79 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 14:59:18 ID:m55LyRJ7
「葉月、まだ部屋から出る気にならないの?」
次女の部屋をノックした母親が、半分いらだち混じりの声をドアにぶつける。
だが、その扉からは、分厚い沈黙を保ったきり、物音一つ聞こえない。
母は深い溜め息をついて、食事を盛られたトレイを廊下に置いた。
「とりあえず、お昼ごはん、ここに置いていくからね。――ちゃんと残さず食べるのよ!」
半ば叫ぶように言うと、母はそのまま振り返り、自分の後ろに立っていた弥生に目で合図する。
不安げな母親に、弥生はニッコリ頷いた。
このまま母は立ち去る。
葉月に、来訪者は立ち去ったと感じさせねばならない。廊下が無人になったと思わねば、用心深い葉月が、廊下に放置された昼食を取ろうとするはずがないからだ。
無論、彼女たちが自室の前まで来た時点で、二人分の足音を葉月が聞き取っているかもしれないが、その可能性は薄い、と弥生は踏んでいる。
弥生はその運動神経を最大限利用し、猫のように体重を感じさせない、しなやかな動きでここまで来たし、現に母に随伴して妹の部屋の前に到着するまで、廊下の床板は、彼女の身ごなしの前にみしりとも音を立てなかった。
そして母は、弥生の僅かな気配を更にごまかすように、必要以上に不機嫌っぽい、荒い足音を立てて、ここまでやってきている。
弥生のように家中にカメラを仕掛けているならいざ知らず、部屋に居ながらにして廊下を見通す眼をもたない葉月ならば、扉の前に潜む姉の存在に気付きようもないはずであった。
彼女の部屋からは気配一つ感じないが、室内では、食事を持って来た母親が立ち去る足音を、葉月が息を殺して窺っているはずだ。
逆に言えば、母が立ち去ったと確認すれば、葉月はむしろ安心してドアを開き、昼食のトレイを取ろうとするだろう。その瞬間を狙って捕捉すればいい。
柊木葉月は姉とは違い、その身体能力に見るべきものはない。あくまで彼女の本貫は卓抜した頭脳にこそあり、体力的には、年齢相応のただの女の子に過ぎない。
なので、弥生からすれば、ドアが開きさえすれば、妹を取り押さえることなど簡単な作業であった。スポーツ万能はダテではない。弥生は冬馬ほど多趣味ではないが、これでも合気道の有段者で、一対一の喧嘩なら、弟にさえ遅れをとらない自信があったからだ。
葉月が自室に引き篭もって、もう五日になる。
その間、この末っ子の顔を見た者は、柊木家にはいない。
両親も、弟も、姉の自分でさえも、この葉月の唐突な行動に驚愕し、動揺し、入れ替わり立ち代りでドアの外から彼女の説得を試みたが、妹は、それら家族の行動一切に、硬い沈黙を以って応えた。
業を煮やした父親が、篭城を決め込む葉月に、部屋から出てこぬ限り一切の食事を取らせないとドアの外で叫び、兵糧攻めが開始されたが、……その根競べも、妹の頑固さの前に、脆くも家族側が敗退した。
なんと葉月は、篭城開始から三日間、水一滴さえ要求せずに――いや、要求どころか全くの沈黙を保ったまま、とうとう父親を屈服させてしまったのだ。
このまま兵糧攻めを継続していれば、おそらく葉月は餓死するまで部屋から出てこないだろう。葉月の沈黙には、彼女を見守る家族にそう予感させるだけの、無言の気迫があった。
葉月が通学している中学校や、所属している大学や企業の研究室には、やむを得ず病欠の旨を届け、仕方なく柊木一家は交替で会社や学校の休みを取り、突如として理由なき反抗を開始した末娘を、困惑しながらも見守ることにしたのである。
とにかく家に葉月を独りにする事態だけは避けねばならない。万が一、彼女が篭城を止める気になった時、家が無人であったなら、せっかくの葉月の決意をふたたび翻させる事になりかねない。――そういう配慮からの決定であった。
(もう一時か……。そろそろ三時間目が始まる頃ね)
携帯を取り出し、時間を確認しながら、弥生はパソコン経由で、カメラの映像回線を携帯の画面に接続した。携帯のディスプレイに、真上から見た葉月の部屋の俯瞰――部屋の蛍光灯に仕込まれた極小の広角カメラからの映像――が映し出される。
葉月は、ベッドにうずくまったきり、身じろぎ一つしない。起き上がる様子はないが、かといって眠っているわけでも無さそうだ。
80 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:00:18 ID:m55LyRJ7
弥生が自宅内に配置した監視カメラは、当然ながら葉月の部屋にも存在している。
無論、カメラの設置目的は冬馬の監視にあるので、トイレや風呂といった共有空間ならばともかく、本来ならば、そんなカメラを妹の個室に設置する意味などないはずなのだが、弥生はそうは考えなかった。
(あの子はいずれ必ず冬馬くんへの愛に気付く)
ならば姉として、弥生は葉月の行動を把握しておく必要がある。妹が冬馬をどう誘惑し、それに弟がどう応えるのか、弥生はそれを見届けねばならないからだ。
そう思って仕込んだカメラであったが、まさか弥生としても、いきなり引き篭もりを開始した妹の様子を見るために、この監視回線を使用するハメになるとは思わなかった。
(まさか……こんなことになるなんて、ね)
実は、弥生だけが、妹が部屋から出ようとしない理由を知っていた。
葉月が突然引き篭もりを開始したのが五日前。彼女の身に何があったのか調査する事は、弥生にとってはむしろ容易な事であった。
なにしろ弥生は、家中に仕掛けられた監視映像の記録を持っている。そして、“事件”の発端が、五日前の早朝に長瀬透子から冬馬にかかってきた一本の電話であるという事実を掴むまでに、それほどの時間を要さなかった。
冬馬が『おれが好きなのは弥生である』と言い切ったその電話。
長瀬を沈黙させ、弥生を狂喜させた、その電話。
廊下に仕掛けられたカメラは、弟の部屋のドアに張り付き、その一言をしっかり盗み聞きしていた葉月の映像を捉えていたのだ。さらにそれから、やけどしそうな湯温50度のシャワーを、泣きじゃくりながら浴び続ける彼女の姿も。
そして、その入浴を最後に、葉月は部屋から一歩も出てこなくなった……。
弥生としても、理由が理由であるだけに、事の真相を家族の誰かに話すことはためらわれた。近親相姦が禁忌であるのは世間的にも常識であったし、妹の名誉のためにも、厳格な父や潔癖な母に、口が裂けても報告できる事実ではない。
もっとも、矛盾するようだが、弥生自身は冬馬を愛する事に何ら迷いを感じてはいない。その想いを現時点でこそ両親に秘してはいるが、いずれ父と母を黙らせるための手筈は、着々と進行しつつある。
まあ、いい。
葉月が、冬馬に懸想しているという事実は、弥生にとって忌むべき事態でも何でもない。
むしろ弥生は、ことあるごとに葉月の心を煽ってきたのだから。
葉月本人はおろか、冬馬を含めた家族全員が気付いていなかったが、それでも弥生だけが見抜いていた。――柊木葉月が、自分の兄を一個の男性として間違いなく意識していることを。
そう仕向けたのは弥生ではない。
あくまで彼女は油をかけただけだ。葉月が抱く、微かな種火に等しい冬馬への憧憬が、やがて妹の身も心も燃やし尽くす燎原の恋火と化すように。あくまで自分たち姉妹二人によって、冬馬を幸せにするという目的のために。
冬馬に接触する女を排除するために巨費を投じ、水も洩らさぬ監視システムを作り上げたほどの弥生の独占欲と行動力は、葉月が相手の場合に限りまったく機能しない。なぜなら弥生にとって葉月は、恋敵というよりむしろ、パートナーとでも呼ぶべき相手だったからだ。
だが、それゆえに弥生は忘れていたというしかない。
葉月には、葉月の独占欲があるのだという事を。
葉月を“相棒”と認める弥生の恋愛観は、あくまでも弥生の完全な主観に基づくものでしかないという事を。
それも、葉月の、冬馬に対する慕情をさんざん煽っておきながらだ。
(なんとバカだ、私は……っっ!)
そして、姉によって育まれた、葉月の冬馬に対する恋心は――考えられる限り、最悪の形で結実してしまった。
携帯画面の映像に動きがあった。
死んだようにベッドに横たわっていた葉月が、むくりと身を起こしたのだ。
そのまま妹はドアに向かってくる。
(よし、いいわよ)
葉月がそのままドアを開ければ、その瞬間に扉をこじ開け、妹をこの手で取り押さえる。どういう説得をするにしろ話はそこからだ。この目で葉月を見られる間合いに入らねば、彼女の心を開かせる事などとても出来はしない。
――が、ドアの前一歩のところで、葉月はぴたりと足を止めた。
「
姉さん、そこにいるんでしょう? 分かっていますよ」
81 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:01:49 ID:m55LyRJ7
弥生は、うめき声一つ立てられない。
「どうしたのです? 妹相手に“居留守”を使うなんて、姉さんらしくないですよ」
数日振りに聞く葉月の声は、以前と同じ力強さを失ってはいない。いや、声のみならず、その勘の冴えも全く衰えていないことに、弥生はむしろ姉として嬉しくさえ思った。
普通の状況ではない。引き篭もって五日の葉月だが、そのうち食事を取ったのは二日間だけなのだ。まともに頭が働く体調であるはずがない。
「いつから気付いていたの?」
弥生は、完全に脱帽したと言わんばかりに、むしろ笑いを含んだ声をドアに返す。
それに対する葉月の答えもまた、そっけないものではなかった。
「最初からです」
「最初?」
「母さんの足音が妙にわざとらしかったので、すぐに気付きました。母さんは姉さんと違って不器用ですからね。……少なくとも芝居が上手いタイプではありません」
「なるほど……」
正しい問いは、すでにして正しい解答を含んでいる。――それはかつて葉月が言った言葉であるが、なるほど確かに真理を突いている。
母の荒々しい物腰に、もし何らかの意図があるとすれば、そこには当然、足音によって何を隠蔽しようとしているのではないかという考えには、すぐに到達できる。疑問の着眼点さえ間違わなければ、導かれるべき正解は、いつでもすぐ傍にあるというわけだ。
それから、かちゃり、――とロックが外れる音が響き、開いたドアから、数日振りに葉月が、少しやつれた笑顔を見せた。
「どうぞ」
そんなに泣きそうな顔で、無理して笑わなくてもいいのに……。
そう思いながらも部屋に入ろうとした弥生に、葉月が、
「ああ姉さん、ついでに、そこの昼食もお願いします」
と言い、弥生は頷いてトレイを抱えた。
昼食のメニューは、昨夜の残りのビーフカレーだが、なかなか葉月が部屋から出てこなかったため、ラッピングされたカレーも、若干冷めてしまっている。
「じゃ、お邪魔します」
そう言いつつ、弥生が部屋に入った瞬間、葉月の右手が素早く動いた。
「……ッッッ!!?」
声にならない声を上げたのは、むしろ葉月であった。
ドアの脇に立ち、室内に招き入れた姉の背後からの襲撃――しかも、姉の腕には昼食のトレイを持たせて、その動きを最大限封じてあったというのに……、
「物騒なおもちゃね。痴漢対策?」
弥生は、まるで背中に目を持つがごとく、流れるような自然な動きで、葉月の右手に握られたスタンガンを躱したのだ。しかも、葉月を振り返った姉の、トレイ上のカレー皿とグラス、さらに氷水を満たしたピッチャーは、まるで微動だにしていなかった。
「あなたの部屋に入るの久し振りだけど、模様替えしたの?」
いまさっきの葉月の襲撃をまるで歯牙にもかけない姉の言葉。
現に弥生の視線は、もうすでにスタンガンを構えて殺気立つ葉月ではなく、室内のインテリアに向けられている。
その瞬間、こわばっていた葉月の顔が、ふっと和らいだ。
ただの相手ではない。
この女は、柊木弥生だ。
天才と言われ、神童と称される葉月に、この世で唯一劣等感を抱かせるほどの姉なのだ。
「……予測していたのですか?」
言うまでもなくその質問は、自分の害意を察知していたのか、という意味だ。
弥生はいたずらっぽく答えた。
「だって、ツンデレのあなたが、ただで私を部屋に入れるわけがないでしょう? 素直になったかと思えば次の瞬間にはひねくれる。それがツンデレの行動パターンですもの」
「ツンデレって……わたしは、そんなに頭の悪そうな性格をしていますか?」
「うふふふ、性格と頭の良し悪しは関係ないわ」
そう言って弥生は何もかも見透かしたような微笑を浮かべると、トレイを葉月の学習机に置き、
「さあ、食べましょう。少し冷めちゃったけど、このカレーは美味しいわよ。何と言っても、私の自信作なんだから!!」
と、高らかに言った。
82 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:02:56 ID:m55LyRJ7
葉月は、デスクではなくベッドに腰掛けて食事を取っている。
(おいしい)
下品にがっつく食べ方は、自分のキャラではない。そう思いながらも、葉月の口元に運ばれるスプーンの速度は、どうしても早くなる。
少し冷めてはいたが、それでいきなり味が落ちるものでもない。
チョコレートと生クリームでコクをつけ、ガランマサラでパンチを利かせた姉のビーフカレーは、空腹だった葉月の胃に非常に美味に感じられた。
おかわりが欲しいところだったが、三日間のハンストで収縮した自分の胃袋は、おそらく二杯目のボリュームには耐えられず、吐いてしまうだろう。
お冷を飲み干し、口元を拭うと、ちらりと姉を見る。
キャスター付きの学習椅子に座り、「――ん?」とばかりに、にっこりと笑う弥生。
姉は相変わらず、ほがらかだ。
この世に、一切の悩みなど存在しないような表情で、にこにこしている。
だが、葉月には分かっていた。
微笑んでこそいるが、姉は、いまだ警戒を解いてはいない。
なぜなら、葉月もまた、姉への攻撃を諦めてはいないからだ。
「ごちそうさま」
葉月は、空になったカレー皿とスプーンをトレイに置き、そのままピッチャーから空のグラスに冷水を注ぐ。
「姉さんもお冷いかがですか?」
「私はいいわ。それより、カレーおいしかった?」
「はい。とっても」
葉月も、弥生の微笑を、笑って見返した。
傍らのスタンガンは、隙あらばいつでも姉へ突き立てられる用意が出来ている。
しかし、それでも所詮、自分の攻撃は弥生には通用しないだろう。
身体を動かす事に関しては、弥生の足元にも及ばないという事を、この妹は充分に知っていた。
現に今も、弥生は微笑してこそいるが、葉月が一挙動で襲撃できる間合いから、わずかに半歩遠い位置に椅子を据えている。いや、キャスター付きの椅子ならば、床を少し蹴るだけで、彼女は葉月の手の届かない距離まで、やすやすと移動する事が出来るだろう。
奇襲なればこそ成功も望めたが、姉があくまで油断をしてくれない以上、飛び道具でもない限り、自分の攻撃はまず届くことはないはずだ。
だが、不意を突くやり方は――まだ、ある。
「姉さん、一つ質問がありますが、宜しいですか?」
「なあに?」
あくまであどけない顔を向ける姉に、葉月は抵抗するように冷たい視線を向けた。
弥生にペースを握らせるわけにはいかない。
そのためには後手に回ってはならない。常に先手先手と自分から打って出なければダメなのだ。
「姉さんが兄さんの事を好きなのは知っています。でも結局のところ、あなたは兄さんを一体どうしたいのですか?」
いきなりの問いかけに、――しかし、それでも弥生の表情が変わる事はなかった。
美貌の姉は、その形のいい口元をむしろ嬉しげにほころばせ、胸を張って答えた。
「そんなの――決まっているでしょう? 女が愛する殿方に望む将来は、永久に添い遂げること以外に何があるというの?」
いつもの葉月なら、ここで鼻白んでそっぽを向いてしまうところだが、今日は違った。
「話に具体性がありませんね。姉さんらしくもない」
「具体性?」
「永久に添い遂げるとはどういう意味ですか? それが結婚を指す言葉であるなら残念ですが、姉さんも知っての通り、三親等以内の血縁同士での婚姻は、この国では法的に認められないんですよ?」
そこまで早口で一気に言い切り、葉月は上気した顔で姉を睨みつけたが、しかし弥生は反論しない。可愛らしい駄々ッ子を見るような生ぬるい眼差しを返すのみだ。
葉月は、そんな姉にカッとなりそうな自分を、懸命にこらえた。
「姉さんは、事あるごとに主張してきました。兄さんを幸せにしてあげられるのはわたしたちだけだと。――しかし、結局のところ、我々はどうあがいても兄さんの伴侶にはなれないのですよ!? バージンロードをともに歩くことは出来ないのですよ!?」
83 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:05:41 ID:m55LyRJ7
弥生は、やはり答えない。
必然的に、葉月の目付きと舌鋒も鋭くなっていく。
「わたしたちを兄さんに選ばせるということは、実の姉妹に手を出した狂人と、白眼視される人生を兄さんに強いるという事です。誰に祝福される事もない生涯――姉さんが言う『兄さんを幸せにする』とは、そういう事なのですかっ!?」
――くすっ。
葉月は、思わず目を剥いた。
弥生は笑ったのだ。
それも、さっきまで自分に向けていた優しげな微笑ではない。
その笑いは小さかったが、むしろ嘲笑のニュアンスさえ含んでいるように見えた。
「なっ、何が可笑しいんですかっ!!」
思わず葉月は立ち上がる。
その振動で、今まで腰掛けていたベッドが揺れ、トレイ上のピッチャーがぐらりと揺れ、あわてて葉月は、倒れそうなそのピッチャーを抑えた。
その、いかにも泡を食った自分の素振りが、たまらない羞恥を喚起させ、彼女はさらに真っ赤に頬を染めて姉を振り返る。
「笑う暇があったら答えて下さいっ!! 姉さんが言うところの幸せとは何ですかっ!? 婚姻さえ結べない我々が、一体どうやって、兄さんを幸せにするというのですかっ!?」
「結婚できなきゃ幸せになれない。葉月ちゃんはそう言いたいの? 世間に認められなければ、どんな愛情も意味を為さない。葉月ちゃんはそう言いたいの?」
「結婚が全てとは言いません。しかし我々が近親者である以上、どんな崇高な愛情も、世間からは罪にまみれた異質な愛だとしか見てはもらえないでしょう。ならば、誰も知らない街に行って、二人でひっそりと暮らせばいい。そういう選択肢もあるかも知れません。――でも」
「でも……?」
「そうなってしまったら、親や友達とも二度と会えなくなるでしょう。子供が生まれても、戸籍上では永久に私生児扱いです。どんなに精神的に満ち足りていたとしても、わたしはそんな生活が幸せだとは思いません。やはりそれは――不幸なことでしょう!?」
「若いのねえ……葉月ちゃんは……」
一瞬、言葉を失った葉月に、弥生は肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
「人間、純粋なのは美点だと思うけど、度が過ぎると周りが見えなくなっちゃうわよ?」
その台詞は葉月にとって、これ以上ない侮辱と解釈してもいい言葉であった。
中学一年生にして、いくつもの新しい理論を学界に発表し、天才の誉れも高い葉月にとって、“持説に囚われすぎて周囲が見えていない者”というのは、単純に、彼女が最も嫌う人間のかたちだったからだ。
だが、それでも葉月は、激昂しそうになる自分を懸命に抑えた。
これ以上、感情を剥き出しにすれば、もう二度と姉からペースを奪うことは出来ない。
なんのかんのと、現時点で充分、姉に会話の主導権を握られつつある葉月としては、いま冷静さを失うことは、最も避けねばならない道だった。
「……説明を要求します」
そう答える葉月の声は、少し震えていた。
「葉月ちゃん、私たちは冬馬くんと結婚できない。――貴女はそう言ったわよね?」
そう問う弥生の表情は、もはや緩んではいない。
「はい、言いました」
「でも、その現実は果たして絶対かしら?」
「……え?」
「確かに貴女の言う通り、近親相姦は人類の三大禁忌に含まれるほどのタブー。世界中の殆どあらゆる民族・宗教・国家に於いて、その是非を問う論争さえ起きないほどの一般常識よ」
「それが分かっているなら――」
「ただし、それが当てはまるのは、冬馬くんが私たちの血縁者であると証明された時のみ、よね?」
何をわけの分からないことを言っているのですか!?
そう言いかけて、むしろ葉月の表情は愕然と凍りついた。
その瞬間、姉の言わんとしている事を彼女は理解してしまったからだ。
84 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:07:36 ID:m55LyRJ7
「……まさか……姉さんは……用意したというのですか……“証拠”を……ッッ!?」
慄然と震える葉月とは対照的に、弥生は、まるで合格発表を報告するかのように、瞳を嬉しげに輝かせて頷いた。
「近日中に、冬馬くんのDNA鑑定結果が手に入る事になっているわ。彼が柊木家の一族と非近親者であるという事を証明する報告書がね」
「…………ッッッ!?」
「それがあれば、もう誰も私たちの邪魔をする事は出来ない。たとえそれが国であってもね」
(……そこまで……そこまでやるの……姉さんッッ!?)
葉月は絶句していた。
いま弥生が入手すると言った、その書類が本物であるかどうかは葉月には分からない。
いや、会話の流れ的には、まず偽造であると判断するべきであろう。
もっとも、生き別れを名乗って数年前にひょっこり両親が連れ帰ってきた兄である。実際、本当に血が繋がっていなかったとしても、いまさら葉月はそれを不審とは思わない。
だが、問題はそこではない。
弥生は、おそらく冬馬が近親者であろうとなかろうと全く関係なく、その鑑定書を根拠として“非血縁”を主張するつもりに違いない。
ならば、その道の専門家が見ても、一瞥で贋作だと露見するようなチャチな紙切れではあるはずがない。出所を手繰られても、すぐにボロが出るような相手に依頼してもいないだろう。
おそらくは、弥生の持つカネと人脈をフルに使わねば入手できないような代物であろう。
「姉さんは、本気なのですか……!? 兄さんを手に入れるためならば、兄さんを家族から追い出すことさえ躊躇はないと……本気そうで仰っているのですか……っっっ!?」
そう尋ねながらも葉月の背筋を伝わる冷たい汗は、まぎれもなく弥生の“本気”を感じ取っていた。はたして弥生は答えた。この穏やかな姉にして滅多に見せない厳しい瞳とともに、弥生はまさに葉月の予想通りの言葉を吐き出した。
「当たり前でしょう。家族であるがために想い人と結ばれる事が許されないというのなら、家族の絆など私にとっては、何の価値も持たないわ」
「でもっ! でもそれは、あくまで姉さん個人の意見でしょう!? 兄さん本人からすれば、納得できる話なワケがないでしょうっ!!」
「同じことよ。冬馬くんも少しはショックもあるかも知れないけど、結局これは、あの子の幸せために必要不可欠なプロセスなんだから。説明すれば、冬馬くんだってきっと分かってくれるわ」
「そんなはずないっ! 姉さんはどうかしているっ! そんな事をされて兄さんが喜ぶはずがないでしょうっっ!? わたしには姉さんが分かりませんっっ!!」
「――うそ、ね」
葉月は、その言葉に、全身の血が凍りついたかのような寒気を感じた。
「葉月ちゃんの本心は私と同じはずよ。私には分かる。冬馬くんのためなら、貴女だって何でも出来るはずよ。たとえそれが、冬馬くん本人の意に添わないことでもね」
「…………」
「現に葉月ちゃんはスタンガンを私に向けたじゃない。それで私をどうするつもりだったの? 動けなくして縛り上げて、無理やり言うことを聞かせるつもりだったの? 冬馬くんから手を引けと、私に命令したかったの?」
「……姉さん……」
「でも、安心なさい」
弥生はゆっくりと椅子から立ち上がり、目を細めた。
「私は嬉しいのよ。葉月ちゃんが自分の本心に気付いてくれて。私と“同じところ”に、やっと貴女は来てくれた。これでようやく話を先に進める事が出来るわ」
そう言いながら弥生は、先程までの警戒を忘れたように、葉月に向かって無雑作に歩を進める。そんな姉の態度にむしろ慌てたのは葉月の方だった。
「待って下さい姉さん、わたしは――」
「もういいのよ、これ以上嘘をつかなくても。私はみんな分かっているんだから」
気がつけば、葉月の頬に細くて白い姉の手が触れていた。
85 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:10:18 ID:m55LyRJ7
もう、ごまかしは利かない。
姉は何もかも見抜いている。
そう、――嘘だ。何もかも。
姉を論破しようと言葉を並べてはいたものの、そんな常識論で弥生を黙らせられるとは、いくら葉月でも思わない。弥生が、そんな甘い人間でない事は、この世の誰よりも自分が一番知っている。
なにより、語っている葉月自身、そんな一般論など正しいとも思っていない。冬馬への想いを自覚してしまった以上、弥生の本音は紛れもなく葉月の本音でもあったからだ。
だが、いかに兄を慕おうとも、近親相姦の禁忌という厚い壁の前には、しょせん葉月は絶望せざるを得ない。感情に身を任せて暴走すれば、結果としてそれは、冬馬を不幸に巻き込むだけだ。
ならば諦めるしかない。ことに、冬馬本人も、姉である弥生を好きだったと聞いた以上は――。
弥生に現実の厳しさを語る言葉は、むしろ、それを語る葉月自身に、冬馬への思慕を諦めさせるための言葉であったと言える。姉は耳を貸さないと承知していながらもなお、言わずにおれなかったのは、その説得が誰よりも自分自身への言葉である事を知っていたからだ。
――弥生は冬馬が好き。
――冬馬も弥生が好き。
そう考えるだけで、あまりの胸の痛みに吐き気さえ催す思いだが、それでも、二人の恋が結実する事だけは、何としても回避しなければならないのだ。
近親相姦は兄を不幸にする。
その結論に従う限り、どんな手段を使ってでも弥生を諦めさせねばならない。たとえ、それが冬馬にとって“失恋”を意味する行為であったとしても。
無論、葛藤はある。
近親者であるという理由で、弥生の想いを否定するということは、とりもなおさず、自分の恋心さえも否定することと同義なのだから。
だが、現実という強大な壁を前に、そんな苦悩など、それこそ何の意味も持たない。
だからこそ葉月は――それこそ弥生が言う通り――スタンガンを使うような手荒な真似を強行したのだ。暴力に訴えてでも弥生の気持ちを翻させるために。
無論、嫉妬はある。
それは当然だ。葉月とて木石ではないのだから。
自分を選ばなかった冬馬にも、自分の代わりに選ばれた弥生にも、殺意に似た感情を葉月は抑えきれない。そして、そんな二人の仲を引き裂く行為に、黒い悦びを少しも感じなかったと言えば、さすがにそれは嘘になる。
――葉月は、そんな自分に当然のごとく後ろめたさを覚えていた。
だが、
(結局それが、兄さんのためになるんだ)
その考えは、葉月にとって、あらゆる行為を正当化する。
兄と姉の恋を破壊する事も。そして――自分の恋を永遠に封印する事さえも。
(でも、姉さんは違う)
弥生は諦めなかった。現実に膝を屈しなかった。
世間がこの恋を認めぬならば、世間を騙せば済む話ではないか。
彼女は、そう言い切った。
――そんな発想の飛躍は、とてもではないが葉月にはできない。
(かなわない)
葉月は戦慄と同時に、骨が震えるような畏敬の念を、今あらためて姉に抱いた。柊木弥生という女性が只者でないのは承知しているつもりだったが、それでもなお葉月は、この姉を完全に見くびっていたことを骨身に思い知ったのだ。
しかし、そんな葉月をしてもなお、さらにそこから弥生が吐いた台詞は、あまりにも予想外だにしないものであった。
「でもね葉月ちゃん、……私は自分ひとりだけが幸せになろうなんて考えちゃいないわ」
え?
と訊き返しそうになる葉月を制し、弥生は葉月の頬に当てた指を、つつ……と動かしながら、あどけない表情で言葉を続けた。
「葉月ちゃん……あなたを冬馬くんと結婚させてあげる」
「この世でたった一つしかない、柊木冬馬の“妻”の座を、あなたにあげるわ」
86 傷 (その7) sage 2008/12/08(月) 15:12:17 ID:m55LyRJ7
弥生が何を言っているのか、葉月には皆目見当も付かない――。
冬馬が姉を好きだと言ったことを葉月は知っている。そして、弥生もまた冬馬を愛しているということも、葉月からすればそれは歴然たる事実だ。
にもかかわらず、なぜ弥生は――冬馬を自分に譲ろうというのだろうか。
弥生が、そんな事を言い出す理由が、葉月には全く理解できなかった。
「ただし条件があるわ」
「じょうけん……?」
「ええ、――別に難しい事じゃないわ。あなたと冬馬くんが結婚したら、私と冬馬くんの子供も、あなたたち夫婦の子供として籍を入れてあげて欲しいの。私生児扱いじゃ、子供が可哀想だからね」
なるほど、そういうことか。
姉が吐いた、あまりにも不可解な言葉によって、思考停止状態になっていた葉月の脳漿にも、ようやく血の気が戻り始める。
(譲る気なんか……さらさらないってワケなのね)
冬馬の妻の座はくれてやる。
だが、それはあくまで戸籍上の話だ。閨の中まで葉月に独占させる気は毛頭ない。あくまでも「女」としての自分の権利は主張させてもらう。――弥生はそう言いたいのだろう。
『冬馬を幸せに出来るのは、あくまで私たちだけ』
というのが弥生の口癖であったが、葉月はその言葉の本当の意味がようやく理解できた気がした。
姉の最終目的は、冬馬の“独占”ではなく“共有”にある――そういうことなのだ。
そして、その提案は同時に、脅迫でもあった。
先程の鑑定書の話が事実ならば、近親婚の倫理観は、法的に問題になることはない。
つまり、弥生がその気になれば、葉月を無視して、冬馬を完全に独占する事も可能なのだ。ならば葉月としても他に選択肢はない。弥生はそう言いたいのだ。
いや、むしろ破格の条件と言うべきかも知れない。
DNA鑑定の報告書を、弥生が独力で入手する手筈を調えている以上、葉月としては指をくわえて見守る以外になすすべはない。ならばもし、葉月と弥生の立場が逆であったならどうだろう。自分は、姉に正妻の座を与えようなどと言えただろうか。
(……無理だ)
ならば、姉のこの提案は妥協案などではなく、まぎれもない姉の本心であると判断して差し支えはないだろう。なにしろ姉には葉月と妥協する理由自体が、そもそもないのだから。
そう思った瞬間、葉月は肩の力が抜けた。
やはり姉にはかなわない――そう思う心は変わらない。
だが、弥生の本心を悟った以上、畏敬はふたたび尊敬に姿を変える。
(やはり姉は敵ではなかった。最後まで姉はわたしの味方だった)
ならば敵視すべきは――両親であり世間であり、いまだ全貌が明らかにならない冬馬の過去のみであるということになる。
「分かりました」
葉月はスタンガンを取り出すと、電源を切り、ひょいっと部屋の片隅に放り投げた。
もはや害意はない。そういうアピールのつもりであった。
「葉月ちゃん……っっ」
葉月の、その意思が通じたのか、弥生は、安堵の溜め息をついた。
「引き篭もりは、もう終わりです」
そう言いながら葉月は、すっと右手を差し出す。
「兄さんは、私たち二人のものです。誰にも渡さないし、邪魔するものは許さない。――そうですよね、姉さん?」
「うれしいわ葉月ちゃん……あなたがそう言ってくれる日を、私はずっと待っていたのよ……!!」
瞳を潤ませながら、差し出された妹の右手を、姉もがっちりと握り締めた。
その日。
柊木弥生と柊木葉月は、固い握手を交わした。
それが、冬馬の不幸をさらに加速させる結果となる事実を、神ならぬ姉妹たちは、まだ知らない。
最終更新:2008年12月14日 20:52