絶望。
呼吸するのは酸素とよく似た孤独。
なぜこんなに胸が痛むのか。
なぜこんなに身体に力が入らないのか。
なぜこんなにつらいのか。
なぜこんなに苦しいのか。
なぜこんなに涙が止まらないのか。
分からない。
もう何も分からない。
いや、分かることが一つある。
もう、兄はいない。
いや、いなくなったわけではない。彼は健在だ。行方不明でも死んだわけでもない。
ただ、そこにいる兄はもう、自分の知っている兄ではない。
彼は――葉月を選ばなかった兄、なのだ。
彼は、弥生のもとにいってしまった兄なのだ。
家族の中で誰よりも、自分が一番理解していると思っていた兄はもう、葉月の手の届くところにはいないのだ。
やがて、ノブを捻ってお湯を止め、彼女は呟いた。
「……そっか……兄さんは……裏切ったんですね……」
「……裏切った人は……殺されても……文句は言えないんですよね……」
「……それは……にいさんが……おしえてくれたんですもんね……」
葉月はもう、何も見ていなかった。
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今回はここまでです。
最終更新:2008年12月02日 09:57